映画を語る

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マルタイとは警察用語で身辺警護の対象者のことをいう。対象者のタイをとってマルタイというわけだ。伊丹十三の1997年の映画「マルタイの女」は、そのマルタイをテーマにしたもの。伊丹自身、「ミンボーの女」をめぐって暴力団から付け狙われ、警察の身辺警護を受けた経験があり、この映画にはその際の経験が生かされているという。なお、伊丹自身はこの映画を作った後で不可解な死に方をしており、これが彼の遺作となった。

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「スーパーの女」は、スーパーマーケットの経営をテーマにした、伊丹映画らしいコメディ・タッチの作品である。津川雅彦演じるさえない男の経営する落ち目のスーパーを、宮本信子演じる幼馴染の女が立て直しに向けて協力し、ついに店を繁盛させるという人情物語である。

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伊丹十三の1995年の映画「静かな生活」は、大江健三郎の同名の小説を映画化したということになっているらしい。小生は原作を読んでいないので、何とも言えないのであるが、映画を見た限りでは、どうも忠実な映画化ではないらしい。というのも、この映画には、大江健三郎の様々な小説からの引用と思われるシーンが多く出て来て、単一の作品の映画化というより、大江作品のエッセンスをつまみ食いするような形で映画を作ったと思われるところがある。無論小生は原作と厳密な比較をしているわけではないので、何とも言えないのではあるが。

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伊丹十三の1993年の映画「大病人」は、末期がん患者の死に方を描いた作品である。人は、生まれ方は選べないが死に方は選べる、とはよく言われる言葉だが、まさにその言葉通り、自分の死に方を自分自身で自主的に選んだ男の物語である。いまでこそ、医療の現場では、患者に延命治療の是非を選択させる風潮が起ってきたが、この映画が公開された頃は、そんなことはあり得ないと考えられていた。医者は、少しでも患者の命を伸ばすために延命治療を行うのが当然だと考えられていたし、患者のほうにも延命治療を拒否する権利は与えられていなかった。「終の信託」という映画のなかで、延命治療を拒んだ患者に協力して、死なせてやった医師が嘱託殺人に問われる話があったが、そんな時代状況だった。そんな状況のなかで、延命治療について考えさせるこの映画は、社会に向って一定の問題提起をしたところがあった。

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チャールトン・ヘストンがマーク・アントニーを演じた1969年版の「ジュリアス・シーザー」は、原作の雰囲気がよく生かされているわかりやすい作品だ。アメリカ映画なので、無教養なアメリカ人でも理解できるように作られていながら、肝心な部分では原文を生かすなど、心憎い演出がなされている。

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リア王の映画化には様々なヴァージョンがあるが、オーソン・ウェルズがリア王を演じた1953年の作品が、とりあえずはもっとも原作の雰囲気を生かしたものと言ってよい。もっともこの映画は、75分という長さなので、かなり思い切ったカットを行っている。その結果、リア王に特化したメーン・プロットのみからなっており、サブプロットは、グロスター泊が目玉を繰りぬかれる場面をのぞいては、ことごとく省かれている。それでも、原作の雰囲気をほとんど損なっていないのは、映画作りのうまさもあるが、オーソン・ウェルズの演技の賜物だろう。

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数あるシェイクスピア劇のなかでも「ロメオとジュリエット」はもっとも多く映画化された作品だ。その中でもジョージ・キューカーによる1936年の映画化作品は、原作の雰囲気をもっともよく再現したものといえる。多少の省略はあるものの、ほとんど原作に忠実であり、台詞もなるべく原作そのものを採用している。その結果、やや荘重すぎるきらいに流れないではないが、シェイクスピア劇としての雰囲気はたっぷり味わえるように出来ている。この映画を見ただけで、「ロメオとジュリエット」という芝居を語る資格ができそうである。

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マックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレが共同監督した1935年の映画「真夏の夜の夢」は、シェイクスピア劇の映画化としては理想的な作品といえる。原作の雰囲気を十分に発揮しているし、それに加えてファンタジー劇に相応しいファンタスティックな雰囲気を醸し出している。原作では、ボトムとティターニアのエロティックな出会いが劇の核心をなしていたが、そうしたエロティシズムもそこそこに感じさせる。ただ、原作の妖精パックが成長した男で、したがってエロスの雰囲気を漂わせているのに対し、この映画の中の妖精パックは、声変わりしつつあるとはいえ、まだ稚い少年である。したがってパックにはエロティックな雰囲気はない。そのかわりにいたずらざかりの無鉄砲さを感じさせる。その無鉄砲さで、奇想天外でファンタスティックな話のなりゆきが展開されていくわけである。

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シェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」は結構人気があって、いまでも頻繁に舞台に乗せられるほか、何度か映画化されてもいる。なかでもメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが共演した1929年版は、原作のうちの見どころを圧縮して、わかりやすい構成になっている。

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1936年にローレンス・オリヴィエ主演で作られた「お気に召すまま」は、シェイクスピア劇の原作を忠実に再現している。原作は若い男女の結婚を祝福する祝祭劇の性格を色濃く持っており、その男女の駆け引きが森の自然の中で展開される。しかも愛し合うカップルは一組ではなく、四組もある。その四組のカップルが様々な試練を乗り越えて見事に結ばれ、森の中で祝福されながら祝うという原作の雰囲気がほぼ忠実になぞられている。

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「金陵十三釵」は、日本では最悪の反日映画と受け取られたので、上映されることはなかったし、日本人向けのDVDが販売されることもなかった。そんなわけで小生は、英語圏向けのDVDを取り寄せて見た次第だ。たしかにこの映画の中の日本人はグロテスクなほどに、非人間的に描かれている。この映画は中国では空前のヒットを記録し、日本を除いた外国にも相当多数輸出されたようだから、中国はもとより世界じゅうに日本についてのマイナスイメージをばらまいたことになる。

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張芸謀の2010年の映画「サンザシの樹の下で(山楂樹之恋)」は、若い男女の純愛物語である。いまどき世界のどこかで、こんな純愛がありうるのかと、頭をかしげたくなるような映画である。なぜ、こんな純愛がなりたちうるのか。人の恋愛感情は、理不尽な制約があるときにもっとも盛り上がりやすいらしいが、現代の中国社会には、そうした恋愛への制約がまだ強くあるのらしい。その制約が、若い男女をやみくもな恋愛に走らせる、というふうにこの映画からは伝わってくるのである。

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張芸謀の2002年の映画「HERO」は、中国版ちゃんばら時代劇といった作品である。日本のちゃんばら時代劇は、正義の味方が悪人どもを成敗する勧善懲悪の仕立てになっているが、中国のちゃんばら時代劇であるこの作品は、必ずしも勧善懲悪とは言えない。この映画のテーマは、秦の始皇帝を付け狙う刺客たちの物語なのだが、ほかならぬその刺客たちが、いわば内輪もめのような形で、互いに戦うのだ。しかもその戦いには隠された意図がある、というようなちょっとひねった筋書きになっている。日本のチャンバラ映画の無邪気さに比べれば、かなりひねくれた作り方といえる。

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張芸謀の1999年の映画「初恋のきた道(我的父親母親)」は、「あの子を探して」と同年に作られた作品だが、内容がよく似ている。どちらも中国人女性のひたむきさを描いたものだ。「あの子」の場合には、自分の請け負った仕事(子供の教育)に対する若い女性のひたむきさがテーマだったが、こちらのひたむきさは恋一筋のひたむきさである。若い女性からこんなにひたむきに愛されたら、男冥利につきるというものだ。

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若松孝二の2012年の映画「海燕ホテル・ブルー」は、今様版怪談とでもいうべき作品だ。怪しげな雰囲気を持った女に、男が次々と滅ぼされていくという筋立ては、伝統的な怪談物語とは多少趣を異にするが、人をして背筋を寒からしめるところは怪談といってよい。若松はこの映画を、「キャタピラー」とか「千年の愉楽」といったシリアスな作品の合間に作ったわけだが、どういうつもりでこんなものを作ったか、他人にはいまひとつわからない。

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若松孝二は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を、自分の映画作りの総決算だという趣旨のことをいったそうだが、それから四年後に「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を作った。前作が日本の左翼をとりあげて、その異様な思想と行動を描いたものとすれば、後作は、左翼の対局としての右翼の異様な思想と行動を描いたものだ。若松は左翼だけでは片手落ちで、それとバランスをとるつもりで、この作品を作ったのだろう。

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鶴橋康夫の2016年の映画「後妻業の女」は、金を持っている老人の後妻に納まって、老人が死んだ後その財産を独り占めにしようと企む女を描いている。後妻業という言葉があるのかどうかわからぬが、こういう人間が映画の主人公に選ばれるということは、いわゆる高齢化社会の姿を反映していると言えよう。後妻に納まった相手を次々に殺して遺産をせしめた女の事件もあったから、そのほうも日本の高齢化の一断面だったといえなくもない。

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鶴橋康夫の2011年の映画「源氏物語 千年の謎」は、副題に「千年の謎」とあるが、何が謎なのか映画の画面からは伝わってこない。一体この作品は、「源氏物語」をテーマにしていながら、源氏の恋の遍歴を描くよりも、作者の紫式部のほうに焦点を当てているのではないか。紫式部の生きざまを描きながら、そこに彼女の物語である「源氏物語」のシーンを同時並行的に差し挟む。だからこれは「紫式部物語 千年の謎」と題したほうがよかったようだ。それなら、謎の意味も分かる。紫式部の生涯はそんなに詳しく明らかになっているわけではなく、ましてやこの映画が前提しているような道真と式部との男女関係があったということもたしかではない。その確かでないことをこの映画は、謎というかたちで取り上げた、ということならなんとか納得できる。

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鶴橋康夫の2007年の映画「愛の流刑地」は、渡辺淳一の同名の小説を映画化したものだ。渡辺は人気のポルノ作家だが、ただのポルノではなく、物語性を豊富に盛り込んだロマンチックなポルノで好評を博した。そのロマンチック性は時に逸脱することもあるが、この作品などはそのいい例だろう。これは、愛の絶頂を死で迎えようとする一対の男女の物語なのである。愛の流刑地とはだから、愛が連れて行く領域ということになろう。

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タイトルにある「永い言い訳」とは、他人に向かっての言い訳と言うより、自分自身への言い訳のように、この映画からは伝わってくる。何についての言い訳か。自分が生きていることの、自分自身への言い訳である。何故、そんな言い訳をしなければならなくなったのか。自分自身、自分が生きていることの意味を見失ったからだ。

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