映画を語る

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1967年の映画「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)」は、アメリカン・ニューシネマの魁となった作品である。アメリカン・ニューシネマとは、1960年代の末近くから70年代半ば頃にかけて盛んに作られた一連の傾向的な作品群をいい、アメリカ社会への懐疑とか政治体制への反抗といったものを主なテーマにしている。その背後にはベトナム戦争があったわけで、この戦争に不正を感じた人々が、アメリカへの意義申し立ての表現として作ったという側面がある。したがって、ベトナム戦争が終わり、アメリカ社会に一定の落ち着きが戻ってくると、アメリカン・ニューシネマは下火になっていた。

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スティーヴン・ソダーバーグの映画「KAFKA 迷宮の悪夢」は、20世紀を代表する作家フランツ・カフカを題材にした映画である。とはいっても、カフカの作品をもとにしたわけでもなく、またカフカの伝記的事実にもとづいたものでもない。この高名な作家の名前を借りて、一人の映画作家が自分勝手な映画の世界を作りあげたというに過ぎない。だからこの映画を、カフカに関連づけて解釈するわけには行かない。ただのミステリー映画として見るべきである。

女ざかり:大林宣彦

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少年少女たちの青春を描き続けた大林宣彦が、中年女性の生き方を描いたのが「女ざかり」だ。これは丸谷才一の同名の小説を映画化したものだが、原作はちょっとした社会現象のようなものを巻き起こした。まず「女ざかり」という言葉が目新しかった。それまでは壮年の男をさして「男ざかり」ということはあっても、「女ざかり」という言葉はなかった。女の命は娘盛りにあるので、それを過ぎた女はもはや「女」とは認識されなかった。ましてや中年の女に色気があるなどと、誰もが思わなかった。そういうような時勢の中で、四十を過ぎた女を「女ざかり」と表現した丸谷の原作は古い人間たちの度肝を抜いた。しかしその一方で、この言葉に拍手喝采した人々もいたわけで、それは自分たちの存在意義をそこに感じることのできた当の中年女性ばかりではなく、彼らと同世代の男たちにもうなずくべきところがあったのである。

青春デンデケデケデケ:大林宣彦

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大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」は、尾道三部作の延長上にある青春映画だ。舞台は尾道とは瀬戸内海を隔てた対岸の町観音寺。この町は地図で見ると尾道の南東にあたっているのがわかるが、島影によって遮断されていないので、お互いに良く見えるそうである。だから尾道三部作を、大林本人がいうように瀬戸内海を舞台とした青春映画とすれば、「青春デンデケデケデケ」もその範疇に治まる。

さびしんぼう:大林宣彦

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大林宣彦の映画「さびしんぼう」は、所謂尾道三部作の最後の作品であり、前二作同様尾道を舞台とした青春映画である。ここでは、高校二年生の初恋が描かれている。その初恋がいかにも思春期の少年少女のういういしさに包まれており、見ていて思わずほんのりとした気分になってしまう。筆者のような、はるか大昔に青春を通り抜けた老人にとっても、このような映画を見せられると、自分の初恋のときの思いがありありとよみがえってきて、ついうっとりとしてしまう。筆者の初恋も、この映画の中の少年少女と同じく、十六歳の出来事だった。

時をかける少女:大林宣彦

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大林宣彦は、青春映画が得意で、いまでも多くのファンがいるという。彼の映画には、子どもから大人になりかけている少年や少女たちが登場して、人生の中で一回限り出会う出来事に体をはってぶつかっていく姿が描かれている。そうした姿が、同年代の少年少女たちの共感を呼ぶのは無論、かつてそのような少年や少女だった大人たちをもノスタルジックな気分にさせるのだろう。同じ大人でも、もはや少年時代の生き生きとした記憶を失ってしまった筆者のような老人には、彼らの気持にはなかなか感情移入できないが、それでもほのぼのとした気持にはなれる。

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映画を発明して始めて公開したのはリュミエール兄弟ということになっているが、映画を映像芸術かつ大衆娯楽として確立したのはジョルジュ・メリエスといえよう。仮にメリエスが現れず、リュミエール兄弟の段階で映画製作がとどまってしまったとしたら、映画が今日のように世界的な規模で発展することはなかっただろう。なぜかといえば、リュミエール兄弟の作った映画は、動く写真とでもいうべきもので、現実の世界の写像に留まっていたからだ。そうしたものに人間は、いつまでも高い関心を持続的に抱き続けるわけにはいかない。人間の高い関心を持続的にひきつける為には、ファンタジーの要素がなければならない。映画にそのファンタジーの要素を持ち込んだのがジョルジュ・メリエスなのだ。

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死や信仰などをめぐる人間の精神的な危機を描き続けてきたベルイマンが、この「叫びとささやき(Viskningar och rop)」では、生きることの罪深さとでもいうべきものを描いている。「生きることの罪深さ」というと、我々日本人には理解しがたいところがある。我々日本人にとって、この世で生きているということは、縁があって生きているということであり、したがった有難いこととして受け取られる。決して罪深いなどとは思われない。しかし、キリスト教文化にあっては、人間は原罪を背負ってこの世に生まれてきたものと信じられている。人間がこの世で生きることはだから、生まれながらにして罪深いことなのだ。

恥(Skammen):イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの映画「恥(Skammen)」は、内戦に翻弄される人々を描いた作品である。この映画が作られたのは1966年であるから、当時の観客は同時期に進行中であったベトナム戦争を想起したようだが、今日これを見ると、シリアの内戦が思い起こされる。政権側と半政権側が激しく対立し、市民はその対立に翻弄される。政権側の言うことをきくと反政権側から殺され、反政権側の言うことをきくと政権側から殺される。挙句は生活基盤を悉く破壊され、安全を求めて外国に逃れる。しかしその道も容易ではない。ボートで漂流する難民たちを待っているのは過酷な運命だ。全くこれと同じようなことが、この映画の中でも描かれている。

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イングマル・ベルイマンは「第七の封印」以後宗教的なテーマを描いた作品を作り続けてきたが、「仮面 / ペルソナ」は一転して、宗教とはかならずしも結びつかない、人間同士の葛藤を描いた作品だ。その人間同士の葛藤は、心と心が直接ぶつかり合うのではなく、仮面を通じて展開する。外面と内面が一致しない二人の人間同士が、外面のぶつかりあいを通じて内面のぶつかり合いに至った挙句、外面と内面とがねじれあうように融合してしまう。外面はそのままで内面を交換する、あるいは内面はそのままで外面を交換する。なんとも不可解な事態に陥った二人の人間(女性)の、不思議な関係を描いた映画なのである。

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イングマル・ベルイマンは、「処女の泉」で神の沈黙をテーマに取り上げたあと、立て続けに宗教色の強い映画を作った。「鏡のなかにある如く」、「冬の光」、「沈黙」からなる「神の沈黙」シリーズといわれる作品群である。このうち「冬の光(Nattvardsgästerna)」は、聖職者の信仰の揺らぎをテーマにした、非常に重い感じの作品である。

処女の泉:イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの1960年の作品「処女の泉」は、いかにもキリスト教らしい信仰の問題をテーマにしているにもかかわらず、前作の「野いちご」に続き、欧米諸国のほか日本でもヒットした。神の沈黙という重い宗教的なテーマは、キリスト教徒にとってはなじみの深いものだが、日本人には、ほとんど無縁な事柄と言える。それなのにこの映画は日本人にも受け入れられた、というので、映画史上では画期的な作品の一つに数えられる。

野いちご:イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの映画「野いちご」は、老いと死を追求した作品である。ベルイマンは前作「第七の封印」において、死を人間の外から襲い掛かってくる凶暴な力として描いていたが、この作品では、老いがはぐくみ育てる果実のようなものとして描いている。それは人間にとって避けがたい宿命としては、誰もがたじろがざるをえないものだが、自分の生きてきたことの意味を考えさせずにやまないものとしては、なつかしいものでもある。少なくとも、沈黙を強いる暴力ではない。それはかえって愛の感情を掻き立てる。何故なら愛とは人間の生命に固有のものだからだ。その生命の暖かい営みが消えそうになるとき、人は愛の最後のほとばしりを感じるに違いないのだ。

第七の封印:イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの映画「第七の封印」は、ヨハネの黙示録にある七つの封印の寓話をもとにし、これに中世ヨーロッパにおけるペストの猖獗をからませてある。七つの封印が解かれるごとにこの世に災いが巻き起こり、最後の封印が解かれたあと最後の審判が始まる、というのが黙示録の寓話が物語るところだが、そこに語られたこの世の災いをペストと読み替え、この疫病によって人々が死に絶えた後、最後の審判の幕が落とされる、とするのがこの映画の発しているメッセージだ。したがって、この映画が「宗教映画」と言われることには理由がある。

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この映画を一言で定義づければあきれた恋愛ゲームということになろうか。ゲームだからプレーヤーがいて、アンパイヤもいる。この映画の場合、アンパイヤは一人の中年女であり、プレーヤーは彼女をめぐって恋敵の関係にある二人の男だ。この二人の男を、アンパイヤの女が、男たちの妻や家族ともども、自分の母親の屋敷に招待し、そこで恋愛ゲームを繰り広げるというのが、この映画のあらすじだ。あらすじと言っても、物語としてのあらすじではない。この映画には物語はない。あるのは、ゲームに特有の、人間同士の駆け引きなのである。

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イングマル・ベルイマンは、20世紀を代表する映画監督という評価が確立している。年表を見ると、第二次大戦直後から精力的に映画作りをしているが、広く知られるようになったのは、1952年公開の「不良少女モニカ(Sommaren med Monika)」である。この映画は、スウェーデンというヨーロッパの周縁部を舞台としていることや、一人の不良少女の神を恐れぬ奔放な生き方をテーマにしていることから、欧米の映画界にある種のセンセーションを巻き起こした。映画のかもし出すドライな雰囲気は、フランスのヌーヴェルヴァーグなどに大きな影響を与えもした。

少年:大島渚

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大島渚の映画「少年」は、所謂当り屋をテーマにした作品である。当り屋というのは、故意に車にぶつかって事故と見せかけ、相手から多額の金品を脅し取るというもので、1960年代までは、よく聞く話だった。映画化されたこともある。しかし、この映画「少年」が描いているのは、大人が少年に体当たりさせ、その痛みをたねにして金を脅し取るという尾籠な世界である。これは実際にあった事件で、当時の報道も大々的に取り上げた。大島はその内容を詳しく知るに及んで、これが現代(大島が生きていた1960年代の日本)の世相の一面を如実に反映したものだと感じ、是非映画化したいと思って、取り組んだということである。

極道の妻たち:五社英雄

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「極道の妻たち」シリーズは、東映やくざ映画の黄金期が終わったあとに始まった、いわば付録のようなものだが、このシリーズで岩下志麻が大女優としての名声を確固たるものにした。だからこのシリーズは、岩下志麻のために作られたと言ってよいほどである。

仁義なき戦い 頂上作戦:深作欣二

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「仁義なき戦い」シリーズの第四作目「頂上作戦」は、深作欣二の監督によるこのシリーズ最後の作品である。戦後まもなくの頃から繰り広げられてきた広島やくざの抗争が、市民社会によって糾弾され、表舞台から消滅してゆくところを描いている。そんなこともあって、この映画は、先行する作品群に比べて迫力に欠けるところがある。主人公の広能(菅原文太)は途中からいなくなってしまうし、やくざ同士の抗争も、たがが外れて筋の通ったところがない。闇雲に殺しあっているといった印象を受ける。

仁義なき戦い 代理戦争:深作欣二

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仁義なき戦いシリーズの第三作「代理戦争」は、広島のやくざ同士の対立が神戸に本拠を置く広域暴力団同士の抗争に巻き込まれ、その代理戦争の観を呈していく有様を描く。当時は米ソの冷戦時代であり、朝鮮戦争以来世界各地で米ソの代理戦争とも言うべき小競り合いが起こっていた。この映画はそれをイメージしたものである。神戸に根拠を置く二つの広域暴力団を米ソにたとえ、広島の田舎やくざが広域暴力団の傀儡となって戦いあう様を、代理戦争と言ったわけである。

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