映画を語る

好色一代男:増村保造

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増村保造は溝口健二の助監督として出発したが、溝口を強く批判して、その作風を嫌悪した。理由はいまひとつすっきりしないが、溝口が因習的な人間像を感傷的に描いたということらしい。だがその増村自身も、好んで日本の因習的な世界を描いた。もっともその描き方には、溝口とは違ったところがあった。溝口が女や弱い者の視点から描き続けたのに対して、増村は男の視点から描いた。また溝口には社会に対する批判的な意識があったが、増村にはそういう要素はほとんどない。彼にとって映画とは、理屈を盛りこむ容器ではなく、人を楽しませるものだった。要するに面白ければそれでよいのである。

独立愚連隊西へ:岡本喜八

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「独立愚連隊西へ」は、前作「独立愚連隊」の成功に気をよくした岡本喜八が、その続編という触れ込みで作った作品だが、内容的なつながりはない。独立愚連隊というアイデアを引き継いだというだけである。独立愚連隊という言葉は、正規の軍隊用語ではなく、この映画のために作られたものだが、字面から推測できるように、正規の軍隊秩序からはみ出した余計者の部隊というニュアンスが込められている。こんな部隊が実在していたわけではない。

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ゴダールの1960年の映画「小さな兵隊(Le petit soldat)」は、アルジェリアの対仏独立戦争をテーマにしたものだ。この映画が作られたのはまだ独立戦争のさなかのことであったし、また、戦争の当事者が実名で登場することもあって、別にフランス政府を批判したわけでもなかったのだが、公開に待ったがかかった。公開されたのは、停戦後の1963年のことだ。

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08/15シリーズ第三作「最後の08/15(08/15 In der Heimat)」は、ドイツ軍の敗北を描く。前二作におけるアッシュ所属の部隊がここでも映画の舞台となる。この部隊は、敗戦直前にロシア戦線からドイツ国内に移動し、国内でせまりくる連合軍の影におびえ、最後には全員が米軍の捕虜になるのであるが、部隊の秩序崩壊ぶりは、前二作以上に深刻である。

戦線の08/15

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「08/15」シリーズ第二作「戦線の08/15」は、題名のとおり戦線におけるドイツ軍の戦いぶりを描く。戦いの舞台はロシア、そこでの独ソ戦の最前線に、第一部で出て来た部隊がそっくりそのまま登場する。ドイツ軍が、兵営単位で戦線に配置されることがよく伝わって来る。その辺は、内地で結成された師団単位で行動する日本軍の場合と同じだ。

08/15:ドイツの軍隊生活

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ドイツ映画「08/15」は、第二次大戦におけるドイツの位置づけのようなものを正面から描いた、戦争もの三部作の統一名称である。第二次大戦勃発直前におけるドイツ軍の兵営での兵士たちの日常を描いた第一部、戦線での戦いぶりを描いた第二部、そして敗戦後のドイツを描いた第三部からなる。原作は、ドイツ軍兵士だったハンス・ヘルムート・キルストの回想録で、1954年に出版されるやベストセラーになった。それをパウル・マイが、出版直後から映画化にとりかかった。ドイツは敗戦国として、しかもナチスの所業が国際的に非難されていたこともあって、第二次大戦を正面から取り上げた映画は珍しかった。そんな風潮のなかで公開されたこの映画は、かなりの反響を呼んだようだ。

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フランス映画は、第二次世界大戦について、あまり取り上げることがなかった。ろくな記憶がなかったからかもしれない。その点は、映画界がこぞって太平洋戦争を取り上げた日本とはかなり事情が異なる。敗戦国である日本が戦争映画を沢山つくり、戦勝国であるフランスが、戦争をとりあげたがらない、というのは面白い現象だ。

東京オリンピック:市川崑の記録映画

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1964年東京オリンピックの公式記録映画は市川崑が作った。公式記録映画であるから、政府の金も入っているし、いろいろと注文を受けやすいということもあった。実際出来上がった作品を関係者に試写して見せたところ、さんざんなことを言われた。某大臣などは、こんなものは公式記録映画として認められないと毒づいたそうだ。どうもこの映画が、各国の選手の活躍ぶりを満遍なく映し出していて、日本人の活躍するシーンが少なすぎるというのが、彼ら不満分子の本音だったようだ。高峰秀子の回想録などを読むと、頭の固い政治家たちを相手に、いわれのない非難から市川を擁護した様子が伝わってくる。

細雪:市川崑

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谷崎潤一郎の小説「細雪」は何度もドラマ化されたようだが、市川崑の映画はもっとも出来がよいと評判である。たしかに映画としてはよく出来ている。京都の自然の美しさとか、女性たちの和服姿のあでやかさがよく表現されているし、開催弁での会話も醍醐味を感じさせる。映画のかもしだす雰囲気としては、最上級のものではないか。

破戒:市川崑

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市川崑の映画「破戒」は、島崎藤村の同名の小説を映画化したものだ。この小説を筆者は高校生くらいで読んだのだが、やたら暗いという印象が残っているばかりで、内容はあまり覚えていない。映画を見たところ、記憶の中の暗さよりもっと暗いといった感じで、このように暗い映画がよく商業映画として成立できたと妙な感心をしたほどだ。

おとうと:市川崑

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市川崑の1960年の映画「おとうと」は、幸田文の同名の小説を映画化したものだ。題名からして同胞愛をテーマにしたものだと推測できる。幸田文はこの原作小説を自分自身の実生活に取材し、その中で自分と弟との純粋な姉弟愛を描いたつもりらしいのだが、映画を見る限り、その姉弟愛は近親相姦を思わせるような、エロティックな色彩を帯びている。これはおそらく幸田本人の意図しなかったところで、市川が意識的にそうしたのか、あるいは幸田の小説にそのような要素があるのか、読者兼観客であるあなた自身が好きなように受け取って欲しい、そのように伝わってくる作品だ。

ぼんち:市川崑

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ぼんちという言葉を、筆者は関西弁に疎いのでいまひとつイメージがわかないのだが、ぼんぼんのなかでもしっかり者のぼんぼんというニュアンスの言葉だそうだ。ぼんぼんという言葉自体、そのニュアンスがわからないので、しっかり者のぼんぼんがどのようなものか、これもまたよくわからないのだが、しっかり者というからには、肯定的なニュアンスの言葉なのだろう。そういう意味合いでは、この映画に出てくるぼんぼんは、しっかり者とはとてもいえない人物なので、ぼんちの名には値しないようである。だから「ぼんち」と題してはいても、ぼんちになりそこねたぼんぼんの話と受け取ったほうがよさそうである。

野火:市川崑

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大岡昇平の小説「野火」は、太平洋戦争末期のフィリピン戦線における遊兵の人肉食をテーマにしたものである。これを市川崑が映画化した。テーマの重さからして、小説としても難しいところを、どう映画化するのか。一歩間違えば、グロテスクなホラー映画になったり、うわすべりの倫理映画になったりしかねない。市川はしかし、余計な修飾を避けて、ドライなタッチで淡々と描いた。そのことで、この重いテーマが、映画の画面を通じて、見るものに迫ってくるようになっている。

鍵:市川崑

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谷崎潤一郎が小説「鍵」を書いたのは1956年のことだが、その三年後に市川崑がそれを映画化した。原作は心理的な描写が多いことから、映画化には一定のむつかしさがあったと思うが、市川は原作を換骨奪胎することで、映画として見られるものにした。その分、原作の雰囲気が損なわれることになったのは致し方のないことといえよう。

炎上:市川崑

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市川崑は、文学作品の映画化でよい仕事をした。非常に多作な作家で、中には凡庸な娯楽作品も多いのだが、谷崎潤一郎の小説や、大岡昇平の「野火」などを、実に心憎く演出している。派手なところはないが、堅実な映画作りに定評があった。

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ジョン・フォードの「駅馬車」に代表されるように、アメリカの西部劇映画では、ネイティブなアメリカ人たちはインディアンという言葉でさげすまれ、白人たちを理由もなく迫害する悪人として描かれてきた。悪人たちであり、しかも白人たちにとっては目の前の脅威なのであるから、これらを駆除することは正義にかなっている。そんなわけでアメリカ西部劇は長い間、インディアン殺しを正当化する作品を作り続けてきた。ラルフ・ネルソンが1970年に公開した映画「ソルジャー・ブルー(Soldier Blue)」は、そんなアメリカ映画の常識に一石を投じ、この映画を境にして、インディアンを単純に悪人として決めつける態度が強く非難されるようになった。

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クリント・イーストウッドが監督した映画「硫黄島からの手紙(Letters from Iwo Jima)」は、「父親たちの星条旗」と一対をなす作品である。どちらも第二次大戦における硫黄島での日米激戦をテーマにしたもので、後者はアメリカ側の視点から、前者は日本側の視点から描いている。面白いことに、登場人物もほとんど全部が日本人なら、彼らが話す言葉も日本語だ。アメリカ映画にかかわらず、内容的には日本映画のような体裁を呈している。実際イーストウッド自身も、これを日本映画だと、なかば冗談だろうが、言っているくらいである。

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「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」は、硫黄島での日米両軍の死闘を、アメリカ側の視点から描いたものである。この戦いでは、戦闘が一段落した時点で、米兵が擂鉢山の頂上に星条旗を掲げ、その写真が公開されることで、アメリカ市民の戦意が昂揚したといったエピソードがあった。この映画はそのエピソードの当事者となった兵士たちをめぐって、物語を展開させている。戦争映画ではあるが、また戦意高揚のエピソードをテーマにしているが、戦争を礼賛する映画ではない。かえって、戦争が人間をいかに損なうか、について描いている。とはいっても、戦争を全否定するわけでもない。

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1979年のマーティン・リットの映画「ノーマ・レイ(Norma Rae )」は、アメリカの労働組合運動を描いたものだ。アメリカの労働組合というのは、産業別に組織されていて、産業ごとの全国組織またはその下部組織が直接個々の企業の労働者を外部から組織するということになっている。日本なら、労働組合は企業ごとに組織されるから、企業の言うままになるという傾向が強い一方、企業があるところには放っておいても労働組合が出来やすいという事情がある。ところがアメリカでは、企業内部から労働組合を作ろうという動機は弱いらしく、産業別の全国組織が外部から組合の結成を働きかけなければならない。個々の産業別労働組合組織は、そうした働きかけ(オルグ)の要員をそれぞれ抱えている。この映画は、そうした要員の一人が、組合のない企業の労働者たちに働きかけて、組合を結成させようとする動きを描いたものだ。

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オリヴァー・ストーンは「プラトーン」でベトナム戦争の醜悪さを描いたが、「7月4日に生まれて(Born on the Fourth of July)」は、その続編みたいなものだ。ベトナム戦争の醜悪さを引き続き描くとともに、戦争で不具になった青年の絶望を描いている。その青年は、自分は正義のためにベトナムに赴いたと思っていたのだったが、実は非人間的な行為をするはめになった挙句、不具になった後はまわりの誰からも人間として認めてもらえず、深い孤独感を覚えて絶望する。そして自分をこのような目にあわせた戦争の不正義を告発するに至る過程を描いているものだ。

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