映画を語る

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ヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー風の映画「東京画(Tokyo-Ga)」は、小津安二郎へのオマージュといってよい。同じような趣旨の映画は、溝口健二へのオマージュである新藤兼人の作品があるが、新藤の映画が溝口の半生を描いた伝記的なものだったのに対して、これは小津の映画作りの魅力について語ったものだ。その魅力を語るためにヴェンダースは二人の人物を登場させて、小津への敬愛を語らせる。

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ヴィム・ヴェンダースといえば、「都会のアリス」を始め、ロード・ムーヴィーの名人という印象が強いが、「パリ、テキサス」も広い意味でのロード・ムーヴィーに入るだろう。ただし、構成はすこし入り組んでいる。映画は大きく二つの部分からなるが、前半では放浪していた主人公の男が弟によって連れ戻される途中の旅を描いており、後半はその男が自分の息子を連れて、離別した妻を求めて旅をするところを描いている。前半も後半も旅をするという点では、ロード・ムーヴィーの条件を満たしているが、ロード・ムーヴィーとして相互に深い関連があるわけではないので、二つのロード・ムーヴィーの物語が併存しているような印象を与える。

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ヴィム・ヴェンダースは、「都会のアリス」から始まるロード・ムーヴィー三部作では、旅をしているという以外これといったストーリーを持たず、登場人物たちの繰り広げる日常の動きを淡々と写し取ることに映画作りの情熱を傾けていた。その傾向は、ロード・ムーヴィーではない作品では一層強まる。1982年の作品「ことの次第(Der Stand der Dinge)」は、ロード・ムーヴィーのように旅という枠設定も持たないまま、登場人物の日常を淡々と描いているために、作者はいったいそれを通じて、何を主張したいのか、観客には一向にわからない。それでいて退屈なわけではない。二時間に及ぶこの映画を、ヴェンダースは観客を飽きさせることなく見せているのである。

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「さすらい」という映画の題名を聞くと、ミケランジェロ・アントニオーニの映画を思い出す。アントニオーニの映画は、妻に捨てられた男が一人娘を伴なって放浪する話だったが、この映画は中年男が二人連れ立って放浪する話だ。彼らはトラックで放浪する。トラックのヘッドには UMZUGE(引っ越し)と大書され、ボディには「メーベル運送」と書かれてあるので、運送車かといえばそうではない。トラックの内部には映画関係のマシンが多数設置され、人が寝るためのスペースも確保されている。このトラックの持ち主は、このトラックでドイツじゅうを移動しながら、映画館に立ち寄って映写機の調整を仕事にしているのだ。

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ヴィム・ヴェンダースは戦後ドイツ映画を代表する監督である。1974年公開の映画「都会のアリス(Alice in den Städten) 」は彼の出世作となったもので、ロードムーヴィー三部作の嚆矢をなすものだ。中年男がゆきずりの女から押し付けられた小さな女の子とともにさすらうというテーマは、前年のアメリカ映画「ペーパームーン」とよく似ている。「ペーパームーン」のほうは、アメリカの宗教リバイバルという社会的な背景をからませてあるが、こちらにはそういった問題意識はない。ただ単に、中年男と小さな女の子とのほんわりとした関係が描かれている。

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ファティ・アキンはトルコ系ドイツ人として、ドイツ社会に生きるトルコ人たちの生きづらさをテーマに取り上げて来た。その生きづらさは、ドイツ人のトルコ人に対する差別意識に根差していたものだが、ファティ・アキンはドイツ人を表立って批判することは避けて来た。トルコ人の生きづらさは、トルコ人自身に根差しているのだというような描き方をしてきたわけである。ところが、この「女は二度決断する」では、初めてドイツ人社会をストレートにやり玉にあげて、ドイツ人社会の欺瞞ぶりを強烈に批判した。しかもその批判を、差別されるトルコ人にさせるのではなく、ほかならぬドイツ人にさせるというやり方をとったために、この映画はある種のスキャンダル効果を生み、ドイツ人社会に深刻な反省をもたらしたようである。

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河瀬直美の2017年の映画「光」は、河瀬にはめずらしく男女のラブロマンスがテーマである。その男女というのが、若い女と、彼女にとっては父親ほど年の離れた中年男の組み合わせなのである。こんなに年の離れた間柄でも、恋愛は成立するのか。もっともこの映画の中での男女の恋愛は、性愛と言うよりは、精神的なつながりということになっている。男女の精神的なつながりを恋愛と呼べるのかどうか、議論があるところだが、この映画の中の男女は、互いを深く愛しているように映る。

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河瀬直美の2014年の映画「二つ目の窓」は、奄美大島を舞台にして、少年少女が大人へと成長してゆく過程を、美しい自然描写を交えながら、ゆったりとした感覚で描いている。映画に出て来る少年少女は、それぞれが思春期らしい悩みを抱え、かけがえのない人の死や、人間不信を経験しながら、すこしづつ大人に近づいていく。そしてかれらが大人になったことは、島の海岸の砂浜の上でセックスすることで象徴的に表現される。セックスで結ばれたかれらは、サンゴ礁の海で、イルカのように泳ぎ回るのだ。

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河瀬直美の2011年の映画「朱花の月」は、奈良の豊かな自然を背景にして、男女の不倫を描いた作品だ。この映画の場合、不倫は女の側の行動だ。亭主を裏切ってほかの男と道ならぬ恋をする。そんな妻の不倫に絶望した亭主が、風呂桶のなかで血管を切って自殺する。ちょっとゆるい設定だが、これは男の目からみるからなので、女の目にはまた違って映るのかもしれない。

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河瀬直美の2008年の映画「七夜待」は、タイを単身で旅行する若い女性の話である。この女性は言葉も話せずに一人旅をしている。度胸がいいといえば聞こえがいいが、ようするにおっちょこちょいなのだ。そのおっちょこちょいぶりの余りに、偶然乗りこんだタクシーに、とある家に連れていかれる。ホテルに行くつもりが、言葉が話せないままにいい加減な受け答えをしているうちに、タクシーのドライバーが誤解して、彼女を自分の知り合いの家に連れてゆくのだ。彼女は誘拐されたと思ってパニックになるが、家の人たちの親切な対応に心を許す。

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「もがり」という言葉は、天皇が死んだ際に、新旧二人の天皇の、いわば引継ぎのようなことを目的に行われる行事で、天皇以外の一般の日本人には使われない言葉だが、この映画では、それを普通の日本人について使っている。折口信夫のような伝統主義者からは叱られるところだろうが、象徴的な意味合いとして用いるのなら許されるかもしれない。

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河瀬直美の映画には、映像をして語らしめるようなところがあって、言葉による説明を極力省く傾向がある。それゆえ観客には、映画の中の物語の進行がどうなっているのか、しばしばわからなくなることがある。「萌の朱雀」も、そういうわかりにくい映画だ。

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篠田正浩の1986年の映画「鑓の権三」は、近松の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」を映画化したものだ。原作は姦通と女仇討ちをテーマにしている。妻に姦通された夫が、妻とその姦通相手の男を共に討ち果たすというもので、同じようなテーマのものとしては「堀川波鼓」がある。どちらも姦通をした妻の立場から姦通のいきさつと、姦通という罪を犯した妻の無念さを描いているが、「鑓の権三」の場合には、妻は自分の意思から姦通をしたつもりもないし、また実際に肉の交わりを結んだわけでもない。にもかかわらず、自分から姦通の罪を背負って、潔く夫に討たれるというような内容だ。

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篠田正浩の1984年の映画「瀬戸内少年野球団」は、決して傑作とは言えないが、主演女優の夏目雅子が独特の魅力を発していて、彼女が出ているというだけで、見るに値するものになっている。実際この映画の中の夏目雅子は、日本の女性の一つの典型を演じていて、その役柄が彼女の本来の姿と重なって、見る者に親近感を抱かせるのだろう。その彼女はこの映画の翌年に癌で死んでいる。だからこの映画は、彼女の遺作と言ってもよい。

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篠田正弘の作品「はなれ瞽女おりん」は、水上勉の同名の小説を映画化したものである。瞽女とは、盲目の女性芸能民のことで、集団をなして各地を放浪し、門付けなどをして暮らしていた人々だ。彼女らは疑似母親のもとで固く結束し、厳しい掟を自らに課していた。弱い身として生きる知恵でもあるその掟は、もしそれを破る者がいると集団の崩壊につながる恐れがあるので、集団から排除・追放された。追放されて一人になった瞽女をはなれ瞽女と言う。水上勉はそのはなれ瞽女をモチーフにした小説を書き、それを篠田が映画化したわけだ。

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ニキータ・ミハルコフの2007年の映画「12人の怒れる男」は、アメリカで何度も舞台・映画化された作品のロシア流リメイクである。この作品は裁判制度の問題点をテーマにしたもので、人が人を裁くことに正義があるのかということをとりあげたものであるが、ミハルコフのこのリメイクでは、それにロシア流の味付けが施されている。つまり、ロシアという国には、そもそも正義を体現した法がないのではないのか、そんな国で裁判をすることにどんな意味があるのか、ということについてロシア流のブラック・ユーモアを交えながら描いているわけだ。

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ニキータ・ミハルコフの2011年の映画「遥かなる勝利へ」は、「太陽に灼かれて」で始まる独ソ戦三部作の最後の作品だ。ここでコトフ大佐は生き別れになっていた最愛の娘ナージャと再会する。しかしそこは独ソ戦の最前線で、コトフはナージャを地雷から助けようとして自らが犠牲になり死んでしまう。ハッピーエンドにはならないのだ。

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ニキータ・ミハルコフの2010年の映画「戦火のナージャ」は、「太陽に灼かれて」の続編である。前作で主演のコトフ大佐は逮捕された後銃殺刑に処せられたとアナウンスされ、その娘のナージャも刑死したとされていたが、実は二人とも生きていた。その二人のその後の生き方を描いたのが続編の映画である。見どころは、父親が生きていることを知った娘のナージャが、命を掛けて父親を探し出そうとするところである。というのも、二人は、独ソ戦の中で戦線の真っただ中をさまようこととなり、それこそ命を危険にさらす日々を送ったからである。

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1994年公開のロシア映画「太陽に灼かれて」は、1930年代半ばのいわゆるスターリン粛清の一端を描いたものだ。この粛清では100万人以上が犠牲になった。その多くは、スターリン派による反スターリン派の粛清であるが、中にはこれに乗じて私的な怨みを晴らしたようなものもあったらしい。この映画はそうした私的な怨みをテーマにしている。

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アレクサンドル・ソクーロフの2011年の映画「ファウスト」は、ロシア人であるソクーロフがロシアで作ったロシア映画である。ところが、映画の中ではドイツ語が使われている。これを見た筆者は、最初はドイツ語吹き替え版かと思ったが、そうではないらしい。わざとドイツ語を使っているようなのだ。タイトルもドイツ語で書かれている。ヨーロッパ映画には、国際協力映画というものがあって、たとえばイタリア中心の映画でフランス語が用いられたりはするが、ロシアで作られた映画でドイツ語をもちいるというのはどういうわけか。これでは、日本映画でありながら、もっぱら中国語を聞かされるようなものだ。

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