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議会と革命

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ブルジョワ革命としてのフランス革命は、議会を舞台として起こった。革命以前のフランスは、基本的には絶対王政の体制であり、王の臣下たちが専制的な統治を行っており、議会などは存在しなかった。だから、ブルジョワは自分たちの政治的な代理人を持たなかったのである。そのかれらが曲がりなりにも議会を召集させ、そこに自分たちの政治的な代理人を持つことができたことで、自分たちの政治的な要求を実現させる機会を獲得したわけである。その機会は最大限活用され、ブルジョワたちは自分たちに都合のよい統治システムの構築に成功した。それは前の時代からは断絶していたので、革命という名前が相応しかった。

カール・マルクスが人類史上に持つ意義は、資本主義の歴史的な制約を指摘し、それには始まりがあるとともに終りがあると主張したことだ。どのような事情が資本主義を終わらせるか。それについてマルクスはかなり詳細に語っている。しかし、その終わり方がどのようなプロセスを経て実現するのかについては、かならずしも明確なメッセージを発したわけではない。とりあえず考えられることとして、資本主義システムの矛盾が労働者階級にとって耐えられない桎梏になったときに、人間らしく生きたいと願う労働者階級が、その桎梏を取り払い、自分たちの生きやすいシステムの構築に向けて立ち上がるだろうと予測した。その場合に、桎梏を取り除くための労働者の行動は革命という形をとるだろうと考えていた。その場合に、マルクスの念頭にあったのは、1871年のパリ・コミューンであった。パリ・コミューンの経験を踏まえれば、成功裏に革命を成就することができるのではないか。そんなふうに考えていただろうと思われる。

ゴータ綱領とは、1875年にドイツ社会民主労働党(アイゼナッハ派)と全ドイツ労働者協会(ラサール派)とが合同して成立したドイツ社会主義労働党の綱領である。合同大会がドイツ中部の都市ゴータで開催されたことからゴータ綱領と呼ばれる。これは両派の妥協の産物だが、マルクスやエンゲルスの目には、自分たちが肩入れしてきたアイゼナッハ派がラサール派に必要以上の妥協をした結果、ほとんどラサール派の主張が支配していると映った。エンゲルスに言わせれば、妥協とは共通点にもとづいてなされるもので、対立点については棚上げするのが当たり前だ。ところがこの綱領はラサール派の主張を一方的な形で採用している。それはアイゼナッハ派がラサール派に屈したということであり、ドイツの労働者政党としてはきわめて反動的なものである。そういう立場からこの綱領を痛烈に批判したのが、マルクスの「ゴータ綱領批判」である。

フランスが生んだ天才少年詩人アルチュール・ランボーは、普仏戦争の勃発からパリ・コミューンの成立と崩壊という歴史的な事件に遭遇し、自分自身パリ・コミューンに深くかかわった。その体験の中から、輝きを放つ一連の作品を書いた。そのランボーは、マルクスとは全く接点を持たないと言ってよかったが、パリ・コミューンを介して何らかの因縁のようなものを感じさせるので、ここに取り上げて見る次第である。

パリ・コミューンの20周年を記念して発行された1891年版の「フランスの内乱」に、エンゲルスが緒言を寄せている。これは、マルクスによるパリ・コミューン論の核心的な部分を再確認するものだが、エンゲルスが最も強調しているのは、パリ・コミューンが崩壊した理由と、それに関連して、プロレタリアートの国家に対するかかわり方についてである。

「フランスの内乱」は、パリ・コミューンの歴史的な意義を主張した政治的パンフレットである。マルクスはこれを、パリ・コミューンが崩壊した直後(おそらく数日以内)に書き上げたといわれる。マルクス自身による奥書には「1871年5月13日 ロンドン」とあるが(新潮社版マルクス・エンゲルス選集第10による)、これは何かの勘違いだろう。というのは、パリ・コミューンが最終的に崩壊したのは1871年5月28日のことで、マルクスの文章はその日までカバーしているからだ。

資本主義的生産様式を基盤とする社会システム=資本主義システムが終わりを告げたあとにはどのような社会システムが現われるのか、資本論では具体的なイメージには触れていない。抽象的なスローガンが置かれているだけである。それは一つには原始共産制の発展形態としての新しい共産主義社会の到来であると言われたり、必然性の国から自由の国への進化と言われたりする。しかしそれらはあくまでもスローガンにとどまっており、読者はそこから具体的で明確なイメージを得ることはできない。

資本論を通じてマルクスが目指したことは、資本主義的生産様式の歴史的な制約を明らかにし、資本主義には終りがあるということを明らかにすることだった。そこで、その終わりがいつどのようにしてやってくるのか、また資本主義が終わった後にはどのような社会が到来するのか、が問題となるが、それについてマルクスは、こういうことがあるかもしれないといった、憶測めいたものを控え目に書いているだけで、詳細に展開して見せることはなかった。とりわけ、かれが資本主義以後の姿として思い描いていた共産主義社会のイメージについては、詳しく語ることはなかった。

資本―利子、土地―地代、労働―労賃という定式化をマルクスは資本主義的三位一体と呼ぶ。三位一体とはもともとキリスト教の用語であって、キリスト教信者の信仰を基礎づけるものだった。同様にしてこの資本主義的三位一体は、資本家や土地所有者たちの、資本主義への信仰を基礎づけるというのが、マルクスの見方である。

建築用の土地や鉱業用の土地など非農業用地の地代も、農業用地の地代と同様の法則があてはまるとマルクスは考える。「建築用の土地については、すでにアダム・スミスが、その地代の基礎がすべての非農業地の地代と同様に本来の農業地代によって規制されていることを論じている」とマルクスは言って、非農業用地の地代にも、差額地代や絶対地代といった農業用地の地代に相当するものが指摘できると考えるわけである。

リカードの地代論は、差額地代に限定されていて、絶対地代の概念は含んでいない。差額地代というのは、基準となる土地と比較しての、土地の収益の超過分を源泉とするのであるが、基準となる土地自体は地代を生まないと前提していた。マルクスはこれに異議を唱え、資本主義的生産関係においては、地代なしに土地が貸し出されることなどありえない、すべての土地は地代を要求する、と考える。リカードは、地代を生まない土地の例として、アメリカの未墾の土地をあげているが、それは極端な例であって、ヨーロッパのような伝統を背景にしたところでは成り立たないし、アメリカにおいてさえ、一時的で例外的なことだと言った。土地が地代をとらずに貸し出されることはないのである。

差額地代をめぐるマルクスの議論は、リカードの地代論を踏まえたものだ。リカードの地代論の特徴は、地代の発生を土地の豊度の差に求めるというものだ。どういうことかというと、豊度の高い土地は、低い土地よりも当然多くの収穫をもたらす。その収穫の超過分が地代に転化するという考えである。その場合、すべての土地の基準となる土地が選ばれ、それとの対比によって地代の発生が説明される。基準となる土地は、すべての土地に対してゼロポイントとなるから、それ自体は地代を生じないというふうに仮定される。マルクスとしては、地代を伴なわない借地などはありえないから、リカードの仮定は現実味に欠けると批判するのであるが、当面はその批判を脇へ置いて、差額地代が、土地相互の収益量の相違から生まれるといふうに議論を展開するのである。

マルクスの地代論は、リカードの説を発展させたものだ。リカードの地代論は、マルクスのいう差額時代に限定しているが、マルクスはそれに加えて絶対地代の概念を導入する。絶対地代というのは、土地そのものが所有者に利潤をもたらすことを意味している。リカードの理論によれば、基準となる土地は地代を生まないのだが、資本主義的生産システムにおいては、地代を生まない土地、すなわちただで貸されるような土地はありえない。そんなことを土地所有者がするはずがないからだ。そうマルクスは言って、資本主義的生産システムにおける地代のあり方を、徹底的に議論するのである。

資本主義以前の金融業をマルクスが高利資本と呼ぶのは、貸した金が利子を生むことに着目してのことである。資本主義的生産様式のもとでは、前貸しされた金は利子を生む。その利子は、労働者を搾取することで得られる剰余価値を源泉としている。そういう意味では、資本は資本主義的生産様式を前提としており、資本主義以前の金貸しに資本という言葉を適用するのは、厳密には相応しくないのであるが、マルクスはそこを棚上げして、利子を生む金を資本と定義し、資本主義以前における利子を生む金を高利資本と呼んだわけだ。もっと赤裸々な言葉で言えば、高利貸とか金貸し業者ということになる。そのほうが実態に合っていると言えよう。

資本論第三部第35章「貴金属と為替相場」は、国際収支と為替相場の関係について主に分析している。そこに貴金属が重要なファクターとして入って来るのは、当時の貨幣が貴金属と深く結び付いていたという事情のほか、国際貿易上の決済が、基本的に貴金属によってなされたという事情を踏まえている。貿易が入超になれば貴金属が流出し、したがって貨幣量も減少する。逆に出超になれば、逆の結果が起きる。当時のイギリスでは、中央銀行の貨幣発行額は金準備と連動していたからだ。ほかの先進資本主義国も、ほぼ同様な事情にあった。

資本論第三部第33章「信用制度のもとでの流通手段」は、貨幣と実体経済との関係について、主に論じている。今日影響力を発揮しているマネタリズムの見解では、貨幣は実体経済に強い影響を及ぼすとされているが、マルクスはそれとは正反対の見解を持っていた。貨幣の機能は流通手段とか支払い手段ということにあり、したがって実体経済を反映したものだ。実体経済が貨幣の量を決めるのであって、貨幣の量が実体経済を左右するわけではない、というのがマルクスの基本的な見解である。基本的というわけは、多少の偏差はありうると認めるからだ。

貨幣資本と現実資本をめぐるマルクスの議論は、今風にいえば、金融と実体経済の関係論ということになろう。この議論においてマルクスが設定するのは次の二つの問題である。一つは、本来の貨幣資本の蓄積が、どの程度まで現実の資本蓄積の指標であるのか、もう一つは、貨幣逼迫すなわち貸付資本の欠乏は、どの程度まで現実資本(商品資本と生産資本)の欠乏を表わしているのか、ということである。ここで貨幣資本の「蓄積」と言っているのは、おおよそ貨幣資本の増加と同じ意味で使われている。

マルクスは、銀行資本の諸成分として、現金(金または銀行券)と有価証券をあげている。有価証券には、手形と公的有価証券・各種の株式がある。銀行にとってこれらは貨幣資本としての働きをする。この場合の貨幣資本とは、再生産過程の一要素としての、商品資本や生産資本と並ぶ貨幣資本ではなく、利潤を生みだすものとしての貨幣資本のことをいう。この場合、利潤は利子という形をとる。だから、銀行資本は利子生み資本の最たるものである。というより、銀行資本は利子生み資本そのものなのである。

マルクスは信用を、まず貨幣の代替物として考える。貨幣の機能のうち支払い手段としての機能が独立して信用が成立したと考えるわけだ。信用は、いわば観念的な貨幣であるから、貨幣の現物態である貴金属の持つ制約を乗り越える。というのも、貴金属は自然の産物であるので、自然が本来抱えている制約がある。無限に産出されるわけにはいかないということとか、貨幣を媒介にした取引はバーチャルではありえず、リアルでなければならないといったものだ。信用が使えないところでは、ゲンナマがなければ何ごとも進まないのである。信用は、そうした壁を取っ払う。そのことで資本主義経済システムが、無制約に、爆発的に拡大する基盤となる。マルクスはとりあえず、そのように考えたのである。

マルクスの利子論は、主に二つの主張からなっている。一つは、利子は利潤の一部であること、もう一つは、利子は貨幣資本家と産業資本家の利潤の分配をめぐる戦いで決まるもので、利子率決定の自然的法則は存在しないということ。これに、利子は利潤にその源泉をもつにかかわらず、一般の目には、貨幣の固有の果実として、価値を生む価値として、それ自体が独立した実体のようなものと捉えられる、という主張を合わせれば、マルクスの利子論のほぼ全体像が浮かび上がって来る。

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