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最後の晩餐:レオナルド・ダ・ヴィンチ

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「最後の晩餐」は世界の絵画史上最高傑作のひとつに数えられる。ダ・ヴィンチがミラノ滞在中に、スフォルツァ公ルードヴィゴの命を受け、サンタ・マリア・デレ・グラーツェ聖堂の食堂の壁画として、1495年から1497年にかけて製作した。保存に適さないテンペラ画法で描かれたため、早くも16世紀には損傷が現われ、以来何度も修復が繰り返されている。

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「婦人の肖像」もミラノ時代に描かれた肖像画の一つだ。同時期の作品「白貂を抱く婦人の肖像」と比較されることが多い。どちらも、上体を斜めにして顔を観客のほうに向けた構図だとか、強い明暗対比などがそのおもな要素だが、一番の共通点は、額に着けた飾り(フェロニエール)だ。

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「若い男の肖像」は「白貂を抱く婦人の肖像」と同じ頃にミラノで描かれたと考えられている。この若い男が右手で持っている紙片が楽譜であるところから、音楽家のフランチーノ・ガッフリオではないかと指摘される。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノにやってきてから数年後(1487年ごろ)に、スフォルツァ公の宮廷画家になることに成功した。そこでダ・ヴィンチは、ミラノの貴顕たちを描いた肖像画を何点か製作した。「白貂を抱く婦人の肖像」と呼ばれるこの絵は、その代表的なもので、別名を「チェチリア・ガッレラーニの肖像」というように、スフォルツァ公ルードヴィコ・イル・モーロの寵姫と言われた女性を描いたものである。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、30歳になった頃(1482年頃)フィレンツェを去ってミラノに赴いた。詳しい動機はわかっていないが、ミラノの支配者スフォルツァ公に自分の軍事技術を売り込むのが目的だったとも言われる。結局ダ・ヴィンチはスフォルツァ公に召抱えられることはなかった。その彼がミラノで最初に完成させた絵が、「岩窟の聖母」といわれるこの作品である。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、未完成のまま放棄した作品が多いことで知られている。「聖ヒエロニムス」と題されたこの作品もその一つである。彼の未完成癖の理由としてはいくつかのことがあげられているが、どうも彼には新たな関心の対象が現れると、それに夢中になってしまい、それまで従事していた仕事を忘れてしまうという傾向が強かったようだ。

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「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」は、ヴェロッキョの工房での宗教画から逸脱した世俗的な作品であり、レオナルドらしさが一層発揮されていると評されるものだ。もともとは、手の部分まで描かれていたが、後に下部が切断されて今日見るような形になった。そのもとの姿は、フランドル絵画の影響を強く感じさせるものであったと考えられる。上半身をやや斜めに向け、両手を膝の上にそろえて、顔を観客のほうへ向けるという構図は、フランドル絵画の著しい特徴である。

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「ブノワの聖母」は「カーネーションの聖母」よりやや後に描かれたが、著しい進歩、というかレオナルドらしさが強く見られる作品である。バックを思い切り暗くすることで、モチーフの人物をダイナミックに浮かび上がらせるところは、その最たるものである。幼子の肉体や聖母の着物の襞に見られる陰影も、モチーフをダイナミックに表現する効果を生み出している。

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「受胎告知」は「カーネーションの聖母」とともに、レオナルドの最初期の作品とされるが、レオナルドが単独で描いたのではなく、ヴェロッキョの工房における共同作品だろうと考えられる。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にトスカナ地方の村ヴィンチに生まれ、17歳の頃、フィレンツェの画家・彫刻家アンドレア・デル・ヴェロッキョの工房に弟子入りして画家としての修行を始めた。レオナルドは早くから絵の才能を示し、ヴァザーリを通じて彼の才能を知ったヴェロッキョが、その才能を伸ばしてやるようにレオナルドの父親を説得したのだった。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、イタリア・ルネサンスを象徴するような人物であるばかりか、人類史に屹立する偉大な人間である。絵画の歴史においても、偉大な業績を残している。彼はイタリア・ルネサンス芸術を代表する画家であり、人類の絵画史上において最も偉大な画家ともいえるのだ。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の最下列右側は地獄に落とされた人々を描いている。これら呪われた人々は、渡し守カロンによって船で三途の川を渡され、地獄の入口でミノスに引き渡される。するとミノスは、人々の罪状に応じて、地獄のなかの各部分に割り当てるのだ。そのミノスの有様をダンテの「神曲」は次のように記述している。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の最下列は、そのすぐ上の列と密接に対応している。即ち、左側については、上の列が祝福された人々を描いているのに対応して、下の列は復活した死者がイエス・キリストの呼びかけに応えて起き上がる場面を描いている。一方右側については、上の列でキリストから呪われた人々が、下の列では地獄へ引き渡される場面を描いている。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の三列目右側は、呪われた人々を描いている。彼らは天使の吹くラッパに促されてイエス・キリストの前にやってきたはいいけれど、キリストから「のろわれた者どもよ」と呼ばれ、悪魔のもとへ去るように命じられる。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の上から三列目には、中央にラッパを吹く天使たちを描き、その左右に多くの人々を配置している。そのうち向かって左側は「祝福された人々」、右側は「呪われた人々」と解釈できる。というのも、イエスが天使たちにラッパを吹かせると、右手に(画面左側に)集まって来た人々に向かって「わたしの父(神)に祝福された人々よ」と呼びかけ、左手に集まって来た人々には「呪われた者どもよ」と呼びかけているからである(マタイ伝26章)。

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最後の審判あるいは世界終末の日に当たって、天使たちがラッパを吹いて合図をしたという記事は、福音書と「ヨハネの黙示録」の双方にある。このうち黙示録の記事にある七人の天使の吹くラッパがより知られているが、ミケランジェロがこの絵の中で示したイメージは、福音書に依拠しているように思える。その部分についてマタイ伝は、つぎのように記している。

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「最後の審判」の壁画の最上列、すなわちキリストの頭上にあたる部分には、キリストの受難にかかわりのあるものを持った天使たちが描かれている。それらは、福音書が伝えるキリスト最後の場面において、キリストが架けられた十字架、十字架に架けられるに先立って鞭打たれたときの鞭打ちの為の円柱、そしてゴルゴダの丘に向かう道で頭にかぶせられた冠である。

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キリストの左手、画面向かって右側にも、聖人たちの群像が描かれている。ところがこの部分については、マタイ伝には次のように記述されている。

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キリストと同じ第二列に配されているのは聖人たちである。これは向かって左の列にいる聖人たち。キリストから見て右側の人々である。この人々についてマタイ伝は、次のように記述している。

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システィナ礼拝堂の天井画を完成させた1512年には、ミケランジェロはまだ三十台の若さだった。その若さにして、彼はフィレンツェのダヴィデ像や、サン・ピエトロ寺院のピエタ像をも完成させており、当時のヨーロッパにおける最高の芸術家としての名声を確立したのであった。そんな彼に、天井画に続きシスティナ礼拝堂を飾る作品の注文が来たのは、1534年頃のことであった。そして製作に取り掛かったのが1536年。ミケランジェロは60歳になっていた。完成させたのは四年後の秋、天井画のお披露目記念日と同じ日のことである。このあらたな作品のテーマは「最後の審判」である。

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