美を読む

00.1.jpg

日本ではゴッホを「炎の画家」という呼び方が定着している。その画風や色彩が炎のような激しさを感じさせるからだろう。しかし色彩という点ではゴーギャンのほうが激しい。ゴーギャンは暖色系の原色を駆使して絢爛たる色彩世界を現出した。これにシンプルな構図が相まって、ヨーロッパの絵画史上例を見ないような世界を作り上げた。ゴーギャン以降の画家でゴーギャンの影響を受けなかったものはいないと言ってよいほど、その後の西洋絵画に深刻に働きかけた。

seurat91.1.1.jpg

サーカスを描いたこの絵は、スーラの最後の作品となった。この絵を未完成のままで1891年のアンデパンダン展に出品している最中に、スーラは死んだのである。未完成のまま出品したことには、スーラなりに死の予感が働いていたのだろうか。

seurat90.3.jpg

1890年、スーラは生涯最後の夏をドーヴァー海峡に面した港町グラヴリーヌで過ごした。グラヴリーヌは、カレーとダンケルクのちょうど中間にあって、ラー川を運河とし、運河沿いに港湾施設のある町である。この町でスーラは、午前、午後、夕方と刻々と表情を変える港の光景を、四枚の板絵と四枚のカンバスに描いた。

seurat90.2.1.jpg

晩年のスーラは、サーカスやミュージックホールといった大衆娯楽施設を頻繁に訪れ、そこからインスピレーションを得ようとしていた。19世紀末のパリには、そうした娯楽施設があふれていた。そこにインスピレーションを求めた芸術家としては、スーラは先駆者の一人と言ってよい。彼に続いてロートレックやピカソが、そうしたものからインスピレーションを得るようになる。

seurat90.1.jpg

「化粧する若い女」と題したこの絵は、スーラ晩年の愛人マドレーヌ・ノブロックを描いたものだ。彼女はスーラのモデルをしていたが、そのうちにスーラの子どもを産んだ。スーラが死んだときには、彼の二人目の子どもを妊娠していたが、その子は死産となった。スーラに死なれた彼女は頼るべき人もいなかったが、さいわいにスーラの母親に認められて、スーラの遺品の一部を相続できた。それを元手に帽子のショップを開いたりしたが、彼女はどうも世渡りが下手だったらしく、店は倒産して貧困の生涯を送ったようだ。

seurat88.6.jpg

1888年の夏に北フランスの港町ポール・アン・ベッサンで描いた六点のうちの一つ。こちらは、ポール・アン・ベッサンの港を描いている。その視点は、丘の上から港全体を見下ろすもので、入り組んだ崖の間に展開する港の複雑な景色が俯瞰されている。

seurat88.5.1.jpg

1888年の夏の数日を、スーラはドーヴァー海峡に面した漁村ポール・アン・ベッサンで過ごし、そこで六点の絵を制作した。この絵はそのうちの一枚、タイトルはずばり「ポール・アン・ベッサン」である。

seurat88.4.jpg

スーラは、南フランスの明るい風景よりも、北フランスの穏やかな光を好んだ。その点では、印象派の次の世代の画家のなかでやや特異な作家だったといってよい。ゴッホやゴーギャンが南仏の強烈な光を前にして鮮やかな色彩に目覚めたのに対して、スーラはノルマンディやイルドフランスの穏やかな光を好んで描いたのである。

seurat88.3.1.jpg

「ポーズをする女たち」で、人物画への点描法の適用の可能性を確かめたスーラは、続く大作「サーカスのパレード」において、夜間のサーカスの人物たちを、点描法で描くことに挑戦した。この絵を通じて、明るい野外の風景を表現したことに始まる点描法の可能性が、飛躍的に広がったと言える。
seurat88.2.1.jpg

「ポーズする女たち」の制作過程で、スーラは例によって多くの習作を残しているが、そのうち三人の裸体モデルそれぞれについて、かなり完成度の高い作品を描いている。上は「立ち姿のモデル」を描いたもので、これだけ単独の作品としても十分鑑賞に耐える。評論家のジュール・クリストフはこの作品を褒めて、アングルの泉よりはるかに純粋で甘美であると絶賛した。

seurat88.1.1.jpg

スーラは、1888年のアンデパンダン展に大画面の「ポーズする女たち」を出品したが、これは散々な悪評をこうむった。悪評の理由には二つあった。一つは、人物画に点描法を適用することの是非について。もう一つは、裸体の取り扱い方が猥褻だと言う非難だった。

seurat87.1.jpg

1887年の夏、スーラは北フランスの海岸には行かず、パリ周辺でスケッチを楽しんだ。「グランド・ジャット辺のセーヌ川」と題するこの絵は、その成果の一つだ。グランド・ジャット島のあたりを流れるセーヌ川をモチーフにしている。

seurat86.3.jpg

1886年の夏にオンフルールで描かれた七点のうちの一つ。オンフルールの港とそこに係留されている船「マリア」号を描いている。この船は、オンフルールとイギリスのサザンプトン港を結ぶ定期航路を走っていたものだ。

seurat86.2.jpg

「オンフルールの夕暮」と題したこの絵は、オンフルールの町の西の郊外に広がる浜を描いたものだ。この絵でもスーラは、港町のたたずまいではなく、何気ない海景を淡々と描いている。

seurat86.1.jpg

1886年の夏、スーラはセーヌ河口の港町オンフルールで過ごし、そこで七点の風景画を仕上げた。スーラは、冬はアトリエで大画面の絵に取り組み、夏は野外で比較的小規模なキャンバスに風景画をスケッチするという伝統的なスタイルを踏襲していたのである。

seurat85.2.jpg

1885年の夏、スーラはノルマンディーに滞在して、そこの風景を描くうちに、点描法の試行を行った。「オック岬」と題したこの絵は、その成果である。スーラがこの作品を通じて行おうとしたのは、色彩を個々の色の点の集合として表現することであったが、この絵をよく見ればわかるように、まだ本格的な点描画とは言えない。ブラシを横に掃いたようなタッチが目立つことから、この時点では、点描画というよりは、洗練されたバレイエ画法と言った方がよい。しかし、ここで点描のこつをつかんだスーラは、グランド・ジャット島の描きなおしの作業を通じて、点描法をさらに洗練させてゆく。

seurat85.1.1.jpg

「ラ・グランド・ジャット島の日曜日」は、スーラにとって大展開をもたらす作品になったばかりか、ヨーロッパの絵画史に転機をもたらすものとなった。この作品によって、点描画がほぼ完成された形で示され、人々はこの絵に、印象派に続く新しい時代の夜明けを感じたのである。

seurat84.1.2.jpg

スーラは1884年、24歳にして最初の大作「アニエールの水浴」を制作し、その年の官展に出品したが落選した。そこで同年春に催された第一回アンデパンダン展に持ち込んだところ、大いに注目された。自然主義からの移行を示す画期的な作品として評価されたのである。

seurat00.jpg

ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat 1859-1891)は、31歳の若さで死んだ。したがって彼の画家としての実質的な活動期間は10年にも満たなかったが、美術史上には大きな足跡を残した。彼が若い画家として登場した1880年代は、印象派の円熟期であり、次の時代への鼓動がそろそろ聞かれた時代であった。そうした時代背景にあってスーラは、印象派の次の世代を担うチャンピオンの一人として名声を確立したのだった。彼が「グランドジャット島」を制作したのは25歳の時である。スーラ独自の手法である点描法を駆使したこの作品を完成させてから死ぬまでのわずか数年の間が、彼の画家としての本格的な活動期である。この短い期間にスーラは、実験的な作品を含め、数々の作品を送り出した。

laut99.2.jpg

ロートレックの最後のポスター作品は1900年の「ラ・ジターヌ」である。これは、アルフレッド・ナタンソンから依頼された仕事で、ジャン・リシュパンの戯曲「ラ・ジターヌ(ジプシー女)」の舞台化を宣伝することを目的としていた。その舞台では、ナタンソンの妻マルト・メロが運命の女を演じることになっていた。

Previous 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13



最近のコメント

アーカイブ