映画を語る

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チャップリンの映画「黄金狂代( The gold rush )」は、いわゆるチャップリン喜劇の集大成といえる作品だ。小男が大男を相手にして、頓知や機転そしていささかの偶然に助けられて大立ち回りを演じる傍ら、可愛い女性に淡い恋心を抱く、その過程でさまざまな奇想天外な出来事が起こり、観客はつねに笑いの発作に巻き込まれる、喜劇としては理想的な出来栄えになっている。

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キッド( The Kid )は、チャップリン( Charlie Chaplin )の最初の長編映画である。長編と言っても、一時間ちょっとの長さだが、一応ストーリーはしっかりしているし、テーマも明確だ。母親に捨てられた少年が、貧しい男に拾われ、スラム街の一角で逞しく成長していく物語なのだが、その少年の姿というのがチャップリンの幼い頃の姿と重なりあうと同時に、少年を育てる気の優しい男もまた、チャップリンの分身と言うべきメンタリティを持っている。色々な面で、チャップリンが自分自身を語った映画と言える。

ミンボーの女:伊丹十三

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伊丹十三の映画「ミンボーの女」は、日頃やくざのゆすり・たかりに悩んでいたホテルのスタッフが、勇敢な女弁護士や警察の協力を仰ぎながら、敢然としてやくざたちに立ち向かい、ついには撃退するという内容である。言ってみれば、やくざ撃退についてのハウツーものである。「お葬式」や「タンポポ」といった映画でハウツーものを手がけてきた伊丹としては、その延長線上にあるものだ。ところが、扱ったテーマがやくざということもあって、この映画のために伊丹はやくざとの間で軋轢を生じ、顔を切りつけられて大怪我をしたり、上映を妨害されたりもした。彼の死はいまだに謎の部分が多いと言われるが、その謎にはやくざの陰もさしている。つまり伊丹は、命がけでこの映画を作ったということだ。

あげまん:伊丹十三

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伊丹十三の1990年公開映画「あげまん」は、「あげまん」という言葉がその年の流行語になったくらい評判になった。1990年といえば、バブルの絶頂期、日本経済が永久に右肩上がりで栄えていくだろうことを誰もが疑っていなかった。「あげまん」という言葉は、そんな時相にぴったりフィットしたわけだ。

マルサの女:伊丹十三

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伊丹十三の映画「マルサの女」は国税査察官の活躍を描いた作品である。国税査察官とは脱税を告発する役人のことだ。脱税は国民としてよくないことだから、それを告発するのは正義の行為ということになるが、正義とはそんなにたやすく守られるわけではない。というより、戦いとるものだ。戦いとることで正義は初めて実現する。それ故国税査察官とは、正義の戦士なのだ、というメッセージの片割れのようなものがこの映画からは伝わってくる。片割れと言うのはほかでもない、脱税の告発とは正義一点張りではすすまない。時にはダーティな部分も飲み込まねばならない。だからこの映画が発するメッセージは、半分は正義だが残りの半分は正義とはかかわりがない。そのかかわりのない部分は人間的な要素にあふれた部分と言うことになる。その部分こそがこの映画を面白くしているというわけだ。

たんぽぽ:伊丹十三

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伊丹十三の映画「たんぽぽ」は心温まる人情コメディである。一人息子を抱えた未亡人がけなげに生きているのに同情した五人の男たちが、未亡人が一人前のラーメン屋として自立するのを助けるという内容だ。同情する男たちの動機はさまざまだが、同情される未亡人はどこか男をひきつける魅力があるのだろう。このひきつけあう男女の展開するストーリーがなんとも言えずユーモラスで、見るものをして心温まらしむというわけである。そのわりには、この映画は日本ではヒットしなかった。その分外国での評価は高かった。それは、この映画がラーメンづくりをテーマにしていたからだと思われる。日本人はなぜラーメンにこんなにもこだわるのか、その秘密の一端をこの映画が語っているからであろう。

お葬式:伊丹十三

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「お葬式」は、伊丹十三の映画監督としての処女作である。処女作としては大変な評判となり、大ヒットをとったほか多くの映画賞も受賞した。この映画で、伊丹は一躍映画の大家になってしまったわけだ。ヒットしたわけは、葬式という非日常的でありながら、誰にでも起こりうる事態を、コミカルに描いて見せたことで、日本人の、死生観と言っては大げさだが、非日常的なものに関する意識の持ちように、大いに働きかけるところがあったためだろう。

お遊さま:溝口健二の世界

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溝口健二は、戦中から戦後にかけてつまらぬ映画を何本も作ったが、「お遊さま」もそうした駄作の一つである。にもかかわらず筆者がここに取り上げるのは、これが谷崎の小説を映画化したものだからである。谷崎の原作「芦刈」の、あの独特の世界を溝口がどう映画化したか、そしてどのような理由で失敗したか、それに興味があった。

新・平家物語:溝口健二の世界

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溝口健二の晩年(1955年)の映画「新・平家物語」は、戦後の大ベストセラーとなった吉川英治の歴史小説をもとに、大映が企画した連作映画の第一作として作られた。大映は、1953年に衣笠貞之助に作らせた「地獄門」が大ヒットしたので、二匹目の泥鰌を狙っていたフシがあったが、溝口のほうも、「地獄門」の成功を横目に見て、それに匹敵するような歴史物を作ろうと意気込んでいたようである。しかしこの映画の最大の目的は、興行的な成功にあったので、溝口もそれに捉われるあまり、前後の優れた作品と比べれば、芸術的香気に劣る作品になったことは否めない。

祇園囃子:溝口健二の世界

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溝口健二が戦後作った映画「祇園囃子」は、戦前の名作「祇園の姉妹」と色々な面で共通点がある。題名にもあるとおり京都の祇園を舞台にしていること、姉妹関係にある二人の芸妓の生き様を描いていること、彼女らを囲む人間関係が封建的なしがらみに縛られていること、などだ。無論異なるところもある。一番大きな違いは、「祇園の姉妹」の「おもちゃ」が、男に踏みつけにされながらも、それを跳ね返して強く生きようとする気概をみなぎらせているのに対して、「祇園囃子」の美代栄(若尾文子)は、封建的なしがらみに反発しながらも、結局はそれに屈服してしまうという点だ。封建的なしがらみに反発しながら、結局は屈服する点では美代栄の姉格の美代春(小暮美千代)も同じだ。彼女もがんじがらめなしがらみを振りほどこうとして、結局はまかれてしまうということになっている。その点は、「おもちゃ」の姉が、はじめからしがらみに捉われて、それを疑わずにいたのとは大きな違いと言える。

審判:オーソン・ウェルズ

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オーソン・ウェルズ(Orson Wells )の映画「審判( The trial )」は、フランツ・カフカの小説「審判( Der Prozeß )」の映画化である。この小説は20世紀文学最高傑作のひとつとしての評価が高いので、多くの人が読んだと思われる。まして映画化された1963年当時には、カフカを読むことが大流行していたので、これを映画化するには、かなりのプレッシャーがあったに違いない。原作にあまりに忠実すぎると、映画としての面白みが阻害されるだろうし、かといって原作に手を入れすぎると、これはカフカではないと批判を浴びせかけられることにもなる。オーソン・ウェルズは、映画作りの天才と言われるだけあって、このディレンマをうまく乗り越えている。原作になるべく忠実でありながら、映画としての面白さも十分に実現する、というような離れ業をなしとげている、と言ってよい。

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オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン( Citizen Kane )」は、20世紀中は、映画史上最高傑作との評価がゆるぎなかった。いまでも、ヒッチコックのサスペンス映画「めまい」、ハンフリー・ボガートが主演した「カサブランカ」と並んで、映画史上三大傑作という評判がもっぱらである。凝ったストーリーもさることながら、現在と過去とを自在に交錯させたり、ワンシーン・ワンカットを多用したり、パンフォーカスやローアングルといった斬新なカメラワークなど、技術的にも優れており、映画史上ひとつのメルクマールとなる作品なのである。

愛怨峡:溝口健二の世界

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溝口健二の1937年の映画「愛怨峡」は、「浪速悲歌」と「祇園の姉妹」を作った後、「残菊物語」などいわゆる芸道三部作と呼ばれる作品群への橋渡しとなるものであり、溝口の戦前の傑作と言えるものであるが、戦後長い間フィルムが消失したと考えられてきたのを、近年発見されたフィルムをもとにDVD化された。フィルムの状態は「浪速悲歌」よりひどく、特に音声の状態が悪いのであるが、見ていてうるさく感じないのは、傑作だからだろう。

戦場のメリー・クリスマス:大島渚

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大島渚の映画「戦場のメリー・クリスマス」は、日本軍による捕虜虐待を描いた作品である。同じテーマのものとしてはデヴィッド・リーンの傑作「戦場にかける橋」が有名だが、日本軍の残虐さを描いたものとしては大島のほうが徹底している。しかも、そこには人間らしい触れ合いが全く見られない。日本兵はただただ悪魔のように残忍な生き物として、弱者である連合軍の捕虜を、恣意的に虐待するばかりである。とにかく、映画全体を通じて、日本兵による理不尽な捕虜虐待が、これでもかこれでもかというばかりに描かれ続ける。全く抵抗するすべを持たない弱い者を、かさにかかって虐待する日本兵の姿は、見ていて反吐が出るほどグロテスクなものだ。こんな映画を、日本人である大島がなぜ作ったのか。これは日本人による反日映画と言われてもいたし方がないところがある。

愛のコリーダ:大島渚

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大島渚の映画「愛のコリーダ」は、昭和11年に起きたいわゆる阿部定事件を取り上げたものである。この事件は、安倍定という身持ちの良くない女が、情夫を絞殺したうえでその男根を切り取り、警察に捕まるまで後生大事に見につけていたというもので、その猟奇性から当時の世論を大いに賑わした。あの謹厳実直で知られる荷風散人でさえ、日記断腸亭日乗のなかでわざわざ触れているほどである。参考までに記しておくと、当年5月19日(定逮捕の翌日)の記事には、「今朝新聞に出でたる男殺しの噂とりどりなり(中野薬師の待合の亭主その情婦のために絞殺せられ陰茎を切り取られし事件なり犯人の行方未だ知れずと云ふ)」とあり、翌20日には、「昨夜来新聞の紙面を賑はしたる男根切取の女、今夕品川八つ山の旅館品川館にて遂に捕へられし由」とある。その衝撃がいかに強かったかを物語るものである。昭和11年といえば、2・26事件の起きた年、世の中は息苦しい雰囲気に包まれていた。そんな世の中であったからこそ、この事件は一服の清涼剤として、人々の関心を引いたのだと思われる(逮捕直後の写真が残っているが、定を囲む数人の刑事たちはみなニヤニヤ笑っている)。

儀式:大島渚

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大島渚の1971年の作品「儀式」は、戦後日本を総括した映画だと言われたりもしたが、むしろ戦後まで生き延びていた戦前の古い日本が崩壊していく過程をゆっくりと描いた映画だと言った方がよい。「ゆっくり」というのは「自然に」というほどの意味で。要するに外圧によってではなく、惰性によって、腐敗するように滅びて行ったというような意味である。

絞死刑:大島渚

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大島渚の映画「絞死刑」は、国際的には、死刑制度の廃止あるいは死刑のあり方への疑問をテーマにした作品だという評価が定着しているようだ。それともうひとつ、この作品には、在日朝鮮人への偏見や差別が大きなテーマとして盛り込まれている。とりわけそうした差別を知らず知らず内面化している日本人への問いかけとして。

無理心中日本の夏:大島渚

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ある種わけのわからなさが売り物の大島渚の映画の中でも、「無理心中日本の夏」は、とりわけわけのわからなさを感じさせる作品だ。一人の死にたがっている男と、いつもやりたがっている女が出会い、殺しあいをするつもりのやくざたちと奇妙な共同生活をする。やくざたちの間で、互いに殺し合いが始まると、死にたがっている男はどさくさにまぎれて殺してもらおうとするが、なぜか殺されるのは他の人間ばかりで、自分だけはなかなか死ねない。そのうち、外の世界では、わけのわからない連続殺人事件が発生しているとの情報が、やくざの一人が持っているテレビから伝わってくる。その犯人は「外人」で、自分たちのいる場所から近いところに潜伏していると知ったやくざたちは、その外人と連帯して、警察権力と戦う決意をする。こうして、映画のクライマックスは、死にたがっている男とやりたがっている女が、ついに結ばれあって、警察からの銃弾の嵐の中でセックスする場面で盛り上がると言う、なんとも奇妙な映画なのである。

日本春歌考:大島渚

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1967年の映画「日本春歌考」は、当時ベストセラーになっていた添田知道の同名の俗謡集に、大島渚がインスピレーションを受けて即興的に作った作品と言うことになっている。映画を即興的に作るという点では、大島は「日本の夜と霧」で実験的な試みをしていたが、この「日本春歌考」は、同じく即興的な作品でも、「日本の夜と霧」より完成度が高いと言えよう。完成度と言っても、芸術的な意味での完成度ではない、メッセージのもつ説得性のようなものがより強力だという意味だ。

白昼の通り魔:大島渚

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大島渚の映画「白昼の通り魔」は、題名にあるとおり連続通り魔事件の犯人像を描いている。だが、主人公と言うべき通り魔の視線から描いているわけではなく、被害者である女性の視点から描いている。その被害者は二人いて、そのうちの一人シノ(川口小枝)は、他の男と無理心中をして死に損なったところを、失神した状態で強姦される。もうひとりは、角の立ったオールドミスのマツ子(小山明子)が、強姦されたことを逆手にとって男と結婚したということになっている。その男と言うのは、この二人とは同じ部落の人間で、どうやら差別されているように描かれている。この男英助(佐藤慶)がこれらの女たちを強姦したのは、日頃差別されていたことに対する意趣返しだったようなのだ。

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