反哲学的エッセー

小生が大学卒業後の就職先に選んだのは東京都庁だ。自分のホームページのプロフィール欄には、「東京に事務所を置く一地方団体」と記してある。都庁を選んだ理由は二つある。どちらも大したことではないが、一つ目は、大学で仲良くしていた友人から、都庁の採用試験を一緒に受けようと誘われたことだ。その友人は結局都庁には入らず、大手新聞社に努めた。当時は役所の給与は低く、大手企業のほうがはるかに高い収入を得られたので、かれの選択は正しかったのだろう。もう一つの理由は、家族への気兼ねだ。小生は四人兄弟の長男坊なので、ゆくゆくは親と同居して、面倒を見なければならないと考えていた。それには遠方への転勤がないところでなければならない。都庁という職場は、転勤は無論あるが、だいたいが二十三区内に収まると聞いていたので、自宅から十分通える範囲内である。そんなわけで都庁を選んだ次第だった。

過日、大学時代の友人たち三人と新宿で台湾料理を食いながら久しぶりの談笑を楽しんだ際に、思い出話とともに色々話題があがった中で、コミュニズムについてマルクスはどのようなイメージを抱いていたかということが、熱心な討議を呼び起こした。討議といういささか大げさな言葉を使うのは、その議論がかなり熱を帯びていたことを表現したいからだ。論争とまではいかなかったが、それぞれの持っている見方が相互に微妙に違っているために、あっさり同感というわけにはまいらず、ちょっとした意見の齟齬をきたし、その齟齬が議論を熱くさせたのである。

過日、「アルチュール・ランボーとわが青春」と題して、小生の青春がアルチュール・ランボーにかなり影響された経緯を披露した。ランボーはなにしろ型破りな男であるから、接するものを夢中にさせずにはおかない。まして少年においてやである。だが、ランボー一点張りの少年時代を送った人間は、かなりいびつな生き方をすると思う。小生の場合には、ランボーにかぶれた度合いが強かったために、性格的にいびつなところが身についてしまったが、しかしランボー以外にも心酔するものはあったので、ランボー一点張りというわけでもなく、パッチワークのようないい加減なところもある。そこで今回は、ランボー以外に小生の心酔したものを紹介したいと思う。

過日NHKが大河原化工機冤罪事件に取材した番組を放送した。この事件は、警視庁公安部が一民間企業を外為法違反容疑で検挙し、その後起訴されたものの、初公判を前にして、検察自ら起訴を取り下げたという極めて異様なものであった。その後、大河原化工機の社長らによる損害賠償訴訟があり、その訴訟の場で公安部の課員がこの案件は捏造だったと証言したことで、その異様さが改めて浮き彫りになった。この件についてNHKの現場の記者が関心を持ち、比較的早い段階から取材をしていたようで、そうした取材内容を紹介しながら、事件の流れを追い、かつ公安調査のあり方に疑問を投げかけるものだった。この放送に先立ち、NHKの記者は雑誌「世界」に、この事件の概要について紹介し、公安部の体質について批判していた。小生はそれを読んでいたので、この事件について自分なりに考えていた。そんな折にこの放送がなされた。そこで小生は、それらをもとにしつつ、日本の公安調査のあり方について、鄙見を述べてみたいと思った次第である。

ウクライナ戦争とガザのジェノサイドを見て、小生は人間という生き物の愚かさをあらためて思い知った。冷戦が終わった直後には、これで人類社会は世界規模の大戦争から解放され、平和な生き方ができるという幻想にとらわれたものだ。その後、アメリカによる対テロ戦争と称する小競り合いはあったものの、世界中を巻き込むような戦争は起こっておらず、人類社会は基本的には平和だったといってよかった。ところが、ウクライナ戦争とガザのジェノサイドは、そうした浮かれ気分を吹き飛ばし、人類は戦争が好きな生き物だという冷厳な事実を、痛いほど知らしめた。

月刊雑誌「世界」の最新号(2024年1月号)が「リベラルに未来はあるか」という特集をやっていて、それを読んだ小生はいささか考え込んでしまった。この特集は、タイトルから推測できるように、いわゆる「リベラル」な価値に疑問を呈している。まあ、リベラルという言葉は、アメリカ人が好んで使うもので、日本人はあまり使うことはない。小熊英二によれば、日本でリベラルという言葉が使われたのは、1986年の衆参同一選挙のときからだという。その際に、社民連の江田五月が「リベラル派」の結束を呼び掛けた。江田が「リベラル」という言葉で表していたのは、「非保守・非共産」ということだった。それ以来日本では、「非保守・非共産」という意味で「リベラル」という言葉が使われてきた。つまりきわめて空疎な言葉であり、積極的な意味合いは持たなかったと言うのである。

先般の投稿で「私の三冊の本」をテーマにした際に、最初の一冊としてアルチュール・ランボーの詩文集をあげた。そこで小生がなぜランボーに強くこだわるのか、そのことについて改めて書いてみたいと思う。いつ死んでもおかしくない老人である小生が、いまさら「わが青春」を語るというのも滑稽に思われるかもしれないが、そこは我慢して読んでいただきたい。

令和五年は小生にとって後期高齢者に突入した年だ。それを記念して「落日贅言」というシリーズを開始した次第だ。落日に臨んで贅言を弄するというわけだが、じつに今の時代は贅言のたねにつきない。国内的にも国際的にもだ。そこでまずこの年、西暦2023年の国際情勢から話を始めることにしたい。

今から三十年以上も前に、岩波の読書誌「図書」が「私の三冊」と題した臨時特集号を出したことがあった。各界の名士たちに、岩波文庫のなかから最も印象に残った本を三冊あげてもらい、その各々について短いコメントを書かせるというものだった。それを小生は非常に興味深く読んだ。最も多くの人たちがあげた本は、中勘助の「銀の匙」とか阿部次郎の「三太郎の日記」といったもので、時代を感じさせたものだ。いまどきそんな本をあげる人はほとんどいないだろう。

先日は「人と人との間」と題して、人間は他の人々とのかかわりのなかで自己を形成するという旨のことを書いた。その文章の中では、人と人との関係を論じながら、関係構築の成功例よりも失敗例に焦点を当てて、さまざまな精神病理現象を、人間関係の病理として考察した。だが当然のこととして、人間関係構築の成功例もあるわけで、その成功例は好ましい人間形成にとっての手本となるべきものである。手本という点では、無論失敗例も参考にはなる。というか、人間というものは、成功体験や失敗体験を積み重ねながら自己を形成していくものなのだ。

小生の落日贅言シリーズ、今回はいま進行中のイスラエルのユダヤ人によるガザのパレスチナ人の大虐殺について書こうと思う。前回は、イスラエルのユダヤ人とガザのパレスチナ人の衝突が始まって間もないころのことだったので、その衝突がどの位の規模まで拡大するか見通しがつかなったこともあり、評価するには時期尚早と判断して、次回に繰り延べしたのだった。今や衝突開始から一か月以上たち、ある程度今後のことが予測できるようになってきたので、ここいらで取り上げてもよいと考える。

この落日贅言シリーズも七回まで進み、死ぬる苦しみとか生きる喜びについて語ってきた。落日に直面している老人のうわごとのようなものだったと思っている。次はもっと世俗的なテーマを取り上げようと思いながら準備をしていたところ、イスラエルとパレスチナの殺し合いが始まった。これはウクライナ戦争に劣らぬくらい、世界平和にとってインパクトのある事件なので、当然軽視するわけにはいかない。自分なりに考えてみる必要がある。またこのシリーズで取りあげてみたいとも思う。だが、事態は流動的で、この先どう展開するかわからない。イスラエルのユダヤ人指導者たちは、タマをけられた犬のようにいきり立っており、ガザのパレスチナ人を皆殺しにするつもりのようだ。それに対して、パレスチナのほうは、おそらくまたやられっぱなしになるのであろう。だが、今回がこれまでと違うのは、国際社会の多数派が、イスラエルの過剰な懲罰に対して批判的なことだ。アメリカに対しても、イスラエルによる残忍な行為に肩入れしているという批判が向けられている。こんなことはこれまでなかったことで、そういう国際社会の変化が、イスラエルとパレスチナの歴史的な対立にどんな影響を及ぼすのか、まだまだ流動的である。それゆえ、この問題については、もうすすこし行方を見てから取り上げるのがよろしかろうと思い、今回は見送ることにした。

この落日贅言シリーズで二稿つづけて死を取り上げたのは、自分自身高齢となっていつ死んでもおかしくない年頃となり、死が身近なものに感じられるようになったということもある。だが、まだ生きているわけであるし、生きている限りは、生きる喜びを追求するというのが、人間の本性ではないか。そこで今回は生きる喜びについて書いてみたい。人間にとって生きる喜びとはなにか、というのは大事な問いであるし、よりよく生きるためには常にそのことに自覚的であることが望まれると思うのである。とはいっても、小生はこの問いに対して、上段からふりかぶったような答え方はしないほうがよいと考え、日ごろ生きるについて、よりよい生き方としての、喜びの多い生き方について、漠然と感じてきたことをもとにして考えて見たいと思う。だから、議論の筋道が多少ジグザグになるのは大目に見てもらいたい。

落日贅言の前稿「歴史と人間の終わり」の結びの部分で、ミシェル・フーコーが言ったことば「人間の終わり」に言及した。フーコーはこのことばを、「人間性の終わり」という意味で使ったので、必ずしも種としての人間の終わりを意味したのではなかったと思う。だがやはり、「人間の終わり」などと言われると、種としての人間の終わりをイメージせざるを得ないし、その前に、自分自身の死についても考えざるをえない。とくに小生のようにすでに古稀を過ぎた老人にとっては、もはやいつ死んでもおかしくない年頃ではあり、したがって明日にでも、死が自分自身におとずれるかもしれない。その場に及んで騒いでも後の祭りだと思うので、もうそろそろいつ死んでもいいように、心の準備をしておくのも、あながち無駄なことではないと思う。そんなわけで今回は、「死を考える」という題目で、自分自身の死を含めて、人間にとって死とは何かということについて考えてみたい。死をめぐる自分の考えについては、いままでも「反哲学的省察」などを通じて表明してきたところなので、一部はそれをダブるところもあるが、今の時点で、小生が死について思うところを包括的に述べたいと思う。

前稿「哲学の歴史は終わったか」のなかで、世界の哲学界のうちでも特に西洋哲学の世界においては、デリダとドゥルーズを最後にまともな哲学者が現れなくなった事実を指摘し、それを踏まえて、西洋哲学の歴史が終わった可能性について言及した。本稿では、西洋哲学の歴史が実際に終わってしまったのか、そのことについて改めて確認作業を行い、そのうえで、なぜそんなことになってしまったのか、について考えてみたいと思う。

小生は年少のころから哲学書を読むのが好きだった。生来夢想がちなところがあって、ちょっとしたことでも、それが自分にとってどんな意味を持つのか、突き詰めて考えずにはいられなかった。しかもそういう疑問は時と所をえらばず、いきなり心に浮かぶので、小生は、あのソクラテスのように、道の真ん中で歩みをとめ、じっと考え続けるというようなことがしょっちゅうあった。そのため、学校の開始のベルに間に合わなかったこともよくあったくらいだ。その疑問というか、自分を突然襲う問いかけのようなものが、小生を哲学への親近性へ導いたのだと思う。

今年のお盆は、小生の両親が亡くなって二十五年目にあたる。小生の父親が亡くなったのは平成九年(1997)十月のことで、母親はその四か月後の平成十年(1998)年二月に亡くなった。母親は夫(小生の父親)を深く愛していたので、夫を失っては、一人で生きる気力を失ったのだと思う。両親が相次いで亡くなってから最初のお盆が、平成十年の夏のことだったから、それから数えて今年が二十五回目のお盆にあたるわけである。

落日贅言の第二稿は「ウクライナ戦争は世界をどう変えるか」と題して書こうと思う。何と言っても、いま世界で起きていることの中で最もショッキングなものだし、単に大きな戦争というにとどまらず、今後の世界秩序を大きく変える可能性がある。「この戦争によって、世界の秩序は根本的に異なったものへと転換した、その新しい世界秩序の再構成にとって、この戦争は画期的な意義をもった」、と将来の世代からいわれるようになる可能性が大きい。それほどこの戦争は、人類にとって巨大な意義を帯びたものといわざるをえない。

本日令和五年(西暦2023年)七月十五日は、小生満七十五歳の誕生日である。日本の法体系では、七十五歳以上の老人を「後期高齢者」と呼ぶそうだ。どんな理由でそう呼ぶかは知らぬが、小生はこんな言葉で呼ばれたくない。そんな言葉を許容していては、いづれ末期高齢者などと呼ばれることも許容せねばならなくなり、またいよいよとなったら「死に損ない」と呼ばれるのも甘受せねばなるまい。われわれいわゆる団塊の世代は、非常に長生きし、百歳以上生きる人が53万にのぼるという推計もあるそうだ。長生きするのは悪いことではないが、死に損ないなどと呼ばれて厄介者扱いされるのは不本意である。

昨夜(5月6日)、NHKのEテレがポアンカレ予想について特集番組を放送した。このテーマについては、2007年にすでに放送しており、今回はその二番煎じの域を出ていないが、前回よりは、頭の弱い人でもわかりやすく作られていると感じた。やはり頭のよくない小生にも十分わかりやすい内容だったし、また小生なりに色々と考えさせられるところもあった。

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