世界情勢を読む

世の中のルールや人間の倫理的感情を一切無視して、自分の個人的な利益のためにはどんな悪事も躊躇わない人間をならず者と定義するなら、トランプはならず者そのものだった。この男は、アメリカ大統領という地位を利用して、自分の個人的な利害のために悪事の限りを尽くした。それを大多数のアメリカ国民から非難されて、大統領の地位から追われると、最後まで抵抗し、あまつさえ暴力によって自分の地位を保とうとまでした。人類史上希に見るならず者であり、近年これに匹敵するのはわずかにヒトラーだけであろう。

エズラ・ヴォーゲルは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者として日本では人気がある。一方、鄧小平の伝記を書いたことで中国人にも人気がある。そのヴォ―ゲルが、1500年にわたる日中関係の歴史を研究した本「日中関係史」を書いた。本人は日中どちらかに肩入れしているわけではなく、かえって日中両国の双方の味方だと言っている。その日中両国の関係が、近年あやしくなっている。日中両国は本来友人同士であり、仲よく共存すべきである。ところが対立がエスカレートしている。どうしたら対立を乗り越えて、本来の望ましい関係に戻ることができるか。そんな問題意識からこの本を書いたそうだ。読んでの印象は、第三者の視点から日中関係のこれまでの歴史を振り返り、未来に向けて望ましい関係を築いてもらいたいという気持ちが込められていると感じた。

雑誌「世界」の最新号(2021年1月号)が、「ポスト・トランプの課題」と題する特集を組んでいる。トランプ以後というよりは、アメリカは何故トランプという現象を生んだのか、という問題のほうに重点がある。何本かの興味ある文章が寄稿されていて、小生は現代政治を考えるうえでのいくつかのヒントのようなものを得た。中でも最も参考になったのは、金子歩の小論「犬笛政治の果てに」だ。

タイトルにある中国の行動原理とは、政府を中心とした中国の主に対外的な行動を動かしている原理のことを、著者は意味している。その中国の対外行動を著者は困ったものだと見ているようだ。かなり自己中心的で一方的だ。それは日本に対する官民あげての攻撃ぶりを見れば明らかだ(2012年に日本政府の尖閣諸島国有化直後の反日暴動はその最たるものだった)。一方で中国人は、「中国は・・・相互に尊重しあい、公平で正義に則った、協力的で互恵的な新しい国際関係を推進してく」と、世界に対して大見得を切る。そういう中国の行動ぶりが、著者の目にはかなり特殊に映るということらしい。

イランの核科学者モフセン・ファフリゼデが殺害された事件は、状況証拠からしてイスラエルの仕業と思われている。なぜそんな無法なことをしたのか。イスラエルはイランの核開発に脅威を感じており、それをマヒさせるために、イランの核開発をリードしてきたファフリゼテを殺害したのだろうとする見方が流通している。この殺害に対して、イラン側がすくさま報復を声明するなど、過剰な反応を示したことがそれを裏付けていると見られてもいる。

著者は中国史の専門家のようだが、中国は嫌いだという。ではなぜ中国を専門にするかというと、それは中国が面白いからだという。我々日本人は、長い歴史的な背景から中国を理解したつもりになっているが、じつはわかっていない。中国人の発想がわからないのだ。だから不気味に感じたり、著者のように嫌いになる日本人が多い。今の日本に充満している中国嫌いは、そんなことが原因で起きている。だから、中国と付き合おうと思ったら、中国人の発想の仕方と、それにかかわる論理を理解しなければならない。どうもそんなことを著者は言いたいようである。

今回のアメリカ大統領選挙では、現職の大統領であるトランプが、根拠もなく選挙の不正を訴え、なかなか敗北を認めなかったが、ついに敗北を認めたようで、バイデンへの政権移行に妥協する旨を表明した。その言い方には玉虫色の所もあり、不正の追及は引き続き行うなどと強気なことも言っているが、事実上の敗北宣言だと大方には受け取られている。それを踏まえて、今回の事態はアメリカの民主主義が機能した証拠だとする意見が圧倒的だ。だが、中には否定的な意見を言う者もいる。今回の事態は、アメリカ民主主義の脆弱性を衆目の前にさらしたと言うのだ。

毛利和子の近著「日中漂流」は、タイトルにあるとおり、21世紀に入って漂流する日中関係に大きな懸念を投げかけている。日中関係は、戦中戦後の不幸な時期を経て、日中国交正常化によって、一時期きわめて良好な関係を築いたかに見えたが、それも束の間のこと、21世紀に入ってからは、険悪な状況に陥り、政府関係はもとより国民感情のレベルにおいても、相手方への不信が高まって、かえって史上最悪の関係に陥っている。その関係は、近い将来武力衝突にも発展しかねない危うさを抱えている。そういう不幸な事態に陥らないために、両国、特に日本は何に心掛けねばならないか、そういった切羽詰まった毛利の問題意識が、この本からは切々と伝わって来る。

毛利和子は、現代中国政治の研究家で、日中関係について詳しい。岩波新書から出した「日中関係」は、冷戦期から日中国交回復に続く良好な関係の時期を経て、2005年の反日デモが物語る対立関係の激化に至るまでの時期を解説していた。「中国政治」と題した小冊子は、それから十年後の2016年に出したもので、「習近平時代を読み解く」という副題が示唆するように、習近平登場以後の現代中国を、主に政治・経済の面から分析したものである。

岩波新書版「シリーズ中国近現代史」の第六巻「中国の近現代史をどう見るか」は、中国近現代史の出発点を19世紀初頭に求め、それ以降200年にわたる「歴史的・社会的歴史層」の特徴を剔抉したうえで、それを今日の中国を考える際のよりどころにするという方法をとっている。著者の言葉で言えば「200年中国」を展望した現代史の試みということになる。

アメリカ大統領選の開票作業が大詰めを迎え、バイデンの勝利が確定したと報じられている。ところがトランプは、多くの不正が行われたと根拠のないデマをとばし、敗北を認めようとしない。徹底的に戦って勝利して見せると豪語さえしている。そこで野次馬連中の中には、トランプが一連のテクニックを弄して、逆転勝利する可能性を云々するものもいるが、じっさいには、そんな事はおこらないだろうと、一般に受け取られている。

シリーズ中国近現代史⑤「開発主義の時代へ」は、1972年から2014年までの時期をカバーしている。いわゆる改革開放時代が主な対象である。中国の改革開放は、普通は1978年以降に始まると考えられているので、この時代区分の仕方は意外に思えるかもしれない。1972年といえば、毛沢東はまだ存命だったし、文革も終わっていないからだ。しかし、ニクソンショックや日中国交正常化は1972年のことだし、この年あたりから、中国の改革開放への動きが始まったと著者たちは見ている。毛沢東は教条的な印象が強いが、実際には複雑な人間で、経済発展を重視してもいた。そうした立場から改革開放の重要性も認識していた。だから、1972年を改革開放の開始時点と位置付けることに無理はないというのが著者たちの見方だ。

岩波新書の「シリーズ中国近現代史」第四巻「社会主義への挑戦」(久保亨著)は、第二次世界大戦が終了した1945年から、中華人民共和国の成立を経て、1971年に国際連合に加入するまでの、四半世紀をカバーしている。その間における中国の歴史は、短期間であるにもかかわらず、激動に満ちていた。内戦の結果成立した共産党政権、朝鮮戦争への参戦、強引な社会主義化とそのひずみ、そして文化大革命によるすさまじいほどの混乱。こういった出来事が続いた。

核兵器禁止条約の批准国が50を超え、来年一月から発行することになった。この条約は、核兵器を非人道的で違法だと宣言している。だから核使用の抑制に一定の効果があると期待されているが、核保有国のすべてと、核保有国と同盟関係にある諸国が批准を拒絶している。唯一の被爆国である日本も、同盟国アメリカに配慮して批准を拒絶し続けている。

岩波新書版「シリーズ中国近現代史③」は、「革命とナショナリズム」と題して、1925年から1945年をカバーしている。1925年は孫文が死んだ年であり、1945年は抗日戦争が勝利に終わった年である。その後中国は国共内戦に突入し、共産党が権力を握る。だからこの巻がカバーしている時代は、孫文の革命理念を継承しながら、新しい国民国家としての中国を準備した時代と言えよう。

岩波新書版「シリーズ中国近現代史」②は、1894年から1925年までの約三十年間をカバーしている。清朝が自滅的に崩壊し、その後中国という国民国家の建設に向けて動いていた時代だ。この時代を著者は、既成の見方からなるべく自由な立場から、できるだけ相対的に見ていきたいと言っている。既成の見方の代表は、中共史観ともいうべきもので、この時代を過渡的なものと位置づけ、最後には中国共産党が革命へと導いていったとする見方である。それに対して著者は、「この時期は、『救国』のためのさまざまな考えが溢れ出し、『中国』の人々の想像力が最大限に膨らんだ時期」であり、現代では見られない『中国』のさまざまな可能性が示された時期」と見ている。

岩波新書版の「シリーズ中国近現代史」の第一巻は「清朝と近代世界」と題して清朝の歴史を対象としている。清朝は、現在の中国の直前の王朝であったから、中国近現代史の前触れとして清朝の歴史を取りあげるのは自然なことである。日本の近現代史を幕末から始めるようなものだ。だが、この本は(中国近現代史に直接つながる)清朝の末期だけではなく、清朝の歴史全体をカバーしている。それには理由があると著者は言う。中国という国家概念が成立したのは清朝時代のことであって、その清朝の時代にほぼ現在の中国の領域が固まった。明代以前には、満洲地域やモンゴル、西域やチベットは、かならずしも現在言われているような意味での中国の領域には含まれていなかった。それらの領域は、民族的にも異なり、従って中国の王朝が直接統治していたわけではなかった。清朝になって初めて、それらの領域とそこにすむ民族とが、中国の王朝の統治に組み込まれたのである。したがって、清朝こそが現代中国国家の領域と民族構成とを直接に決定したのである。そうした意味で清朝は、中国近現代史の前提というか、その不可欠の一部だというのが、著者の基本的な見方である。

ニューヨークで、日本人ピアニストの男性が、アメリカ人少年少女の集団八人に襲撃され、大怪我を負わされた。被害者の証言では、少年少女たちが「チャイニーズ」と叫びながらいきなり襲ってきたというから、人種差別意識がもたらしたヘイトクライムと考えられる。

天児慧の「中華人民共和国史新版」(岩波新書)は、中華人民共和国の誕生から習近平の登場する2012年頃までをカバーしている。新中国の通史という触れ込みだが、カバーする期間に着目すれば、一応そう言えるかもしれぬ。その通史を著者は、五つのファクターを意識しながら書いたということらしい。その五つのファクターとは、革命、近代化、ナショナリズム、国際的インパクト、伝統のことを言う。革命に着目するのは、新中国が社会主義革命によって成立したという建前からすれば穏当なところだろう。だがどんな革命だったのか、それが必ずしも明らかにはされていない。この本を貫いているのは、新中国の歴史を革命の進展として見るのではなく、権力闘争の歴史としてみる視点というふうに伝わって来る。だから、21世紀の中国がどんな体制の国なのかそれが不明瞭になっている。権力闘争の結果たどりついた体制というだけで、それが果たして社会主義国家といえるのかどうか、そのへんが曖昧になっている。

小島晋治、丸山松幸共著の岩波新書版「中国近現代史」は、1840年の阿片戦争から1980年代初頭までの中国近現代の通史である。日本の近現代史は、1853年のペリーの黒船来航から始まるわけだが、中国はそれより十数年前にイギリスとの戦争に敗れたことで、いやおうなく西洋諸国の圧力にさらされるかたちで近代史への扉を開かされたといえる。その後日本は西洋からの圧力に耐え、独立国家としての面目を保ったのに対して、中国は半植民地化され、苦難の歴史を歩んだ。その違いはどこから来たか。この本はそんな疑問に一定程度答えてくれる。

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