「マハとセレスティーナ(Maja y celestina)」と題されるこの作品は、「バルコニーのマハたち」と対をなすもの。ゴヤの財産目録の中に、「バルコニーの若い女性を描いた2枚の絵」とされるものがあることからわかる。どちらも、売ることは考えておらず、自分自身の気晴らしのために描いたものであり、マドリードにあったかれの家の一室を飾っていた。
「着衣のマハ(La maja vestida)」と題するこの絵は、「裸のマハ」と一緒にプラド美術館に展示されている。この二つは、もともとゴヤの時代の宰相ゴドイのコレクションであったものだ。「裸体」のほうが先に制作され、「着衣」のほうが後で制作されたようである。ゴドイは、「裸体」のカモフラージュ用に、着衣のマハの制作をゴヤに依頼したと信じられている。
ゴヤは、1792年に重病を患い、聴覚を失ってしまった。かれにとってはショッキングな出来事で、深刻な鬱状態に見舞われたようだ。絵画制作の注文を受ける余裕もなくなったほどである。そんな折に、自分自身への慰めのために小品をいくつか描いている。「狂人のいる庭( Corral de locos)」と題する作品はその一つである。
「サン・イシードロの牧場( La pradera de San Isidro)」と題されたこの作品は、パルド宮殿を飾るタペストリーのための下絵として制作された。パルド宮殿は、時の国王カルロス三世の離宮である。ゴヤは、1786年にカルロス三世の国王付き画家に任命され、その仕事の一環としてパルド宮殿のタピストリー制作にかかわった。ゴヤはその下絵をいくつか描いており、この作品はその一つである。
「マヌエル・オソーリオ・マンリケ・デ・スニガ(Manuel Osorio Manrique de Zuñiga)」と題したこの肖像画は、男の子の肖像画としては、ピカソの作品「ピエロに扮したパウロ」と並んで、美術史上最も有名なものである。モデルの少年は、スぺインの大銀行サン・カルロス銀行の理事であり、財力に物を言わせてゴヤを雇い、家族の肖像画を数点制作させた。マヌエルは彼の末子であり、この時三歳か四歳の子供だった。
ウィリアム・ホガースが1751年に制作した版画「ビール通り(Beer Street)」は、「ジン横町(Gin Lane)」と一対になっている。これは、1750年に制定された法律「焼酎販売法( Sale of Spirits Act 1750)」の宣伝のために作られたものと言われる。焼酎販売法は、外国から輸入されるジンなどのスピリット類が、イギリス人を堕落させているとし、かわって国産ビールを飲むように勧める法律である。その法律の宣伝になぜホガースがかかわったのか。おそらくホガース自身に、外国から輸入される焼酎類に反感があったからと思われる。
ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election)」の第三作は「投票(The Polling)」と題する。投票の当日の様子を描いたものである。版画ではよくわからぬが、油彩で見ると、右側がブルー(トーリー)、左側がオレンジ(ホイッグ)の旗である。それぞれの旗の下に各党が陣営を構え、やってくる有権者に投票を呼び掛けているところだ。
ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election )」の第二作は「投票の呼びかけ(Canvassing for Votes)」と題する。有権者の支持を得るための候補者の選挙運動を皮肉っぽく描く。というのも、彼らの選挙運動は買収という形をとるからである。18世紀のイギリスの選挙では、票の買収が選挙運動の中心だったことを思わせる。
ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election)」は、四枚組のシリーズで、当初は油彩画で書かれたものを版画に作りなおしたものだ。その際に、画面の構成を左右逆にしている。モチーフは、1764年に催された衆議院選挙で、オックスフォード選挙区の様子を描いている。当時の選挙は制限選挙で、しかも記名式とあって、賄賂や買収が横行していた。そんな不正選挙の様子を、面白おかしく描いたものである。風刺版画家ホガースの集大成的な作品との評価が高い。
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