蔡明亮は1990年代から2000代にかけて活躍した台湾の映画作家だ。ユニークな作風で知られている。2003年に公開した「楽日(原題は<不散>)」は、セリフをほとんど省略している点で無言劇に近く、しかもモンタージュを全く無視するかのように、カメラの長回しを重ねることで成り立っている不思議な映画である。長回しは固定した視点から取られているので、観客はあたかも演劇の舞台を見ているような気持ちにさせられる。
映画を語る
瀬々敬久の2022年の映画「とんび」は、瀬々にしてはめずらしく、地方の町を舞台にした人情劇である。無法松を思わせるような一徹な男が、妻を失った後、男手一つで息子を育て、その息子との間に強い絆を築き上げるというような内容の作品だ。その子育てに、周囲の様々な人たちが手助けをする。だからその子どもは、父親だけのものではなく、みんなの子なのである。そういった設定は、なかなか現実味を感じさせないので、これは願望を現実に投射したアナクロ映画のようにも映る。鋭い社会批判が持ち味の瀬々にしては、かなりゆるさを感じさせる映画である。
2019年公開の映画「新聞記者(藤井道人監督)」は、東京新聞の記者望月衣塑子の同名の著作を原案とした作品。望月衣塑子といえば、官房長官時代の菅義偉に食い下がったことで有名になった人だ。その人が、安倍政権時代に起きたさまざまなスキャンダルについて、彼女なりの立場から批判的に描いたというのが、原作の意義だったようである。そういうスキャンダルは、ドキュメンタリー風に描くと迫力が出ると思うのだが、ここではあくまでもフィクションとして語られるので、ドラマとしてはともかく、社会批判としての迫力はほとんど感じさせない。
2021年公開の映画「パンケーキを毒見する」(河村光庸)は、前首相菅義偉の政治姿勢をテーマにしたドキュメンタリー作品。菅という人間を、褒めたりけなしたり多面的な視点から描いている。結果伝わってくる印象は、菅という人間が、矮小でありながら強大な権力を握ったことのアンバランスの象徴のようなもの、ということである。菅本人は権力を振り回しているつもりが、かえって権力に振り回されているといった、とんちんかんな人間像が、この映画からは浮かび上がってくるのである。
相米慎二の1998年の映画「あ、春」は、父と子の絆とは何かを考えさせる作品。それに1990年代末の金融危機を絡ませている。父と子の絆を結ぶのは普通は血のつながりだが、この映画は、血のつながりばかりが父子の絆ではなく、人間はもっと広い関係性を通じて絆を深めるものだというようなメッセージが伝わってくる作品である。
相米慎二の1993年の映画「お引越し」は、思春期前期の少女の悩みを描いた作品。小学校六年生の少女レン子が主人公。両親の仲が悪く、離婚話に発展したあげくに、別居を始めた。レン子は、父親が大好きだ。無論母親も愛している。だから親子三人仲良く暮らしたいと願っている。そこで両親を仲直りさせようとしていろいろ智慧を絞るが、なかなかうまく行かなくて悩む、というような内容だ。
恩地日出夫の1991年の映画「四万十川」は、四国の四万十川を舞台にしながら、ある少年の成長を描いた作品、四万十川を舞台にした少年の物語映画としては、東陽一の「絵の中の僕の村」が想起されるが、恩地のこの映画はそれよりも先に作られた。四万十川の美しい自然を背景にして、少年の瑞々しい感性を描いたこの作品は、少年の成長をテーマにした映画の中でも白眉といってよいだろう。
セリーヌ・シアマの2021年の映画「秘密の森の、その向こう(Petite maman)」は、八歳の少女が同じ年ごろだった自分の母親と出会い、ひと時を過ごすというようなノスタルジックな気分を掻き立てる作品。小生は、娘の頃の自分の母親に出会ったという経験はないが、もしそんな体験ができたら、泣きたくなるくらいうれしいに違いない。自分自身の少年時代には、夢の中なりとも出会えることはあるが、自分が生まれる前に生きていた親と出会うというのは、全くありえないからだ。
セリーヌ・シアマの2019年の映画「燃ゆる女の肖像(Portrait de la jeune fille en feu)」は、女性同士の同性愛をテーマにした作品。シアマは同性愛に深い関心を持っているようで、処女作の「水の中のつぼみ」でも、思春期の少女が同性愛に目覚める様子を描いていた。「水の中のつぼみ」は、現代のフランス社会を舞台としており、女性の同性愛はもはやタブーではなかったが、この「燃ゆる女の肖像」は、18世紀のフランスを舞台としており、従って、同性愛、とりわけ女性同士の同性愛は(表向きは)タブーだった。そんな時代に、若い女性が同性愛に目覚め、レズビアンとなっていく過程を描いたものだ。その時代のことだから、レズビアンとなることはかなりを勇気を要した。相手を同性愛に誘うには、それなりの慎重さが求められた。この映画は、互いにひかれながらも、なかなかカミングアウトすることができず、試行錯誤を重ねながら同性愛を確立する過程を描いているのである。だから、女はいかにしてレズビアンになるか、といった問題意識を感じさせる作品である。
セリーヌ・シアマの2007年の映画「水の中のつぼみ(Naissance des pieuvres)」は、思春期の少女の性の目覚めというようなものを描いた作品。シアマにとっては、監督デビュー作である。思春期をテーマにしていることで、それなりの情緒を感じさせるが、小生のような老人には、未成年者のあぶなっかしさのようなものが気になるところだ。
吉田喜重の2002年の映画「鏡の女たち」は、出来こそないのミステリー映画というべき作品。ミステリーとして中途半端だし、物語設定にも時代考証にも無神経ぶりがうかがわれる。主演の岡田茉莉子はすでに七十歳にせまる年頃で、さすがに老化を感じさせる。そんな彼女の老後を輝かせる映画になっていない。
吉田喜重の1986年の映画「人間の約束」は、吉田にしてはめずらしくシリアスな作りになっている。テーマは老人の認知症。両親が相次いで認知症になり、とくに症状のひどい母親が、家族全体の負担になる。そこで思い余った息子が母親を殺してしまうという内容。あまりにも陰惨な内容なので、さすがの吉田もシリアスを装わねばならぬと考えたのであろう。
吉田喜重の1973年の映画「戒厳令」は、北一輝の半生を描いた作品。吉田は、大杉栄をテーマにした作品とか戦後における日本共産党の盲動ぶりをテーマにした作品を作るなど、日本現代史に取材した作品をいくつか作っている。「エロス+虐殺」は、大杉栄をかなり戯画化していたし、「煉獄エロイカ」は日本共産党を誹謗するような意図を感じさせる。それに対してこの「戒厳令」は、北一輝という人物を徹底的に矮小化している。北をどう評価するかについては、政治的な見方を含めて様々だろうが、かれが日本近代史におけるある種の巨人であったということは、無視できるものではないので、それをこの画のように矮小化するのは、やはり問題があるのではないか。
吉田喜重には、人を食ったような悪ふざけに興じるところがある。1970年の作品「煉獄 エロイカ」はそうした傾向を強く感じさせるものだ。前年に作った「エロス+虐殺」にもそういう傾向があらわれていたが、この作品はそれをもっと表面化させ、そのことである種のグロテスク趣味に陥っている。
吉田喜重の1966年の映画「女のみづうみ」は、中年女の婚外性交をテーマにした作品。婚外性交とは、いまふうに言えば不倫である。映画の中では浮気という言葉も使われている。その浮気ないし不倫のツケというべきものが、この映画の主題的なテーマである。
吉田喜重の1962年の映画「秋津温泉」は、頭のちょっと弱い女と、頭のかなりいかれた男との、支離滅裂な恋愛劇である。支離滅裂というのは、互いに惚れあっていながら、結びつくことが怖くて、かえって心中したほうがましだと思いながら、それでも結びつくことを求めて呻吟し、呻吟しているうちに年をとってしまうからである。その支離滅裂な恋愛劇が、岡山県の山間部にある秋津温泉を舞台にして展開する。秋津温泉そのものは実在しない。実在するのは奥津温泉である。
グレタ・ガーウィグの2017年の映画「レディ・バード(Lady Bird)」は、思春期の少女が大人になる過程を描いた青春映画である。日本では、少女を主人公とした青春映画は、無知な子供だった少女が、大人の人間関係や社会的なルールを身に着けていく過程を描くものが多く、恋愛が絡んでいてもプラトニックなレベルにとどまるのが普通だが、この映画は、少女のセックスを正面から取り上げ、大人になることはセックスを思い通りにするようになることだというような描き方である。やはり民族性の相違だろうか。
2013年のアメリカ映画「それでも夜は明ける(12 Years a Slave スティーヴ・マックィーン)」は、アメリカの奴隷問題をテーマにした作品。19世紀前半のアメリカが舞台。その頃のアメリカ合衆国は奴隷制度が合法だったのだが、北部では自由黒人という範疇の人たちが存在していて、自由人として暮らせていた。自由黒人証明書というものが発行され、その証明書がかれらの安全を保障していた。ところが、悪い白人の手にかかって、南部に奴隷として売られ、ひどい目にあう黒人が多くいたらしい。この映画は、自由黒人でありながら、白人のならず者に騙され、南部の奴隷所有者に売られた黒人を描いている。
クリント・イーストウッドの2009年の映画「インビクタス(Invictus)」は、南アフリカ初の黒人大統領になったネルソン・マンデラの人種融和政策をテーマにした作品。イーストウッド映画でなじみのモーガン・フリーマンがマンデラを演じているが、そのフリーマンが、原作の映画化権を手に入れて、イーストウッドに監督を依頼したといういきさつがある。
クリント・イーストウッドの2008年の映画「グラン・トリノ(Gran Torino)」は、いわゆるラスト・ベルト地帯を舞台にして、頑固な老人と新来の東洋人家族との触れ合いを描いた作品。イーストウッド演じる頑固な老人が、隣人の子供らが苦境に苦しんでいることに同情し、命をかけて守ろうとするところを描く。その老人はたびたび吐血に見舞われ、死を覚悟していた。どうせ死ぬなら意味のある死を死にたい。そんな切実さが伝わってくる映画である。
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