映画を語る

ALWAYS 三丁目の夕日:山崎貴

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「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和33年(1958)頃の東京の庶民生活を描いた映画だ。昭和33年といえば、東京でアジア大会が開かれ、東京タワーが登場した年だ。東京が戦後の瓦礫を乗り越えて、復興に向けて前進の歩みを力強く加速させた年である。だから、人々の心の中には、戦争への辛い記憶と、将来への希望とが入り混じっていたことと思う。この映画は、その明るい希望に焦点をあてて、当時の人々の暮らしぶりを描き出した。

パッチギ!:井筒和幸

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2006年の1月に公開された映画「パッチギ!」は、在日朝鮮人と日本人の軋轢を描いたものだ。要するに民族同士の軋轢がテーマなわけだが、軋轢といっても、日本国内を舞台としてのことだから、日本人による在日朝鮮人の迫害というような色合いが強い。だが、弱い立場のものが強い立場のものに一方的に迫害されているところを描いているかといえば、そうではない。この映画の中では、在日朝鮮人は、たしかに弱者としては描かれているが、卑屈な人間集団としては描かれておらず、差別をする日本人に立ち向かう勇敢な人間たちとして描かれている。

誰も知らない:是枝裕和

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是枝裕和の映画「誰も知らない」は、児童遺棄(子供置き去り)を題材にしたものだ。1988年に実際にあった事件をもとに2004年に映画化した。親が子供を見捨てたおかげで、取り残された子供たちが悲惨な境遇に陥り、そのあげく兄弟の一人が死んだという事件だったが、是枝は詳細については脚色を加えながら、事件の骨格をほぼそのまま再現したという。

HANA-BI:北野武の暴力

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映画作家としての北野武を、作家の赤坂真理は「『ほとんど暴力だけ』の作品を何作も続けて撮った」と言っているが、「HANA-BI」もやはり暴力の描写だけで成り立っている作品だ。この作品はヴェネチア映画祭で金獅子賞をとったくらいだから、世界的に評価されたわけだが、それは暴力の描き方が世界中の共感を呼んだからなのか。赤坂は、北野が描いた暴力を「時代に抑圧された身体性の叫び」と言っているが、そのような叫びが、北野が映画造りをしていた1990年代以降世界中に蔓延していたということなのか。

月はどっちに出ている:崔洋一

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崔洋一の映画「月はどっちに出ている」は、在日韓国・朝鮮人を主人公に据えて、彼を取り巻く在日韓国・朝鮮人社会のあり方や、フィリピンからの出稼ぎ女性に象徴される日本社会の中のエスニックは要素について描いた作品だ。それまでは、在日韓国・朝鮮人たちが、映画の中で描かれることはあっても、日本にとっての他者として、あるいは憐憫の対象として描かれるのがほとんどで、この映画のように、彼らを一人の普通の人間として描いたものはほとんどないといってよかった。この映画は、その意味で画期的な意義を持つ作品だと言えるのではないか。

夢千代日記:浦山桐郎

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映画「夢千代日記」は、1981年2月から1984年3月にかけて、三回のシリーズにわけて断続的に放送されたテレビドラマを映画化したものだ。テレビ、映画とも主人公の夢千代を演じた吉永小百合は、この作品を通じて、それまでの清純派女優のイメージから脱して、陰影を感じさせる大女優へと成長した。吉永を女優として売り出した浦山桐郎が、その吉永を風格ある大女優にしたわけで、吉永本人にとってこの映画は感慨深いものがあろうと思う。

蒲田行進曲:深作欣二

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「蒲田行進曲」は、松竹蒲田撮影所の所歌として歌われたという。戦前の流行歌で、蒲田撮影所とは直接の関係はないようだが、なぜか蒲田撮影所のシンボルとして関係者から愛されたのだそうだ。その「蒲田行進曲」を冠した映画だから、当然蒲田撮影所が舞台になっているのだろうと、誰もが受け止めるところだが、この映画の舞台になっているのは、松竹蒲田撮影所ではなく、東映の京都撮影所なのである。しかもこの映画は、松竹の肝いりで作られたが、東映出身の深作欣二が監督を勤めている。妙な因縁を感じさせる映画である。

田園に死す:寺山修二

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「田園に死す」は、寺山修治の自伝的な色彩の濃い映画だと言われている。恐山とか、イタコが出てくるから、恐らく寺山の故郷である下北を舞台にしているのだろう。下北といえば、日本の極北とも言えるところで、貧困と因習に付きまとわれたというイメージが強い。寺山はそうしたイメージを逆手にとって、日本とは何かを描きたかったようだ。この映画の中で寺山が描いているのは、時代的には戦争中であったり、戦後間もないころの時代であったり、焦点が定まらないのだが、それはこの映画の構成が、一人の映画人が自分の少年時代を回想するというところから来ている。回想のなかでは、えてして時間の前後関係が曖昧になるものだし、出来事の記憶も錯綜するようになるものだ。

心中天網島:篠田正浩

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篠田正浩の映画「心中天網島」は、近松門左衛門の同名の浄瑠璃を映画化したものである。この作品は近松の最高傑作でもあり、また心中物の頂点をなすものだ。男女の愛に女同士の義理を絡めた筋書きは、日本の芝居史上でも比類のない完成度を示していると言え、日本人なら誰が見ても感動せざるをえないように出来ている。いわば日本人の心の原風景をそのまま見える形に表現した理想的な芝居と言える。その芝居としての理想的な作品を、篠田は映画という形に転換してみせたわけである。

古都:中村登

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中村登の1963年の映画「古都」は、川端康成の同名の小説を映画化したものである。川端の原作であるから筋書きは退屈であるし、二役を演じている主演の岩下志麻の演技もぎこちないのだが、今でも十分に見る価値はある。というより、今でこそ見る価値がある。この映画は、オリンピック直前の京都の街を舞台にしており、開発で変化する前の、古き時代の京都の街のたたずまいがそっくりそのまま映し出されている。いわば映像を通じて京都の街を冷凍保存しているようなものなのである。

キューポラのある街:浦山桐朗

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「キューポラのある街」が封切られた1962年には、筆者は14歳の中学生だった。その中学生の筆者にも、この映画が描いていることは十分にわかった。当時はまだ、日本の社会には絶対的な貧困というものが蔓延していたし、そうした貧困によって押しつぶされている人が、自分の周囲にも大勢いた。だからこの映画の中に出てくる人々の苦悩や悲しみは、他人事ではなかった。吉永小百合演じるこの映画の中の主人公の少女は、そうした苦悩や悲しみに向き合いながら必死になって生きている。そうした彼女の生き方が、筆者の目には非常に身近に感じられた。この少女は、身近さを感じさせるとともに、尊さも感じさせた。その尊さとは、生きることの尊厳さを感じさせるようなものであった。

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「ゴッドファーザーPARTⅡ」は、コルレオーネ・ファミリーの二代目となったマイケルのその後の生き方と、父親のヴィートの少年時代を重ね合わせて描いた作品である。前作が、ヴィートとマイケルの父子二代にわたる原作の壮大な物語のうち、その中間部分を抜き出して映画化したために、そこからもれた部分について、改めて取り上げた格好だ。前作の評判が非常によかったので、二匹目の泥鰌を狙った形だが、この場合にはその狙いが功を奏した。前作と並んでアカデミー作品賞まで受賞している。

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フランシス・コッポラの映画「ゴッドファーザー」はアメリカばかりでなく世界中で大ヒットした。日本でもやはり大ヒットになった。公開から40年以上経ったいまでも、人気は衰えないという。この映画のなにが、それほど人々をひきつけるのか。

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マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」は不思議な映画である。タクシーの運転手といえば、普通人の目には退屈な下積み仕事という印象にうつるが、当事者にしてみれば、結構変化に富んだ仕事であるらしい。単に客を目的地に運ぶだけではなく、客とのさまざまなやり取りを通じて社会の情勢にも敏感になるし、時には社会に対して鋭い批判意識を持つようにもなる。そればかりではない、運転手によっては、そうした批判意識を実現しようとする者も現れる。この映画のなかのタクシー・ドライバーもそうした一人だ。彼はタクシーの運転という自分の仕事を通じて、社会に対する鋭い批判意識に目覚め、それを実現する為にすさまじいエネルギーを傾注する。その結果どんな事件が巻き起こるか、この映画はそうしたどきどきさせるようなストーリー展開からなっている。タクシー・ドライバーもなかなか棄てた商売ではない、そんなふうに観客に思わせるわけである。

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ミロス・フォアマン監督による1975年の「カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)」は、精神病院の運営における官僚的側面とロボトミー手術の非人間性を描いた作品である。ロボトミー手術というのは、外科的手術を用いて精神疾患の治療をするというもので、自傷他害の傾向が強い患者を対象に実施されたものだ。具体的には、こめかみに穴をうがち、そこから頭蓋内に手術用具を入れて大脳前頭葉の一部を除去する。現在では、人体への傷害行為として禁忌となっているが、この映画が公開された当時にはまだ行われていた。そんなロボトミー手術の禁止に向かって、この映画は一定の影響を与えたと評価されている。

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ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ(The long goodbye)」は、レイモンド・チャンドラーの同名の小説を映画化したものである。原作は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした一連の作品のうち最も人気の高いもので、日本でも古くからファンが多かった。近年は村上春樹の翻訳が出たりして、新たなブームを起こしている。筆者も村上春樹の翻訳を通じてその魅力を堪能した一人だ。

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「スケアクロウ( Scarecrow )」は、世の中からドロップアウトした二人の男の奇妙な友情を描いた映画だ。二人のうちの一人は刑務所を出たばかりで、預金の口座があるピッツバーグで人生のやり直しをしようと思っている。もう一人は、妻子を棄てて放浪していたが、五年ぶりに会いたくなって、妻子のいるデトロイトまで帰ろうと思っている。その二人が旅先で偶然出会って、行動を共にするようになり、さまざまな波乱を起こしながらついにデトロイトまでたどりつくと、そこには思いがけない事態が待ち受けていた、というものだ。

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映画「ダーティハリー(Dirty Harry)」は、クリント・イーストウッドを大スターにした作品である。イーストウッドといえば、テレビ西部劇「ローハイド」のロディ役として、我々団塊の世代には馴染みの俳優だったが、映画俳優としては芽が出ず、イタリアに渡っていわゆるマカロニウェスタンなどのB級映画ばかりに出ていたが、「ダーティハリー」の破天荒な刑事役を通じて、一躍国際的な人気を博した。

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フレンチ・コネクションとは、フランスとつながりのある麻薬密売組織のことを言う。その麻薬密売組織を摘発しようとするニューヨーク市警の警察官たちの奮闘を描いたのが1971年の映画「フレンチ・コレクション」だ。実際にあった出来事をもとに作られたという。

卒業:マイク・ニコルズ

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1967年公開の映画「卒業」は、一応アメリカン・ニューシネマの初期の傑作ということになっている。アメリカン・ニューシネマと言えば、ベトナム戦争を契機に盛り上がった政治不信を背景にして、社会への覚めた見方とか異議申し立てといったもので特徴づけられるが、この映画にそうした要素を認めるのは、多少の困難を伴うだろう。この映画が描いているのは、道徳の頽廃ともいうべきものだ。道徳の頽廃を描きながらそれを批判するわけでもない。むしろそれを受け入れたうえで、その頽廃ぶりを楽しんでいるフシがある。こんな投槍とも言える姿勢が、逆説的に社会批判につながっていると言えなくもないが、それにしては、この映画には曖昧なところが多すぎる。

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