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ルノワールはイタリア旅行から戻ると、古典主義を意識した大作の制作に取り掛かり、翌1883年の春に完成させた。縦長の画面の三部作で、いずれもダンスのヴァリエーションを描いていた。一つは「ブージヴァルのダンス(La danse a Boujival)」といい、残りの二つは「田舎のダンス(La danse a la campagne)」と「都会のダンス(La danse a la ville)」のペアだった。これらの絵には、イタリアで研究したラファエロの最初の影響が見られる。

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ルノワールは1882年に初めての海外旅行をした。まず2月に北アフリカに行き、10月にはイタリアに行った。イタリアに行った目的は、ラファエロの作品を見ることだった。それまでの印象派的な画風にいきづまりを感じていたルノワールは、ラファエロから転換のためのインスピレーションを得たいと思ったのだった。

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19世紀の末に流行したジャポニズム趣味に、ルノワールはあまりかぶれはしなかった。ゴッホやマネなど多くの画家が、作品の中でジャポニズム趣味を発散させているのに対して、ルノワールにはジャポニズムを感じさせるものは、ほんの少ししかない。「うちわを持つ女(Jeune fille au ventilateur)」と題されたこの絵は、その代表的なものだ。

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「テラスにて(Sur la terrasse)」と題されたこの作品も、レストラン・フルネーズのテラスを舞台にしたものだ。「舟遊びする人々の昼食」と同じ頃描かれたのであろう。「舟遊び」ではあまりはっきりとは描かれていなかったセーヌ川が、この作品では背景として大きく描かれている。

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1879年頃から、ルノワールは再びセーヌ河畔を訪れ、舟遊びする人々を描くようになった。「舟遊びする人々の昼食(Le déjeuner des canotiers)」と題したこの作品は、代表的なもの。パリ近郊のシャトゥーにある島のレストラン、フルネーズを舞台にして、そこのテラスで昼食をとる人々を描いている。

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「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が成功したおかげで、ルノワールには裕福な人々からの、子供たちの肖像画を描いて欲しいという注文がくるようになった。そうした注文仕事は結構な金をもたらしたので、ルノワールは自分の主義に反しない程度に引き受けた。「イレーヌ・カーン・ダンヴェール(Portrait de Mademoiselle Irene Cahen d'Anvers)」と題したこの肖像画は、ルノワールの子どもの肖像画の中の傑作である。

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ルノワールのアトリエ近くには、フェルナンド・サーカスがロシュシュアール大通りに面して興行していた。そこにルノワールはたびたび足を運んだが、それは画家仲間ドガの影響だったといわれている。ドガは、サーカスや劇場での風俗的な光景を好んで画題に選んだ。

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ルノワールは、第三回目の印象派展を最後に、セザンヌやシスレーとともに、印象派展への出典を取りやめ、再びサロンに出展するようになった。当時の取り決めで、両方とも出展するわけにはいかなかったのである。そのサロンには、1879年に「シャルパンティ夫人と子どもたち(Madame Georges Charpentier et ses enfants)」を出展して、みごと入選した。それが彼に、画家としての名声と、将来への見通しをもたらした。ルノワールは、あのやかましかった美術批評家たちの支持を取り付けたのである。

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「ブランコ(La balançoire)」は、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とほぼ同時期に描かれ、ともに第三回の印象派展に出展された。それをカイユボットが購入し、彼の死後フランス政府に寄贈された経緯がある。

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1878年の第三回印象派展にルノワールは大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット(la Bal du moulin de la Galette)」を出展した。これはモンマルトルの丘の上にあるカフェで、かつて粉ひき小屋があったことから「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と呼ばれていたところで、踊りを楽しむ人々を描いたものだ。ルノワールは、1873年以来、パリのサンジョルジョ街に住む傍ら、モンマルトルの一角にアトリエを借りており、マンマルトルは日常的に親しんだ土地である。そこで、踊りに興じる人々を描いたこの大作に、ルノワールはかなりの自信をもっていた。この作品は早速カイユボットによって購入され、彼の死後フランス政府に寄贈されることになる。

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1876年の第二回目の印象派展に、ルノワールは「散歩に出かける子どもたち」とともに「陽光の中の裸婦(Etude ou Torse:effet de soleil)」を出展した。この絵は、批評家たちの度肝を抜いたらしく、「散歩」よりも激しく攻撃された。緑や紫がかった斑点が体のあちこちにあり、まるでおできのようだ、と酷評するものもあった。

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1876年に第二回目の印象派展が行われ、ルノワールは数点の作品を出展した。「散歩に出かける子どもたち(La promenade)」と題した1874年の作品もそれに含まれていた。この作品は、当時金持ちの依頼で肖像画を描くことが多かったルノワールが、やはり依頼を受けて描いた作品だと思われるが、詳細はわからない。

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1874年の春に、ルノワールはモネやドガなど親しい画家仲間たちと、後に印象派展とよばれるようになる展覧会を開いた。モネを中心とする若手画家たちは、サロンになかなか入選しないことにいらだち、落選展の開催を求めていたが、その求めが実現しないので、自分たちで作品を展示する場を設けようと考えたのだ。その考えが実施されたのは1873年の暮のことで、モネやルノワールが中心になって画家や彫刻家による共同出資会社が作られ、その会社の主催する形で、展示会が催されたのであった。主な出展者はほかに、ドガ、ピサロ、シスレー、モリゾ、セザンヌだった。マネにも声がかかったが、マネはサロンに出展するほうを選んだ。

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1869年にルノワールは、金に困って、当時パリ北西部のルーヴシェンヌでつつましい年金生活を送っていた両親の家に転がり込んだ。その近隣のサン・ミシェルには、クロード・モネが住んでいて、二人は頻繁に往来するようになった。モネも、金がない点では、ルノワール以上だった。二人は金のないことを大いに嘆いたが、もっとも大きな嘆きの種は、キャンバスや絵具を買う金がないことだった。

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パリのパティニュール大通りにあるカフェ、ゲルボアに、マネを中心とした一団の芸術家が1966年頃から集まるようになった。ルノワールもそのサークルに加わった。常連客には、エミール・ゾラやザカリー・アストリュックといった文学者のほかに、バジール、ドガ、ファンタン・ラトゥールなどがいて、やがてセザンヌやモネも加わった。ルノワールは、モネと大いに仲よくした。

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ルノワールは、1864年のサロンに入選した後、引き続きサロンでの成功を目指して、1866年と翌年に二年続けて出展したが、いずれも落選した。それでもあきらめず出展を続けたところ、1868年のサロンには、再び入選した。「日傘のリーズ(Lise à l'ombrelle)」と題したこの作品がそれである。

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ルノワールは国立の美術学校に通うかたわら、スイス出身の画家シャルル・グレールの主催する美術学校にも通った。国立美術学校からはほとんどましな美術教育は期待できなかったようで、かれはもっぱらグレールのほうから刺激を受けていた。その美術塾の同僚には、後に親友となるフレデリック・バジールやクロード・モネ、アルフレッド・シスレーといった人々がいた。かれらはこの塾で、ロマン派の巨匠ドラクロワや写実主義のクールベを研究した。また、コローやアングルにも傾倒した。

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オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)は、日本人が最も好きな西洋画家の一人だ。日本人は、西洋画の中でも印象派の画家たちが好きだが、ルノワールはその印象派を代表する画家として受け取られている。たしかにルノワールは印象派の画家としてキャリアを出発したし、また印象派のチャンピオンとしての印象が強いのであるが、自分自身は印象派に括られることに満足しなかった。実際、ルノワールの初期の印象派風の絵と、晩年の絵を比較すると、そこにかなりの相違が認められる。ルノワールは、生涯を通じて、たえず自分からの脱却を試み、新たな画風に挑戦し続けた画家といってよい。その点では、生涯にめまぐるしく画風を変えたピカソに通じるところがある。

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最晩年のモネは、睡蓮を巨大な画面に描き、それらを美術館の周囲の壁に展示して、人々がまるで睡蓮に囲まれているような気持ちになれることを望んだ。その望みはかなえられ、モネが描いた巨大な睡蓮は、クレマンソー大統領の計らいで、パリのオランジュリー美術館の壁を飾ることになった。今現在、モネの睡蓮の連作画は、二つの展示室にわけて八点が掲げられている。

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20世紀に入るとモネは専らジヴェルニーの自宅の池の睡蓮を描くようになった。その数は膨大なものだ。睡蓮は、季節の移り変わりや、見る角度によってさまざまな表情を見せてくれるので、描き飽きるということがなかったのである。1908年のジェフロワ宛の手紙にモネは次のように書いている。「この仕事に没頭しきっています。これは私のような老いぼれの能力を超えた仕事です。でも私は私が感じていることを表現したいのです」。彼が睡蓮を描き飽きなかった理由の一端がこの文章には示されているようだ。

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