晩年のルドンは、花瓶にいけた花を好んで描くとともに、花をあしらった女性の肖像も多く描いた。「ヴィオレット・エーマン(Violette Heyman)」はその代表的なものである。若い女性が横顔を見せた姿で、花と向き合っている構図である。
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「アポロンの馬車と竜(Le char d'Apollon et le dragon)」と題されたこの作品は、「アポロンの馬車」とほとんど同じ構図である。ほぼ同時期に制作された。構図の違いは、画面の下側に竜を配したところ。もっとも竜は、胴体の一部がかいまみえるだけで、全体像が明確ではない。
「出現(Apparition)」と題されたこの作品は、ボナールらナビ派とのかかわりを示すものと言われる。ボナールは、ナビ派の中心人物として、幻想的な画風の作品で知られている。ルドンの幻想的な画風に影響を受けたとされるが、ルドンはルドンで、ボナールらナビ派の動きに注目していたらしい。
ルドンは、晩年には花を好んで描く一方、蝶をモチーフにした作品を多く手掛けた。その大部分は、沢山の蝶が思い思いに飛び回っている様子を描いたものだ。この作品は、その代表的なもの。露出した岩肌の上を、大小さまざまの種類の蝶が飛び回るところを捉えた。
アポロンは、ギリシャ神話の太陽神である。太陽が東の空から出て天空を移動し、やがて西の空に沈んでいく様子を、ギリシャ神話では、アポロンが四頭立ての馬車に乗って天空を駆けるイメージで表現した。「アポロンの馬車(Le char d' Apollon)」と題されたこの作品は、そうしたギリシャ神話のイメージをあらわしたものである。
ルドンは、シェイクスピア劇の有名なキャラクター、オフェリアをモチーフにした作品をいくつか作っている。その中には、水に浮かんで流される、よく知られたイメージのものもある。「花の中のオフェリア(Ophelia parmi les fleurs)」と題されたこの絵は、花の中というよりは、花を前にしてそれを見上げる姿のオフェリアを描いたものだ。
ペガサスは、ギリシャ神話に出てくる翼をもった天馬である。空高く飛翔するイメージで描かれることが多い。そのペガサスをルドンは繰り返し描いている。すでに石版画にも取り上げていたが、石版画のペガサスは黒く暗いイメージをひきずり、地上を這う姿で描かれていた。
ルドンがポール・ゴーギャンと出会ったのは、1886年の第八回印象派展の会場であったらしい。八歳年下のゴーギャンのほうから、ルドンに敬意を表して接近したといわれる。ゴーギャンはルドンの画風に強くひかれ、その幻想的な雰囲気とか、豊かな色彩に影響されたようである。
ルドンは仏陀に強い関心を持っていたようで、仏陀をモチーフにした作品を結構作っている。いづれも仏陀の精神性を表現したもので、カラフルな色彩のなかに、静かな瞑想のような雰囲気を漂わせている。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、いまでこそ世界絵画史上の巨匠ということになっているが、その評価が確立したのは20世紀のことである。そうしたダ・ヴィンチ評価の動きに、ルドンも深くかかわっていた。「レオナルド・ダ・ヴィンチ頌(Hommage à Leonardo da Vinci)」と題されたこの作品は、そんなルドンのダ・ヴィンチへの敬愛を表現したものである。
カリバンは、シェイクスピアのロマンス劇「テンペスト」に出てくるキャラクターである。「野蛮で奇形の奴隷」と紹介されており、また登場人物の口をとおして「魚と怪物のあいの子」と呼ばれ、具体的なイメージとしては、頭は魚で、鰭が手足のように伸び出ている。ヒエロニムス・ボスの奇妙な作品「干草車」に描かれている魚の怪物に近いイメージだ。
キュクロプスはギリシャ神話に出てくる単眼の巨人族。火山ないし鍛冶屋の神といわれるが、ホメロスの「オデュッセイア」には旅人を食らう凶暴な怪物として描かれている。ルドンのこの作品は、キュクロプス族の一人ポリュメーモスが、ガラテーアという娘に恋い焦がれるさまを描いている。
「セーラーカラーをつけたアリ・ルドンの肖像(Portrait d'Arï Redon au col marin)」は、ルドンの次男アリをモデルにした作品、ルドンは、長男のジャンを1886年になくし、深い悲しみにとらわれたのだったが、1889年に、50歳を前にして次男を得た。この子を得たことで、一時衰えた創作意欲が復活したという。
一時期のルドンは、聖書に取材した宗教的なテーマを描いた。「聖心(Sacré-Cœur)」と題するこの絵もその一つ。キリストのイメージをストレートに表現している。キリストをモチーフにした作品には、受難とか悲しみといったものを表現するものが多いのだが、この作品は、タイトルにあるとおり、キリストの心を表現している。
ルドンは、1880年代の半ばごろに、本格的な油彩画の制作に励むようになった。石版画の制作もやめたわけではない。1890年代半ばごろまで石版画の制作を続けている。だが主力は次第に油彩画のほうに注がれるようになった。「アベルとカイン」と題されたこの作品は、かれの本格的な油彩画の初期の傑作である。
(おそらく花の中に最初の資格が試みられた)
「起源(Les origines 1883年)」はルドンの三番目の石版画集で、八点の作品で構成されている。豚の怪物が暗闇の中で目覚めるといった構図の作品からはじまる。目覚めは誕生、つまり生命の起源の隠喩だろう。以下いづれも、何らかの形で「起源」をテーマにしていると受け取れる。
(孵化)
ルドンは、石版画家として世間に現れた。最初の石版画集「夢の中で」を刊行したのは39歳の時だから、画家としてのスタートは遅かったといえる。それまでは、つまり若いころは、あまりさえない風景画を描いており、ほとんど注目されることはなかった。ルドンに石版画の手ほどきをしたのは、風変わりな浪漫派芸術家ブレダンである。この男はシャンフルーリの小説「犬っころ」のモデルになったことでも知られる。画家としては、ロマン派に属し、古典的な絵画ではなく、激情的な雰囲気を感じさせる画風である。ルドンは、技術のみならず、画風もブレダンから学んだようである。
「ビスマルク氏の悪夢(Un couchemar de M.Bismarck)」と題されたこの作品は、普仏戦争に触発されて制作したもの。この戦争で、フランスは初戦で健闘したものの、たちまち攻め込まれ、ルイ・ナポレオンが捕虜になるという不名誉な結果となった。そのことで、ナポレオンの第二帝政は崩壊する。
「わしは鳥じゃ(Je suis oiseau, voyez mes ailes. Je suis souris, vivent les rats.)」と題されたこの石版画は、当時の王党派の大物エミール・オリヴィエを風刺した作品。オリヴィエは、二月革命の頃は共和主義者だったが、のちに熱心なナポレオン主義者に転向した。転向後のかれはナポレオンの懐刀になり、普仏戦争に向かって国民をかりたてた。
国際問題に興味を見出したドーミエは、やがて戦争の惨禍に注目するようになる。ヨーロッパ諸国間の戦争が、武器の近代化によって悲惨なものとなったことがその背景にある。近代化によって高性能になった武器は、人間を大量殺害することを可能にした。そうした傾向にドーミエは危機感を覚えたのだと思う。
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