二月革命はフランスを共和国体制に導いた。新たに憲法が制定され、大統領選挙が行われることになった。その選挙に、イギリスに亡命していたルイ・ナポレオンが立候補する意思を示した。ルイ・ナポレオンとは、あのナポレオン・ボナパルトの甥である。とはいえ、かれはフランスでは忘れられた存在だった。そのかれが、船に乗ってドーヴァー海峡を渡り、フランスに上陸したことで、世間は俄然騒がしくなった。
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二月革命によってルイ・フィリップの王政は崩壊したが、新しい共和制はまだ明確な姿を結んでいなかった。一応、21歳以上の男子による普通選挙が4月に行われ、制憲議会のもとで新憲法が制定される。それによって第二共和政といわれるものが生まれる。これは、穏健なブルジョワ支配体制をねらったもので、労働者を中心とした左翼から強い批判を浴びた。その批判は武力蜂起に発展した。いわゆる六月蜂起である。
二月革命が勃発すると、難を恐れた国王ルイ・フィリップはイギリスへの亡命をはかり、テュイルリー宮を脱出した。その王のいなくなった宮殿に、群衆が殺到した。その様子を描いたのが、「テュイルリー宮の腕白小僧(Le Gamin de Paris aux Tuileries)」と題されたこの石版画である。
1848年2月、いわゆる二月革命が勃発すると、ドーミエは多大な関心を寄せ、一時期控えていた政治的な風刺版画を再び手掛けるようになる。「最後の閣僚会議(La dernière réunion du cabinet des ex-ministres)」と題したこの石版画は、二月革命によせるドーミエの共感を示したものである。この石版画を通じてドーミエは、王政の打倒と共和国の復権を訴えたのであった。
よきブルジョワ:ドーミエの風俗版画
ルイ・フィリップは立憲君主制を標榜し、選挙で選ばれた議会に一定の権限を与えた。しかしその選挙は制限選挙制であり、選挙権を持つのは一部の金持だけだった。全国で85ある選挙区で、1000人以上の選挙権者があるのは27にとどまり、パリが属するもっとも大きな選挙区セーヌ二区でも、3000人に満たなかった。
「優等賞の授与(La distribution des priz)」と題されたこの作品は、「人生の幸福(Les beaux jours de la vie)」シリーズの一点。幸福そうな表情をした父娘を描いたものだ。父親が抱えているのは、娘が優等賞の副賞としてもらった本である。それをうれしそうに抱えた父親のとなりで、娘が得意げな表情をしている。
「さあ!デディ-ヌ(Eh1 Didine)」と題されたこの石版画は、ドーミエとしては珍しく、男女の閨房での様子をテーマにした作品。男が女に向かってやさしく話しかけると、女はそれをセックスへの誘いの言葉と勘違いして、あらいやだわ、と答えている。
「コレラ流行の記憶(Souvenirs du Choléra-Morbus)」と題されたこの石版画は、1840年に出版されたフランソワ・ファーブルの書物「絵入り医学のネメシス」の挿絵として制作されたもの。原文は、1832年にフランスで起きたコレラのパンデミックを解説していた。
「時計の安全鎖売り(Vendeurs de chaîne de sécurité de montre)」と題するこの石版画は、「パリのボヘミアン」シリーズのひとつ。ブルジョワ紳士に時計の安全鎖を売りつけるスリたちを描いている。「ロベール・マケール」シリーズではないが、スリの中には、マケールとベルトランを思わせる人物像が登場している。
ドーミエは政治的な風刺版画のほかに、同時代のパリの風俗をテーマにした版画も多く作った。とくに、「カリカチュール」が発行できなくなってからは、そうした風俗版画を多作したが、それらにもやはり、政治的な視線を感じさせるものがある。
この作品も「ロベール・マケール」シリーズの一つ。ここではロベール・マケールは慈善家に扮している。慈善家というのは皮肉で、健康増進剤として浣腸を売りつけ、大儲けしていた商人をモチーフにしたもの。その商人は、自分のやっていることはただの商売ではなく、慈善行為だと開き直っていた。
「聖書商人ロベール・マケール(Robert-Macaire Md de bibles)」と題されたこの石版画は、新聞王ジラルダンを風刺した作品。ジラルダンはラ・プレスほか有力な新聞を発行し、それに広告の機能を持たせることで、巨万の富を得た。そのやり方は、誇大広告で人々の購買意欲をあおるというもので、それに対してシャリヴァリによるフィリポンとドーミエは強く反発した。
1834年4月のリヨンにおける暴動に引き続き、1835年7月にはルイ・フィリップ暗殺未遂事件が起きる。これらの事件を深刻に受け取った政権は、強圧的な弾圧政策に踏み切る。その最たるものは、表現出版の自由を制限するものだった。内務大臣ティエールの主導のもとで、政府に批判的なメディアがことごとく廃刊に追い込まれた。ドーミエがかかわっていた「カリカチュール」も、1835年8月に廃刊を余儀なくされた。
「ラファイエットはくたばった、ざまあみろ(Lafayette!...Attrappe, Mon Vieux)」と出されたこの作品は、英雄ラファイエットの葬儀をテーマにしたもの。とはいっても、ラファイエットの葬儀の様子は遠景として描かれ、全面いっぱいにルイ・フィリップが描かれている。
「トランスノナン街(Rue Transnonain)」と題されたこの石版画は、1834年4月にリヨンを舞台にして起こった労働者の運動への大弾圧を告発したもの。この運動は、ルイ・フィリップへの批判的グループ「人間の諸権利協会」が、リヨンの絹織物職工組合を組織して行ったもので、8000人以上の労働者が参加した。それに対して、内務大臣ティエールが軍隊まで動員して弾圧にとりかかり、労働者側に192人、軍隊側にも129人の死者をだすなど、内乱状態といってよいような状況を呈した。
ドーミエは、ルイ・フィリップの下で権力の座に就いた人間たちを、痛快なタッチで風刺した石版画を多く作った。「立法府の腹(Le Ventre législatif)」と題されたこの作品は、そうした風刺的人物画の集大成といわれるものである。
「過去・現在・未来(Le passé. Le présent. L'avenir)」と題されたこの石版画は、ルイ・フィリップの顔を皮肉っぽく描いたものだ。ルイ・フィリップの顔は、下膨れなところが洋梨を想起させたので、人々はかれを「洋梨」とあだ名した。この絵を見ると、たしかにルイ・フィリップは洋梨が人間の真似をしているように見える。
「悪夢(Le Cauchemar)」と題されたこの石版画は、ラマルティーヌとルイ・フィリップの関係を皮肉ったもの。ラマルティーヌはフランス革命の英雄として庶民に人気があった。1930年の七月革命でも指導的な役割を果たした。だが、革命が成功するや、ルイ・フィリップがかれを利用しにかかった。かれを抱きこむことで、自分の権力を強化しようと考えたのだ。
1930年の七月革命は、大衆の蜂起によって成功したのだったが、革命がもたらしたのはルイ・フィリップによる王政でり、かれを担いだブルジョワジーの勝利であった。その一方、革命を成功させた大衆は、見向きもされなかった。「七月の英雄(Un Héros de Juillet)」と題したこの版画は、そうした無視された大衆を象徴する人物像である。
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