レストランを出でてミケランジェロ広場に向ふ。文子を先に立てて歩み行くに、彼狭隘な坂道を選びて上る。かなり急勾配にて息が切れるほどなれど両側に展開する光景は一見に値せり。暫時して小高き丘の上に立つ。丘の入口に一の門あり。地図にて確かむるにジョルジョ門とあり。門の傍らにはベルヴェデーレ要塞あり。どうやら余らは道を一筋間違へたるが如し。ミケランジェロ広場は別の丘の上にあり、そこへ行くには一旦谷に下りてまた上る要あり。
旅とグルメ

(ドゥーモ)
メディチ家礼拝堂より路地伝ひに歩きドゥーモ広場に到れば眼前に突然巨大な伽藍群現る。フィレンツェの象徴たるドゥーモを中心に大聖堂、洗礼堂、ジョットの鐘楼等なり。いづれの建物も意匠といひ規模といひ歴史といひ世界に類稀なる建築物なり。

(フィレンツェ、シニョリーア広場)
九月廿八日(月)半陰半晴。六時半起床、七時に朝食、食堂からの帰りにイタリア人女性客とすれ違ひざまチャーミングな微笑を送らる。イタリア女は愛嬌づきたるもの多し。

(パンテオンの正面列柱)
クィリナーレ通りの路上タクシを拾ひパンテオンに向ふ。乗り込みし直後文子タクシメータ見当たらずと言ふ。運転手にタクシメータはいずこにありや問ふにバックミラーのあたりを指さす。なるほど通常バックミラーのあるべきところにタクシメータあり。感心するに運転手曰く、モデルノなりと。タクシは狭小なる路地を右つ左つしながらパンテオン広場の手前にて止る。タクシメータには七ユーロ五十セントの表示あり。余十ユーロ紙幣を差し出す。運転手つりは一ユーロでよいかと言ふ。余二ユーロ返すべしと答ふ。運転手さしたる不満も言はず二ユーロを返したり。

(コンドッティ通り)
コンドッティ通りはカヴール橋方面とスペイン広場を結ぶ通りにして両側にはいはゆるブランドショップ櫛比してあり。西側より歩めば正面にスペイン階段を望む。通りの両側の建物はさして高からずといへど通りの幅狭きゆえに常に日影に覆はれたり。その陰と正面のスペイン階段の明度と著しき対照をなす。スペイン階段の上部には双塔の寺院聳ゆるなれど目下修復工事中にて仮説枠を覆ふやうにしてグロテスク広告掲げられてあり。頗る興ざめと言ふべし。

(ポポロ門)
九月廿七日(日)快晴。朝食後、九時にホテルを辞す。昨日同様チェルナイア通りを歩みてマイバスに至り、眼鏡屋の所在を聞く。老眼鏡を買はんためなり。テルミニ駅ビル内にありと言ふ。

(トラヤヌスのフォロよりフォロ・ロマーノ方面を望む)
フォロ・ロマーノは古代ローマの政治的中心たりし所なり。共和政時代には市民の集会の場として、帝政時代にはローマの偉大さと栄光を讃ふる場として象徴的意義を持たされたりと言ふ。中世の初期に蛮族の侵入を受け一時荒廃の限りを尽くしたれど、近世になりて発掘されて以来古代ローマの貴重なる遺構として今に至るまで大切に保存せられをるなり。その規模はパラティーノの丘と併せて東西三百米、南北四百米ほどなり。

(コンスタンティヌスの凱旋門)
コロッセオを入口とは反対側より出るに大いなる広場あり。その一角に凱旋門立ちてあり、すなはちコンスタンティヌスの凱旋門なり。紀元四世紀コンスタンティヌス皇帝在位十周年を記念して建てられたりと言ふ。パリの凱旋門のモデルとなりし門にて、高さ廿一米、幅廿五米、奥行き約七米、三つの通過口を有し壁面には華麗なる装飾を施せり。

(レプブリカ広場)
九月廿六日(土)三時頃小便のために目覚めて後熟睡することを得ず、うとうとしをるうち七時頃夜が白み始めたり。日本の夜明と異なり一気に明るくならず、三十分ほどかけてやうやう明るくなるなり。一階のレストランにて朝食。パン、ミルク、ベーコン、スクランブルドエッグ、フルーツの類なり。

(真実の口の前にて)
老いの気晴しに外遊せむとて旧友横田文子を随行せしめイタリアに遊ぶ。平成廿七乙未の年九月廿五日より十月二日までの八日間の旅なり。ローマに宿を定めゲーテのイタリア紀行を懐中にしてローマ市内、フィレンツェ、ナポリを巡覧せり。その折鉛筆にて概略を記し置きたる日乗をもとに紀行文を草し読者諸兄に示さんと欲す。文の拙劣なるは論無し、読者の哄笑は固より免れ難しといへど、忍耐を以て一読せられんことを乞ふ。
先日真鶴でグルメを楽しんだ仲間と神楽坂で加賀料理を食った。黄昏時に毘沙門天の境内で待ち合わせ、まず石畳の街を散策しようというので、鳥茶屋裏の路地から始めて黒塀横町を通り、神楽坂を反対側に横切って鳥茶屋支店脇の坂道を下り、毘沙門天裏にある加賀料理の店加賀に至ったという次第。途中どこでも大勢の観光客がぞろぞろ歩いているところを見た。外国人の姿も目立つ。どうやら神楽坂は、いつの間にやら観光名所になったようである。

(伏見の十石船)
東福寺より歩みて京阪電鉄鳥羽街道駅に至り、そこより電車に乗りて中書島駅に至る。駅より歩むこと数分にして小運河に差し掛かる。濠川といひて高瀬川が宇治川に合流するあたりなり。高瀬川は、淀川を京都の市中と結ぶために開削せられし運河にて、京都市中より十石船に積載して運び来れる荷をこの運河を通じて運び、合流地点たる伏見にて三十石船に積み替え、宇治川を下りて大阪方面に送れるなり。

(今熊野観音寺のぼけ封じ観音像)
七月廿六日(日)晴れて暑気甚だし。この日は泉涌寺、東福寺に参拝し、伏見桃山に遊ばんと欲す。ホテルを辞し、京都駅構内のコインロッカーに荷物を預け、東福寺行きの市バスに乗りて泉涌寺道に下車す。即ち泉涌寺の表参道なり。木立に囲まれたる道をしばらく行くに総門あり、更にその先左手に今熊野観音寺なる塔頭あり。ここにぼけ封じ観音像なるもの立つといふ。なにやら効験あるやに思はれたれば、立ち寄りて参拝す。この塔頭の一角には後堀河天皇の墓所あり。この縁により、泉涌寺は後に皇室の菩提寺とはなれると聞く。

(鞍馬)
食後、出町柳駅発十三時零分の叡山線鞍馬行に乗り、十三時三十分鞍馬に至る。駅前に多宝塔あり。ケーブルカーの乗り場を兼ぬる。されどケーブルカーは改修中につき全面運休なりといふ。仕方なく、徒歩にて上らんとす。この参道は急斜面にして、階段頗る急なり。なるべく階段を避けて坂道を上らんとすれど、坂道もまた急にして老人の足にては頗る難儀す。

(安部清明像)
七月廿五日(土)晴。この日は、午前中に西陣を歩み、午後は鞍馬の山を訪ねんと欲す。朝餉をなして九時にホテルを辞す。京都駅前よりバスに乗り、一条戻橋にて下車し清明神社に参る。この神社は安部清明の居宅跡に祀られしものにて、境内には陰陽師安部清明にまつはるさまざまなる逸話紹介してあり。その中には今昔物語集中の式神にまつはる逸話もあり。清明が何故神体に祭り上げられたるか、いづれ古代日本人の信仰のあり方を反映せるならん。

(永観堂阿弥陀堂)
午後一時二十分ホテルを辞し、京都駅前より市バスに乗りて南禅寺・永観堂の停留所にて下車す。そこより歩みて数分のところに永観堂禅林寺あり。禅林とは称すれど禅寺にはあらず。念仏寺なり。平安時代創建の古刹にて、日本の念仏寺の嚆矢たりし由なり。山の斜面の起伏を生かして複雑なる伽藍配置を施す。山の麓に御影堂あり、阿弥陀仏を安置す。山の上腹に阿弥陀堂あり。いはゆる見返り阿弥陀を安置す。

(祇園祭後祭山鉾巡行烏丸御池にて)
七月二十四日(金)晴。この日は祇園祭の後祭山鉾巡行催さる。よってホテル一階ティーラウンジにて朝餉をすますや、地下鉄に乗りて烏丸御池の交差点に至り、巡行行列の出発するところを見物せんとす。出発時刻は午前九時半にて、それより四十五分ほど早めに現地に着けば、山鉾はすでにあらかた集合し、出発を待ちをれり。見物客もそろそろ集まりはじむるところなりしが、余は歩道と車道の境に位置を占め、比較的明瞭に行列を見ることを得たり。

(大船鉾)
六時過、ホテルを辞して地下鉄に乗り四条烏丸駅に至る。四条通を西に歩み、新町通りを左して黄昏時の大船鉾を見る。屋台を囲む提灯に点灯せられ、昼間とは自ずから趣を異にす。集まり来れる大勢の人々列をなし、屋台の上に上らんとす。土産物を買ひ求めたる人に限って、屋台に上ることを許さるるなりといふ。かやうに人の波すさまじければ、徒歩の人も一方通行なり。

(祇園祭山鉾巡行)
余は幼少の頃より祭好きにて、東京の祭はほぼ見尽くせるといへども、京都の祭は見たることなし。なかでも祇園祭は、足腰の立つうちに是非見物せばやと思ひをりしところなり。その思ひつひにかなひ、この夏(平成廿七年)京に一人旅をなして、祇園祭の後祭を見物す。前祭は混雑甚だしと聞き、しかも未だ梅雨の明けぬ前のことなれば、雨にたたらるる恐れもあり。後祭ならば、梅雨明け後にて、しかも前祭に比すれば混雑も甚だしからず、と思ひたればなり。
うどんをポン酢で食うという発想がいままでなかったのが残念だ。今日初めてこれを食ってみて、そのうまさに舌を巻いた。こんなうまいものを何故いままで、作って食おうとしなかったのか。
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