美を読む

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イコンのなかには、街を敵から守ったり人々に奇跡を示したとして崇拝されているものも多い。この「ドンの聖母」は、モンゴル軍との戦いにおいて、ロシア軍を勝利に導いたという伝説があり、永い間ロシア人の崇拝の対象となってきた。

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デイシスは嘆願という意味。聖母マリアや洗礼者ヨハネを始めとする聖人たちが、キリストに対してこの世の救済を求めるさまを描いているとされる。このイコンの場合には、聖母マリアと洗礼者ヨハネが、キリストを挟んで、人類の救済を嘆願しているわけだ。

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「トルガの聖母」はヤロスラーブリを守護するイコンとして信仰を集めてきた。このイコンは、ヤロスラーブリ近郊のトルガ河畔で、プロホル主教の前に姿を現し、以後ヤロスラーブリを守護してきた。主教はこのイコンのためにトルグスキー修道院を建て、長らくそこに安置してきた。いまではトレチャコフ美術館に移されている。

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「金髪の天使」と呼ばれるこのイコンは、1200年ごろに作られ、モスクワのウスペンスキー大聖堂に保存されていたもの。小さいイコン(48.8×38.8㎝)であり、個人的な崇拝の対象として作られたか、あるいはデイシスの一部だったのか、はっきりとはわからない。

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「ウラジーミルの聖母」のイコンは、1131年にコンスタンチノープルからキエフに運ばれ、次いでウラジーミルに移されてウスペンスキー大聖堂に安置された。キプチャク汗国を創始したバトウ・ハーンのモンゴル軍が1237年にウラジーミルの街を略奪した時には、彼らはこの像を飾っていたリザを持ち去ったが、イコンそのものには手をつけなかった。

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「ウスチュグの受胎告知」を描いたこのイコンは、「ルカによる福音書」のなかの受胎告知の場面を描いたもの。最初ノヴゴロドで作られ、その後モスクワのウスペンスキー大聖堂に移されたが、現在はトレチャコフ美術館にある。

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聖母像とともにロシア正教の初期のイコンに多く描かれたのはキリストの顔「聖顔」である。それにはわけがある。イコンは常に偶像崇拝の嫌疑をかけられる傾向があったが、聖顔については、その嫌疑をかなり和らげられると信じられていたのである。

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ロシアにキリスト教が入って来たのは、10世紀にキエフ大公ウラジーミルがキリスト教徒になって以来ということになっている。その際に、大公がクリミア半島のヘルソンからもってきたというのが、この「ヘルソンの聖母」と呼ばれるイコンである。

ロシア正教といえばイコンが思い浮かぶほど、イコンはロシア人の生活に溶け込んでいる。現在ではその美術的な価値が評価され、美術品としての関心も集めている。しかしイコンはあくまでも信仰と深いかかわりがあるので、その面を無視して美術品としてだけ見るのは片手落ちだ。とはいっても、いまでは教会以外の場所、たとえば美術館でもイコンは収集・展示されており、これを美術的な関心から見ようとする人も増えている。我々のようなロシア正教徒でないものにとっては、なおさらのことだ。

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最晩年のマネは、病気のために油彩の大作を描くことができなくなり、パステルで人物画を描くようになった。その頃の彼が好んで描いたのは、親しい女性たちだった。マネは病気の為に肉体的に苦しいだけでなく、精神状態もよくなかったのだが、親しい女性が近くにいると、生きがえったような感じがするのだった。

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フォリー・ベルジェールはリセ通りに面したカフェ・コンセールで、パリでもっとも人気のあるナイト・スポットだった。かなり巨大な空間に夥しい人々がひしめき合い、夜の快楽をむさぼるところだ。マネはそこを、自分の最後の大作のモチーフに選んだ。このカフェには、環状に三つのバーが配置されているのだが、そのうちの一つを描いたのだ。

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ラテュイユおやじの店はクリシー通りに面したオープンカフェだった。マネはここを根城にして、同時代の風俗を研究し、それを自分の絵に役立てていた。この絵は、そうした研究の成果の一つで、何気ない動作を通じて、現代生活の一端を伺うことができるように工夫されている。

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マネは1878年の7月から翌年の4月までの間、友人のスウェーデン人画家ヨハン・ローゼンからアトリエを借りた。そのアトリエには温室が隣接していて、マネはそこでギュメ夫妻の彫像画を描いた。マネはギュメ夫人と親密に交際しており、彼女への友情のしるしとしてこれを描いたのだと思われる。

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マネは1877年の冬から翌年にかけて、サロンに出展するための大作にとりかかった。それをマネは「ライヒスホーフェンのカフェ・コンセール」と題するつもりだったが、なぜか計画を途中で放棄し、画面を二つの切り分けたうえで、二つの独立した作品に仕立て直した。その右半分がこの「ビアホールのウェイトレス」であり、左半分が「カフェにて」である。

プラム:マネ

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晩年のマネは有名人となり、彼のまわりにはさまざまな人間たちが集まって来た。そうした人間たちの中でマネが興味を抱いたのは可愛い女性たちだった。マネはそうした女性たちの中から気軽にポーズをとってくれる女性を選んで、肖像画らしいスナップ風の絵を描いた。「プラム」と題するこの絵は、そのすぐれた一点である。

ナナ:マネ

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ナナは、エミール・ゾラの小説「居酒屋」に出てくる少女の名である。その少女が大人になった姿をマネはこの絵に描いた。「居酒屋」の中では、ナナが娼婦になるとは書かれていなかったが、マネはそうなることを前提としてこの絵を描いたのだった。そういうわけだろうか、ゾラはこの絵の三年後に小説「ナナ」を発表した時に、ナナを娼婦として描いた。そこにマネとゾラとの奇妙な交際を見る事も出来よう。

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サンボリズムの巨人といわれる詩人ステファヌ・マラルメは、マネよりも十歳年少だったが、マネの才能にいち早く注目し、高く評価した文学者たちの一人だった。そんなマラルメにマネは心を許し、二人は生涯仲よく付き合った。主としてマラルメがマネのアトリエを訪ね、美術やその他の芸術について熱く語るというのが彼らの関係だったようだ。

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マネは1874年の9月に友人のティソとともにヴェネツィアに遊んだ。「ヴェネツィアの大運河」と題するこの絵は、その旅の収穫である。マネはサージェントやヘンリー・ジェームズの友人として知られるカーティス夫妻の招待客として滞在するかたわら、船で運河をめぐり、その上から岸辺の光景をスケッチした。この作品は、そんなスケッチをもとにして、あとで仕上げられたようである。

舟遊び:マネ

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「舟遊び」と題するこの絵も、セーヌ川とボートの組み合わせをモチーフにしたものだ。ここでは二人の男女が小舟に乗って、ぼんやりとポーズをとっている。男はマネの義弟ルドルフ・レーンホフ、女はマネの妻カミーユだとされている。男のほうはこちら側、つまり観客に顔を向けているが、女のほうはどこ吹く風といった風情を見せている。

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「アルジャントゥイユ」と題したこの絵も、屋外での作業の成果だろう。画面の明るさがそれを物語っている。だがこの絵も、「ボートのアトリエで描くモネ」同様、光の効果にはあまり注意を払っていない。その結果画面構成がかなり平板になっている。前景の二人の人物と彼らの背後にあるものとが、同じ平面にあるかのごとく、全体に平板さを感じさせる。

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