1830年代のフランスは、ジャーナリズムが勃興した時代だった。新聞雑誌があいついで発行され、その紙面を石版画が埋めた。写真技術がまだなかった当時にあって、大衆向けの表現手段としては、石版画がもっとも便利だったのである。この時代、多くの石版画家が活躍したが、ドーミエはその中心的な人物であった。
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「14歳の小さな踊り子( La Petite Danseuse de Quatorze Ans)」と題されたこの彫刻は、1881年の印象派展に出展され、それなりの反響を呼んだ。例によって、善意に受け取るものと悪意に満ちた受け止め方が混在したが、悪意ある批評のほうが多かったという。
「開演前(Avant la représentation)」と題されたこの作品は、ドガ最晩年の踊り子群像。この絵を描いたとき、ドガは62歳であったが、ほとんど失明に近い状態だったという。それゆえ余計に、光に敏感になっていたものと思える。この作品にも、光があふれている。
晩年のドガの絵には、輪郭がはっきりせず、どぎつい色彩のものが多い。これは、中年時代に始まった視力の衰えがすすみ、半ば弱視気味になったことにともなうものだった。かれは、対象の輪郭を明瞭にとらえることができなかったので、輪郭を曖昧化して、色彩で対象を再構成しようとした。それもかなり強烈な、原色主体の色彩である。
ドガは横に長い画面を好んで描いた。踊り子の群像を描くのに適していると考えたからであろう。「階段を上る踊り子たち(Danseuses montant un escalier)」と題されたこの絵も、横に長い画面に踊り子の群像を描いた作品だ。
1880年代のドガは、多くの風俗画と並んで、女性の裸体画を数多く描いた。なかでも、浴槽の中の女シリーズが有名だ。これはその中でもっともよく知られた作品。浴槽の中でしゃがみ込み、髪の手入れをしている女を描いている。
ドガは、庶民の生活ぶりをスナップショット的に描くことでは、やや先輩ながらほぼ同時代の画家ドーミエと似たところがある。だが、大きな相違もあった。ドーミエは、同時代のフランス社会の矛盾のようなものを批判的に描いたものだったが、ドガにはそうした批判意識は認められない。かれは単に、人間の動作に造形的な関心を寄せたに過ぎない。
ドガは、1870年代末から80年代にかけて、踊り子群像のほか、風俗画風の作品を多く手掛けるようになる。町で憂さ晴らしをする女たち、仕事ちゅうの女たち、そして湯浴みなどの日常生活の一コマを、スナップショット風に切り取った構図で描いた。「帽子店(Chez la modiste)」と題されたこの作品は、女性用の帽子店で品定めをする女たちを描いている。
「稽古中の踊り子(La leçon de danse Madame Cardinal)」と題されるこの絵は、副題からして、画面手前で新聞を読んでいる夫人を強く意識したものだ。この婦人がマダム・カルディナルなのだろう。どんな人物なのかはわからない。このバレー教室の関係者だとも、あるいは踊り子の母親とも言われる。庶民的な服装からして、踊り子の母親である可能性が高い。
「ダンスのレッスン(La Leçon de danse)」と題されたこの絵は、ダンスのレッスンの合間に一休みする少女たちを描いている。右手前の二人の少女は、脚の筋肉をほぐしたり、緊張をゆるめるために放心したりしている。画面中央で立っている少女は、和風の扇子を扇いで汗を沈めているのだろう。一方、画面の背景部分では、まさにレッスンに励んでいる少女たちが描かれている。
「ダンスの試験(Examen de danse)」と題されたこの絵は、ダンスの試験に備えて体調や身なりを整える二人の少女の緊張した様子を描く。彼女らの背後にいる二人の中年女は、彼女たちの母親なのだろう。娘たちの緊張ぶりに比較して、母親たちの表情はリラックスして見える。
メアリー・カサットはアメリカ出身の女流画家で、1870年代半ば頃に、ドガと親しくなった。彼女は当初ピサロのもとで、印象画風の絵を学んでいたが、ドガのパステル画を見て衝撃を受け、その指導を求めてドガに近づいてきたのだった。ドガは彼女に様々なアドバイスを与え、また印象画展への出展をすすめたりした。その上、彼女の絵を買ってやったり、彼女をモデルとした数多くの作品を描いた。
フェルナンド・サーカスは、1875年に結成されたサーカス。ユニークな建築物が人気を集めたという。ドガはその近代的な建築が気に入って、それを見るためにも足しげく通ったという。「フェルナンド・サーカスのララ嬢(Mademoiselle La La au cirque Fernando)」と題されたこの絵は、建築空間を表現しながら、それに女曲芸師の躍動的な姿を組み合わせたものである。
ドガは、踊り子たちが踊っている場面のほかに、休息している姿も数多く描いた。「休息する二人の踊り子(Deux danseuses au repos)」と題されたこの作品は、その代表的なもの。二人の踊り子が、稽古の合間に、稽古場の片隅で休んでいるさまを描いたものである。
「踊りの花形(L'étoile de la danse)」と題されるこの絵は、「ダンスの教室」と並んで、ドガの踊り子像としてはもっとも有名な作品。この絵をドガは、カンバスに油彩で描くのではなく、紙にパステルで描いた。この頃のドガは、パステルにはまっていたようである。
ドガは、1876年から翌年にかけて、モンマルトルのカフェ・コンセール「レザンバサドゥール」に足しげく通い、歌い手や客をモチーフにした一連の作品を作った。それらの作品は、モノタイプの上にパステルやグアッシュでハイライトをつけるという方法をとっていた。モノタイプとは、板などに描画したイメージを紙にプリントするもので、一回限りしかできないことから、モノプリントとも呼ばれる。モノとは、一回限りといった意味である。
1870年代のドガは、踊り子を描く一方、風俗画風の作品も手掛けた。洗濯女、カフェ・コンセールの歌手、娼婦といったものをモチーフにした。「アブサント(L'absinthe ・Dans un café))」と題されたこの作品は、そうした風俗画風の作品を代表するもの。
ドガは馬が好きで、若いころから各地の競馬場に赴いて馬をモチーフにした作品を多数制作した。それらはおおむねコンパクトな画面である。対象が動物なので、すばやくデッサンする必要上、大画面に仕立てることを控えたのであろう。
1873年頃、ドガは知り合いのバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールから、踊り子をモチーフにした作品を受注した。上の絵は、1874年の初めごろに完成して引き渡されたもの。その後ドガは、手直しのため買い戻した。その保障として別の作品を提供したようである。
「舞台上の二人の踊り子(Deux danseuses en scène)」と呼ばれるこの作品は、「舞台上のバレーのリハーサル」と同じ時期に、並行して制作されたと思われる。「リハーサル」のモデルのうち、画面右手奥の二人の踊り子が、この絵の中の二人の踊り子とほぼ同じポーズをとっている。
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