美を読む

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紀元前六世紀の、アルカイック美術の時代に、アッティカ地方を中心にして、黒絵式陶器が盛んに作られた。黒絵というのは、壺の側面に施された図柄のことをいう。輪郭線に囲まれた部分を黒い顔料で塗りつぶし、それが乾かないうちに、鋭い筆で線を描くことで、ネガフィルムのような効果を演出したものだ。

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コレー像が着衣であるのに対して、若い男性をあらわしたクーロス像は、裸体である。男性を裸体で表現することは、マンティクロスの時代から始まっていたが、アルカイックの時期に本格化した。そのことの背景には、競技によって鍛えられた美しい肉体に、美の理想を認めたギリシャ人の感性が働いている。

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アルカイック美術という概念は、クラシック美術との対比から作られたものである。紀元前五世紀に花開いた美術をクラシック美術と呼び、ギリシャ美術の完成された形とする考え方が優位になったときに、それ以前の段階の美術を、一段劣る未熟なものという意味でアルカイック美術と呼んだのである。しかし、今日では、アルカイック美術を未熟な段階の美術とする考えは少数派である。アルカイック美術には、それにふさわしい意義を認めるべきだというのが、今日の主流の考えである。

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腰が極端にくびれた人物像の典型が、このマンティクロスのアポロン像である。テーバイから出土したこのブロンズ像は、先に見た壺の文様における人物のパターンを立体的に表現したものだ。

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紀元前1200年頃をピークに、印欧語族の一分派であるドリス人がギリシャ半島に南下してきて、先住民族のミケーネ文化を完全に滅ぼした。そのことで、ギリシャは一気に野蛮な時代に逆戻りしたといわれる。ドリス人に追われた先住民族のアカイア人たちは、アッティカ地方や小アジアに移動し、そこでイオニア文化と呼ばれる新たな文化を作り始める。ギリシャはこのイオニア文化とドリス文化とが対立しながら新たな時代を作り上げてゆく。
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ミケーネ文明の遺跡はドイツ人シュリーマンによって発掘された。かれは1870年代にミケーネを、1880年代にティリンスを発掘し、ミケーネ文明について多くの知見を得た。ミケーネにおいては、城塞の獅子門を発掘し、その奥に数多くの副葬品を伴なった墳墓を発見した。その墳墓をかれは、ギリシャ神話の中のミケーネ王アガメムノンと、その妃カサンドラのものと信じたが、実際には、アガメムノンの時代よりはるかに古い時代のものとされている。

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クレタ人の美術は、明るく開放的で、海のように流動的だと言われる。その点では、陰気で重厚さを重んじるギリシャ人とは正反対だと指摘される。実際、クレタ美術を見ると、非常におおらかな感じを受ける。一方、そこには彼らの信仰が込められてもおり、牡牛や蛇などのイメージを、美術の中に盛り込んでいる。

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クレタ文明の一端は、クノッソス宮殿の遺跡を通じて垣間見ることができる。この宮殿は、ギリシャ神話の英雄テーセウスの怪物退治の舞台となったところだ。神話によると、この宮殿は迷路のような複雑な構造で、その一番奥の部分に、牛の頭をもった怪物ミノタウロスがいた。テーセウスはこのミノタウロスを退治するわけだが、それはギリシャ人たちによるクレタ文明破壊を象徴しているものと考えられる。

今日ギリシャ美術と呼ばれているものは、古代ギリシャに花咲いた美術だ。古代ギリシャは、美術のみならず、哲学や科学技術を含めて、さまざまな方面においてめざましい功績をあげ、ヨーロッパ文明の揺籠として、また理想的な手本として、ヨーロッパ人に重んじられて来た。

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17世紀には、従来のイコンの概念を破って、リアルな画風のイコンが作られた。モスクワのクレムリン内にアトリエをもっていた職業画家たちが、美術品としての絵画を描くかたわら、イコンを制作し、そのイコンをリアルな絵のように表現したのである。かれらは、リアルな絵のほうが本物に近いのであるから、イコンとしての効用も優れていると理屈をつけて、リアルな画風のイコンを制作した。

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「創世記」には、アブラハムとサラの夫婦が三人の謎めいた人物を迎えるという記述になっているが、このイコンはその記述にもつづいている。アブラハムとサラが、三人の天使を食卓に座らせ、食事を供している様子を描いたものだ。

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これもルブリョフの聖三位一体を模倣したイコン。三人の天使のポーズはルブリョフのそれとほぼ同じだが、背景がかなり異なっているように見えるのは、右手上方にごちゃごちゃと加えられたイメージのせいだろう。その左手に見える修道院の建物は、ルブリョフの図を踏襲している。

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アンドレイ・ルブリョフの聖三位一体のイコンは大きな影響力を及ぼし、15世紀から16世紀にかけて夥しい模倣品が作られた。それにはロシア正教の百章会議が、模倣すべき手本として信徒たちに示したという動きがあった。この聖三位一体のイコンも、そうした模倣品の一つである。

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聖母のイコンは各地でさまざまな奇跡を起こしたと信じられていたが、そうした奇跡の有様を、聖母のイコンと並べて展示し、崇拝する信仰のありかたが16世紀以降盛んになった。これは、ウラジーミルのイコンを中心にして、そのイコンが起こした奇跡をそれぞれ描いたイコンを並べたもの。

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「カザンの聖母」は非常に有名なイコンで、ロシア史の様々な舞台の立役者となったとされる。すなわち、1612年の対ポーランド戦争、1709年の対スウェーデン戦争、1812年の対ナポレオン戦争で、それぞれ奇跡を起こし、ロシアを勝利に導いたとされる。

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これもラドネジの聖セルギーを描いたイコン。17世紀の中頃に作られたもの。前に紹介した聖セルギーのイコンとほぼ同じような構図であり、中央に聖セルギーを配し、その周囲に彼の生涯の出来事を描いている。

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ラドネジの聖セルギーは14世紀に実在した修道僧で、ロシア正教においては、もっとも重要な聖人として崇敬を集めている。ロシア正教では、多くの聖人がイコンに描かれてきたが、そのなかで聖セルギーは最も多く登場する。いわばロシア正教を代表する聖人と言ってよい。

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アンドレイ・ルブリョフの「聖三位一体」は、ロシアのイコン史上で決定的な役割を果たした。このイコンが現れて以降、類似した図柄のイコンが、ほとんど無数に作られたのである。

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アンドレイ・ルブリョフは15世紀初頭に活躍した人で、修道僧でありかつイコン作者であった。彼の名は、ロシアのイコン史上もっとも高名なこともあり、さまざまなイコンが彼の作だと伝えられてきた。しかし今日ルブリョフの作と断定されているものは、「ズヴェニゴロドのデイシス」の一部と「聖三位一体」だけである。

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これはモスクワのクレムリン内にあるブラゴヴェシェンスキー大聖堂のイコノスタシス。イコノスタシスとは、イコンで覆われた壁という意味で、その言葉通り聖堂内の壁がイコンによって覆われている。

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