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サスキアと結婚した年1634年に、レンブラントはオランダ総督から個人的な注文を受けた。五作からなるキリスト受難連作である。まずキリストをはりつけた十字架の樹立を描いたものと、十字架からの降下を描いたものの二作、続いてキリストの埋葬、復活、焦点をテーマにした三作が注文された。いずれも、上部が半円形になっており、建物の一部にはめ込むように考慮されている。大きさはそれぞれ異なっている。

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レンブラントはアイレンボルフの家で、一人の若い女性と出会った。サスキアといって、アイレンボルフの従妹である。彼女の親は裕福だったが、父親はすでに死んでいた。そのサスキアとレンブラントは、1633年の5月に婚約した。その婚約の前後に、彼女へのプレゼントとして描いたのが、「微笑むサスキア」と呼ばれるこの作品である。

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1631年に、レンブラントはアムステルダムに移り住み、彼の才能に惚れ込んでいた画商アイレンボルフの家に居候した。そのアイレンボルフは、レンブラントのために仕事の注文をとってきたのであるが、そのなかで外科医組合からの集団肖像画の注文があった。その注文を受けて描いた作品「トゥルプ博士の解剖学講義」は、レンブラントの世界的名声を確立することになった。

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レンブラントは、1631年にライデンを去ってアムステルダムに移住する。その直前に描いたのが「女預言者アンナ」。これはレンブラントの母親をモデルにしていると言われるが、真偽は明かではない。この絵の中のアンナは、ひどく老いさらばえていて、しかも農婦のように無骨に描かれている。その時のレンブラントは二十代半ばであり、母親も六十歳であったと思われるので、この描き方は母親を描いたにしては、モデルにとって過酷な描き方である。自分の母親を、こんなイメージで描くというのもちょっと受け入れがたいところがある。

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「30枚の銀貨を返すユダ」は、ライデン時代の代表作で、レンブラントの名を広く知らしめた作品。その頃までは、ラストマン塾の同僚で一つ年下のヤン・リーフェンスのほうが評価が高かった。しかしレンブラントは、この作品を通じて、オランダを代表する画家といわれるようになる。「話し合うペテロとパウロ」で進展ぶりを見せていた明暗対比の激しい画風が、この作品では高い完成度に達したと評価されたのである。

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「話し合うペテロとパウロ」と題されたこの作品もライデン時代の代表作の一つ。22歳の時の作品だ。「トビトとアンナ」は、聖書の中から劇的な題材を選んで、人間同士の葛藤のようなものを描いていたが、この作品は、二人の聖人の静かな対話を描いている。劇的とは言えないが、人間同士の関わり合いを描いているという点では、「トビトとアンナ」に共通するところがある。レンブラントは、人間の行動とか考えとかいうものをモチーフにすることを、若い頃から好んでいたということが、しのばれるところだ。

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レンブラントは、18歳の時にアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事して、自分なりの画風を確立すると、19歳の時にはライデンにもどり、画家として独り立ちした。それ以来、25歳でアムステルダムに移住するまで、ライデンを拠点に活動した。その頃すでにレンブラントは、新進画家として世間の注目を集めるようになった。

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レンブラント(正式にはレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン Rembrandt Harmenszoon van Rijn 1606-1669)はバロック美術を代表する画家である。その活躍ぶりからして、バロックの巨人と呼んでよい。バロック絵画はイタリアの天才カラヴァッジオによって完成され、強い明暗対比(キアロスクーロ)と劇的なモチーフによって特色づけられるが、レンブラントはそうした特徴を更に発展させ、バロック美術を一層深化させたといえる。

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「ゴリアテの首を持つダヴィデ」は制作年代が特定されていない。1606年頃という説もあるし、死の直前1610年とする説もある。死の直前とする説は、ゴリアテのモデルがカラヴァッジオ本人であることに着目する。この絵の中のゴリアテすなわちカラヴァッジオの表情は憔悴しきっており、しかも初老の男のようでもある。1606年ごろのカラヴァッジオからは、こういう表情は想像できない。やはり死を目前に控えた、悩めるカラヴァッジオではないかというのである。

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「洗礼者聖ヨハネ」は、カラヴァッジオが死んだ時に、舟の中に残されていた荷物に含まれていた。したがって彼の遺品ということになる。おそらく彼の最後の作品なのだろう。同じモチーフの絵が二点あったという。上のものはそのうちの一つである。もう一つは、特定できていない。

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マルタ島を脱出したカラヴァッジオは、舟でシチリア島に向かった。シチリア島には、カラヴァッジオが若い時分に弟分として付き従っていたマリオ・ミンニーティがいたので、とりあえずかれを頼った。マリオはカラヴァッジオのために絵の注文を仲介したり、けっこうカラヴァッジオの面倒をみたようだ。シチリアでは、「聖ルチアの埋葬」とか「ラザロの復活」といった大作を描いている。

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カラヴァッジオにとって、ナポリは居心地がよかったはずだが、八か月あまりで去り、マルタ島に向かった。目的はマルタ騎士団の騎士になることだった。かれがなぜマルタ騎士団の騎士になりたがったのか、その理由はいろいろ推測されているが、日頃騎士を気取り、それがもとで殺人まで犯したカラヴァッジオには、騎士への強烈なあこがれがあったようだ。なお、マルタ騎士団というのは、十字軍の産物として生まれたものであり、ヨーロッパじゅうの騎士が名声を求めて集まっていた。カラヴァッジオは貴族ではなかったが、画家としての名声が、認められたのだろう、暖かく迎えられた。

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「キリストの鞭打ち」もナポリ滞在中の作品。サン・ドメニコ・マジョーレ聖堂の祭壇画として描かれた。福音書の中のキリストが鞭うたれる光景をモチーフにしている。この絵の中のキリストは、筋骨隆々とした姿で描かれており、罪人としての弱々しさは感じさせない。だが、周囲の男たちは邪悪な表情をしており、画面全体には暴力的な雰囲気がただよっている。

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1606年5月に、カラヴァッジオは殺人事件を起こしてしまう。相手はラヌッチオ・トマッソーニ。かつてフィリーデ・メランドローニを愛人にしていた男で、カラヴァッジオとは長い付き合いがあった。その二人が殺し合いをした理由は詳しくはわかっていないが、色々なことで対立していたようだ。殺し合いは一対一ではなく、数人のグループ同士だった。その乱闘でカラヴァッジオ自身も、頭部に大けがをした。この事件をデレク・ジャーマンは、「カラヴァッジオ」という映画の中で、女をめぐるいざこざからというふうに描いている。映画ではレナという女をめぐって二人は三角関係にあったが、ラヌッチオがレナを殺したと知ったカラヴァッジオが復讐したということになっている。

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ジェノヴァからローマにもどったカラヴァッジオは、教皇庁の馬丁組合から絵の注文を受けた。完成すれば、聖ピエトロ聖堂に展示されることになっていた。画家としては、聖ピエトロ聖堂に自分の作品が展示されることは最高の名誉と考えられていた。カラヴァッジオにとってもそうだったにちがいない。かれはそれまで何度も、聖ピエトロ聖堂のための仕事をしたいと思いながら、実現しなかったのだ。

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「書き物をする聖ヒエロニムス」は、カラヴァッジオがボルゲーゼ枢機卿への贈り物として描いたものだ。それにはワケがある。1605年の7月に、カラヴァッジオは傷害事件を起こしたことでジェノヴァに逃走するハメになった。相手は公証人のマリアーノ・パスクワローネ。原因ははっきりしないが、女をめぐるいざこざだったとの指摘もある。結局カラヴァッジオは、パスクワローネと示談してローマに戻ることができた。その示談の成立に、ボルゲーゼ枢機卿が一役かった。カラヴァッジオはそのお礼に、この絵を贈ったというのである。

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カラヴァッジオは、ナヴォナ広場付近にあるサン・タゴスティーノ聖堂から、「ロレートの聖母」をモチーフにした祭壇画の注文を受けた。バリオーネ裁判が終わった1603年頃のことで、この注文品を翌々年の1605年に納品したようである。結構時間がかかったのは、丁寧に現地取材をしたからと言われている。ロレートとは、キリスト伝説にまつわる土地で、トレンティノの近くにある。そこへキリストの生家がイスラエルから飛来してきたという伝説が生まれ、大勢の人々の信仰を集めていた。

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カラヴァッジオは「キリストの埋葬」と前後して、サンタ・マリア・デル・スカラ聖堂のために大作を制作した。「聖母マリアの死」である。これはカラヴァッジオの才能を評価したラエルツィオ・ケルビーニの意向によるもので、サンタ・マリアの聖堂に相応しいモチーフと考えられたわけだ。普通、聖母の死のモチーフは、「聖母被昇天」というかたちで、大勢の人々に見守られながら、天国へと上昇していく姿であらわされるものだが、カラヴァッジオはそうした伝統を無死して、まったく新たな見地から聖母の死のモチーフを描いた。

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「キリストの埋葬」は、ローマのオラトリア会の総本山サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂にあるヴィットリーチェ礼拝堂を飾るために注文されたもの。この礼拝堂は、ここに埋葬されたピエトロ・ヴィットリーチェの名にちなんでいる。この礼拝堂には、カラヴァッジオのほか、当時美術の新しい流れを感じさせる作品が多数展示されており、さながら当代の現代美術館といった趣を呈していたという。ルーベンスの最高傑作といわれる「ヴァリチェッリの聖母」も飾られている。

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イサクの犠牲の話は、旧約聖書の創世記にあり、そのドラマチックな展開から、文芸や絵画のモチーフとされてきた。ミケランジェロも、システィナ礼拝堂の天井画「天地創造」の一挿話として描いている。カラヴァッジオは、このモチーフを、いまに伝わっている限り二点描いているが、これは二作目で、1603年ごろの作品と思われる。

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