レオナルド・ダ・ヴィンチは、いまでこそ世界絵画史上の巨匠ということになっているが、その評価が確立したのは20世紀のことである。そうしたダ・ヴィンチ評価の動きに、ルドンも深くかかわっていた。「レオナルド・ダ・ヴィンチ頌(Hommage à Leonardo da Vinci)」と題されたこの作品は、そんなルドンのダ・ヴィンチへの敬愛を表現したものである。
「セーラーカラーをつけたアリ・ルドンの肖像(Portrait d'Arï Redon au col marin)」は、ルドンの次男アリをモデルにした作品、ルドンは、長男のジャンを1886年になくし、深い悲しみにとらわれたのだったが、1889年に、50歳を前にして次男を得た。この子を得たことで、一時衰えた創作意欲が復活したという。
「わしは鳥じゃ(Je suis oiseau, voyez mes ailes. Je suis souris, vivent les rats.)」と題されたこの石版画は、当時の王党派の大物エミール・オリヴィエを風刺した作品。オリヴィエは、二月革命の頃は共和主義者だったが、のちに熱心なナポレオン主義者に転向した。転向後のかれはナポレオンの懐刀になり、普仏戦争に向かって国民をかりたてた。
国内向けに政治風刺を行うことをはばかったドーミエは、風俗版画に力を入れるようになった。「写真術を芸術の高みに引き上げるナダール(Nadar élevant la Photographie à la hauteur de l'Art)」と題するこの石版画はその一枚。当時興隆しつつあった写真術を象徴する人物ナダールをモチーフにしたものだ。ナダールといえば、ボードレールの肖像写真があまりにも有名だが、ドーミエとも親交があった。ドーミエはナダールを商売敵と考えていたようだ。
1863年から1866年にかけて、クリミア半島を舞台にして、英仏及びオスマントルコの同盟軍とロシアと間で戦争が起こった。世に「クリミア戦争」と呼ばれている。この戦争にドーミエは関心を示し、フランス人の立場から野蛮なロシア人をこき下ろす版画を作った。「北方の熊(L'oues du nord)」と題したこの石版画は、ロシアを罵倒した最たるものである。
「シャンゼリゼへ!( Aux Champs-Elisee)」と題されたこの石版画も、「観閲の日」と同じく、ラタポアールらナポレオン派の策動を批判した作品。これは、仕込み杖をたくさん抱えたラアポアールが、シャンゼリゼ大通りに向かう群衆に対して、仕込み杖で大統領官邸を警護しようと呼びかけている様子を描くとされる。
ルイ・ナポレオンが大統領に当選したことを記念して、「十二月十日博愛主義協会」という組織が結成された。ナポレオンの最大の支持組織である。その組織は、ラタポアールとカスマンジューという二人の人物によって代表されていた。「ラタポアールとカスマンジュー(Ratapoil et Casmanjou)」と題するこの石版画は、かれらを批判的に紹介した作品である。
最近のコメント