映画を語る

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崔洋一の1999年の映画「豚の報い」も沖縄を舞台にした作品だ。前作「Aサインデイズ」のような政治的なメッセージ性はない。沖縄の離島につたわる葬儀がテーマだ。この離島ではいまだに風葬が行われているのだが、それは特殊な事情がある場合だ。海で死んだものは、十二年間は埋葬できないので、その間は風葬したまま遺骸は大気に曝しつづけられる。十二年たてば墓に骨を収めることが許される。この映画は、父親を海で失った子が、風葬された父親の骨を拾いに故郷の離島へ戻って来るというような筋書きだ。

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崔洋一の1998年の映画「犬、走る」は、日本社会のエスニック・マイノリテがテーマである。新宿の歌舞伎町から大久保あたりにかけてが舞台なので、在日韓国・朝鮮人や中国人が中心で、それに南アジア系と思われるものや国籍不明なものが多数出て来る。大したストーリーはないのだが、犯罪にかかわる外国人と、それを取り締まる日本人の警察官の攻防が描かれる。どうも、日本にいるエスニック・マイノリティは、権力による治安維持の対象だというような視点を強く感じさせる作品だ。

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崔洋一は、在日韓国人二世として、日本におけるマイノリティの存在にこだわり、そのこだわりを映画でも表現した。1989年の作品「Aサインデイズ」は、沖縄をテーマにしたものだ。沖縄の人びとは、在日韓国人とは違って、まぎれもない日本人だが、二級国民扱いされて、差別されている。米軍基地の大部分を集中的に押し付けられているところは、その最たるものだ。この沖縄差別を、いまの安倍政権は臆面もなくやっている。沖縄の人たちがいかに反対しようとも、そんなものは二級国民の悪あがきとばかり、沖縄の人々の声を、鉄面皮に無視している。だから沖縄の問題は、日本におけるマイノリティ問題の一つの、しかも大きな部分といってよい。

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ベルナルド・ベルトルッチの2012年の映画「孤独な天使たち」は、自閉症気味の少年と、その腹違いの姉で麻薬中毒の娘との、奇妙な共同生活を描いた作品だ。少年が自閉症気味というのは、母親や祖母など親密な人物とはコミュニケーションがとれているが、学校での対人関係を形成できないでいるという意味だ。学校では、スキー旅行が計画されているが、少年はそれに参加したくない。そこで参加費として母親からもらった金で、当分の食料を買い込み、自宅マンションの地下にある倉庫に閉じこもる。そこで学校が休みの間、一人暮らしをするつもりなのだ。

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ベルナルド・ベルトルッチの1998年の映画「シャンドライの恋」は、アフリカ出身の女性とローマ在住の白人男性との恋を描いたものだ。アフリカのどこかはわからない。ただ、独裁者が不法な権力を振るっている国らしい。その国に住んでいる男が官憲によって連行される。取り残された若い妻は、イタリアのローマに行って、あるマンションの女中をしながら、大学で医学を学ぶようになる。アフリカの原野に暮らしていたものが、いきなりローマの大学で医学を学ぶというのが、ちょっと面食らうところだが、それは脇へ置いておこう。問題は、この男女が愛し合うプロセスだ。

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ベルナルド・ベルトルッチの1993年の映画「リトル・ブッダ」は、仏教の輪廻転生思想と釈迦の修行をテーマにしたものである。キリスト教の教えには、復活の思想はあるが、輪廻転生の思想はないから、キリスト教を信じる人たちにとっては、輪廻転生とか生まれ変わりとかいったことは、荒唐無稽に思われるに違いない。ところがベルトルッチは、これを宗教上の信仰に属する問題だとして、荒唐無稽だとはしていない。こういう考え方もありうるのだという前提で、かなり理解ある描き方をしている。また、釈迦の修行についても、宗教的な啓示を得るための修行だとして、かなり好意的である。

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ベルナルド・ベルトルッチの1990年の映画「シェルタリング・スカイ」は、ニューヨークからアフリカにやって来た三人の男女の関わり合いを描いた作品だ。三人のうち男女二人は夫婦であり、残りの一人は妻の方を愛している青年だ。その青年は、若くてハンサムなので、妻はついつまみ食いのようにして、抱いてしまう。そんな妻の浮気心を気に入らない夫は、青年を追い払って妻と二人きりになろうとするが、アフリカの砂漠の真ん中で熱病で死んでしまい、妻は途方に暮れたあげくに、アラブ人の隊商に拾われ、その実力者の男の妾にされるというような筋書きの映画だ。

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ベルナルド・ベルトルッチの1987年の映画「ラスト・エンペラー」は、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の生涯を描いた作品だ。1908年、西太后の指名により二歳にして即位し、1967年に63歳で死ぬまでの生きざまを描いている。即位以後のことを編年的に描くのではなく、1950年に共産政権によって投獄され、そこで尋問されるシーンを重ね合わせている。史実としては、溥儀は共産政権に一定の評価を受け、国務を分担して晩年を過ごしたのであるが、この映画では、溥儀は十年間投獄された後釈放され、市井に身を潜めて暮らしたというふうになっている。

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ベルナルド・ベルトルッチの1972年の映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、日本でも大きな話題になった。過激な性描写もさることながら、マーロン・ブランド演じる不気味な中年男が、若い女を相手に鶏姦するシーンが衝撃的だったのだ。日本では鶏姦は男性同士の行為であって、女が対象となることはないと受け取られていた。だからこそ熊楠先生は、「婦女を姣童に代用せしこと」という小論の中で、女の後門を責めることの異常さを指摘したのだった。

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ベルナルド・ベルトルッチの1970年の映画「暗殺の森(Il conformista)」は、一ファシスト党員による反ファシストの大物クアドリ教授夫妻暗殺をテーマにしたものだ。暗殺の舞台はフランスのある森のなかである。ただこれだけのことを二時間近くかけて描いている。多少冗漫といえば冗漫な作品だ。

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ベルナルド・ベルトルッチ1964年の映画「革命前夜」は、ベルトルッチの自伝的な色彩の強い作品だといわれている。北イタリアのパルマを舞台に、コミュニズムを信奉するブルジョワ(イタリア語でボルゲーゼ)の一青年の悩みのようなものをテーマにしているのだが、その青年がベルトリッチの分身のようなものだというのだ。たしかにベルトルッチはパルマの出身だし、ブルジョワ出のコミュニストでもあった。同時にこの映画は、スタンダールの名作「パルムの僧院」をある程度下敷きにしているという。スタンダールのほうは、すでに忘れてしまったが、主人公の名がファブリツィオ(原作ではファブリス)であったり、その叔母の名がジーナだったりするのは共通している。

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ミケランジェロ・アントニオーニといえば「愛の不毛」三部作に代表されるような男女の愛の不毛を描き続けたのだが、1982年の映画「ある女の存在証明(Identificazione di una donna)」も、その延長上にある作品だ。妻に逃げられた中年男が、あいた隙間を他の女で埋めようとするが、なかなか思うようにいかない、その理由はどこにあるのか、そんなことを問いかけているような映画である。

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花筐というと、世阿弥の能を想起するが、大林宣彦の2017年の映画「花筐」は、筋書きの上では殆ど関係はない。「殆ど」というのは、映画の一部で、花筐らしい仕舞の一部が披露されるからだ。筋書きの上では、檀一雄の短編小説集に取材しているらしい。こちらは、筆写は未読なので、どこまで原作を生かしているのかは、判断できない。

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「野のなななのか」というタイトルを見た時、何を意味しているのか見当がつかなかった。「なななのか」という劇をもとにしていると聞いて合点がいった。「なななのか」とは、なのかをななつ、つまり四十九日という意味なのだと。その意味するとおり、大林宜彦のこの映画は、ある人生の終わりと、それを受け止める人々の鎮魂の気持をテーマにしている。そしてそれをメーンテーマにしながら、日本の近代史の一コマを描いているのだが、その描き方には多分にアンゲロプロスの作風に通じるものを感じさせる。アンゲロプロスがギリシャの近代史を描いたような感覚で、日本の近代史を描いていると指摘できると思う。

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大林宣彦は1980年代に尾道を舞台にした映画シリーズ、いわゆる尾道三部作をとった後、1991年にやはり尾道を舞台にした映画「ふたり」をつくった。後に尾道を舞台にした作品を二つ作り、新尾道三部作と銘打った。大林は尾道出身ということもあるが、尾道の町は絵になる風景が広がっているので、繰り返し映画化するだけの動機を与えてくれるということだろう。

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本多猪四郎の戦争映画「太平洋の鷲」は、山本五十六の軍人としての半生を描いたものだ。1953年に公開されたところに、歴史的な意義がある。戦後日本映画界は、米占領政権の検閲方針のもとで、チャンバラ映画や戦争映画の公開を禁止されていた。日本側の立場から日本の戦勝を描くことは固く禁じられていたし、ましてや軍人を讃美するような映画はご法度だった。それが1952年の講和・独立を契機に、解禁となった。この映画はそうした時流に乗って、日本の「偉大な」軍人山本五十六を、正面から取りあげたのである。山本五十六といえば、真珠湾攻撃を成功させた偉大な軍人であり、日本人にとっては、東郷平八郎と並ぶ軍神のような存在だった。戦後敗戦への反省が深まるなかで、無能な軍人ばかりいたおかげで日本は負けたのだというような言説もあったが、そういう中で山本五十六は、唯一といってよいほど、全国民から敬慕される軍人となったのである。

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篠田正弘の映画「少年時代」は、井上陽水の同名の主題歌のほうが有名になったが、映画のほうも悪くはない。原作は藤子不二雄(A)の同名の漫画で、大戦末期に疎開した子供の体験を描いている。その体験は、転校生としていじめにあったとか、仲のよい友達ができたとか、子ども同士の勢力争いに巻き込まれたとか、よくある話ばかりで新味はないが、なんとなく観客をいい気持にさせる魅力がある。

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成瀬巳喜男の1953年の映画「あにいもうと」は、室生犀星の同名の短編小説を映画化したものだが、すでに戦前の1936年に木村壮十四が映画化していた。わずか20年足らずでの再映画化というのは、このテーマが当時の日本人に受けていたということだろう。それにしては、登場人物たちの考え方がかなり古風なので、今見ると時代の流れを強く感じさせられる。

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1993年公開の映画「まあだだよ」は、内田百閒の晩年を描いた作品である。内田百閒といえば、漱石門下の文人で、戦時中には文学報国会への入会を拒絶するなど、気迫ある男として知られていた。その百閒の生き方に黒澤は共感したのだろう。この映画の百閒の描き方には、人間としての強い共感が込められている。

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黒沢明の1991年の映画「八月の狂詩曲」は、長崎の原爆災害が一応のモチーフのようなので、狂詩曲というよりはレクイエム(鎮魂曲)といったほうがふさわしいかもしれない。実際この映画の中では、家族を原爆で失った老婆たちが、般若心経を読む場面が度々流される。土地柄、讃美歌を歌わせてもよいところかもしれない。

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