映画を語る

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クリント・イーストウッドの2008年の映画「チェンジリング(Changeling)」は、失踪した息子のかわりに他の子供を、警察によって息子として押し付けられた母親の戦いをテーマにしたもの。警察の横暴ぶりと、それに立ち向かって自由と正義を実現しようとするキリスト教社会の行動ぶりなど、いかにもアメリカらしいテーマである。この映画を見ると、クリント・イーストウッドが敬虔なキリスト教徒であることが伝わってくる。イーストウッドは、日本では右翼的な印象を持たれているが、この映画を見る限り、右翼というよりは、まっとうなキリスト教徒(穏健な保守派)とう印象を受ける。

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クリント・イーストウッドの2004年の映画「ミリオンダラー・ベイビー(Million Dollar Baby)」は、プロボクサーを目指す貧しい女性が、実力と運で人気ボクサーになりあがった末に、試合中に被った怪我がもとで廃人になる過程を描く。スポーツ根性ものの要素に、ヒューマンドラマの味を加えたような作品だ。

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クリント・イーストウッドの1995年の映画「マディソン郡の橋(The Bridges of Madison County)」は、ロバート・ウォーラーの同名の小説を映画化したもの。原作は1992年に刊行されるや爆発的なヒットを記録し、日本でも早速翻訳されて大評判となった。小生もその評判につられて読んだ一人だったが、読んでの印象はあまりはかばかしくなかった。中年男女の不倫の恋を描いたこの小説のどこが面白いのか。発想が子供じみているし、官能的なところもない、などと思ったものだ。

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クリント・イーストウッドの1992年の映画「許されざる者(Unforgiven)」は、賞金稼ぎをテーマにした西部劇である。賞金稼ぎというのは、一時期の西部劇ブームで大きな存在感を示していた。こういう輩が開拓時代のアメリカで活躍したのは、その時代のアメリカ社会の治安の悪さのためである。犯罪の被害者となった者が、司法に期待できないために、自力で正義を実現しようとする。その正義の実現のために手を貸すのが賞金稼ぎである。したがって賞金稼ぎには一定の存在理由が認められ、社会的に排斥されることは少なかったらしい。

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クリント・イーストウッドの1988年の映画「バード(Bird)」は、伝説的なジャズ・ミュージシャン、チャーリー・パーカーの伝記映画である。伝記といっても、パーカーの生涯を満遍なくカバーしているわけではない、パーカーをめぐるいくつかのエピソードをコラージュ風につなぎあわせたものである。

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山田洋次の1963年の映画「下町の太陽」は、山田の駆け出し時代の作品で、かれにとっては二作目の劇場用長編映画だった。それに倍賞千恵子が主演した。この若い女性の青春を描いた映画は、同名の主題歌と共に大ヒットし、山田にとっても賠償にとっても出世作となった。以後かれらは、「寅さんシリーズ」をはじめ、山田のほぼすべての作品で協力し合った。監督と俳優がこれほど親密な関係を築いたのは、世界中を探しても、他に例がないだろう。

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2022年の日本映画「PLAN 75(早坂千絵監督)」は、老人問題をテーマにした作品。社会に存在する意味がなく、しかも自身死んでもよいと考えている老人を、国が積極的にかかわり、死なせてやる政策をとったことで、多くの無用な老人が始末されるというような内容の作品である。国家が権力的に国民を始末する(殺す)というのは、究極的なディストピアだと思うが、今の日本ならそれがおきかねないという恐怖を感じさせるような映画である。実際今の日本は、無用な年寄りは早く死ね、と言ってはばからぬ人間でも総理大臣が務まるような国柄である。この映画の中のことが、絶対に起きないとはいえない。

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深田晃司の2019年の映画「よこがお」は、日本社会の陰湿ないじめ体質をテーマにした作品。甥が少女誘拐事件をおこしたために、事件とはなにも関係のない女性が、社会からすさまじいバッシングをうけ、居所を失うさまを描く。深田晃司の映画にはわかりにくいところが多かったのだが、この映画はわかりやすい。しかしそのわかりやすさが、テーマ設定の性格からして、非常な気味悪さを感じさせる。

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深田晃司の2016年の映画「淵に立つ」は、なんともいいようのない不思議な映画である。一応、サスペンス仕立てになっていて、繰り返される暴力の意味を考えさせるような意図が感じられるのだが、それにしては、しまりというか、一定の結末感がない。暴力はなぜふるわれたか、その理由が明らかにならないまま、映画は中途半端なエンディングを迎えるのだ。

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深田晃司の2015年の映画「さようなら」は、近未来の日本を舞台に、原子力で汚染された日本から人々が海外非難するという設定の作品だ。原子力による汚染は原発の爆発がもたらしたということになっている。おそらく福島原発事故を意識しているのであろう。だが、その程度の原発事故で、日本人の多くが海外避難するまでに追い込まれるというのは、どう考えても不自然であるから、この映画はいささか滑稽さをまぬがれない。

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深田晃司の2013年の映画「ほとりの朔子」は、思春期後期の女子を描いた作品。思春期の女子をモチーフにした映画としては、内藤洋子主演の1967年の作品「育ちざかり」が思い浮かぶ。「育ちざかり」は鎌倉の海を背景にして女子の初恋を描いたものだったが、この「ほとりの朔子」は、やはり海を背景にして女子の青春を描く。恋情もあるが、それにこだわらない。この年頃の女子が抱えている悩みとか疑問とか、成長にともなうさまざまな事柄が幅広く取り上げられ、描かれている。

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2006年のアメリカ映画「不都合な真実(An Inconvenient Truth デイヴィス・グッゲンハイム監督)」は、地球温暖化防止を訴えるアル・ゴアの活動を描いたドキュメンタリー作品。アル・ゴアが、世界各地を飛び歩いて行っているキャンペーン講演の様子を映し出しながら、アル・ゴア本人の私生活も懐古的に語られる。

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2016年のアメリカ映画「私はあなたの二グロではない(I Am Not Your Negro)」は、アメリカにおける黒人への人種差別をテーマにしたドキュメンタリー映画である。黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの未完成原稿を下敷きにしている。そのボールドウィン自身が画面に登場して、アメリカの人種差別のおぞましさを告発する。黒人だけではなく、原住民も差別されている。その原住民を悪魔のような存在に仕立て上げて、かれらを虐殺することを正当化するのが、アメリカ社会の真の姿だ。その真実をジョン・ウェインが象徴している。ジョン・ウェインは、西部劇映画の中でインディアン殺しを堪能した悪党というわけである。

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2019年のシリア映画「娘は戦場で生まれた」は、シリア内戦を一女性の視点から記録したドキュメンタリー映画である。1911年の「アラブの春」の激動に始まり、アサド政権による運動の弾圧とそれへの抵抗が内戦へと発展し、やがてジハード組織の介入や、ロシアの介入などを経て、泥沼の状況に陥っていくさまを、一女性の視点から見続けている。その女性は、後に夫になる医師が、内戦の犠牲者を治療する役割を果たしていることもあり、いわば内戦の最前線にいつも立ちあっている。その立場から、スマホを含め常にカメラを使って、内戦の過酷な実態を記録し続けたのである。その記録は、1911年のアレッポ大学における「アラブの春」運動から、1916年の暮れまでをカバーしており、その五年の間に一人目の娘が生まれ、やがて二人目の子供の出産を控えることろで終わる。映画は一応終わるのだが、内戦そのものはいま(2023年)でも続いている。

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山本薩夫の1979年の映画「あゝ野麦峠」は、原作の副題に「ある製糸工女哀史」とあるように、女工哀史ものというべき作品。諏訪の岡谷を舞台にして、製糸工場で奴隷的な境遇に生きる不幸な女たちを描いている。その女たちは、13歳くらいから工場で働き始め、嫁入りする年頃まで、親元を離れて集団生活をしながら、過酷な労働と劣悪な環境のため、若い命を失うものが多かった。そうした不幸な女たちを情緒豊かに描いたことから、この映画は大変な反響を呼んだ。当時の日本人はまだ、不幸な人間に同情する気持ちを失っていなかったようである。

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山本薩夫の1978年の映画「皇帝のいない八月」は、自衛隊員たちのクーデタ計画をテーマにした作品。小林久三の同名の小説を原作としている。原作は、1961年に起きた自衛隊員によるクーデタ計画「三無事件」をモデルにしているという。その事件は、元自衛隊員らが起こしたものだが、あまりにもずさんな計画で、警察によって検挙・鎮圧された。

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山本薩夫の1974年の映画「華麗なる一族」は、山崎豊子の同名の小説を映画化したもの。原作は、銀行のオーナー経営者の野心を描いたもので、ストーリー設定の巧みさから、実際にあったことのように思われたものだが、金融界の事情を参考にしたとはいえ、事実を描いたものではなく、あくまでフィクションである。だが、山本薩夫がそれを映画化すると、どういうわけかリアル感があふれ、まるで事実を踏まえたもののように感じさせる。

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山本薩夫の映画「戦争と人間第三部完結編」は、昭和12年の日中戦争全面開始から昭和14年のノモンハン事件までを描く。この戦争に伍代財閥も大きな利害を持つ。だが、次男の俊介(北王路欣也)と二女順子(吉永小百合)は戦争に批判的だ。また、二女の恋人耕平は、官憲に拘留されて拷問を受けた後、徴兵され、やがて満州の戦いに駆り出される。その耕平と順子はは徴兵に先立って結婚する。また、俊介はノモンハンの戦いに駆り出される。

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山本薩夫の1971年の映画「戦争と人間第二部愛と悲しみの山河」は、「戦争と人間」シリーズの第二作。昭和32年3月の満州国建国から同37年7月の盧溝橋事件までを描いている。日本の侵略拡大に寄り添うそうように伍代財閥も中国への進出を進め、軍事資金の獲得を名義にアヘン売買にも手を染める。満州国の特務機関員となった柘植(高橋英樹 伍代の長女の恋人)が、伍代のアヘン密売を摘発したりするが、時代は超法規的なことがまかりとおる世界、伍代は堂々と違法行為に手を染める。

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山本薩夫の映画「戦争と人間」は、五味川純平の同名の小説を映画化したものだ。なにせ九時間を超える超大作であるから、一時に公開できる規模ではないので、三部に分けて制作・公開された。全編を通じての内容は、張作霖爆殺事件からノモンハン事件までを背景にしながら、軍部とそれに結びついた政商の動きを描くことにある。その政商にはモデルがあるのかどうかが話題になったそうだが、原作者の五味川自身、モデルは成り上がり財閥鮎川だと言っている。五味川は日産グループの企業で働いたことがあり、鮎川をめぐる人間関係に通じていたようである。

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