旅とグルメ
三日目(6月16日)は8時前にホテルを出発し、まず長崎鼻を訪ねた。小さな灯台があるところだが、海幸山幸伝説で有名なところなのだそうだ。海幸山幸といえば、古事記に出てくる話だが、その舞台となったのがここだというのである。海幸に借りた釣針を失った山幸は、ここから亀の背中に乗って竜宮城に赴き、三年そこで遊び暮らした後に、釣針を取り戻したうえ、トヨタマヒメを妻にして、無事地上の世界に舞い戻ったのだった。その後、トヨタマヒメはウガヤフキアエズノミコトを出産するが、その折にワニの姿となったところを夫の山幸(ヒコホホデミ)に見られたのを苦にし、海底の実家へと戻ってしまうのである。
4時近く、知覧特攻平和会館というところに到着す。知覧は陸軍の特攻基地があったところで、ここを拠点に訓練された若者が、沖縄戦に特攻攻撃を命じられて死んだ。この施設は、国のために死んでいった若者たち1300余柱の写真を掲示するとともに、彼らの残した遺品や彼らが搭乗した戦闘機などを展示したものだ。戦闘機は一式戦闘機で俗に隼と呼ばれたものだ。あの潔い軍歌で有名になった隼だ。いまでも右翼の街宣車が好んで流している軍歌だ。
二日目(6月15日)は、早朝6時頃起床して朝風呂を浴び、食事を済ませて後バスに乗り込む手筈だったのだが、このバスが予定時刻を過ぎてもなかなかやって来ない。ガイドが携帯電話で連絡を取ると、どうやら道を間違えたということらしい。地元の、しかもプロの運転手が、名高い観光地の道を間違えるというのもお粗末な話だ。結局バスは予定よりも一時間近く遅れて出発した。そのおかげというのもなんだが、反面いいこともあった。というのは、横、今の二子が財布を部屋の金庫に入れたまま取り忘れていたのを、バスがやってくる寸前に気づいたのだった。予定通りバスが出発していたら、一騒ぎもちあがっていたところだ。
平成25年6月14日から四日間、横、今の二子と南九州を旅してまわった。旅行会社のツアーを利用したもので、羽田から鹿児島空港に飛んで、そこから霧島温泉、指宿温泉、宮崎のシーガイアにそれぞれ一泊し、鹿児島空港に戻るというコースだった。
国連食糧農業機関(FAO)が、将来予想される食糧危機への対策として、昆虫を食べるように推奨しているそうだ。昆虫は栄養価に富んでいる。グラム当たりの蛋白質は牛肉に匹敵するし、魚と同じ量の脂肪酸を含有し、その他ビタミンや繊維質も豊富だ。一番の強みは、牛や豚などの家畜類に比べ、繁殖が容易なことだ。広いスペースも必要としないし、排せつ物から発生するメタンガスが環境を汚染する心配もない。いいことづくめだ。本格的な栽培が実現すれば、人類にとっての貴重な食料となるに違いない。
昼食を食べ終わった後、箱根神社にお参りしようということになった。新年会を兼ねた旅行だから、初詣気分の延長だったのかもしれない。
未明隣室より漏れ聞こえてくる熟女たちの話声で目をさます。そのまましばらく布団のなかで温もっていたが、やおら飛び出すと浴衣姿で浴場に行き、湯につかった後髭を剃った。昨夜とは男女所を入れ替えてあったので、婦人用の小さな浴室だったが、これが四十二度のお湯しかないとあって、体が十分に暖まらない。中途半端な温まりようで部屋に戻り、テレビなどを見ているうちに、M女が食事の用意ができましたよと言って迎えに来た。
投宿先は大和屋といって、宮ノ下温泉の一角にあるが、これが簡単にはたどり着けないようになっている。渓流の流れている谷間の底にあって、そこに行くには温泉街の道端からゴンドラに乗って下りて行かなければならないのだ。そのゴンドラというのが、いかにも頼りなげで、いつ落ちても不思議ではないといった代物なのだった。我々はそのゴンドラに恐る恐る揺られながら、旅館のある谷底へと降りて行った次第であった。
豊穣たる熟女たちとともに、新年会を兼ねて箱根に一泊旅行をした。宮ノ下の堂ヶ島温泉というところに宿をとり、ロープウェーに乗って芦ノ湖まで足を延ばし、できれば旧街道を歩きたいなどと、なかなか欲張りな計画を立てたのだったが、あいにく旅の直前に大雪が降って、とても登山道を歩く騒ぎではないということなので、出来る範囲で、無理なく歩こうという心つもりで出発した次第だった。
築地の初セリが行われ、227キロの青森県大間産まぐろ一本がなんと1億5500万円で落札されたそうだ。昨年は一本5600万円の高値を記録し世間をあっといわせたところだが、今年は一気にその三倍を記録したわけだ。
三日目(12月3日)は、日田の町を散策して後大分空港に戻るというのんびりしたコースだった。それ故出発時間にも余裕があった。そこで、昨夜入らなかった露天風呂にも浸かることにした。まだ夜明け前だったので、暗い中を名残の月を眺めながら湯に浸かった。夜が明けていれば、阿蘇の連山が目前に見えるということだ。
黒川温泉の街は渓流が削った深い谷の底に展開している。我々はその谷を登ったところの高台に建っているホテルに投宿した。三愛高原ホテルといって頗る眺めがよいのが売りだという。我々が着いたのは午後四時頃で、まだ日が沈むには間があり、雨も止んでいたのだが、生憎風景を眺めることはできなかった。空はまだ厚く閉ざされたままだったのである。
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