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不安:ムンク

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「不安」と題するこの絵は、「叫び」と並んでムンクの代表作である。構図的にも「叫び」と良く似ている。赤い夕空を背景にして、湖にかかった橋の上を人々が歩いている。「叫び」の場合には、一人の人物に焦点が当てられていたが、この絵の場合には、群集がモチーフになっている。群集の心を捉える不安、それがこの絵のテーマだ。

マドンナ:ムンクの不安

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1890年代のなかばに、ムンクは「生命のフリーズ」と称する一連の作品を制作する。「マドンナ」と題するこの絵は、そのシリーズの中核となるものである。この絵を通じてムンクは、生命と死を二つながら表現しようとしたといわれるが、どこに生命と死を読み取るべきか、さまざまな解釈がなされてきた。

思春期:ムンクの不安

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「思春期と題したこの絵を、ムンクは1895年に公開したが、たちまち厳しい批判にさらされた。批判はスキャンダルに発展し、ムンクはノルウェーの批評界から、集中攻撃を浴びせられた。少女の裸体を描くというのは、当時のノルウェーでは、恥ずべき猥褻な行為であり、頽廃の極みだったのだ。後にムンクの作品は、ナチスによって「頽廃芸術」の烙印を押されたが、その主な理由がこの作品にあった。

叫び:ムンクの不安

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ムンクといえば条件反射的に「叫び」が思い浮かぶほど、この絵はムンクの絵の中でももっともインパクトの強い作品だ。精神世界を表現することを最大のコンセプトとしたムンクにとって、人間の叫びはもっとも精神性を感じさせる事柄だったのだろう。この絵の中の人物の表情を見ていると、叫び声を通じて彼の内面がそのままむき出しにされているように感じられる。

吸血鬼:ムンクの不安

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「吸血鬼」と題したこの絵のモチーフは、男の血を吸う女である。この絵は一見すると、女が男を抱擁しているように見えるのだが、実はそうではなく、女が男の首筋に歯を立てて、男の血を吸っているのである。

声:ムンクの不安

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「声」と題するこの絵は、森の中で、月光を反射した湖を背後にして立つ女性を描いたもの。この絵の特徴は、モチーフの女性が朦朧としたイメージになっていることと、それに対比して背景が強い色価で描かれていることだ。主な目的は神秘的な風景を描くことで、女性はその神秘性を目出させる為の小道具だといわんばかりである。

病室の死:ムンクの不安

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ムンクの家族は、両親とムンクほか四人の子ども、計七人からなっていた。そのうち母親が、ムンクが五歳のときに、姉のソフィエが、ムンクが十三歳のときに亡くなった。こうした家族の死は、ムンクや残された家族に大きな影響を及ぼした。特に父親の悲嘆ぶりは甚だしかった。そうした悲哀がムンクに、不安に親和的な雰囲気を付与するようなった原因だろうと考えられる。

メランコリー:ムンクの不安

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「メランコリー」と題するこの絵は、自然の中で絶望する男のイメージを表現したもので、1890年代の初期に、ムンクがたびたび描いたモチーフだ。このヴァージョンでは、男の頭部だけが絵の右手片隅に描かれているが、別のヴァージョンでは、立ったままうなだれた男とか、背中を丸めて座っているものもある。

カール・ヨハン街の夕べ:ムンクの不安

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ムンクは、印象派や後期印象派の画家を始め、さまざまな画風を吸収しながら自分の作風を確立していった。その画風変遷のプロセスを物語るものとして、カール・ヨハン街をテーマにした三点の作品が上げられる。1889年の「カール・ヨハン街の軍楽隊」はマネの強い影響がうかがえるし、1891年の「春の日のカール・ヨハン街」はスーラ風の点描画法で描かれている。そしてここに紹介する1892年の「カール・ヨハン街の夕べ」に至って、やっと今日ムンク風といわれる作風に近づいているわけである。

ムンクの不安:絵の鑑賞と解説

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ムンクといえば誰しも、「叫び」と題された一点の絵を思い浮かべるだろう。真赤に染まった空を背景にして、一人の男が橋を渡ってこちらに向かっている。男の顔は大きくゆがみ、両手を耳のあたりに当てている。その表情には恐怖が読み取れる。男が恐怖のあまりに叫んでいる、そういう切迫感がある作品だ。

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「未開の物語(Contes barbares)」と題するこの絵も、強い精神性を感じさせる。この絵を通じてゴーギャンは、未開であるポリネシアの神話的世界と並んで、アジア的な宗教性とか、ヨーロッパ的な文明とかを併置することで、人間の営みの意味を、見るものに考えさせようとしたようである。

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マルキーズ諸島では、魔法使いあるいは呪術師の社会的な地位が高かった。彼らは神話の神々を呼び出したりするほか、病気の治療も行った。「団扇を持つ女」のモデルであるタホタウアは、そうした呪術師の妻だった。「ヒヴォアの魔法使い」と題したこの絵の中の魔法使いとは、もしかしたらタホタウアの夫かもしれない。

呼び声:ゴーギャン、タヒチの夢

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タヒチでの自殺騒ぎと、その副産物として「我々はどこから来たか・・」を制作して以後、ゴーギャンの絵は思弁的な雰囲気をたたえるようになったのだったが、その傾向はヒヴォアに移って以降、ますます強くなっていった。彼の最後の作品群には、非常に精神的な要素を感じさせるものがある。

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ゴーギャンはヒヴォア島にやってくると早速、十五歳の女性マリー・ローズ・ヴァエオホを妻にして、子どもまで生ませたが、彼女をモデルに絵を描くことはなかった。ゴーギャンがモデルとして選んだのは、トホタウアという女性だった。彼女は医師兼呪術師の妻だったが、まだ若く、魅力的な赤毛をしていて、ゴーギャンの気をそそった。ゴーギャンはこの女性を妻には出来なかったが、モデルに採用することで、いささかの満足を得たようだ。

浜辺の騎手:ゴーギャン、タヒチの夢

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これは、ヒヴォア島の海岸を疾走する騎手の一団を描いた作品。マルキーズ諸島やタヒチなどポリネシアの島々には、もともと馬はいなかった。ヨーロッパ人たちが船で島に持ち込んだのだ。持ち込まれた馬の一部は野生化して繁殖した。土地の原住民たちは、そうした野生の馬を飼いならして、このように乗馬を楽しむことを覚えたのだ。

浅瀬:ゴーギャン、タヒチの夢

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1901年の9月に、ゴーギャンはタヒチの北東1500キロにあるマルキーズ諸島のヒヴォア島にやって来た。そこでゴーギャンは白人社会の一部から熱烈な歓迎を受けた。彼らはタヒチの官僚制や中国人社会をゴーギャンが(レ・ゲープ上で)痛烈に批判したことに敬意を表したのだ。

タヒチ牧歌:ゴーギャン、タヒチの夢

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1899年から1900年頃のゴーギャンは絵の制作意欲が低かった。その代わりに彼が情熱を燃やしたのはジャーナリズムだった。彼は「レ・ゲープ(すずめ蜂)」という新聞の編集者になって、現地の白人社会の腐敗振りを攻撃したり、中国人への嫌悪感をむき出しにして黄禍論を展開したりと、わけのわからぬことに熱中した。わけのわからぬ、というのは、芸術家としての立場をわきまえず、無意味なことがらに現を抜かしたという意味である。

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「三人のタヒチ人」と呼ばれるこの絵は、「おしゃべり」と呼ばれることもあるが、絵を見る限りおしゃべりに興じている感じは伝わってこない。その最大の理由は、三人が互いに視線を合わせていないように見えるところにある。

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「マンゴーの花を持つ二人のタヒチ女」と呼ばれるこの絵は、ゴーギャンの肖像画の中では非常にユニークなものだ。ゴーギャンが人間を描くときには、何らかの意味をそこに込めようとして、わざとらしいポーズをとらせることが多かったのだが、この絵にはそうした意図は全く感じられず、女たちは自然な様子で立っている。彼女らは観客の視線を気にすることなく、自分自身、あるいはとなりの人にだけ関心を払っている。

白い馬:ゴーギャン、タヒチの夢

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1897年の自殺未遂からゴーギャンは比較的早く回復したが、経済的な困窮が深まり、日々の糧を得る為に、現地の役所に雇われてつまらない仕事をするハメになった。だがそのうち、パリから「我々は何処から来たのか」が売れたという知らせと、いくばくかの金が届いた。そのことで気をよくしたゴーギャンは、再び制作の意欲が湧き上がるのを覚えた。「白い馬」と呼ばれるこの絵は、そんな折のゴーギャンの傑作である。

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