1946年、フリーダはニューヨークで脊椎の大手術を受けた。18歳の時の事故で脊椎を損傷し、それ以後ずっと苦しんできた。手術によってその苦しみから解放されるという期待をもって、彼女は手術に臨んだのだが、結果的には失敗だった。痛みはかえってひどくなったのである。「傷ついた鹿(El venado herido)」と題されたこの絵は、自分の傷だらけの身体を傷ついた鹿にたとえたものである。
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フリーダは、有力な後援者ホセ=ドミンゴ・ラビンから借りて読んだフロイトの著作「モーゼと一神教」に夢中になり、読書の印象をイメージ化した。「モーゼあるいは太陽の核(Moisés o Núcleo Solar)」と題されたこの絵がそれである。彼女はこの絵を二か月かけて完成させ、国立芸術宮殿の美術展で受賞した。
「希望もなく(Sin Esperanza)」と題されたこの絵は、フリーダの陥っていた絶望的な状況をイメージ化したもの。背骨の矯正手術を受けて以来、彼女の体調はかえって悪化し、ベッドに伏せる日が続き、食欲がなくなって、体重は劇的に減った。主治医のエレッサーは、彼女にベッドでの安静を命じ、二時間ごとにピュレー状の食料を漏斗で摂取することにした。それをフリーダは苦痛に感じた。
フリーダは、18歳の時に交通事故で脊椎を損傷して以来、その後遺症に苦しんだ。1944年には、脊椎の矯正手術を受けざるをえなかった。手術の後は、金属製のコルセットでぐるぐる巻きにされた。その気が滅入るような自分の状況を、フリーダは「折れた背骨(La Columna rota)」と題されたこの絵で表現した。
1940年代以降、フリーダは全身にわたって不調を感じるようになり、ベッドで過ごす時間が増えた。そんなこともあって、自分の死について考えるようになった。「死を考える自画像(Pensando en la Muerte)」と題されたこの絵は、そんなフリーダの、自分自身の死をイメージした作品である。
1942年にメキシコの国立彫刻学校が絵画と造形の専門学校に改組され、新しいタイプの授業が導入された。その専門学校にフリーダは、1943年からかかわるようになった。フリーダは、教師と生徒との関係を対等と位置づけ、自分をファーストネームで呼ばせた。背骨の不調をはじめ体調の悪化が重なったため、学校での授業が無理になり、彼女はコヨヤカンの自宅を教室にした。そのフリーダの授業からは何人かの芸術家が育ち、「ロス・フリードス」と呼ばれた。
「私とオウム(Yo y mis pericos)」と題されたこの絵は、一時期恋愛関係にあった写真家ニコラス・ムライを念頭に置いた作品と解釈されている。二人は、フリーダの最初の個展(1938年)で知り合って以来、恋愛関係になったという。フリーダがディエゴと離婚・再婚をするあいだ、ムライはフリーダに付き添っていた。その二人の関係は、1941年に終わる。この絵は、その愛の終わりに促されて描いたということらしい。
フリーダ・カーロは、1940年の12月にディエゴ・ロベラと再婚した。離婚してから一年後のことだ。再婚にあたってフリーダは二つの条件をつけた。もうセックスはしないこと、経済的に自立するために創作を続けることを認めること、だ。彼女はすでに有名になっていたので、絵が売れるあてはあった。彼女がこの時期に最も多く描いたのは自画像だ。多少趣向を変えて、多くの自画像を描いた。
「茨の首飾りの自画像(Autorretrato con collar de espinas)」と題されたこの絵は、「ドクター・エレッサーに捧げる自画像」と前後して制作された。両者とも、フリーダは茨の首飾りをつけている。茨の首飾りは、自分につらく当たるディエゴを象徴的に表現していると考えられる。この時期のフリーダは、ディエゴと離婚したばかりだったが、ディエゴを憎んでいたわけではなかった。ディエゴと一緒にいることができないことの代償として、他の男と付き合ったりしたが、まもなくやめてしまった。だから、男一般への複雑な気持ちを、この茨の首飾りで表現したかったのかもしれない。
「ドクター・エレッサーに捧げる自画像(Autorretrato dedicado al Dr. Eloesser)」と題されたこの絵は、サンフランシスコ滞在中に世話になり、その後深い交際を続けてきたメキシコ人医師レオ・エレッサーに捧げられたものである。エレッサーは、医師としてフリーダを支えたばかりではなく、彼女のよき理解者として心の支えにもなった。そんなエレッサーへのフリーダの感謝の気持ちを込めた作品だと解釈されている。
「傷ついたテーブル(La mesa herida)」と題されたこの絵は、ディエゴと離婚して別居していた時期に描かれた。1940年にメキシコ・シティで開かれた国際シュルレアリズム展に初めて展示されたあと、いくつかの美術館で展示され、1943年に、フリーダの意思によってソ連共産党に寄贈された。トロツキーと親しくしたことで、ソ連共産党とは疎遠になっていたフリーダが、和解のしるしとしてこの作品を贈ったのだった。だが、ソ連側では、シュルレアリズムへの理解がなく、たなざらしにされた。1955年にポーランドの展覧会に出展されたが、それを最後に行方がわからなくなった。いまでも捜査の対象となっている。そんなわけで、実物は見ることができない。だが、写真が残っている。上の画像は、その写真である。
「断髪の自画像(Autorretrato con pelo cortado)」と題されたこの絵は、ディエゴと離婚した直後に描かれた。おなじみのテワナをぬぎ、男物のスーツを着て、男のような髪型になったフリーダが、じっと我々を見つめている。これは、フリーダの中にあったバイセクシャルの傾向のうち、男性的な面を強調した作品である。
「森の中の二人の裸婦(Dos desnudes en un bosque o La tierra misma o Mi nana y yo)と題されたこの絵は、副題に「大地あるいは乳母と私」とあるように、大地に横たわった乳母とフリーダをイメージした作品。フリーダはこれ以前に「乳母とフリーダ・カーロ」と題した絵を描いており、そこでは乳母との表面的なつながりが強調され、二人の間には深い愛情を感じることはなかった。この絵の中の二人は、親密とはいえないまでも、よそよそしい関係にも見えない。
フリーダ・カーロは、1939年の11月6日に正式に離婚した。その年の夏には、フリーダはコヨヤカンの両親の家で別居を始めたのだが、秋に離婚に合意、11月に書類上離婚したのだった。離婚を言い出したのはフリーダではなく、ディエゴだったという。フリーダは、自分がディエゴに捨てられたと思い、絶望したそうである。「ふたりのフリーダ(Los dos Fridas)」と題されたこの絵は、離婚直後に描かれたものである。
「水の中に見たもの、あるいは水がくれたもの(Lo que vi en el agua o Lo que el agua me dio)」と題されたこの絵は、フリーダ・カーロの自伝をイメージ化したものといわれる。バスタブの中にさまざまなイメージが描かれているが、それらのイメージのそれぞれが彼女の人生のある時期をあらわしているというのである。なかでも、水の上に飛び出した両足先とその水面への反映が、画面を支配しているので、この絵には「足の自画像」という別名もある。
「ドロシー・ヘイルの自殺(El suicidio de Dorothy Hale)」と題されたこの絵は、雑誌「ファニティ・フェア」の編集者クレア・ブース=ルースの依頼を受けて制作したもの。モデルのドロシー・ヘイルは、ニューヨーク社交界の花形で女優志望だったが、1831年に夫が死んだあと経済的困窮に陥り、1938年10月に、ニューヨークのハンプシャー・ビルの窓から飛び降り自殺した。ドロシーの親しい友人だったクレアが、ドロシーの生前の肖像画を母親に贈ろうと思ってフリーダ・カーロに制作を依頼したのだった。
アンドレ・ブルトンの企画により、1939年にパリで「メキシコ展」が開催された。リベラとフリーダの夫妻は、トロツキーを通じてブルトンと親しくなった。ブルトンは、フリーダの描いた「トロツキーに捧げる自画像」に感銘を受け、彼女のためにもなると思って、この展覧会を企画したのだった。フリーダはこの展覧会に「ザ・フレーム(Autorretrato"The Frame")」と題された自画像を出展した。それをルーヴル美術館が買い求めた。ヨーロッパ以外の美術家の作品を、メジャーな美術館が買収するのは初めてのことだった。もっともルーヴル側では、フリーダ自身を高く評価していたわけではなく、ディエゴ・リベラの妻と認識していたようである。
「猿のいる自画像(Autorretrato con mono)」と題されたこの絵は、ニューヨーク現代美術館の館長コンガー・グッドイアーの注文を受けて制作したもの。グッドイアーは、ジュリアン・リーヴィ・ギャラリーでのフリーダの個展に展示されていた「フラン・チャンとフリーダ・カーロ」を欲しがったのだったが、すでに他の人のものになっていたので、同じような構図の絵を描いてほしいとフリーダに頼んだ。それを受けてフリーダは、メキシコへ旅立つ前に、ニューヨークのホテルでこの絵を完成させた。
フリーダ・カーロは、生涯に200点あまりの作品を手掛けたが、その大部分は自分自身をモデルにしていた。そのうち55点にのぼる作品は、上半身をアップした半身像で、そのどれもがユニークな装飾性に富んでいる。彼女が自画像にこだわったのは、一人で過ごす時間が多く、自分自身をモデルにするのがてっとりばやかったからだと語っている。
フリーダは、わずか11か月の時に妹のクリスティーナが生まれたので、母親はクリスティーナのほうに勢力を傾け、フリーダのことはあまり世話しなかった。授乳はインド人の乳母にまかせきりだった。そのことにフリーダは、複雑な感情を抱いた。クリスティーナは、幼い時分から母親の愛情を奪ったばかりでなく、大事な夫のディエゴまで奪ったのだから、彼女が複雑な気持ちを抱くのは当然なのである。
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