美を読む

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ゴーギャンは、タヒチの原地人(マオリ族)の宗教感情について、彼らがヨーロッパ人とは違うものを持っていることに気付いたが、それをイメージであらわす際には、ヨーロッパ的な表現を採用した。この「マリアを拝す(Ia Orana Maria)」と題した絵は、その典型的なものだ。

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「ふくれつら(Te Faaturuma)」と題したこの絵のモデルは、「花を持つ女」と同じ女性と思われる。ノアノアによれば、ある日隣人の女がゴーギャンの小屋にやってきて、絵を見せてくれと言った。そこでゴーギャンはマネのオランピアの複製を見せてやったところ、彼女は特別な関心を以てそれを眺めながら、「これはあなたの奥さんか」と聞いた。ゴーギャンはそうだと嘘を言ったが、そのことにいくばくかの疚しさを感じながらも、その女の表情をスケッチする誘惑に駆られた。すると女は「ダメ」と言って去ってしまった。ゴーギャンはがっかりしたのだったが、一時間後にその女が着飾って舞い戻り、ゴーギャンのためにポーズを取ってくれた。それが「花を持つ女」だ。

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1891年6月28日にタヒチの首都パペーテに下船したゴーギャンは、フランス政府のエージェントの資格で、現地のフランス人社会から大歓迎を受け、女まで世話してもらったが、やがてうんざりして、パペーテの南東50キロのマタイエアという部落に移り、そこの掘っ立て小屋に住むことにした。タヒチ滞在記「ノアノア」によれば、マタイエアにおちつき、仕事に取り掛かろうとしていたとき、ゴーギャンは是非タヒチの女性の肖像画を描いてみたいと思っていた。そんな矢先に一人の女性が現れて、ゴーギャンのためにポーズをとってくれた。その絵がこの「花を持つ女(Vahine no te tiare)」である。

ゴーギャン:タヒチの夢

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ポール・ゴーギャンは、生涯に二度、南洋の島タヒチに行った。一度目は、1891年から1993年にかけての二年間で、この時には、ヨーロッパの俗悪振りから解放されて、純粋な芸術を追及したいという目的が働いていた。二度目は1896年以降であって、この時は、ヨーロッパに絶望し、タヒチに骨を埋めるつもりで行った。実際ゴーギャンは二度とヨーロッパに戻ることはなかったのである。死んだのはタヒチではなく、マルキーズ諸島のヒヴォア島であったが、ヨーロッパからはるかに離れた南海の絶島で生涯を終えることは、ゴーギャンにとっては本望ではなかったかもしれないが、それでもヨーロッパで死ぬよりはましだと思ったことだろう。

偶像(L'idole):マティス、色彩の魔術

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マティスは1941年にリヨンで腸の手術を受けたことがきっかけで臥床がちになった。そんなマティスの夜間の看病をするために、一人の女性が雇われた。モニック・ブルジョワという若くて信仰深い女性だった。マティスはこの女性をモデルにして多くの絵を描いた。「偶像(L'idole)」と題するこの絵は、その代表的なものである。

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「1940年の夢(Le rêve de 1940)」と題するこの絵は、「ルーマニア風のブラウス」と対をなすものである。マティスはこの二つの作品を非常に気に入り、自分のアトリエの壁に、並べて架けていたほどだった。

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「ルーマニア風のブラウス(La blouse roumaine)」と題したこの絵は、非常にシンプルに見えるが、シンプルなだけにいっそう、構図の決定にはかなりな時間を要した。マティスがこの絵を完成させるにあたって描いた習作が十三枚も写真に残されていることからも、そのことがわかる。

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マティスは、いろいろなタイプの絵を描いたが、もっともマティスらしさを感じさせるのは女性の肖像だ。いろいろな技法を用いて、時代ごとに描き方は変遷したが、女性の美、それは肉感的な美といってよいが、それをキャンバスの上に定着させようとした。一群のオダリスク像はそのもっとも完成された形だ。

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マティスには、以前手がけたモチーフを、新たな視点から再構成した作品群があるが、「音楽(La musique)」はその代表的なものだ。これは、1910年の大作「音楽」を意識した作品であるが、一見すると、構図と言い色彩と言い、大分違った印象を与える。前の作品は五人の男たちをモデルにして、構図も色彩もごくシンプルだが、こちらは二人の女をモデルにして、構図は多分に装飾的であるし、色彩も華やかだ。だが相違の中で最大のものは、「音楽」の表現の仕方だろう。前の作品からは画面から音があふれ出してくるように感じられるのに対して、この絵からはそういう感じは伝わってこない。むしろ沈黙が伝わってくる。ギターにストリングが張られていないのは、それが沈黙していることの視覚的な表現なのだ。

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「バラ色の裸婦」のモデルに起用したリディア・デレクトルスカヤを、マティスは非常に気に入り、続いて「青の婦人(La dame en bleu)」と題する比較的大型の絵のモデルにも使った。彼女のことをマティスは「アマゾネス」と呼んだが、それは彼女の大柄な体格と常軌を逸したプロポーションを評してのことだった。この絵から連想されるように、リディアは十頭身以上の巨躯の女性だったようだ。

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マティスは、1930年から三年かけて、フィラデルフィアのバーンズ財団の美術館を飾る為の壁画の製作に没頭した。それは、美術館の壁に開いた三つの扉の上の壁を飾るもので、テーマはマティスにとって馴染みの深い「ダンス」だった。三年ものあいだマティスは、自分のすべてをこの壁画の製作に打ち込んだわけだが、彼が注いだ力に見合うほどの名声は、この作品は彼にもたらさなかったようだ。

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1930年、マティスはアメリカ経由で南太平洋のタヒチに旅行した。動機は、南洋の明るい太陽の光を一身に浴びたいということだった。マティスはそれまでも、明るい太陽を求めて、南仏や北アフリカに拘ってきたわけだが、その拘りが地球的な規模にまで膨らんだというわけだろう。タヒチには数週間滞在し、帰りはスエズ運河経由の航路を取った。

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「トルコ風肘掛け椅子のオダリスク(Odalisque au fauteuil turc)」は、1928年に「二人のオダリスク」と前後して描かれた。マティスはこの絵が気に入っていたようで、友人への手紙の中でも、「勝ち誇ったような輝きのなかに、陽光の明るさが満ち溢れているでしょう」(高階秀爾監訳)と書いて自慢している。

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マティスは1925年の夏に、家族を伴ってイタリアに旅行した。その時にミケランジェロの作品を集中的に見て、それを踏まえた多くの習作を生んだ。それらは、いわゆるミケランジェロ・タッチと呼ばれるダイナミックな感じのものだった。マティスもミケランジェロ同様、人体に拘った彫刻家でもあったので、二人の人体の見方と表現の仕方には共通するものがあったのだろう。要するに精神性よりも、肉体性(ボリューム感)を重視するものだ。

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「装飾的身体(Figure décorative sur fond ornemental)」は、マティスの代表作の一つである。彼はこの作品を、20年代に多作していたオダリスク像の延長として描いたのだろう。1926年のサロン・デ・チュイルリに出展したところ、大きな反響を呼んだ。その反響には好意的なものと、非難がましいものとの両方があったが、この作品がマティスにとって新たなスタイルを予感させるという評価では一致していた。

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タイトルのマグノリアとは、木蓮科の花のことである。モデルの背後にある衝立らしきものの模様に、そのマグノリアが使われている。衝立の前に横たわっているのは、アンリエットだろう。白い上着と白いスカートを履き、上半身をはだけているポーズは、「赤いキュロットのオダリスク」と似ている。角度が横向きなところが違っているだけだ。

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マティスは1920年代に、オダリスクをモチーフにした多くの作品を描いた。オダリスクとは、トルコのハーレムに仕える侍女のことだ。マティスはモロッコに何度も旅をしたが、そのさいにイスラム趣味の一環として、このオダリスクに興味を覚えたのだろう。フランスでは、アングルなどが過去にオダリスクをモチーフにしていたこともあって、なじみのあるテーマでもあった。

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1920年代に入るとマティスは、再び具象的で色彩豊かな絵を描くようになる。今度の場合は、具象的なフォルムは肉感的になり、色彩もそれに応じて感性的なものになった。この背景には、マティスのたびたびのモロッコ旅行がある。モロッコに旅行したことでマティスは、ある種の異国趣味を搔き立てられ、それを絵の中に反映させようとして、このような感覚的な絵を描くようになったのだと思われる。

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1910年代の半ばから末にかけて、マティスはある種の転換期を迎えた。それまでの、装飾的で色彩豊かな技法を一旦ペンディングにして、ピカソのキュービズムの実験に共鳴するような、抽象的で理屈ばった絵を描くようになった。構図がいっそう抽象的になり、色彩的には地味でかつ単調さが目立つようになった。この時期のマティスの絵の評価は、マティス本来の傾向からの逸脱であり、したがって退化だとする見方と、新たな芸術の開発に向けての偉大な実験だったとの見方とに分かれている。前者の見方のほうが有力なようである。

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「画家の家族(La famille du peintre)」は1911年に、「赤のアトリエ」を含むアトリエ四部作の一つとして描かれた。他の三作と比較して、この絵にはかなり違ったところがある。全体に装飾的だという印象は変らないが、ほかの三作が単純な色彩配置になっているのに、これはマニアックなほどに微細なタッチで描かれている。そういう点で、この時期のマティスの絵にしては、ユニークなものである。

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