セザンヌは田舎の一軒家を好んで描いた。自分の家を描かれた人の中には、家にも肖像権があるといって訴えるものもいたという。メゾン・マリアと呼ばれるこの家の所有主は、家の名称からしてマリアという人なのだろうが、詳しいことはわかっていない。また、その人がセザンヌを訴えたという事実もない。
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「パイプをくわえた男(Homme à la pipe)」と題されたこの絵は、アレクサンドル親爺と呼ばれた庭師をモデルにしたもの。この庭師は、「カード遊びをする人々」シリーズで、いずれも左端に描かれた人物である。すべてを通じて、同じ帽子をかぶり同じパイプをくわえている。セザンヌはこの庭師と縁が深かったようだ。
セザンヌの「カード遊びをする人々」のシリーズのうち、これは第二のバージョンと呼ばれているもの。第一のバージョンでは五人の人物を配していたが、これはそのうち少年をのぞいて四人の男が描かれている。四人の男たちは、前作よりも狭い範囲に配されている。また、カードをいじる三人の男たちが、画面の中心付近に配されているので、構図的には安定感が増している。
セザンヌは、「カード遊びをする人々」と総称される一連の絵を制作した。制作時期は厳密にはわからないが、1890年から1892年の間と推測される。全部で五つあり、そのうちの三点は二人の男がカードをいじる図柄であることから、同じ作品の三つのバージョンとされることもある。この五つのなかで、最も大きな画面は五人の男が描かれているもので、おそらくこれがオリジナルの作品であり、ほかの四点はこの作品をもとにして制作されたものと考えられる。
セザンヌは、サン・ヴィクトワール山をモチーフにした絵を80点も描いた。秀作といえるものは、1880年代半ばから1900年代半ばまでのほぼ十年間の間に描かれた。1890年の作品(上の絵)は、南側からの眺めを描いたもので、セザンヌの一番好んでいた構図である。日があたって山が明るく見えるからであろう。
「プロヴァンスの家(Maison devant la Sainte-Victoire près de Gardanne」と称されるこの絵は、後期のセザンヌの画風がもっとも典型的な形であらわれた作品。荒々しいブラシワーク、色彩の強烈な印象、遠近法にこだわらぬ構図など、かれの後期の画風を特徴づける要素が強く見られる。
セザンヌはあるイタリア人少年をモデルにした絵を四点描いた。1888年頃のことだ。そのうち最も有名なのが「赤いヴェストの少年(Le Garçon au gilet rouge)」と題されたこの絵だ。他の三点も、赤いヴェストを着た少年を描いているが、ポーズはそれぞれ違う。それらはみなアメリカの博物館にある。
この絵の中の少年は、床几のようなものに腰掛け、テーブルの上に肘をのせてなにやら瞑想している。その雰囲気がなんともいえない。そこがこの絵を、セザンヌの肖像画を代表する存在にした所以だろう。セザンヌの肖像画の代表たるのみならず、油彩の肖像画のもっともすぐれた作品の一つに数えられる。
伝統的な画法からまったく離れた、セザンヌ特有の画法を感じさせる。遠近法をほとんど無視し、また明暗で立体感を表現しようともしていない。影らしきものはあるが、それは立体感の演出とは無縁である。あくまでも二次元の平面として構成されている。その二次元の平面のなかで、テーブルもカーテンも実際の形態とは別な形に再構成されている。
(1888-1890 カンバスに油彩 80×64.5㎝ チューリッヒ、ビューリー財団)
セザンヌがオルタンス・フィケと同棲を始めたのは1870年代半ばのことだが、正式に結婚したのは1886年のことだった。自分の死期の近いことをさとった父親が、孫のことを思って息子たちの結婚を許す気になったのだった。息子たちの結婚の直後、父親は死に、多額の遺産を残した。そのためセザンヌは経済的な基盤が強まった。
マルディ・グラ(Mardi gras)と題されたこの絵は、副題に「ピエロとアルルカン」とあるように、コメーディア・デ・ラルテのキャラクターをモチーフにしたもの。マルディ・グラは謝肉祭に関連する行事で、「肥沃な火曜日」を意味する。その行事の一環として、コメーディア・デ・ラルテのキャラクターが動員された。いまでいえば、さしずめディズニーランドのミッキーマウスのようなものであろう。
左手の白い衣装がピエロ、右手の市松模様がアルルカン。衣装はキャラクターの一部として決まっていた。アルルカンは、アクロバティックな演技をし、ピエロは言葉で人を笑わす。この絵からも、そうしたキャラクターの雰囲気が伝わってくる。
ロシア人シチューキンのコレクションだったものが、10月革命時にボリシェビキに接収され、国立美術館に移管された。
(1888-1890 カンバスに油彩 102×81㎝ モスクワ、プーシキン美術館)
モン・サント・ヴィクトワールは、セザンヌの故郷エクス・アン・プロバンスにある山。この山をセザンヌは何度も描いている。数十点にのぼる。1880年代に多く描いた。この絵(La Montagne Sainte-Victoire et le viaduc de la vallée de l'Arc)はその一つ。サント・ヴィクトワール山と、その前を流れるアルク川、川に係る高架橋をモチーフにしている。
この高架橋は鉄道線路のためのもので、エクスとマルセーユを結んでいる。エクスの街が、画面左手に見える。サント・ヴィクトアール山はエクスの町の東側にある。だからこの絵は、町の西側から見た景色である。かなり遠い距離からの眺めであろう。
高い樹木を画面中央に配するのは大胆な構図である。ふつうは嫌われるところで、かりに現実にそこにあったとしても、別の形で表現されるものだ。セザンヌの風景画の代表作の一つである。
(1882-1885年 カンバスに油彩 65.5×81.7㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
セザンヌは、故郷のエクス・アン・プロヴァンスに近いレスタックが気に入り、機会あるごとにその風景を描いている。この地の魅力については、1876年のピサロ宛の手紙に、海のブルーと建物のオレンジの対象が非常に強烈で、描く意欲が刺激されると書いている。
セザンヌがレスタックの風景をもっとも集中的に描いたのは、1885年前後だ。20点ばかり描いている。「レスタックから見たマルセーユ湾(Le Golfe de Marseille vu de L'Estaque)」と題するこの絵もその一つ。手前の街並みがレスタック。海を隔てた対岸がマルセーユの街並みだ。
マルセーユの街並みは、ぼんやりと描かれており、詳細ではない。ただ一つ目立つのは、画面やや左手の小高い丘の上に白く描かれている建物だ。これはノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院といって、マルセーユのほぼ中心にあって、町全体を見下ろすことができる。
(1885年 カンバスに油彩 73×100.3㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
レスタックは、マルセーユの北西にある小さな港町。セザンヌの故郷エクス・アン・プロヴァンスから遠くない。かれはそこに普仏戦争の戦乱をさけて疎開したことがあった。ここは風景明媚なことで知られ、多くの画家がモチーフを求めて集まったという。セザンヌはこの港町を、1880年代半ばに何回か訪れ、レスタックの街や、レスタックから眺めたマルセーユの街を描いた。
レスタックと題されたこの作品は、かれが滞在していた家から眺め下ろしたレスタックの街の風景。レスタックの街は、海にむかって真北の方角にあるから。これは北側から南に向かって海を眺め下ろしていることになる。海はすなわち地中海である。地中海の喫水線がそのまま水平線になっている。
色彩配置やブラッシングに印象派からの完全な脱却を見てとることができる。セザンヌ特有の、ブラシを叩きつけるようにして絵の具を塗りたくるやりかたが、ここでも見て取れる。
(1885年 カンバスに油彩 65×81㎝ 個人像)
1880年以降、セザンヌは印象派の影響を脱して自分独自の画風を追求する。その画風はのちに構成主義と呼ばれるようになるものだ。対象を、そのままに再現するのではなく、一定の理念にもとづいて再構成する。それにふさわしい効果を出すために、ブラシワークとか色彩の配置も工夫した。そうした斬新な方法意識が、フォーヴィズムやキュビズムに多大な影響を及ぼす。それゆえセザンヌは、今日では、現代絵画の祖といわれている。
「ポントワーズのクルーヴルの水車小屋(Le moulin sur la Couleuvre à Pontoise)」と題されたこの絵は、彼の構成主義時代の一番早い時期の作品。印象派とは全く異なる。また、印象派以前のどの画風とも異なる独自の雰囲気を早くも感じさせる作品である。
ポントワーズは、イル・ド・フランス地域の県。クルーヴルはそのなかの一地方であろう。そこに立っている風車小屋を、この絵はモチーフにしている。
構図にはそんなに斬新なものはない。だが、遠近法を無視し、対象をいったん解体したうえでそれを組み合わせて再構成するというやり方は、非常に斬新なものだ。
(1881年 カンバスに油彩 73.5×91.5㎝ ベルリン国立美術館)
「草上の朝食(Le Déjeuner sur l'herbe)」と題されたこの絵は、マネの有名な作品{草上の朝食}(1863)のパロディである。原作は巨大画面であるが、こちらは小品。二つのバージョンがある。どちらも同じ大きさ。こちらのほうが、より明るさを感じさせる。セザンヌは、マネのもう一つの有名な作品「オランピア」のパロディも制作しているので、マネにかなりこだわっていたのであろう。
構図はだいぶ違っている。マネの絵は、森の中に四人の男女が配置されているのだが、こちらには十人の男女がいるように見える。また遠景に教会を配置している。その教会を目立たせるために、森の一部が削除され、その部分に青空を描いている。
マネの描いた森は、おそらくパリの都市型森林だと思うが、セザンヌのこの森は、彼が過ごした故郷の森ではないかと推測されている。のちにセザンヌのトレードマークとなる荒々しいブラシワークがすでにうかがわれる。この時期セザンヌは、印象派の画風に追随するのではなく、自分自身の画風を追求していた。
(1877年 カンバスに油彩 21×27㎝ パリ、オランジュリー美術館)
セザンヌにとっての印象派時代は、1872年から1879年ごろまでの短い期間にすぎない。1872年の夏に、普仏戦争を避けて疎開していたエスタックからパリに戻ると、郊外のポントワーズでピサロとキャンバスをならべて制作するようになる。また、モネやルノワールとも親交を結んだ。かれら印象派の画家たちから、
セザンヌは光の表現を学んだ。だが、印象派との蜜月は長くは続かなかった、1879年の第四回印象派展を最後に出展しなくなった。
「モデルヌ・オランピア(Une moderne Olympia)」と題されたこの絵は、印象派時代の代表作の一つ。マネの有名な作品「オランピア」を意識した作品である。マネのオランピアが世間を騒がしたのは1865年のことだったが、セザンヌはその二年後に「オランピア」のパロディを制作している。
1874年に描かれたこの「オランピア」にモデルヌという形容詞がついているのは、前作を意識してのことだろう。
印象派風の光の処理が顕著に見られる作品である。構図は、マネの原作をかなり変えている。一番大きな変更は、手前にオランピアに見入る男を入れていることだ。
(1874年 カンバスに油彩 46.2×55.5㎝ 個人像)
アシル・アンプレール(Achille Emperaire)の肖像画は、セザンヌの初期の代表作。セザンヌの初期の画風は、これといった特徴はないが、ロマン派風の暗い色調の作品が多い。この肖像画もそうした感じの作品だ。ただ、縦2メートルの巨大な画面に、ひとりの人物が異様な存在感を放っており、人物描写におけるセザンヌの非凡性を感じさせはする。
モデルのアシル・アンプレールは、セザンヌより10歳年上の画家で、1860年代初頭にパリで出会って以来、十年ほど仲良く付き合った。この絵は、1867年から1868年にかけて制作されており、二人が非常に仲のよかった時期である。
アシルは、生まれつき小人でしかも背虫だった。この絵はそうしたかれの身体的な特徴を、過度に強調しているように見える。もっとも本人のイメージは矮小さを感じさせず、むしろ厳かな雰囲気を漂わせている。アングルの「皇帝の玉座に座るナポレオン1世」を彷彿させると評するものもいる。
アシルは画家としては成功しなかった。セザンヌがこの肖像画を残さなかったら、忘れられた存在になったであろう。
(1868年 カンバスに油彩 201×121㎝ パリ、オルセー美術館)
「ノラム城、日の出(Norham Castle, Sunrise)」と題されたこの絵は、ターナー最晩年の代表作。「雨、蒸気、スピード」に見られた抽象性が、この作品では一層高まっている。輪郭はぼかされ、モチーフの城は朝日をあびて、混とんとしたイメージで表現されている。
ノラム城は、スコットランドとの国境を流れるツィード川に建設されたもので、スコットランドからイングランドを防衛するための前線の拠点というべき砦。ターナーはこの城に大きな興味をもったらしく、1897年に訪れてスケッチしている。1801年にも再訪し、その折のスケッチをもとに、白黒の版画や水彩画などを制作している。
この絵の構図とほぼ同じ構図の作品が1816年に白黒版画として作られている。ターナーはそれをもとにこの絵を描いたと思われる。だが原画がかなり具象的なのに対して、こちらは随分と抽象的である。
画面中央に見えるのが城郭の塔の部分。川は、そこに突き当たって右側へ流れを変える。その右側の方角にも、城塞の一部が伸びているようにみえる。
(1845年 カンバスに油彩 90.8×121.9㎝ ロンドン、テート・ギャラリー)
「雨、蒸気、スピード(Rain, Steam and Speed - The Great Western Railway)」と題されたこの絵は、ターナーの風景画の到達点を示すものと受けとられる。かれの風景画は次第に抽象性を高めていったが、それがこの作品では頂点に達する。モチーフの輪郭にはこだわらず、色彩でその雰囲気を出すことで、対象の存在感を表現している。その存在感は、疾走する列車のスピード感に乗って、見るものに迫ってくる。
列車が走っているのは、メイドンヘッド・ブリッジという鉄橋。ロンドン西部、テームズ側の中流に架かる橋である。グレート・ウェスターン鉄道が鉄道用に建設した橋で、いまでも昔のままにあるそうだ。その橋を駆け抜ける蒸気機関車が、この絵のモチーフである。
蒸気機関車は、イギリスの産業革命を先導したシンボル的なものだ。列車のほか、船の動力としても使われた。ターナーは蒸気船にも大きなインスピレーションを感じ、多くの作品のモチーフにしている。
雨や、川から立ち上る霧など、列車をとりまく環境は荒っぽい筆致でざっくりと表現されている。そのざっくり感が、この絵に独特の抽象性をもたらしている。
(1844年 カンバスに油彩 91×121.8㎝ ロンドン、ナショナル・ギャラリー)
「平和ー海上埋葬(Peace - Burial at Sea)」と題されたこの絵は、スコットランドの画家デヴィッド・ウィルキーの死を哀悼した作品。ウィルキーはターナーと同時代人の画家で、ヨーロッパ大陸を遍歴し、各地の風俗を題材にした作品を手掛けた。最後の旅は、中東への旅で、エルサレムやアレクサンドリアなどを歴訪、その帰途ジブラルタル付近で死んだ。1841年のことである。ターナーはその死を悼んでこの絵を制作した。
ウィルキーの遺体は、イギリス側の船にわたされ、その船で海上埋葬された。この絵は、その海上埋葬の様子を、ターナーが自分の想像力を駆使して描いたものだ。船が二隻いるのは、イギリス側の船と、それにウィルキーの遺体を引き渡した船であろう。
この作品は、「戦争」と題した作品と対をなしている。その二つを並べることで、戦争と平和の意義について考えてもらいたいと意図したのだろう。戦争のほうは暖色主体のけばけばしい印象を与えるのに対して、平和をモチーフとしたこの絵は、モノトーンに近い静寂な印象を与える。
(1842年 カンバスに油彩 87×86.7㎝ ロンドン、テート・ギャラリー)
ターナーは晩年、荒れた海と蒸気船をモチーフにした絵を多く描いた。「吹雪(Snow Storm)と題されたこの絵は、その代表作の一つ。副題に「港口から出た蒸気船(Steam-Boat off a Harbour's Mouth)」とあるように、吹雪の中を港口から出て、外洋で漂流する蒸気船を描いている。この蒸気船は、アリエル号という名の外輪船で、ドーヴァー・パケットに活躍していた。
ターナーは、荒れ狂う海のイメージを体感するために、船員に頼んでマストにくくりつけてもらい、そこに四時間も滞留して観察を続けたと自ら証言している。その信ぴょう性を疑う者は多いが、本人は真剣にそう主張した。
逆巻く海と躍動する雲に翻弄されるように、蒸気船が漂流している。その煙突からは黒々とした煙が立ち上っている。ターナーの油彩画は、晩年ますます抽象的になっていくが、これもそんな抽象性を感じさせる。
(1842年 カンバスに油彩 91×122㎝ ロンドン、テート・ギャラリー)
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