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「ラ・グランド・ジャット島の日曜日」は、スーラにとって大展開をもたらす作品になったばかりか、ヨーロッパの絵画史に転機をもたらすものとなった。この作品によって、点描画がほぼ完成された形で示され、人々はこの絵に、印象派に続く新しい時代の夜明けを感じたのである。

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スーラは1884年、24歳にして最初の大作「アニエールの水浴」を制作し、その年の官展に出品したが落選した。そこで同年春に催された第一回アンデパンダン展に持ち込んだところ、大いに注目された。自然主義からの移行を示す画期的な作品として評価されたのである。

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ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat 1859-1891)は、31歳の若さで死んだ。したがって彼の画家としての実質的な活動期間は10年にも満たなかったが、美術史上には大きな足跡を残した。彼が若い画家として登場した1880年代は、印象派の円熟期であり、次の時代への鼓動がそろそろ聞かれた時代であった。そうした時代背景にあってスーラは、印象派の次の世代を担うチャンピオンの一人として名声を確立したのだった。彼が「グランドジャット島」を制作したのは25歳の時である。スーラ独自の手法である点描法を駆使したこの作品を完成させてから死ぬまでのわずか数年の間が、彼の画家としての本格的な活動期である。この短い期間にスーラは、実験的な作品を含め、数々の作品を送り出した。

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ロートレックの最後のポスター作品は1900年の「ラ・ジターヌ」である。これは、アルフレッド・ナタンソンから依頼された仕事で、ジャン・リシュパンの戯曲「ラ・ジターヌ(ジプシー女)」の舞台化を宣伝することを目的としていた。その舞台では、ナタンソンの妻マルト・メロが運命の女を演じることになっていた。

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ロートレックは、ジャンヌ・アヴリールをフィーチャーしたポスターを何枚か制作した。このポスターは最後のものだ。ほぼ二年半ぶりのポスター制作だった。このポスターをロートレックは、リトグラフの技術を応用しながら、石の代わりに鉛板を使った。三枚の鉛板に四色の顔料を使って製作したのである。

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ロートレックは自転車が大好きだった。自分自身は身体的なハンディキャップのために乗り回すことができなかったが、自転車競技場に頻繁に足を運び、自転車を見物するのを趣味としていた。その自転車は、1888年に現在のような空気タイヤが開発されたことで新たな段階に入り、1890代には空前の自転車ブームがヨーロッパ諸国に沸き起こった。

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「狂った牝牛(La vache enragée)は、アドルフ・ヴィレットが1896年に刊行したイラスト入りの月間風刺雑誌。「狂った牝牛を食う(manger la vache enragée)には、世の中を笑い飛ばすという意味もあるので、風刺雑誌にこう命名したという。その雑誌には当時の人気漫画家であるアドルフ・ローデルが編集者として加わっていた。

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ロートレックは、ロンドンで興行しているダンス・グループ「マドモアゼル・エグランティーヌ一座」から、ポスターの注文を受けた。注文の内容は、一座の四人の花形ダンサーである、マドモアゼル・エグランティーヌ、ジャンヌ・アヴリール、クレオパトラ、ガゼルの四人が並んでカンカン踊りを踊っているところを描き、レタリングとしてこの四人の名前を、上に述べた順序に並べ、そこにパレス・シアターの文字も加えて欲しいというものだった。

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このポスターには「国際ポスター展」というレタリングが付されており、実際1895-96年に開催された同展覧会のポスターとして使われたのであったが、ロートレックはこのポスターをそういうつもりで作ったわけではなかった。このポスターには込み入った事情があったのである。

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メイ・ミルトンはイギリス人のダンサーで、メイ・ベルフォールとは仲良しだった。それでベルフォールのためにポスターを作ってやったリートレックは、ミルトンのためにも作ってやらざるを得なかった。ロートレックには心のやさしい面もあったのだ。

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「ルヴュ・ブランシュ」は、スケートの記事を売り物にした雑誌で、アレクサンドル・ナタンソンが編集していた。そのアレクソンドルの兄弟タデ・ナタンソンの妻が、当時スケートリンクの女王として名をはせていたミシア・ナタンソンだった。このポスターは、ミシアをフィーチャーして雑誌の宣伝を狙ったものだ。

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メイ・ベルフォールはアイルランド人で本名をメイ・イーガンと言った。ミュージック・ホールのダンサーをしていたが、ジャンヌ・アヴリールやメイ・ミルトンに比べると、印象が地味で、どちらかというと冴えない感じの女性だった。それ故ロートレックが、ポスターばかりか他の絵画分野でも彼女を好んでモデルに使うのを、親しい友人たちはいぶかったものだ。

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コンフェッティとは、お祭のときに景気づけにばらまかれる小さな色紙片のことだ。そのコンフェッティ制作会社から依頼されて作ったのがこの小さなポスター。依頼したのはベラ・ブラザースというイギリスの会社だ。その会社の経営者が、ウェストミンスター・アベイの向かいにある王立水族館で、ポスター展を催した。そのポスター展の花形になったのがこのポスターである。

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このポスターは、ロートレックの友人で写真スタジオを経営していたポール・ペスコーの依頼で作ったものだ。ロートレックは図柄だけ提供し、レタリングは別の専門家が担当した。レタリングの上の文字は、ペスコーの店の住所を表わしたものだ。ピガール広場は、パリ北部のクリニー通りにある。

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キャバレーや書物の宣伝のためのポスターから出発したロートレックは、やがて一般の顧客からの商業用ポスターの依頼も受けるようになった。この「当世の職人」は、そうした仕事の最初のものである。この仕事をロートレックは、インテリア・デザイン会社を運営するアンドレ・マルティから依頼された。

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ロートレックは、ヴィクトル・ジョーズの小説「喜びの女王」のためにポスターを制作したことがあったが、引き続き彼の小説「ドイツのバビロン」のためにポスターを制作した。この小説の内容がどのようなものか、筆者は知らないが、どうやらフランス人の反ドイツ感情をあおる要素があったらしい。

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ロートレックは、アリスティード・ブリュアンのために四点のポスターを制作したが、これはその最後のもの。ミルリトンとは、ブリュアンの出していたイラスト入り雑誌及びその名を冠したキャバレー。もっともミルリトンの文字は初刷りにはなく、二刷りから加えられた。

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アルベール・コーデューは、アリスティード・ブリュアンと人気を二分するエンタテイナーだった。その彼からの依頼で、ロートレックが制作したポスターがこれだ。画面からわかるように、もっぱらコーデュー一人を宣伝している。今ではこういう宣伝ポスターは珍しくはないが、19世紀末のヨーロッパで個人を宣伝するポスターは画期的だったようだ。

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「断頭台の下で(Au pied de L'echahaud)と題したこのポスターは、同名の書物の宣伝のために作られた。その書物を書いたのは、ロケット監獄の教誨師を長年つとめていたアベ・フォール。フォールは在任中に立ち会ったギロチンによる処刑の様子を回想録としてまとめ、それを雑誌「ル・マタン」に連載した。このポスターは、その連載記事を宣伝したものである。

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ロートレックは、アリスティード・ブリュアンをフィーチャーしたポスターを四点作っているが、これはその代表作。ブリュアンはこのポスターを自分のトレードマークとして使い、自分が出る舞台にはかならずこれを飾ったという。舞台のみならずパリの街角をも長く飾ることとなり、ブリュアンはこのポスター共々パリ名物になった。

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