映画を語る

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是枝裕和の2018年の映画「万引き家族」は、一種の社会現象といえるようなブームを巻き起こした。カンヌでパルム・ドールをとったということもあるが、なによりもこれが、今の日本社会を如実に映し出しているからであろう。今の日本社会は、かつて言われたような総中流社会ではなく、アメリカ流の格差社会である。金持ちと貧乏人とが、勝ち組と負け組とに截然と別れ、負け組は野良犬のようなみじめな生き方を強いられる。そうしたあり方は、今の日本社会に生きている人のほとんどにとって他人事ではなく、いつかは自分の身に降りかかってくるかもしれない。この映画に出て来る家族は、そういう惨めな人々なのだが、そうした人々に、この映画を見た観客は明日の自分を見たのではないか。それがこの映画が、ある種の社会現象を引き起こした原因だと思う。

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2008年公開の映画「エレニの帰郷」は、テオ・アンゲロプロスの遺作となった作品だ。かれは「エレニの旅」に始まる20世紀シリーズ三部作の構想をもっていたが、これはその二作目。三部作とはいっても、一作目と二作目では、筋書きの連続性はないようなので、それぞれが完結した話と言えそうである。テーマは、ギリシャを含めたヨーロッパ現代史ということらしい。

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テオ・アンゲロプロスの2004年の映画「エレニの旅」は、ギリシャ現代史を生きた一女性の過酷な運命を描いた作品だ。ギリシャの現代史は、戦争と内戦で彩られていたわけで、多くの不幸な人間を生んだ。この映画の主人公エレニも、そうした不幸な人間の一人だ。その不幸は、女性にとっては、自分の力ではいかんとも為しがたい運命として、彼女に襲い掛かる。それに対して彼女は、なすすべもないままに、ただ絶叫するだけなのだ。この絶叫を聞きながら映画を見終わった観客は、なんともいえない脱力感にとらわれるに違いない。とにかく、迫力あるアンゲロプロス作品のなかでも、もっとも迫力に富んだ傑作といってよいのではないか。

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テオ・アンゲロプロスの1998年の映画「永遠と一日」は、ある老人の一日を描いたものである。その老人は癌が悪化して明日入院することになっている。そのことを老人は、旅に出ると言う。だから映画を見ている者は、どこか遠くへ旅するのだろうかと勘違いするのだが、老人にとっては、もしかしたら再び病院から出られぬかもしれない予感があるので、帰らざる旅に譬えているわけだろう。

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ユリシーズはギリシャ語ではオデュッセーアといって、もともとは古代ギリシャの壮大な叙事詩の題名である。ホメロスのその叙事詩は、英雄オデュッセーアの海の放浪を描いたものだが、現代のホメロスとも称されるテオ・アンゲロプロスは、1996年の映画「ユリシーズの瞳」のなかで、一人の男の陸の放浪を描く。男が放浪するのはバルカン半島諸国で、時期は1994年、ユーゴスラビアが解体して、大規模な民族紛争が勃発していた時だ。

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ロード・ムーヴィーの傑作は数多くあるが、これほど心を揺さぶられる作品もないのではないか。というのもこの映画は、幼い姉弟を主人公にしており、かれらのいじらしい目的が大人の共感を呼ぶ一方、かれらの体験する苦悩が、惻隠の情を呼び覚ますからだ。実際この姉妹は、小学校六年生くらいの女の子と、小学生にもならない幼い男の子なのだが、その幼い子供たちが、たった二人だけで、ギリシャからドイツまで、父親を捜しに行く旅に出るのだ。

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テオ・アンゲロプロスの1986年の映画「蜂の旅人」は、ギリシャの蜂飼いをテーマにした一種のロード・ムーヴィーである。蜂飼いとは、蜂を飼育する一方、果樹の受粉の季節になると、各地の農場を廻って、蜂を放ち受粉を手助けする仕事をいう。アメリカの農場では、この蜂飼いたちが大活躍し、彼らなしには農園経営がなりたたないと言われるくらいだ。近年、ミツバチたちが原因不明のまま激減して、大きな社会問題になったことは記憶に新しい。

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テオ・アンゲロプロスの1984年の映画「シテール島への船出」は、「旅芸人の記録」以来の、ギリシャ現代史に題材をとった作品の延長にあるものだが、いささか凝った作り方をしている。ギリシャ現代史を正面から描くのではなく、裏面から描いているといったふうなのである。戦後の内戦時にソ連に亡命した男が32年ぶりにギリシャに戻って来るが、自分の故郷の村で隣人たちから非難され、大事にしていた農作業小屋を焼かれた挙句に、ギリシャ当局から国外追放という仕打ちを受けて絶望するというような物語になっている。

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「アレクサンダー大王」は、ギリシャ史に拘り続けたアンゲロプロスの大作だというから、これもギリシャ史に取材した作品なのか、ギリシャ史に暗い小生にはわからないし、また、この映画でアンゲロプロスが何を言いたかったのか、その意図もよくわからない。とにかく、不思議な映画である。

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テオ・アンゲロプロスはギリシャの現代史に取材した映画を多く作った。彼の映画の作り方は、かなり象徴的な面があって、筋の展開よりも、人間の表情とか自然の描写に重きを置いているので、ギリシャ史に暗い人にとっては、わかりにくいところがあるかもしれない。しかも、長大な作品が多いので、見る人によっては忍耐を強いられるかもしれない。

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1956年の映画「宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島」は、稲垣浩による戦後版宮本武蔵シリーズの第三作目である。佐々木小次郎との巌流島における決闘をテーマにしている。その佐々木小次郎を、二作目に続き鶴田浩二が演じているのだが、その鶴田が剣豪というよりは優男というイメージで、小次郎とはこんな優男だったのかと思わせられる。

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1955年の映画「続宮本武蔵 一乗寺の決斗」は、稲垣浩が三船敏郎をフィーチャーして戦後に作った宮本武蔵三部作の第二作である。吉岡一門との死闘をテーマにしたものだ。

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稲垣浩は宮本武蔵が好きだったと見えて、何度も映画化している。戦時中の四部作と戦後の三部作がその代表的なものだ。戦後版の三部作は、当時人気上昇中の三船敏郎を武蔵に据え、三国連太郎を相棒の又八にしたもので、三船の野性的な荒々しさを生かした作品だった(三国は、内田吐夢のシリーズでは沢庵坊主を演じている)。

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内田吐夢の宮本武蔵シリーズ第三作は「二刀流開眼」。これは前半で柳生石舟斎との対決、後半で吉岡清十郎との対決を描く。タイトルにもある二刀流開眼とは、柳生の高弟たちと戦っている間に、思わず大小を構えたことがきっかけというふうになっている。稲垣のシリーズものとは、重なるところがほとんどない。

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内田吐夢監督、中村錦之助主演の宮本武蔵シリーズの第二作「般若坂の決斗」は、姫路城での三年間の幽閉から解放された宮本武蔵の、最初の武者修行を描いたものだ。解放された武蔵はさっそくお通と逢うのだが、同行を願うお通を振り払って単身武者修行の旅に出る。その際、橋の欄干に「許してたもれ」という書置きを残すところは、稲垣のシリーズと全く同じ演出だ。稲垣の場合には、その場面が第一作目のラストシーンになっていたわけだが、内田の場合には、第二作のスタートシーンというわけだ。

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剣豪宮本武蔵を主人公にした映画にはさまざまなバージョンがあるが、ここでは1950年代に稲垣浩が三船敏郎を武蔵役にして作った三部作と、内田吐夢が1960年代に中村錦之助を武蔵役にして作った五部作シリーズを取り上げてみたい。まづ、内田吐夢のシリーズから。

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エミール・クストリッツァの2016年の映画「オン・ザ・ミルキー・ロード」は、ユーゴスラビアの解体に伴う内戦をテーマにしてきたクストリッツアらしく、やはり民族間の戦争を描いている。この映画のなかではクストリッツァ自身が主人公役で登場する一方、内戦の虚実については触れていないのだが、これが彼が従来描いて来たボスニア内戦を念頭に置いていることは疑いない。その内戦の炎のなかで、一対の男女の愛が割かれる非合理というのが、映画の訴えていることである。

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エミール・クストリッツァの2004年の映画「ライフ・イズ・ミラクル」は、「アンダーグラウンド」と「黒猫・白猫」を足して二で割ったような作品である。「アンダーグラウンド」同様ボスニア内戦をテーマにしているが、「アンダーグラウンド」ほどシリアスではなく、「黒猫・白猫」のような楽天性を有している。内戦という悲劇的状況を描きながら、喜劇的な雰囲気を漂わせているのである。

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エミール・クストリッツァの1999年の映画「黒猫・白猫」は、祝祭的なドタバタ喜劇というべき作品である。祝祭性とかドタバタ性とかは、前作「アンダーグラウンド」においても濃厚だったが、この映画のなかではそれが前面に出ている。一方、「アンダーグラウンド」が持っていた政治的なメッセージ性はそぎ落とされて、純粋な娯楽作品になっている。

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1995年のパルム・ドールをとった「アンダーグラウンド」は、バルカン半島現代史ともいうべき作品である。これを作ったエミール・クストリッツァはユーゴスラヴィア人を自称しているが、出身はサラエヴォで、父親はセルヴィア人、母親はムスリムである。ユーゴスラヴィアの要素を大方体現しているわけである。その彼が、どの民族の視点にも偏らず、ユーゴスラヴィア人としての視点から描いたというのが、この映画の一つの特徴となっている。しかし、もはやユーゴスラヴィアにかつてのような実体性はないと言ってよい。その実体を持たぬ、いわば架空の視点から映画を作っているわけで、そういう意味でこの映画は、空想のなかのユーゴスラヴィアを描いたといってよい。事実この映画は、舞台をユーゴスアヴィアとは言っておらず、「むかしある所にある国があった」というような言い方をしているのである。

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