映画を語る

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2017年劇場公開のイギリス映画「ヘンリー六世第一部(Henry VI Part 1)」は、BBCのHollow Crown シリーズ第五作。「ヘンリー六世」は、シェイクスピアの原作は三部作だが、映画は二部作に仕立てた。第一部は、グロスターの殺害までをカバーしている。グロスターの殺害でランカスターとヨークの対立を中和する存在がなくなったことで、イギリスは内乱に突入するわけである。いわゆる薔薇戦争である。

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2012年のイギリス映画「ヘンリー五世」は、Hollow Crown シリーズの第四作。原作はイギリス人の愛国心を高揚させるものとして、いまだに節目ごとに上演される。ヘンリー五世の勇敢な精神がイギリス人の愛国心を奮い立たせるからだ。一方で、そのヘンリーの愛国心を相対化するような要素も原作にはある。これまで映画化されたものは、だいたい愛国心の側面に焦点を当てたものが多かったのだが、この作品は、愛国心を相対化する場面のほうを前面に押し出している。これは時代の雰囲気がそうさせたのかも知れない。当時のイギリスは、大義なきイラク戦争に参戦したことが問題となり、誤った愛国心に疑問が呈されていたのだ。

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2012年のイギリス映画「ヘンリー四世第二部(Henry IV, Part 2)」は、BBCのHollow Crown シリーズ第三作。冒頭部分で、第一部からいつくかのシーンを紹介しているように、あくまでも第一部の延長だという演出である。だが、原作では、第一部と第二部との間には微妙なニュアンスの違いがある。原作は第二部をコーラスという形をとったプロローグで始め、そのプロローグがこの物語を独立したものとして印象付けている。ところが映画は、第一部の終わった時点から始まり、それに連続するものとして、演出している。

世界の映画史上マリリン・モンローほど愛された女優はない。彼女はアメリカ人で、ハリウッドを舞台に活躍し、11本の映画に主演した。最初の主演作「ナイアガラ」に出たのは26歳の時である。最後の作品は「荒馬と女」で、彼女は35歳になっていた。女優としてはかならずしもとんとん拍子というわけではなかった。しかも最後の二作は、年齢による衰えのようなものを感じさせる。だから彼女の神髄が発揮されたのは、といっても演技のうまさということではなく、女性としての魅力が発揮されたという意味だが、そういう意味での彼女の魅力が存分に発揮された映画はそう多くはない。にもかかわらず、彼女はもっとも愛すべき女優であり続け、偉大な女優ともいわれた。彼女の何が人をしてそう思わせるのか。
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2012年のイギリス映画「ヘンリー四世第一部(Henry IV, Part 1)」は、シェイクスピアの歴史劇をドラマ化したBBCの Hollow Crown シリーズ第二作。第一作の「リチャード二世」では、後にヘンリー四世となるボリングブルックが、リチャードを倒して王位につくまでの過程を描いていたが、これはその後日談。今度はヘンリー四世が、ホットスパーによって挑戦されるところを描く。この挑戦をヘンリー四世はなんとか退け、王権の維持に成功するところが「リチャード二世」との大きな違いだ。

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2012年の劇映画「リチャード二世( Richard Ⅱ)」は、BBCがテレビ放送用に制作したHollow Crown シリーズの第一作である。このシリーズは、シェイクスピアの歴史劇を映画化したものであり、2012年に「リチャード二世」、「ヘンリー四世第一部」。「ヘンリー四世第二部」、「ヘンリー五世」、2016年に「ヘンリー六世前編」、「ヘンリー六世後編」、「リチャード三世」をそれぞれ放送した。放送の順番は、歴史の順序に従っているわけだ。Hollow Crown という言葉は、リチャード二世が独白の中で吐いた言葉なので、そのリチャード二世をフロントランナーに据えたシリーズを象徴する言葉としてふさわしい。

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2003年のアメリカ映画「ラスト・サムライ(The Last Samurai)」は、アメリカ人から見た日本の武士道をテーマにした作品。日本では維新後武士道がすたれたが、その武士道を体現する最後の侍たちが、巨大な近代化権力を相手に壮大な戦いを挑むというような内容だ。

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1984年のアメリカ映画「ターミネーター(The terminator)」は、人類と人工知能の機械との闘いをテーマにしたSF映画。ターミネーターという言葉は、人類の存在に始末をつける者というような意味。高い知能をもった機械すなわちサイボーグが、人類をせん滅させて地球の覇権を確立しようとしている、というような意味のことを象徴的に表した言葉だ。

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ロン・ハワードの2006年の映画「ダ・ヴィンチ・コード(The Da Vinci Code)」は、ダン・ブラウンの同名の小説を映画化したもの。原作は、欧米のキリスト教諸国にすさまじい反響を巻き起こした。キリスト教の信仰の根幹にかかわることが、戯画的に描かれていることが、敬虔なキリスト教徒たちの怒りに火をつけたのである。

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コスタ=ガヴラスの1989年の映画「ミュージック・ボックス(Music box)」は、第二次大戦中にハンガリーで起きたホロコーストをテーマにした作品。その事件がアメリカの裁判所で裁かれる。映画はその裁判の様子を描きながら、人間の尊厳について考えさせる。人間の尊厳いついての普遍的な感情が、肉親の情愛に優先するといったメッセージが伝わってくるように作られている。だから、ホロコーストの残虐性を訴えながら、実は道徳とはなにかを考えさせるきわめて倫理的な動機を盛り込んだ作品であるといえる。

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岡本喜八の1986年の映画「ジャズ大名」は、日本に漂流してきた黒人たちからジャズ音楽を叩きこまれた大名が、家臣ともどもジャズセッションを楽しむといった荒唐無稽な設定の映画で、例によって人を食った作りかたになっている。史実とか時代考証とかはいっさい無視し、とにかくジャズの雰囲気を楽しもうではないかと開き直った映画である。これはおそらく、筒井康隆の原作自体がそういう雰囲気なのであろう。

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岡本喜八の1978年の映画「ダイナマイトどんどん」は、理屈抜きで楽しめる痛快な映画である。一応やくざの抗争がテーマということになっており、その点では菅原文太のはまり役であるが、その抗争というのが、平和で民主的なやり方で行われるというのがミソだ。その平和で民主的なやり方というのが、野球の勝敗で雌雄を決するというから人を食った話である。もっともやくざのやることだから、一貫して平和的というわけにはいかない。時には刀を振り回してやりあうこともある。そこが、野球に興じる場面と並んでこの映画の醍醐味になっている。

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岡本喜八の1967年の映画「日本のいちばん長い日」は、半藤一利のノンフィクション小説を映画化したもの。半藤にとっては、その後かれのライフワークとなる昭和史研究の原点となるものだ。もっとも半藤はこれを、自分の名義ではなく他人の名義で刊行した。当時人気作家だった大宅壮一の名である。なぜ、そんなことをしたか。かれは文芸春秋の社員だったので、営業を最優先する社の方針にしたがったまでということらしいが、それにしてもお粗末な話である。

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岡本喜八の1965年の映画「血と砂」は、「独立愚連隊」の番外編のような作品。「独立愚連隊」シリーズは、厄介者の兵士からなる混成部隊が、遊軍となって使い勝手よく利用されるという設定だったが、この映画では、少年からなる音楽部隊が、特命を受けて敵陣地を攻略する様子を描く。その部隊を、三船敏郎演じる経験豊かな下士官と、佐藤充演じる古参兵が指導するといった内容である。

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岡本喜八の1967年の映画「殺人狂時代」は、人口調節と称する人間の生命の間引きというテーマを、冷笑的に描いたブラック・コメディである。生命の間引きは、優勢保護思想と深く結びついていて、生きる価値のない者は淘汰すべきだとするいう考えに立っている。その考えに基づいて、胎児の間引きが行われたりする。ところが、間引きされる胎児の中には、優勢保護以外の理由によるものもあり、輝かしい未来を奪われるものがいる可能性もある。一方、現に生きていて、しかも社会の役に立たず、かえって重荷になっている大人がたくさんいるわけだから、優勢保護の本来の趣旨からしても、役立たずの大人を片付ける方がずっと合理的なのである。そんな怖ろしい考えを実現しようとする者がいて、それに立ち向かう人がいる。映画はその両者の戦いぶりを、コメディタッチで描く。

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岡本喜八の1964年の映画「ああ爆弾」は、ミュージカル仕立てのドタバタ喜劇である。ミュージカル仕立てとはいっても、西洋風のミュージックではなく、和風のミュージックが主体である。なかでも、狂言小謡が幅を利かせている。その他に三味線入りの浪花節とか、能の謡曲とか、歌舞伎の義太夫まがいのものとか、なにしろ日本の伝統的な音曲が全編に流れ、非常に賑やかな感じの映画である。

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2016年のトルコ映画「猫が教えてくれたこと」は、イスタンブールで暮す野良猫たちを追ったドキュメンタリー映画である。トルコ人は猫が好きで、猫かわいがりする民族だという思い知らされる作品である。猫のそもそのの発祥地は中近東と言われており、トルコ人も猫とは長い付き合いだったようだ。だから、かれらの猫へのこだわりは尋常ではない。日本では猫はペットという扱いだが、トルコでは猫は、自由に生きる自立的な存在者だというメッセージが、この映画からは伝わってくる。

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2008年の映画「自由と壁とヒップホップ」は、パレスチナ人のヒップホップグループの活動を追いながら、イスラエルによるパレスチナ人迫害の過酷さを訴えたドキュメンタリー映画である。監督は、パレスチナ人を母親に持つアメリカ人女性ジャッキー・リーム・サッローム。2000年ごろから約五年間、イスラエル、ガザ、西岸で活躍するヒップホップグループの活動を追った。その間に、第二次インティファーダが起り、パレスチナ人とユダヤ人の対立が激化したという経緯があり、この映画でも、両民族の対立が影を落としている。

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ミロス・フォアマンの2006年の映画「宮廷画家ゴヤは見た(Goya's Ghosts)」は、人類史上最も偉大な画家の一人であるフランシスコ・デ・ゴヤの半生を描いた作品。ゴヤの生きた時代は、激動の時代であり、ゴヤ自身その激動に翻弄されたり、また聴力を失うなどの辛酸をなめた。一方では、この映画のタイトルにもあるとおり、国王直属の宮廷画家でもあった。もっとも晩年には、その王室が崩壊したために、宮廷画家という経歴はかえって邪魔になったりもしたのだったが。

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ミロス・フォアマンの1999年の映画「マン・オン・ザ・ムーン(Man on the Moon)」は、1970年代後半から80年代前半にかけてテレビなどで活躍したコメディアン、アンディ・カウフマンの半生を描いた作品。カウフマンは日本では全くといってよいほど知られていないが、アメリカでは結構人気があったそうだ。ギャグとドタバタを組み合わせたアメリカ人好みの演技がうけたということらしい。だが、本人はそれを、大衆におもねる低俗趣味だといって、自嘲していたという。この映画は、そうしたカウフマンのやや複雑な心境を表現するものとなっており、ただのお笑い映画ではない。

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