美を読む

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ロレンツォ・モナコ(1370?-1425)のモナコとは修道士という意味で、かれの本名はピエロ・ディ・ジョヴァンニといった。修道士と綽名で呼ばれたのは、1391年にフィレンツェのカマルドリ修道会に入ったため。後年は脱会して画業に専念したが、相変わらずモナコと呼ばれた。

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ドナテッロ(1386?-1466)は、若年の頃ブルネレスキとともに彫刻制作に携わったことがあり、ブツネレスキから大きな影響を受けた。その影響とは、人物をリアルに表現することにあった。ドナテッロはルネサンス時代の彫刻家のなかで初めてリアルな人物像を制作した作家として、以後のルネサンス美術に大きな影響を及ぼしたのである。

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フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)は、ジョットより一世紀のちに活躍した芸術家であり、ジョットをルネサンスの先駆者とすれば、ルネサンス芸術の本格化を告げる人というべきである。初期ルネサンスの最初のランナーと位置付けられる。彼の業績は、主として建築の分野で成果を上げたのであるが、その活動の初期には、絵画や彫刻の分野でもめざましい業績をあげた。彼の影響は、絵画においてはマザッチョを通じて、彫刻の分野ではドナテルロを通じて、後世に伝えられた。

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日本では単にジョットとして知られるジョット・ディ・ボンドーネ(1267-1337)は、十三世紀末から十四世紀初期のイタリアで活躍した画家で、ルネサンス美術の先駆者といわれている。ジョットの時代のルネサンス美術を、プロト・ルネサンスというが、その最大の特徴は、人間を人間らしく描くということにあった。人間を人間らしく描くという点では、すでにギリシャ・ローマ美術にその特徴を見ることができるわけであるが、中世になると、人間の描き方はすこぶる象徴的なものになっていた。つまりリアリズムを無視したシンボリックな美術表現が支配していたのである。それを百八十度ひっくり返して、リアルな美術表現を追求したという点では、ギリシャ・ローマ時代への回帰ということもできるわけで、そのことからルネサンス美術は文芸復興の美術ともいわれた。

ルネサンスは14世紀のイタリアに始まった文化現象を現わす言葉で、フランスの歴史家ミシュレが一時代を象徴する言葉として用いたのが始まりだ。その後、有名な歴史家ブルグハルトが、「イタリア・ルネサンスの文化」を著し、ルネサンスの概念を普及させた。日本では文芸復興と訳されることが多いが、文芸の分野にとどまらず、文化のあらゆる領域にまたがるものである。美術の分野も例外ではない。むしろ美術の分野こそルネサンス文化の華といってよい。

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「花を摘む乙女」と呼ばれるこの絵は、ポンペイ遺跡の一つで、スタビアから出土した壁画の一部である。花を摘みながら歩む乙女の後姿を描いている。フレスコ画である。二千年以上前のものだとは思えないほど、鮮やかな色彩を残している。

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ラオコーン像は、1506年にローマ皇帝ネロの宮殿跡近くから出土した。その際には、ラオコーンの右腕と、息子たちのそれぞれの右手は欠けた状態だった。その後、ラオコーンの右腕と思われるものが出土したので、それをもとに復元したものが、現在の形である。

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ミロのヴィーナスは、1820年にエーゲ海のメロス(ミロ)島で、一農夫によって発見された。その後、オスマントルコ政府による没収を経て、フランス人の手にわたり、ルーブル美術館に収められた。東京に一度来たことがあるが、日本以外の外国に渡ったことは、ほかに一度もないという。

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ヘレニズム時代にも、アッティカの伝統は絶えることはなかった。スコパス派の人々がクラシック風の彫刻を作り続けていた。この「サモトラケのニケ」像は、スコパス派の人によって作られた、クラシック風の美術の傑作である。

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ヘレニズム時代には様々な王国が併存し、それぞれ独特の美術が花開いたが、もっとも有力だったのは、ペルガモンを中心とするリアリズムの美術だった。上の写真は「死にゆくガラテア人」といって、リアリズム美術の代表作である。戦いで瀕死の傷をおったガラテア人が、いまにも死にゆくところを、リアルに表現している。

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アレクサンドロス死後、東アジアから北アフリカにかけていくつかの王朝ができたが、なかでも小アジアにあったペルガモンはもっとも栄えた王朝だった。この王朝では、ギリシャの文化と東アジアの富とが結びついて、豪華絢爛な美術がもたらされた。ペルガモン神殿は、それをもっともよく表現している遺跡だ。

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紀元前四世紀の後半に、マケドニアからアレクサンドロスが登場して、宿敵ペルシャを破ったほか、西アジアから北アフリカ一帯を征服して、ギリシャを中核とした王朝を創出した。アレクサンドロス自身は、若くして死んだが、かれが死んだ後も、かれの遺産としてのギリシャ風王朝は各地に残り、そこに、ギリシャ風の分化が花開いた。この文化を、ヘレニスティック文化あるいはヘレニズムと呼んでいる。ヘレニズムの文化は、紀元前31年に、ローマによってギリシャが属州に組み込まれるまで続いた。

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スコパスはプラクシテレスと同時代に活躍し、一緒に仕事をしたこともある。プラクシテレスにも感覚的な傾向はあったが、スコパスはさらに強く感覚的な表現をした。かれは、小アジアに旅行した際、ペルシャの提督マウソロスや、その妻アルテミシアの肖像を作ったが、どちらも感情のこもった作風である。

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紀元前四世紀の前期から中期にかけてのギリシャ美術は、後期クラシック美術と言われる。この時代のギリシャは、ペロポネソス戦争(BC432-404)の後の混乱期にあたり、やがてアレクサンドロスによって統一されるのであるが、そうした政治的混乱をよそにするかのように、美術の分野では、感情表現が豊かな、感覚的な新しい美術が開花した。

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ポリュクレイトスは、ミュロンより年少で、クラシック美術を更に奥行きの深いものにした。かれの代表作「ドリュフォロス(槍を持つ人)」は、カノン(規範)を体現したと言われたほどだ。カノンとは、人体の理想的な比例を意味する言葉で、かれの著作の題名だった。

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紀元前五世紀の前半に花開いたクラシック美術は、ミュロン、フェイディアス、ポリュクレイトスの三人によって代表される。このうちミュロンは最年長で、一気にクラシック美術を完成させた人と評価されている。ミュロンの原作は残っていないが、その作風を伝えるコピーが二点伝わっている。そのひとつが、この「円盤を投げる人」である。

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エレクティオン神殿は、パルテノン神殿完成後に建築された。やはり、アクロポリスに立っていた古い神殿を除却して、新たに建築されたものである。全体がイオニア様式でまとめられている。この時代の神殿の建築様式には、ドリス式、イオニア式、コリントス式の三つの様式があった。ドリス式が一番シンプルで、コリントス式が最も新しく、また装飾的だった。

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ギリシャは、紀元前449年にペルシャとの長い戦争に最終的に勝って、アテネを中心にして、黄金時代というべき時期に入った。その時期のアテネをリードした政治家が、有名なペリクレスである。ペリクレスは、パルテノン神殿の再興など、美術の興隆にも貢献した。そうして花開いた美術を、クラシック様式の美術と呼んでいる。

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デルフォイから出土したブロンズ像「デルフォイの馭者」は、「ポセイドン像」と並んで、厳格様式の傑作である。シシリアのギリシャ人植民都市ゲラの君主ポリザロスが、カルタゴ軍との戦いに勝利した記念に、デルフォイの神域に奉納したものである。ポセイドン像の奉納と同年のことだったと言われる。

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紀元前六世紀末から同五世紀半ば頃までは、アルカイック美術からクラシック美術への過渡期として、厳格様式の時代とされている。この様式の特徴は、アルカイックの微笑が消えて、男女ともに、重々しい威厳を感じさせる作風になったことである。その威厳を以て厳格様式といったわけであろう。

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