美を読む

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聖家族のエジプト逃避は、ジョット以来多くの画家が取り組んで来たテーマだ。ロバに乗った聖母子と、ヨハネの組合せというのが多いが、ほかに何人かの人間を配する構図もある。また、聖家族が休息しているところを描いたものもある。カラヴァッジオは、休息する聖家族の前に、天使があらわれて、かれらを慰藉するために楽器を弾いているところを描いた。こういう構図は珍しい。おそらくカラヴァッジオの独創ではないか。

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カラヴァッジオは、ダルピーニのもとにいた時、多くの人間と知り合いになった。画商のヴァランタンもその一人だった。カラヴァッジオをデル・モンテ枢機卿につなげたのもヴァランタンだとされる。ヴァランタンはカラヴァッジオの多くの作品を売りたてる一方、売れる絵の制作を強く勧めた。当時よく売れた絵と言えば、宗教画だった。ジュビリーを控えて、需要が多かったのである。

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「バッカス」は、若者をモチーフにしたカラヴァッジオ初期の風俗画の仕上げのような作品である。これ以後カラヴァッジオの作風は、風俗画から宗教画の方へと移っていくのである。この「バッカス」は、デル・モンテ枢機卿が、友人のトスカーナ大公にプレゼントすることを目的に描かせたもの。バッカスをモチーフにしたのは「病めるバッカス」以来のことだが、この二つを比べて見れば、長足の進歩を見て取ることができる。

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「リュートを弾く人」は、カラヴァッジオの初期を代表する傑作である。これには二つのヴァージョンがある。上の絵は、サンクト・ペチェルブルグのエルミタージュ美術館にあるもので、デル・モンテ枢機卿の友人、ヴェンチェンツォ・ジュスティアーニの注文を受けて描いたもの。リュートを弾く若者の表情をスナップ風に描いた風俗画である。

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「女占い師」は、ローマの粋な若者がロマの女占い師に手相を見て貰っているところを描く。女は手相を見ると見せかけて、若者の手を握り、指輪を抜き取ろうとしているようにも見える。そんなところから、この絵は、「いかさま師たち」と似たような題材であり、描かれたのも同時期ではないかとの推測もなされたが、デル・モンテ邸に移ってからの作品だという解釈が有力である。

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1595年から数年間、カラヴァッジオはデル・モンテ枢機卿の世話になる。枢機卿の屋敷は、ローマのナヴォーナ広場の東隣にあった。パラッツォ・マダーマという広大な邸宅だ。ここにカラヴァッジオは、弟分の美少年で、男色相手と目されるマリオ・ミンニーティとともに移り住んだ。この邸宅滞在中に、カラヴァッジオは一流の画家としての名声を確立していくのである。

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カラヴァッジオは、プッチのもとを飛び出したあと、二三の画家のところに寄食したり、放浪同然の暮しを経て、カヴァリエール・ダルピーノの門人になった。ダルピーノは、カラヴァッジオよりわずか三歳年長だったが、当時はすでに一流の画家として、ローマでは有名であった。折からローマでは西暦1600年のジュビリーを控えて、方々で教会の建築や都市の改造が進んでいて、それらを飾るための絵画の需要が高まっていた。ダルピーノのもとには、大勢の注文が舞い込んでいたようだ。そんなダルピーノにとって、カラヴァッジオもそれなりの戦力になったはずだ。もっともカラヴァッジオは、ダルピーノが得意としたフレスコ画は、苦手であった。

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「トカゲにかまれた少年」も、「病めるバッカス」とともにカラヴァッジオの最初期の作品であり、おそらくプッチの家に寄食していたころに描いたものだろう。この絵にも、まだ稚拙さが感じられる。全体が暗い印象で、人物像がその暗さのなかに沈み込んで見えるほど、めりはりのはっきりしない絵である。しかし、なんとなく気迫のようなものは感じられる。

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カラヴァッジオの最も早い時期の作品としては、「病めるバッカス」と「トカゲにかまれた少年」があげられる。どちらも、ローマに出て来てすぐあと、おそらく叔父のとりなしで、プッチという男のもとに寄食していた頃の作品だと思われる。このプッチという男は、教皇シクストゥス五世の姉の家令であったが、非常に吝嗇で、カラヴァッジオを召使としてこき使う一方、ろくなものを食わせてくれなかった。それでカラヴァッジオはプッチのことを、「サラダ殿下」と綽名した。サラダばかり食わされたからである。

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カラヴァッジオ(Caravaggio 1571-1610)はバロック美術の先駆者として、レンブラント、ベラスケス、フェルメールといった画家たちに多大な影響を与えた。また、徹底したリアリズムの画風は、バロック美術を超えて、近代美術に決定的な影響を及ぼした。美術史上、時代を画した偉大な画家といえる。

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「浴女たち Les baigneuses」と題するこの大作は、ルノワールの遺作となったもので、かれはこの絵を、死の直前まで描いていたという。雄大な自然の中で、豊満な裸体をさらす裸婦のテーマは、最晩年のルノワールが好んだもので、この作品は、そんなルノワールの集大作といってよい。

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「ほどけた髪の浴女(Baigneuse aux cheveux dénoués)」と呼ばれるこの絵は、ルノワール晩年の傑作である。ルノワールは、1890年代に画家としての名声がとどろきわたるようになり、それに伴って経済的にも豊かになったので、自由に自分の好きな創作に身を打ち込むことができるようなった。そんなルノワールがもっとも熱心に打ち込んだのが裸婦の表現だった。

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「眠る女 La dormeuse」と題したこの絵は、ソファによたれかかって転寝をしている若い女性を描いている。ルノワールの絵の中の女性は、あまり露骨な官能を感じさせないのだが、この絵の中の若い女は、例外的に官能を感じさせる。

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1890年代に円熟期を迎えたルノワールは、数多くの裸婦像を描いたが、中でもこの「長い髪の浴女 Baigneuse aux cheveux longs」はもっとも完成度が高い。腰のあたりまである長い髪を垂らしながら、一人の少女がいまにも水を上がろうとする一瞬を描いている。ルノワール独特の、スナップショット的な、動きを感じさせる絵だ。

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晩年のルノワールは、浴女を始め裸婦を好んで描いた。ここではそんな裸婦像のいくつかを見てみたいと思う。これは、「座っている浴女 Baigneuse assise」と題した作品。自然のなかで、自分自身の内面に沈潜しているような少女を描いている。画面に水は見えないが、おそらく沐浴中なのだろう。肌がつやつやとして、あたかも沐浴したばかりのように見える。

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1880年代の後半に、ルノワールはベルト・モリゾを通じて、詩人のステファヌ・マラルメと知り合った。マラルメは、画家たちと懇意にしていて、マネに肖像を描いてもらったりしていた。そのマラルメが、ルノワールを高く評価し、彼の作品を国立博物館に飾ってもらおうと思い、国立美術学校の校長アンリ・ルージョンに働きかけた。ルージョンは、その旨ルノワールに申し出たが、ルノワールは,自分はまだその器ではないと言って、謝絶していた。

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「草束を持つ少女(Petite fille à la gerbe)」と題した1888年のこの作品も、ルノワールの晩年の最初を飾るものだ。田園地帯の中で、刈り取った草の束を抱える幼い少女を描いたこの絵は、あふれるような色彩感を売り物にしている。

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1888年からルノワールの長い晩年が始まる。晩年のルノワールは、アングルを通して確立したはっきりした輪郭に、豊かな色彩、それも燃えるような色彩を重ねるという、今日ルノワールの作風を特徴づけると思われているものを表現するようになった。ルノワールはその表現スタイルを用いて、多くの裸婦像を描いたのである。

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アングルに学ぼうとしてルノワールは、アングルがもっとも得意とした裸婦像に取り組むようになった。晩年のルノワールの傑作は、大部分が裸婦を描いたものである。その最初の傑作が、「浴女(Les grandes baigneuses)」である。この大作をルノワールは、1885年に取り掛かってから、ほぼ2年かけて完成させた。完成させた作品は、ジョルジュ・プティの画廊で催された「国際絵画彫刻展」に出品した。プティは、ルノワールの保護者だったデュラン・リュエルのライバルの画商だった。

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ルノワールは意識して印象派から脱却しようとし、新たな画風を模索したが、1883年頃には、ある種のスランプに陥ってしまった。その頃の手紙の中で、自分には絵も描けなければ、デッサンも描けないといって、嘆いて見せた。一応、アングルを目標とはしていた。イタリアで古典主義の魅力に目覚めたルノワールにとって、アングルはフランスの古典主義を代表する画家に思われたからだ。

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