映画を語る

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ジャック・フェデーの1937年の映画「鎧なき騎士」は、フェデーがイギリスに招かれて作った作品。テーマはロシア革命である。そのロシア革命を、結構否定的に描いているところから、「反ソ映画」に分類されることもあるが、フェデー自身に反ソ的な傾向があったのかは明らかではない。マレーネ・ディートリヒ演じる主人公の女性が、大地主で政府高官の娘となっていて、彼女をヒロインとしていることで、おのずから彼女寄りの視点に立つのだが、フェデーは革命の混乱を描くことよりも、その混乱を生きる男女の愛に焦点をあてており、歴史ではなく愛がモチーフだと言いたいようである。

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ルネ・クレールは1947年に「沈黙は金」でフランス映画界に復帰して以降、「悪魔の美しさ」、「夜ごとの美女」、「夜の騎士道」という具合に一連の傑作群を作ったのだったが、「リラの門(Porte des Lilas)」(1957年)は、その最後を飾る作品である。しかし前三作と比較すると、多少劣るのは否定できない。

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黒沢清の2020年の映画「スパイの妻」は、戦時中の満州における日本軍の人体実験をテーマにした作品。同じような趣旨の映画に、熊井啓の「海と毒薬」がある。熊井の映画は、日本軍によって捕虜となった外国兵を、人体実験の検体にするという内容だったが、こちらは、いわゆる石井機関の蛮行がテーマである。この不都合な事実を、いまの日本人の中には認めたくないものが多いので、それを映画にすることは、かなりな反発を呼ぶのではないかと思うのだが、そこは黒沢のこと、手際よく処理して、結構な人気を集めることに成功した。ヴェネツィアでも銀獅子賞をとっている。

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濱口竜介の2021年の映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」の冒頭を飾る同名の作品を映画化したもの。物語の基本的な枠組みは維持しているが、かなり大胆な脚色が加えられており、村上の原作を読んでいなくとも、十分楽しめるように作られている。

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ファティ・アキンの2019年の映画「屋根裏の殺人鬼(Der Goldene Handschuh)」は、1970年代にハンブルグで起きた連続殺人事件に題材をとった作品。この事件は、アパートメントの屋根裏で一人暮らしをしていた男が、娼婦を自分の部屋に連れ込んでは殺害し、バラバラにした死体を壁の中の小さな空間に押し込めていたというもので、被害者の数は四人、年老いた娼婦やホームレスの老婆たちだった。

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アニエスカ・ホランドの2011年の映画「ソハの地下水道」は、ナチスによるユダヤ人へのホロコーストをテーマにした作品。ユダヤ人が地下水道に潜伏して迫害を逃れようとするところは、アンジェイ・ワイダの「地下水道」と同趣旨である。ワイダの映画は、いわゆるワルシャワ蜂起を背景としていたが、この映画はルヴフというポーランドの地方都市を舞台としている。この都市は、現在ではウクライナ領になっており、リヴィウと改称されている。

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イエジー・カヴァレロヴィチの1959年の映画「夜行列車」は、かれにとっての出世作であるとともに、アンジェイ・ワイダに続いて、ポーランド映画を世界に注目させた作品。ワイダの映画がいづれも高度な政治的メッセージを感じさせるのに対して、カヴァレロヴィチの映画にはそうした政治性はない。この映画「夜行列車」も、おそらくワルシャワから出発して北部の海岸へと向かう夜行列車に乗り合わせた人々の人間模様を描いている。乗客の一人が、自分はブッヘンヴァルトに四年入っていたと言うところが、唯一政治的なメッセージである。

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ロマン・ポランスキーの1966年の映画「袋小路」は、イギリスに招かれて作った作品である。「水の中のナイフ」同様、閉じられた空間における人間の愛憎模様をテーマにしている。ポランスキーが閉鎖的な空間にこだわるのは、若い頃にゲットーに閉鎖された体験がトラウマになっているためかもしれない。

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ロマン・ポランスキーの1962年の映画「水の中のナイフ」は、かれの監督デビュー作である。ポーランド国内ではまったく話題にならなかったが、ハリウッドでは絶賛された。この頃のポーランドは、まだ西側世界とは隔絶しており、アンジェイ・ワイダを除いては、ポーランド映画はほとんど知られていなかった。そこへハリウッド的な雰囲気を感じさせる映画が東側のポーランドから出てきたのが新鮮に映ったのだろう。また、ロマンスキーがゲットーの生き残りだったということも、ユダヤ人が支配しているハリウッドに親近感を持たせたのだと思う。

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2017年のハンガリー映画「心と体と」は、屠場を舞台にした男女の恋愛映画である。屠場を舞台にしていることから、家畜の屠殺シーンが出てくるし、また血まみれの画面も出てくるので、気の弱い人は見ないほうがよい。小生もあまり得意ではないのだが、なんとか見続けることができた。それにつけても、死に臨んだ牛の諦観した表情が印象的だ。小生はかつて、東品川にある屠場に行ったことがあるが、そこには毎朝牛たちがトラックに乗せられて集まってくる。その牛たちは一様に諦観したような表情を呈していて、自分を待っている運命を達観しているように見えた。そんなことを思いだしながら、この映画を見た次第だ。

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ルイス・ブニュエルの1962年の映画「皆殺しの天使(El ángel exterminador)」は、ブニュエル得意の不条理劇映画。長らくメキシコを本拠にリアリスティックな映画を作っていたブニュエルが、スペインに戻って作った作品だ。「アンダルシアの犬」や「黄金時代ん」など初期のシュル・レアルな作風とは趣を異にし、晩年フランスで手掛けた一連の不条理映画につながるものがある。ブニュエルにとって、重要な転機を画す作品といえよう。

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ルイス・ブニュエルの1959年の映画「ナサリン(Nazarin)」は、ブニュエルが大戦後メキシコで作った一連の低予算映画の一つで、「忘れられた人々」と並んで、メキシコ時代の傑作とされる作品である。放浪のカトリック神父と、かれの周りに引き付けられる様々な人物を描きながら、メキシコ人独自の世界観を表現した。

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ルイス・ブニュエルの1930年の映画「黄金時代(Age d'or)」は、「アンダルシアの犬」に続き、サルバドール・ダリの協力を得て作った作品。「アンダルシア」ほどではないが、前衛的な雰囲気の強い作品である。その内容があまりにも人を馬鹿にしていたので、怒った右翼がスクリーンに爆弾を投げつけたといういきさつがある。そのため長い間上映を控えた。被害者である映画のほうが、加害者の怒りを憚ったということだ。日本でも同じような出来事があった。雑誌に掲載された小説が気に入らないといって、右翼に攻撃された出版者が、被害者にかかわらず加害者の右翼にあやまったのだ。世に「中央公論」事件と呼ばれるものだ。

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成瀬巳喜男最晩年1966年の映画「ひき逃げ」は、小さな息子をひき逃げで殺された女が、殺した相手に復讐するという内容の作品。その相手は浮気をしている中年女で、男を乗せて車を運転している最中に小さな子どもをひいてしまう。男と一緒にいるところを家族に知られたくなかったので、女はそのまま逃走した。挙句は、亭主に相談して、自分の罪を事件とは全く関係のないお抱え運転手になすりつける。そんな女に対して母親が、復讐を目的にさまざまな行動をとるといった内容だ。

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成瀬巳喜男の1960年の映画「秋立ちぬ」は、成瀬にはめずらしく子どもを描いた作品である。それも小さな子どもたちの幼い恋を描く。幼い二人が、互いに相手だけが心の支えであるのに、思い寄らず引きはなされてしまう。そのあたりは「禁じられた遊び」の小さな二人を想起させるが、この映画のなかの小さな二人は、「禁じられた遊び」をする二人ほどドラマチックには描かれていないし、また、相手の姿を求めて叫んだりもしない。だが、その二人が受けた心の傷は、海よりも深いと思わせるところがある。

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成瀬巳喜男の1960年の映画「娘・妻・母」は、中流家庭の家族関係を描いた作品。成瀬といえば、貧困に喘ぎながら生きる女たちを描くといった印象がつよく、事実中流家庭を描いた作品は少ないのであるが、この作品は、ある時期の日本の典型的な中流家庭を描いている。いまでは核家族化が進むところまで進んで、大家族はあまりみかけなくなってしまったが、この映画が作られた1960年ごろは、まだ多世帯型で成員の多い家族が普通に見れらた。この映画の中の家族は、老母を頂点にして、長男とその妻子、出戻りの長女、二女とその夫、次男とその妻、および三女である。そのうち、長男夫婦が母親と同居し、出戻りの長女が居候をしているという設定になっている。

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成瀬巳喜男の1958年の映画「杏っ子」は、室生犀星の同名の小説を映画化したものだ。この小説は犀星の自伝というべきものであるが、そのうち後半部における作家(犀星)と娘とのかかわりの部分を取り出して描いている。娘は疎開先で知り合った男と結婚し、その男の家庭内暴力に苦しんで離婚する結末になっている。それを成瀬は、離婚に至らない手前で終わらせ、この夫婦がその後どうなるかについては、明示的なメッセージを発していない。

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成瀬巳喜男の1957年の映画「あらくれ」は、徳田秋声の同名の小説を映画化したもの。この小説は日本の自然主義文学の最高傑作というべき作品だ。秋声は日本の女たちの生き様を描くことにこだわった。その生きざまは、男社会に足蹴にされながらも、それに屈従するのではなく、自分の考えを率直に主張し、要するに自分に忠実に生きるというものである。秋声は、日本の近代化にともなって男尊女卑の傾向が強まる中で、必死に自己を主張する女たちに暖かい視線を注いだ作家だ。その秋声の描いた女たちのなかでも、「あれくれ」のお島はもっとも輝いている。成瀬の他の映画に出てくる女たちとはだいぶ違っている。

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成瀬巳喜男の1954年の映画「晩菊」は、「山の音」と「浮雲」の間に挟まれた作品であり、「浮雲」以後に全開するいわゆる成瀬らしさが、フルスケールで見られる傑作である。成瀬らしさとは、要するに女の立場に寄り添って、女の目線から世界を見るような描き方のことをいう。この「晩菊」に出てくる女たちも、成瀬の他の映画の女たち同様けなげにしかも自分に忠実に生きている。そんな彼女たちに完全に寄り添う形で、彼女たちのけなげな生き様を修飾なしに淡々と描く。そこには中途半端な抒情性などはない。あるのは女たちの生き方の率直さである。その率直さが、多くの日本人の共感を呼ぶばかりか、欧米人にまで共感されるというのはどういうわけか。とにかく、この映画は、理屈なしに人を共感せしむるのである。

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