ニュー・オリンズからパリに戻ったドガは、再び劇場に通って踊り子の群像を描いた。その中で、「舞台上のバレーのリハーサル(Répétition d'un ballet sur la scène)」と呼ばれる三点の作品がある。一つはオルセーにあるグリザイユ風の作品で、これは1874年の第一回印象派展に出展されたという。他の二つはニューヨークのメトロポリタン美術館にあり、パステルと油彩で描かれている。
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1872年の秋、ドガはアメリカのニュー・オリンズに住む弟ルネの招きで、しばらくその地に滞在した。ルネは、母方の親戚をドガに紹介した。その折に、フランスでは有名な画家として知られているといわれたので、親戚たちはドガの絵に異常な関心を示し、かれの仕事の邪魔をしたばかりか、自分たちの肖像画を描いて欲しがった。そんな暮らしにドガはうんざりして、早くパリに帰って、好きなように絵を描きたいと思った。
ドガは舞台の上から踊り子を見るだけでは満足できず、楽屋や稽古場に立ち入って、そこで身近に踊り子たちを眺め、その生き生きとした表情を描きたいと思うようになる。「オペラ座の稽古場(Foyer de la danse a l'Opéra de la Rue le Peletier)」と題したこの絵は、そうした意図を込めた作品である。ドガは、知人のつてを使って、ル・ペルティエ街のオペラ座に立ち入る許可を得て、そこで踊り子たちをつぶさに観察することができた。
オペラ座の舞台を描いたドガは、踊り子に興味を持ったようで、以後踊り子をモチーフに選ぶようになる。1871年の作品「ダンス教室」は、小品ではあるが、当初から商品として制作されたものである。この頃のドガは、自分の絵の販売に力を入れており、当初から売ることを目的に絵を制作するようになっていた。販売は、画商デュラン=リュエルが担当した。
「オーケストラの楽師たち(Musiciens à l'orchestre)」と題するこの絵も、「オペラ座のオーケストラ」同様、知り合いのオーケストラ楽団の集団肖像画。「オペラ座」を完成させた後制作にとりかかり、三年後に完成させた。おそらくこれは、楽団の依頼によってではなく、自分の趣味から描いたので、時間に拘らなかったのだと思う。
ドガが舞台とか踊り子をモチーフにするのは1870年前後のことである。「オーケストラ・ボックスの楽師たち(L'Orchestre de l'Opéra)」と題するこの作品は、その最初のものである。ただし、この絵は「舞台の踊り子」には焦点をあてていない。踊り子は添え物あつかいで、主役はオーケストラ・ボックスの楽師たちである。
「若い婦人の肖像(Portrait de jeune femme)」と呼ばれるこの絵は、ドガの最も有名な作品の一つであり、かつ、近代美術史上婦人肖像画の最高傑作の一つとされる。ドガは若いころには、自画像を含めて数多くの肖像画を手がけた。生活に困っているわけではなかったので、金のために肖像画を描くということはせず、主として家族を喜ばせるために描いた。父親の威厳のある姿を描いたり、弟ルネの妻エステルの肖像をかわいらしく描いたものだった。
「サン・クルー公園の祭り(La Fête à Saint-Cloud)」と題されたこの絵は、フラゴナールの風景画の傑作。単なる風景画ではなく、お祭りの様子を加えた風俗画としての要素も併せ持っている。
「追憶(Souvenir)」と題されたこの作品は、女性のさりげない動作をスナップショット的に捕らえたもの。モデルは、フラゴナールの妻の妹マルグリット・ジェラールと推測されている。この女性をフラゴナールは自分の秘書として使っており、淡い恋愛感情を抱いていたと言われている。この作品には、そうしたフラゴナールの感情が投影されているようである。
「読書する娘(La Liseuse)」として知られるこの作品は、「霊感」と並んでフラゴナールの肖像画の代表作品。「霊感」の制作動機はわかっているが、こちらは不明。おそらくフラゴナール自身の気晴らしのために描かれたのであろう。モデルはわかっていない。肖像画というより、単に人物画といってよい。
「霊感(L'Inspiration)」と題されるこの作品は、フラゴナールの肖像画の傑作。フラゴナールは、幾人かいたパトロン達のために肖像画を描いたという。これは、かれのパトロンにして親しき友人アベ・ド・サン・ノンの肖像画と言われる。サン・ノンをモデルにしたものには、ほかに「想像上の人物」があり、またサン・ノンの兄をモデルにした「音楽」がある。音楽の制作年次は1769年であり、この「霊感」もその頃に描かれたものと考えられる。
「ぶらんこ(Les Hasards heureux de l'escarpolette)」と題されたこの作品は、フラゴナールの代表作であり、かれの最高傑作との呼び声も高い。これは、サン・ジュリアン男爵の依頼を受けて制作したものだが、たちまち評判を呼び、版画に印刷されて出まわったほどだ。
「水浴する女たち(Les Baigneuses)」と題されたこの作品は、年期の記載がないが、イタリア留学から戻って間もないころの作品と思われる。絵の雰囲気が、イタリア留学後の作品「 コレシュスとカリロエ」によく似ている。
フラゴナール(Jean Honoré Fragonard 1732-1806)は、ロココ美術最後の巨匠である。ロココ美術最大の特徴である優雅で絢爛で神話的なモチーフを描き、時代の好みに応えた。彼の全盛期は、ルイ16世の治世時代と重なっている。そのルイ十六世が体現していた時代の精神を美術の世界で表現したのがフラゴナールであった。そんなわけでフランス革命がおこり、ルイ十六世が首をちょん切られると、フラゴナールの時代も終わった。かれは最晩年に、アカデミーの幹部としての資格で、ルーヴル宮殿に住むことを許されたが、1805年にそこを追い出され、翌年に死んだ。
シャルダンは、晩年に肖像画を多く手掛けるようになる。それには視力が極端に低下したことが指摘されている。絵の具に含まれている金属類の影響らしい。そのため、写生が不如意になり、そのかわりとして肖像画に注力したようだ。その肖像画の多くをシャルダンは、油絵の具ではなく、パステルで描いた。パステルは油絵の具ほど有害ではないとされていかたらだ。
シャルダンは、キャリアのスタート時には静物画をよく描いたが、全盛期には風俗画に重点を移し、静物画はあまり手がけなくなった。ところが晩年になると、再び静物画に注力するようになる。シャルダン晩年の静物画は、構図的には非常にシンプルなものになり、色彩の暖かい雰囲気のものが多い。近代美術における静物画の伝統に直接つながるものである。
「食膳の祈り(Bénédicité)」と題されたこの作品は、シャルダンの風俗画の最高傑作と言うべきもの。シャルダンは、1740年に国王ルイ15世に謁見した際、これを献上品として持参した。この図柄そのものは、複数制作されており、その一部はすでに世間の評判になっていた。そこでシャルダンはその図柄で新しいものを制作し、国王に献上したと考えられている。
「独楽を回す少年(Garçon avec un haut)」と題したこの作品も、「トランプの城」同様に、肖像画的な風俗画とも、風俗画的な肖像画ともとれるものである。やはり、一人で遊びに夢中になる少年を描いている。
「トランプの城(Le château de cartes)」と題されたこの作品も、シャルダンの風俗画の傑作。ほとんど同じ構図の絵が複数残っている。中には向きが逆で、モデルが女性のものもある。この構図にシャルダンがこだわった理由はよくわからない。
シャルダンは、静物画とともに風俗画をも得意とした。「手紙に封をする婦人(Femme occupée à cacheter une lettre)」と題したこの作品は、シャルダンの風俗画の初期の代表作である。1940年のサロンに出展したが、完成したのは1933年のことだという。
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