知の快楽

キルケゴールの実存概念

| コメント(0)
キルケゴールの実存概念は、シェリングの「現実存在」という概念をヒントにしたものだ。シェリングはこれを、ヘーゲルのいう「存在」の概念と対比させながら持ち出したのであるが、それがヘーゲルの「存在」のような抽象的な概念なのではなく、具体的な存在についての現実的な概念だというだけで、中身は必ずしも明らかではなかった。そこでキルケゴールは、自分なりにヘーゲルの存在概念を徹底的に批判することを通じて、「実存」概念を充実させていったのである。

キルケゴールにおける生成の概念

| コメント(0)
キルケゴールは生成の概念をおそらくヘーゲルから学んだのだと思う。だが、その概念の用い方はヘーゲルとは全く異なる。ヘーゲルにおいては生成とは変化に関わる概念であったのに対して、キルケゴールはそれを無から有への移行、すなわち発生あるいは出現のようなものとしてとらえたのである。


キルケゴールにとっての神の存在証明

| コメント(0)
キルケゴールは「哲学的断片」の一節で、「一般に、何かが存在することを証明しようということは困難なことである」(矢内原伊作訳、以下同じ)と言っている。これは、神が疑いもなく存在することを証明しようとしてやっきになっている人々を念頭においた言葉である。キルケゴールにとって、そういう人々の思惑は理解できないのであった。

内在と超越:キルケゴールの思想

| コメント(0)
「おそれとおののき」のなかでキルケゴールは、旧約聖書のアブラハムの物語を取りかかりとして、人が単独者として直接神の前に向き合うことの重要性を強調したのであったが、その時には、アブラハムが直接神に向き合い、自分の最愛の息子であるイサクを生贄に捧げろと言う神の命令を、大きな疑問もなく受け入れたのは、彼の神に対する信仰が然らしめたのである、と説明していた。しかし、ではアブラハムはその信仰を、どうやって身に着けたのか、については一言も述べてはいなかった。だが、これは極めて重大な疑問である。何故ならこの疑問が解消されない限り、アブラハムの行為が正当化される根拠が成り立たないだろうからである。もしかしたらアブラハムは、誤解によって自分の息子を殺そうとしたのかもしれない。もしそうだとすれば、アブラハムはただの殺人者だったということになるではないか。

おそれとおののき:キルケゴールの思想

| コメント(0)
キルケゴールの著作の中でも、「反復」と「おそれとおののき」は一対のペアとして論じられることが多い。いずれも同一の問題意識をきっかけにして書かれた。その問題意識とは、レギーネとの関係について、もう一度自分の考えを整理しておきたいというものだった。キルケゴールは、レギーネとの婚約を解消した後、「あれかこれか」を書くことで、そのことについての自分の立場を弁明するとともに、レギーネが名誉を保ったまま自分と別れられるようにと取り計らったつもりだったわけだが、その後、レギーネから心のこもった挨拶をされたことで、もしかしたらもう一度彼女との愛をやり直せるのではないかという希望を持つに至り、その希望が「反復」を書かせた。「反復」とは、当初は「愛のやり直し」を意味していたのである。ところがこれを刊行する前に、レギーネは他の男と婚約してしまった。そこでキルケゴールは「反復」を書き直すとともに、「おそれとおののき」を書いた。「反復」の決定稿では、愛の反復が不可能だったことを振り返り、「おそれとおののき」では、自分がレギーネを手放さなければならなかった理由を、あらためて論じたのである。

キルケゴールのヘーゲル批判

| コメント(0)
キルケゴールは、マルクスやニーチェ同様ヘーゲルを乗り越えることによって自分なりの思想を構築し、新しい時代の導き手の一人となった思想家である。マルクスは、ヘーゲルの思想の観念論的性格を問題にし、それがいわば頭で立っている状態を足で立たせることによって、つまり姿勢を逆にしてやることによって、観念論から唯物論への転化を図った。つまりマルクスは、ヘーゲルをひっくり返すことによって、自分の思想を構築したわけである。これに対してニーチェは、ヘーゲルに集約されるような西洋的な知の全体に対して異議を唱え、それがもはや意味のない念仏でしかないことを暴露した。彼の言う「神は死んだ」という言葉は、ヘーゲルに集約される西洋的な知がもはや意味を持たなくなったという事態を意味しているのである。

キルケゴールの審美的著作

| コメント(0)
キルケゴールの実質的な処女作は「あれかこれか」である。この中に含まれている「誘惑者の日記」が世間の話題となり、これをキルケゴールは仮名で出版したにかかわらず、たちまちその著者であることがばれて、忽ちデンマーク一の有名人になってしまった。無論文学者としてである。この作品は、思想的な作品などとは到底言えないし、文学作品としても奇妙な作品なのであるが、とにかく人の心をつかんで離さない迫力がある。であるから、筆者のようなものまでその魅力のとりこになったとしても不思議ではないだろう。筆者がこれを始めて読んだのは大学一年生の時のことだったが、読んでいる最中から感激に包まれ、読み終わったあとでは深いため息をついたものだ。というのも筆者には、この日記の作者のことが他人事のようには思えなかったからだ。これを読んだとき、筆者は恋が破れた直後のことであり、その不幸な恋の切ない思い出が、この作品によって掻き立てられて、筆者は心が二重に痛手を負うのを感じないではいられなかったのだ。

キルケゴールは何故仮名を用いたか

| コメント(0)
キルケゴールは、決して長いとは言えない生涯に、夥しい量の文章を書いた。あたかも書くことこそが生きることそのものであるかのように。それらの文章は、日記を別にすれば、二つの系列にわけられる。一つは文学的著作であり、もう一つは宗教的著作である。文学的な著作には、文字通り文学作品と言えるもののほかに、倫理的あるいは宗教的なテーマを扱った思想的なものも含まれるが、キルケゴールの場合には、思想を語るときにも文学的に語るので、それらも含めて文学的著作と称する。

キルケゴールにおけるイロニーと弁証法

| コメント(0)
キルケゴールが自分の生涯をかけた研究の出発点としてイロニーを選んだことは興味深いことである。イロニーの概念自体は、キルケゴールの同時代の精神状況の中で一定の存在意義を主張していた。その意味では新しい概念ではない。それは主に理想主義的なロマン主義者たちが、退屈な現実を糾弾するにあたっての武器として用いられた。とりすました相手をからかってみたり、陳列棚に収まった真理の剥製からその実在性を剥ぎ取ったりするための方法、それがイロニー、つまり皮肉の機能なのであった。だからそれはある種のファッションといってもよかった。こうしたイロニーの概念にキルケゴールが付け加えたものは、それを単なるファッションにとどめず、現実批判のための根本的な方法に高めることであった。後にキルケゴール自身、その方法を意識的に実践することによって、実存としての自己を確立していく。したがって彼のイロニー研究は、彼の生涯の方向付けを定める機能を果たしたといえるわけである。

キルケゴールの読み方にはいろいろある。文学作品として、倫理的あるいは心理学的著作として、あるいは哲学書として読めるだろうし、勿論深い宗教的真理を語った著作として読むこともできる。「誘惑者の日記」や「酒中に真あり」などの文学的な著作は、世界の文学史を飾るに足るすばらしい作品であるし、彼の倫理的・宗教的な主張はその後の時代の倫理学説や宗教上の議論に深刻な影響をもたらしたところだし、彼が展開した哲学的な議論は、ハイデッガーやヤスパースらによって取り上げられ、いわゆる実存主義哲学の形成に甚大な影響を及ぼした。どんな切り口から入っても、キルケゴールは尽きせぬインスピレーションを与えてくれる偉大な人物だ。それ故筆者のようなものまで、青年時代のある時期、キルケゴールにいかれたことがあったのも、無理もない話だといえよう。

ヘーゲルとギリシャ悲劇

| コメント(0)
ヘーゲル「精神現象学」は、意識、自己意識、理性と進んできた後、精神の章へと移るが、ここで叙述の仕方ががらりとかわることに、読者はとまどうかもしれない。というのも、それまでは個人の意識を主語として叙述されてきたのが、この章以降では、主語が共同体へと切り替わるからだ。

ヘーゲルとキリスト教

| コメント(0)
「精神現象学」において、「宗教」は「絶対知」の直前に置かれている。このことは、二つの意味を持っていると考えられる。一つは、ヘーゲルが宗教を、精神がとる一つの形と考えていること、もう一つは、宗教が絶対知の直前に位置するに相応しい高度な精神の形と考えていること、この二つの意味あいを持っているということである。

デカルト、パスカル、ライプニッツといえば西洋哲学史上に聳える偉大な哲学者たちであるが、彼らはそれ以上に偉大な自然科学者であり、数学的な思考を重んじた人たちだった。スピノザは自分の哲学体系を幾何学の形式を借りて展開したし、カントもまた自然科学者としてスタートした。近代の西洋思想史においては、哲学と数学・自然科学とが手を携えあいながら進んできたのである。ところがヘーゲルに至って、哲学は数学や力学的な思考と距離を置くようになった。というより、数学や力学を軽蔑するようになった。これをラッセルなどは、知的退化と捉えるわけだが、当のヘーゲルは、数学や力学は現象の一面を説明できるに過ぎないのであって、全面的に説明できるのは、自分の哲学だけだ、と思い込んでいたわけである。

ヘーゲルのカテゴリー論

| コメント(0)
西洋哲学の伝統においてカテゴリーとは、概念のなかでも最も普遍的な概念という意味で捉えられてきた。ということは、概念を分類のものさしで図ったということである。概念を分類したうえでの最上位のランク、それがカテゴリーとされる。それ故、カテゴリーが問題となる場合には常に、分類の一覧表というものが作られてきたわけである。

ヘーゲルの理性

| コメント(0)
へーゲルの精神現象学は、意識、自己意識に続いて、理性へと進む。しかし理性の登場の仕方が聊か唐突なので、読者はちょっと面食らう。というのも、意識、自己意識と読み進んできた読者の前に、いきなり理性があらわれて、こう宣言するからだ。「理性とは、物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信である」(長谷川宏訳「精神現象学」Ⅴ、理性の確信と真理、以下同じ)

ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷

| コメント(0)
ヘーゲルの自己意識論にわかりづらいところがあるのは、ヘーゲルが同じ「自己意識」という言葉を使いながら、そこに二つの意味を含ませているからだ。つまり、一方では、対象を意識しているその意識の主体としての意識という意味での使い方。これは、デカルト以来の認識論が語っていたのとほぼ変わらぬ自己意識のあり方である。ところが他方では、同じく自己意識をもった他者との関わり合いにおける自己意識という使い方をしている。この場合の自己意識は、同じく自己意識を持った他者に向き合っているのであり、最初の自己意識のように、たんなる物としての現象に向き合っているわけではない。

ヘーゲルの無限概念

| コメント(0)
ヘーゲル哲学のキー概念の一つに「無限性」(Unendlichkeit)というものがある。「無限」といえば、日本語では数量を連想させる。数量的に限度がないこと、それが無限だというふうにまず受け取れる。それが時間や空間についても適用され、時間においては始まりや終わりのないこと、空間においては広がりに限りがないこと、それが無限だというふうに考えられている。こうした考え方は西洋哲学の歴史にあっても、主流であった。カントも無限というものを時間と空間との関連で考えていた。

ヘーゲル精神現象学における中心的な概念に、対自存在(Fürsichsein)、対他存在(Sein für ein Anderes)という一対の概念がある。これは長谷川宏訳ではそれぞれ「自立存在」、「他に対する存在」と訳されているが、日本のヘーゲル学者の間では、「対自存在、対他存在」の方が通りがよい。

カントは、人間の認識の源泉は直感と概念の二つであると考えた。直感を通じて対象が与えられ、それに概念を当てはめることによって思考が生じる。直感の能力を感性といい、概念的な思考の能力を知性という。人間は感性と知性を組み合わせることによって高度な認識を行うことが出来る。「この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているともいえない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない」(中山元訳)

ヘーゲルにおける時間と空間

| コメント(0)
時間と空間とは、対象的な世界が纏っている根本的な形式であると同時に、我々人間の認識活動を制約している根本的枠組でもある。それ故西洋の哲学の歴史にあって、時間と空間とは存在論の根本観念であったし、デカルト以降の近代認識論にとってもキーとなる概念であり続けた。

Previous 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11



最近のコメント

アーカイブ