「吟遊詩人(The Bard)」と題されたこの絵は、ウェールズの歴史をモチーフにしていることから歴史画に分類されるが、背景にウェールズの風景が描かれていることから、風景画として受け取ることができる。この絵のモチーフとなったのは、トーマス・グレイの伝説的な物語で、エドワード一世によるウェールズの吟遊詩人虐殺を語ったものだ。
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トーマス・ジョーンズは、ゲインズバラの次の世代の画家で、コンスタブルやターナーへとイギリスの風景画の伝統をつないだ人である。1770年代のなかばから1780年代にかけて活躍した。イギリス風景画のパイオニアの一人リチャード・ウィルソンの指導を受け、1771年にはイギリス芸術家協会の会員に選ばれた。
「マーケットカート The Market Cart」と題されたこの絵は、田園地帯をゆく馬車を描いている。その馬車が通る道は、今日ゲインズボロー小道と呼ばれるもので、サフォーク地方にあるそうだ。おそらくこの地方が生んだ偉大な画家ゲインズバラの名にちなんだのであろう。
ゲインズバラには「ハーベスト・ワゴン」と題する絵が二つある。一つは1767年に制作され、現在はバーミンガムのバーバー美術館が所蔵している。もう一つは1784年に制作され、現在はトロントのオンタリオ美術館が所蔵している。どちらも、ほぼ同じような構図である。この二つを見比べると、後者のほうが完成度が高い。色彩が明るくしかも多彩である。
「羊飼いのいる海景(Coastal Landscape with a Shepherd and His Flock)」と題されたこの絵は、タイトルどおり、海岸をバックにして、羊飼いとかれが率いる羊の群れを描いた作品。海はおそらくサフォークの海岸だと思われる。海上には帆を上げたヨットと小舟が浮かんでいる。
「少女と子豚(Girl with Pigs)」と題されたこの絵は、人物をフィーチャーしたゲインズバラの風景画の傑作。ジョシュア・レイノルズはこの絵を、ゲインズバラの最高傑作と称した。人物を風景の添え物にしたゲインズバラの数多くの作品のなかで、この絵は少女とともに三匹の子豚を配しているところが特徴である。これらの子豚がいるおかげで、画面に躍動感と温かさが加わっている。
「市場からの道(Road from Market)」と題されたこの絵は、ゲインズバラが久しぶりに制作した風景画である。ゲインズバラは、生活のために金持ちの肖像画を主に描いていたので、好きな風景画を描く時間的な余裕がなかった。この大きな画面に風景画を描いたのは、生活に余裕ができたからだろう。
「小川と堰のある風景(Landscape with Stream and Weir)」と題されたこの絵は、タイトル通り田園を流れる小川と、そこにかけられた堰を描いたもの。そこに樹下にくつろぐ夫人と家畜が描かれている。ゲインズバラの初期の風景画の最後を飾るもので、これ以降ゲインズバラは肖像画の制作に専念する。生活のためであった。
「アンドリューズ夫妻(Mr and Mrs Andrews)」と題されたこの絵は、ゲインズバラの代表作たるのみならず、イギリス絵画を代表するものともいわれる。エリザベス二世の戴冠式を記念して選ばれた四つのマスターピースの一つに選ばれたほどである。そんなわけで、イギリス国内はもとより、世界中でゲインズバラ関係の展覧会が開催される際には、かならずリクエストされる。
「樹木のある風景(Wooded Landscape with a Peasant Resting)」と題されるこの絵は、トーマス・ゲインズバラの初期の風景画。彼が20歳の時の作品だ。ゲインズバラは、肖像画家としてまず名声を博したのだが、好みとしては風景画に傾いていた。だから、肖像画を描く時にも、かならず自然の風景を背景に描いた。かれは、風景の中の人間を意識的に描いた最初の画家と言える。
トーマス・ゲインズバラは、英国の絵画史上初の本格的画家である。その前にホガースが出現して、イギリスの最初の国産画家と言われたものだが、ホガースは版画のほうが有名で、彩色画は平凡だった。ゲインズバラは、油彩画を得意とし、人物画や風景画に優れた作品を残した。
1824年6月に、ゴヤはボルドーに移住し、死ぬまでその地にとどまった。一応休暇名目で国王の許可を得ていたが、実際にはフェルディナンド七世による自由主義者の弾圧を逃れるための亡命のようなものだった。その年ゴヤはすでに七十八歳。死ぬのはその四年後である。
「闘牛(Suerte de Varas)」と題するこの絵は、「狂人の家」や「異端審問」などとともに同じシリーズを構成するとみられもするが、ほかの作品よりかなり後の1824年に制作されており、また、ゴヤ自身闘牛に深い関心があり、1816年には闘牛をモチーフにした版画集も制作しているので、独立した作品ととらえることもできよう。
ゴヤは、1819年にマドリード郊外のマンサレナス川の岸辺に「つんぼの家」と称された別荘に移り住んだが、その年に腸チフスにかかって死に損なうという目にあった。その際に、友人の医師アリエータが献身的な看護をしてくれたおかげで、ゴヤは一命をとりとめた。この絵(Goya curado por el doctor Arrieta)は、自分に献身的な看護をしてくれたアリエータへの感謝の気持ちをこめて翌1820年に制作したものである。
ゴヤは、1808年5月の反ナポレオン民衆蜂起をテーマにした作品を二点、1814年に制作した。一つは1808年5月2日のマムルーク族の攻撃をテーマにしたもの、もう一つは翌5月3日の反乱兵士たちの銃殺をテーマにしたものだ。これはそのうち、5月2日のマムルーク族の攻撃をテーマにしたものである。タイトルは「1808年5月2日(El 2 de mayo de 1808 en Madrid)」、あるいは「マムルーク族の攻撃(La carga de los mamelucos)」とも呼ばれる。
「1808年5月3日(El tres de mayo de 1808 en Madrid)」と題するこの絵は、「1808年5月2日」の姉妹作である。前日からのナポレオン軍による鎮圧により逮捕された民兵が、ナポレオン軍の兵士らによって射殺される様子を描く。戦争絵画の歴史のなかで、最も大きな反響を呼んだ記念碑的な作品と言える。
「狂人の家(Casa de locos)」と題されたこの絵は、「むち打ち苦行者の行列」、「異端審問」、「闘牛」とともにシリーズを構成する。この作品は、ゴヤの郷里であるサラゴサの精神病院をモチーフにしたものである。ゴヤがなぜ精神病院をモチーフに取り上げたか、よくはわからない。一説には、この頃ゴヤは病気のために、耳が聞こえなくなったり、家族関係が悪くなったりと、かなりのハンデを抱えていたというから、心を病んだ人間に、惹かれるものを感じたのかもしれない。
「異端審問(Escena de Inquisición)」と題されたこの作品は、「闘牛」、「狂人の家」、「むち打ち苦行者の行進」とともにシリーズを構成する。このシリーズでゴヤは、スペインの古い因習を批判したのだが、この作品ではカトリックによる「異端審問」の風習を批判した。この風習は、15世紀の半ばに始まり、ナポレオンの時代には廃止の動きもあったが、フェルナンドの王政復古にともない、復活した。
「むち打ち苦行者の行進(Procesión de disciplinantes)」と呼ばれるこの絵は、「闘牛」、「狂人の家」、「異端審問」とともにシリーズを構成する。このシリーズは、フェルナンド七世によるペイン王政の復活に伴い、カトリック的な保守頑迷さも復活したことに、ゴヤが批判の意を込めたものと言われている。この作品は、中でももっとも批判精神に満ちている。
「鰯の埋葬( El entierro de la sardina)」と呼ばれるこの絵は、マドリード地方の民衆の風習をテーマにした作品。謝肉祭の最後の日(灰の水曜日)に、マドリードの市民は仮面をつけ、いわしをくくりつけた藁人形をかつぎながら練り歩き、郊外でその鰯を火あぶりにする習慣があった。この絵は、その行事に興じる民衆の姿を描いている。
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