知の快楽

ニーチェの超人

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既存のあらゆる価値の転倒の先にニーチェが持ち出した新たな価値あるものとは、「超人」の理念と「永遠回帰」の思想であった。どちらも既存のヨーロッパ思想の対極にあるものだ。「超人」とは、キリスト教道徳が教える望ましい人間像とは正反対に位置する「悪人」の典型ともいうべきものであり、「永遠回帰」のほうは、キリスト教的世界観が依拠する直線的でかつ進歩的な時間概念に真っ向から対立するものであった。つまり、既存のあらゆる価値を否定したニーチェにとっては、それらの既成の価値において究極の「反価値」とされたものを、新たな価値として持ち出さざるをえなかったということだろう。

霊の三つの変転:ニーチェの思想

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ツァラトゥストラの言葉のうち最初に述べられるのは「三つの変転について」と題されたものである。「わたしはお前たちのために、霊の三つの変転を述べよう。すなわち、霊が駱駝になり、駱駝が獅子になり、最後に、獅子が幼児になる次第を述べよう」(「ツァラトゥストラはかく語った」浅井真男訳、以下同じ)で始まるこの言葉は、一見して精神の成長あるいは発展について述べたものだとの印象を与える。

神は死んだ:ニーチェのニヒリズム

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あらゆる価値の転倒を図ったニーチェにとって、「神の死」という命題は、究極的であるとともに根本的なものでもあった。何故なら神こそはあらゆる価値のなかでも究極的なものであるし、また根本的なものでもあるからだ。その究極的で根本的な価値である神が没落することで、世界は意味をはく奪されて無意味のものとなる。無意味即無価値というよりは、没価値というべきかもしれない。というのも、無意味という言葉は意味を前提としているのに対して、ここでは意味そのものがなくなるわけだから、無価値というよりは没価値と言う方が相応しいだろうからである。

ニーチェは、すべての道徳には起源があると言って、キリスト教道徳が弱者の強者に対するルサンチマンから発生したことを見抜いたわけだが、同じようにして、すべての哲学上の真理にも起源があることを見抜いた。その起源とは人間の解釈である。真理とは人間によって都合のいいように解釈されたものに過ぎない、と言うことで、真理を完全に相対化させてしまったわけである。これは西洋の哲学史上画期的なことだったといえる。何故なら西洋哲学にとって、真理こそが永遠のテーマだったからだ。その真理が、実は人間の解釈が作り出したものだったとは!

力への意思:ニーチェの思想の根幹

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「力への意思」はニーチェの思想の根幹と言えるものである。それは人間の認識を始めとするあらゆる行動の背後に力への意思を想定し、それら(認識やその他人間の行動)は「力への意思」が発現されたものだと考える。その意味で、世界を意思と表象とに分け、意思が発現されたものが表象だとするショーペンハウアー思想の変形だといえよう。

ニーチェは「善悪の彼岸」の中で、支配者道徳と奴隷道徳を対比させたうえで、歴史の流れの中では奴隷道徳が勝利して、利己的で力強い人間の賛美ではなく、利他的で弱々しい人間を賛美するようになった、と述べた。いったいどういうわけで、そのようなことが起こったのか。それを説明して見せたのが「道徳の系譜」学である。道徳の系譜学とは、道徳の起源について歴史的に明らかにする学問である。どんな道徳も、それが歴史を超越した永遠の真理なのだと強弁する本能をもっているが、実は歴史を超越した永遠の真理などはない。どんな道徳も歴史の中で生まれたのであり、ある特定の起源を持っている、そうニーチェはいうのである。

ニーチェは晩年の著作「善悪の彼岸」と「道徳の系譜」において、キリスト教道徳の徹底的な批判を行った。すでに「人間的な、あまりに人間的な」に始まる一連のアフォリズム集において、既成のあらゆる価値の転倒に向けて大胆な歩みを始めたニーチェであったが、あらゆる価値の中でももっとも大きなもの、すなわちキリスト教道徳については、「神は死んだ」というだけで、何故神は死ななければならなかったか、その没落の必然性を詳細に論じたとは言えなかった。その必然性を腑分けして見せる前に、ニーチェはいきなり「ツァラトゥストラ」を持ち出して見せたのである。

「悦ばしき知識」の中でニーチェがまず取り掛かるのは、「高貴な人間と卑俗な人間」との間の相違点を明らかにすることである。ニーチェはすでに「人間的な、あまりに人間的な」において「自由な精神と束縛された精神」とを比較していたのであるが、これらの二組の対立項は、似ているところとそうでないところがある。後者の対立項(自由な精神と束縛された精神)は、あらゆる価値の転倒を行うために必要な、精神的な心構えを論じたのに対して、前者の対立項(高貴な人間と卑俗な人間)は、人類の発展という高邁な目的にとって、必要な人間像を問題にしている。既存のあらゆる価値の転倒を行うという点では、自由な精神を持っていなければならないが、それにとどまらず、人類の発展と言う高邁な目的を達成するには、さらに別の資質を必要とする。それは一言で言えば高貴な人間性である、とニーチェは言うのだ。

あらゆる価値の転倒を実現するためには、それにふさわしい精神が必要である。それをニーチェは自由な精神と名づけ、通常の、束縛された精神に対比させた。束縛された精神とは、この世の中の価値に囚われているような精神のことをいう。それに対して自由な精神は、あらゆる価値や慣習から自由である。それは何物にも束縛されていない。何物にも束縛されていないがゆえに、それはあらゆる価値の転倒という事業を、何事もなくやってのけることができるのである。

ニーチェの形而上学批判は、形而上学を土台で支えている一連の思考の枠組に対しても向けられる。その枠組とは、理性こそが真理を捉えることが出来るのであり、それ以外の人間の能力、たとえば感情とか芸術的感性によってではないとする立場である。これに対してニーチェは、理性の対象ではないような別の真理もあるといって、理性の対象となるような真理を相対化するとともに、時によってはそれこそが誤謬であり、別の真理(ニーチェはそれをとりあえず"目立たない真理"という)こそが真理でありうるという逆説的な言い方をする。

「人間的な、あまりに人間的な」は、ニーチェの思想の展開のうえで画期的な著作であるが、彼がこれを書くにあたっては、ワーグナーに対する深刻な失望があった。その失望とは、ワーグナーの中における一種の俗物根性への失望である。ニーチェはその俗物根性をドイツ的なものと同一視した。つまりワーグナーはドイツ人になりきってしまうことによって、精神の貴族性を失い、俗物の一人に成り下がってしまったというわけなのである。その辺の事情についてニーチェは、後年の著作「この人を見よ」の中で次のように語っている。

ニーチェのショーペンハウアーかぶれ

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「反時代的考察」の第一論文において教養俗物を徹底的に批判したニーチェだが、それを批判するだけでは時代は前進しないままだろう。教養俗物が人間像のマイナスの典型としてドイツをスポイルしているのであるならば、ドイツを救済して前進させていくようなプラスの人間像の典型がなければならない。そのような人間像とはいかなるものなのか。それを取り上げて考察したのが、第三論文の「教育者としてのショーペンハウアー」である。

「反時代的考察」の第二論文は「生に対する歴史の利害」と題しているが、むしろ「歴史に対する生の利害」と題したほうが相応しい。というのもニーチェがこの論文で展開したのは、生に対して歴史が抱く利害、すなわち歴史からみた生の意義ではなく、生から見た歴史の意義、すなわち歴史に対して生が抱く利害についてだからである。これをニーチェは、次のように端的に定式化している。

反時代的考察:ニーチェの教養俗物批判

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ニーチェはすでに「悲劇の誕生」において、近代人のものの見方を規定している合理主義的・主知主義的考え方を、「ソクラテス批判」という形をとって強烈に批判していたが、なにしろ批判の直接の対象が古代の哲学者であったということもあり、同時代人にはあまり痛烈には響かなかったきらいがあった。ニーチェの同時代人たちは、そんな批判に気を配る程の暇人ではなかったためでもある。そこでニーチェは、批判が批判としてスッキリと判るような形で、つまりストレートな言い方を以て彼の同時代人たちの物の考え方を批判することにした。その成果が「反時代的考察」という表題のもとに収められた四つの論文である。まさに題名が如実に物語っているように、この書物は同時代のドイツに対する強烈な批判、反ドイツの書なのである。

「悲劇の誕生」は、ニーチェの著作の中では別格扱いされることが多い。処女作だということを別にしても、扱っているテーマがギリシャ悲劇を軸にした芸術論であり、またヴァーグナーとショーペンハウアーの影響が顕著である。この著作自体がヴァーグナーに捧げられている。しかし、枝葉の部分をカッコに入れ、全体の樹幹にあたるところをよくよく見ると、ここでニーチェの論じているテーマが、その後のニーチェの思想の大枠を先取りしたような形になっていることが見えてくる。そうした意味でこの著作は、ニーチェが初めて自己の思想の輪郭を提起したものだと言えるように思う。つまりニーチェにとっての文字通りの処女作、生涯をかけて追及することになるテーマを始めて提起した著作、そういえるのではないか。

ニーチェをどう読むか

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ニーチェの読者がまず最初に感じるのは、その逆説的なものの言い方をどう受け取ったらよいかというとまどいだろう。ニーチェは善いとか悪いとか、美しいとか醜いとかいった言葉を通常の意味で使った上で、自分は「悪い」とか「醜い」もののほうを評価するというような言い方をする。そこで読者はそれを一種の逆説だろうと推測したくなるのだが、これは逆説などではない、とニーチェは言う。つまり彼は本気でそう思っていると言うのだ。

キルケゴールとドイツ・ロマン主義

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キルケゴールの学位請求論文は「イロニーの概念」をテーマにしたものだった。この概念は究極的にはソクラテスに淵源するものであるが、キルケゴールの生きた時代に一定の影響力を振るっていたドイツ・ロマン主義が、自分たちの方法として採用していたものである。このことから、キルケゴールはドイツ・ロマン主義に関心を抱き、それから一定の影響をうけたと考えられる。

今日「現代の批判」という題名で知られているキルケゴールの著作は、もともと「文学評論」と題した書評の一部として書かれたものである。その書評は匿名作家による小説「二つの時代」を対象としたものであったが、その小説が取り上げた二つの時代というのは、「革命の時代」と「現代」なのであった。原作者の意図はともかくとして、キルケゴールの受け止め方としては、革命の時代は本質的に情熱的であったのに対して、現代は情熱のない時代である。なぜそうなってしまったか、それをキルケゴールなりに考えたというのが、この書評の大まかな意義なのであった。

不安と絶望:キルケゴールの思想

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キルケゴールにとって、主体的実存に生きる人間の本来的なあり方とはキリスト者としてのあり方である。それも世間一般で当然のこととして考えられているように、キリスト教会の一員として、日曜日には牧師の説教を聞き讃美歌を歌うようなあり方ではなく、単独者として神と直接向き合うようなあり方である。しかしそのようなあり方は、世間一般が考えている程簡単なことではない。世間一般は教会で洗礼を受けさえすれば真のキリスト者になれると考えているがそうではない。人が真のキリスト者になるためには飛躍が必要である。そしてその飛躍を成し遂げるのには強い意思が必要である。人間というものは、この強い意志によって飛躍することにより単独者となり、そのようなものとして神と直接向き合うようになれるのである。

真理は哲学にとっての大きなテーマのひとつであるが、哲学史上の主流(多数)意見においては、真理とは存在と認識との一致ととらえられてきた。存在とは対象世界のことであり、認識とは我々人間の主体的な作用である。その両者が一致するとは、主観的な認識作用が客観的な対象と一致するということである。したがって、この場合の真理とは、対象が"なにであるか"があきらかになることである。

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