ジャパンライフ事件はこの国の無軌道ぶりの一端を見せつけた。未曽有の規模の詐欺事件ということもあるが、時の権力者が、その詐欺に何らかの形でかかわったという嫌疑が広くいきわたり、国全体が詐欺劇場の観を呈したものだ。
日本の政治と社会
雑誌「世界」の最近号(2020年10月号)が、「攻撃する自衛隊」と銘打って、最近の自民党政権による好戦的な傾向を分析している。その動きの象徴的なものは、イージス・アショアの配置を断念するかわりに、敵基地攻撃能力の獲得を追求しようというものだ。イージス・アショアはもともと、敵からのミサイル攻撃の防御を目的したもので、あくまでも自衛のための措置と言っていたものが、積極的に敵国の領土内の基地を攻撃しようというのは、先制攻撃の要素が強いというべきであり、したがって自衛を逸脱したものと言わざるをえない。
自民党内の、猿芝居を思わせる権力闘争の結果、大方の予想通り菅前官房長官が新しい総裁、つまりこの国の首相になった。国民の多くは、この結果に異議を唱えていないということらしいが、ひとり複雑な気持ちを抱いている人々がいる。沖縄県の人々だ。菅新首相は、安倍前総理とかぶさる期間官房長官を務めてきたし、その立場から、沖縄の民意を無視して辺野古の米軍基地建設を進めてきた。首相になっても、その立場はかわらないだろう。むしろ、安倍前総理以上に、辺野古基地建設の推進に前のめりになるのではないか。沖縄の人々の大部分は、そう受け止めているのではないか。
各派閥の支持を受けて、菅候補の圧勝は間違いないと思われていたが、どうのその流れに変化が生じる可能性が出てきた。菅候補が、党・内閣の人事は自分の一存で決め、派閥の意向は無視すると発言したためだ。これには、二階派を除く各派閥は反発するはずだ。菅候補の勝利は各派閥の支持があってこそだ。その支持は当然、見返りとセットになっている。その見返りである人事をめぐって、派閥の意向を無視するとあっては、派閥として菅候補を支持するモチベーションがなくなる。そんなわけで、菅候補の独断的な姿勢に反発した派閥が、岸田候補に鞍替えする可能性はゼロではなくなった。
安倍晋三総理の突然の辞任を受けて、さっそく自民党の総裁選びがはじまったが、総裁選の公示をまたずに、次期総裁が決定したようである。例によって派閥間の談合が行われ、その結果、岸田、石破のグループを除いた全派閥が菅官房長官に一本化したと報道されている。今回は、自民党員の広い参加を得ておこなうのではなく、実質国会議員だけで決めようということだから、これで結果は決まったといえるのである。いつものこととはいえ、自民党の体質を思い知らされる。国民の目を無視して、自分たちのうちわの都合だけで、次の総裁、つまり総理大臣を決めようというわけだ。
安倍晋三総理大臣が突然辞意を表明した。あまりにも突然のことだったので、メディアをはじめ大方の論調は驚きを隠せないといった受け止め方だが、辞意そのものについては、比較的中立的な反応を示しているようだ。とはいっても、どうでもよいという受け止め方でもない。どんなものごとにも終りはあるのだから、安倍政権に終りが訪れても不思議ではない、といった受け止め方だ。
黒い雨訴訟に関して、原告の訴えを全面的に認めた広島地裁の判決を聞いた時、小生はそれを当然のことだと思った。また、国は控訴することなく、この判決を確定すべきだとの原告の思いも理解できた。だが、国は控訴に踏み切った。その理由を聞いて、違和感を抱いたのは小生のみではあるまい。
コロナショックによって日本経済に深刻な影響が出ており、今年度のGDPが大幅に減少することが確実視されている。そこで景気対策としての消費税減税が、野党はじめ各方面から提案されている。それに対して安倍政権は、いまのところ否定的だ。安倍晋三総理自身は、この消費税は福祉施策のための特定財源としての性格を強くもっていることを根拠として、その減税には消極的だ。また財政の自称専門家たちの多くも否定的だ。小生についていえば、期間限定での減税は、景気対策として効果的だと考える。ドイツやイギリスでは、日本の消費税に相当する税目を期間限定で減税している。日本も同じようなことができないわけではない。
ALS患者に対して薬物を投入し死亡させた医師二人が嘱託殺人罪で逮捕されたという。このニュースに最初に接した際には、事件の背景がはっきりしなかったので、なんとも判断のしようがなかったが、その後、新聞等で報道されていることからして、嘱託殺人で起訴されるのはやむをえないと考えるに至った。
ロシアの憲法が、国民投票を経て改正された。ヴラヂーミル・プーチン大統領の仕込んだ改正だという印象があまりに露骨なので、これをプーチンの憲法改正と呼ぶ向きが、ロシア国内を含めて、強く指摘されている。実際この改正によって、プーチンは2036年まで大統領の座にとどまれる可能性が高まったし、その他の点でも、執行権力の強化が図られたようだ。というのも小生は、まだ改正憲法全文をつぶさに読んでいないので、いずれ詳しく読んだうえで、小生なりの批評をまとめてみたいと思っている。
今回のコロナ騒ぎでは、日本は対策がずさんだったにかかわらず、いわゆる感染爆発が起らず、欧米諸国に比べてはるかに規模の小さな感染にとどまったというので、欧米諸国からは不思議に思われている。その理由を小生なりに考えている。この感染症は密接感染から生じることがわかっている。日本では人々は、この密接感染を引き起こすような行動様式からほど遠い行動を日頃からとっている。日本人は欧米諸国の人々のように、互いにべったりくっついたりはしない。挨拶代わりにハグをしたり、親愛の感情を示すためにキスをしたりはしない。会釈か、あるいはせいぜいお辞儀程度でコミュミケーションが成立する。そういう文化的な背景が、日本でコロナを爆発感染させなかった大きな理由だと思っている。
法務大臣といえば、検察を中心とする法務官僚組織の頂点に位置する。人事にも強い影響力を行使できる。検察にとっては、ボス的な存在といってよい。だから、これまで検察が法務大臣に盾をついたということは聞かない。検察は法務大臣を自分たちの代表者、最高上司として遇してきた。それがこのたび、検察が法務大臣の経験者、それも直近に法務大臣をつとめた人物を逮捕するという事態が起きた。前代未聞の珍事だということである。
安倍政権が進めているカジノ推進政策に小生は反対してきた。安倍政権の言うこととは裏腹に、このカジノの本質は、アメリカのばくち打ちに日本人の財布をささげるものであって、その意味では外国人に国の富を売り渡す売国政策以外のなにものでもないからだ。しかもこれが始まったのは、トランプの要求に安倍総理が応じたことからだとは、いまでは誰もが知っていることである。トランプは、自分の盟友であるカジノ王アデルソンのために、もうけの便宜を図ってやったのである。
北朝鮮による拉致被害者のシンボル的な存在であった横田滋氏が老衰のために亡くなった。生きている間に最愛の娘と再会することができずに、さぞ無念だっただろうと思う。これについて、残された被害者家族を代表する形で、飯塚繁雄氏がインタビューに応じていたが、その言葉の端々から、これまでなにもせずに放置してきた政府への怒りが伝わってきた。たとえば、「何もしないでほったらかしにしたら、日にちがどんどんたっていく」といった言葉だ。
一度は本格化するかと思われた九月入学問題が、なんとなく立ち消えになった。小生はそれでよかったと思っている。子どもの一生にとって深刻な影響を及ぼすこの問題が、拙速な議論で決められるのはかなわないと思ったからだ。だいたいこの問題は、コロナ騒ぎによる学校休止が発端であって、休校による子供の学力低下を補正するための方策として打ち上げられたはずだ。ところがいつの間にか、九月入学は来年からというふうに、すり替わってしまった。来年から導入するという前提なら、コロナ騒ぎとは関係がなくなるわけで、なにもいま議論する必要もなくなるわけだ。
検察官幹部定年騒ぎの当事者である東京高検の某検事長が、週刊誌に接待かけマージャンをすっぱ抜かれて、辞職を余儀なくされた。この問題について小生は、別稿で当人が自発的に辞職したらどうかと勧めていたが、当人が自発的に辞職する様子は見えず、また安倍政権も、強い批判を浴びて延長法案を棚上げしたにもかかわらず、世間の鎮静化を狙って、当初方針通りこの男を検事総長にするつもりでいることが露骨に伝わってきたところ、この事態になったわけだ。
検察幹部の定年を政権の意志によって延長できるとする法案が、野党のみならず、法務省幹部OBや一般国民を巻き込んだ騒ぎになっている。とくに、法案をごり押ししようとする動きに危惧を表明する意見が数百万単位でツイートされたことは、日頃こういう問題にはあまり関心を示さなかった国民が、これを深刻に受け止めていることの表れだろう。安倍応援団はこれをでっち上げなどといって貶めているが、そういう性質のものではあるまい。
コロナウィルス騒ぎで、政府や自治体がいわゆる自主規制なるものを国民・住民に要請し、それに対して国民・住民は大した不平も言わずに従っている。これはあくまで「要請」であるから、国民は強制されているわけではないので、是非自主的に従っていただきたいと、為政者たちは言うので、小生もそのつもりで従ってきた。従うことの不都合と、従わないことの不都合を比較考量すれば、従うほうの不都合が小さいと判断したこともある。ところが世の中には、従うほうの不都合のほうがはるかに大きくて、従いたい意思があってもなかなか踏み切れない者もいるだろう。
やまゆり園事件は、障害者は生きる価値がないという身勝手な思いが引き起こしたといわれ、その異常さが人々を不気味にさせたものだが、実はそんなに異常な出来事ではなく、ある意味現代日本に蔓延している価値観を反映したものだと言えなくもない。それは、新自由主義的な発想にもとづく格差社会容認論だ。格差を容認する思想は、人間を勝ち組と負け組にわけ、勝ち組は努力したのだから報われて当然、負け組は努力が足りないから自業自得だ、というふうに発想する。その発想が極端化すると、障害者のような役に立たない人には生きる価値がないという考えにつながる。
コロナウィルスでパニックに陥ったらしい安倍晋三総理大臣が、ほとんど独断で、小中学校の一斉休校を全国の教育現場に要請した。要請であるから、国民はかならずしも従う義務はないようだが、そこは日本人の国民性。ほぼ総理大臣の言うことに従って休校に踏み切ったようだ。小生が住んでいる千葉県船橋市でも休校が実施され、毎日朝の登校時に聞かれる子どもたちの歓声が聞えてこない次第だ。
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