映画を語る

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1958年のフランス映画「死刑台のエレベーター(Ascenseur pour l'échafaud)」は、ドジな殺人犯たちの物語。普通、犯罪映画といえば、主人公の犯人は多かれ少なかれかっこよく描かれるものだが、この映画に出てくる犯罪者たちにはまったくいいところがない。かっこ悪いというより、頭が悪いと感じさせる。犯罪映画の主人公としては最低のタイプである。にもかかわらず、映画自体は結構評判になり、なかにはクールで見所のある映画だなどという批評もあった。筆者が今の視点からこの映画を見て、何がこの映画の取柄かと考えたとき、真っ先に音楽のすばらしさに思い当たった。この映画には、当時売り出し中のマイルス・デーヴィスが参加していて、全編にわたってしびれるようなジャズをフィーチャーしているのだ。この音楽がなければ、この映画はただのB級映画に終わっていただろう。

小さいおうち:山田洋次

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山田洋次の2014年の作品「小さいおうち」は、戦時中の日本人の生活の一端をテーマにしたものである。山田は、2008年にも戦時中をテーマにした「母べえ」を作っている。山田のほか降旗康男が2013年に、やはり戦時中の庶民の生活を描いた「少年H」を作っており、年配の映画作家たちが、戦争の意味を問いかける試みだと感じさせる。近年になって、日本人から次第に戦争の記憶が希薄になり、それに乗じる形で好戦的な雰囲気が広がっていることへの懸念が働いているのだろう。

おとうと:山田洋次

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山田洋次の2010年の映画「おとうと」は、市川崑が1960年に作った同名の映画のリメークだということになっている。両者とも幸田文の小説を下敷きにしているが、市川の作品が原作にかなり忠実なのに対して、山田のこの作品は大胆な変更を加えている。主人公である姉弟が、原作や市川の映画では十代の若者なのに対して、この映画の姉弟は中年を過ぎている。弟が姉を困らせた挙句病気で死んでゆくところは同じだが、この映画の弟は、(原作のように)不治の病の結核に倒れるのではなく、放浪の果てに行旅病人となり、大阪にあるホスピスで死んでゆくという設定になっている。二つの映画の間には五十年の歳月が流れているわけで、この映画はその歳月の流れを反映したものとなっているわけだ。

母べえ:山田洋次

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山田洋次にしろ吉永小百合にしろ、ある種の日本人から目の仇にされているが、彼らの何がそういう反発を起こさせるのか。映画「母べえ」を見ると、その理由の一端がわかるかもしれない。この映画は、国家への冷めた視線を感じさせるのだが、そうした姿勢が、国家を自分自身と一体視する人々には、許しがたく見えるのだろう。

武士の一分:山田洋次

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山田洋次は、始めての時代劇として作った「たそがれ清兵衛」が成功したのに気をよくして、その後二本続けて時代劇を作った。「武士の一分」は、「隠し剣鬼の爪」に続く時代劇三作目である。この映画は、前二作と同様藤沢周平の短編小説を原作とし、舞台設定や人物像などに多くの共通点があるが、作品としてはいささか退屈なものに堕している。特に「たそがれ清兵衛」と比較すると、見劣りがする。「たそがれ清兵衛」は男女の愛をこまやかに描き、それに時代劇らしく武士の生活ぶりを丁寧に描いていて、それなりに現代人にも訴えるところが強かったが、この映画で描かれているのは、男の嫉妬と体面だ。そんなものは、時代劇としては無論、現代劇として描かれたとしても、よほどの力技がなければ、観客の感動は呼べないだろう。

たそがれ清兵衛:山田洋次

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山田洋次の映画「たそがれ清兵衛」は、切ない恋を描いた作品だ。傑作と言ってよい。日本の恋愛映画の傑作と言えば、筆者にはまず成瀬の「浮雲」と溝口の「近松物語」が思い浮かぶのだが、「たそがれ清兵衛」はこれらと並ぶ恋愛映画の傑作と言ってよいと思う。恋愛映画といっても、ハリウッド映画やフランス映画のように、若い男女の熱烈な恋を描いているわけではない。妻に先立たれた子連れの冴えない男と、夫の暴力に耐えられず自ら望んで離縁した女の、はかないといえばはかないながら、それぞれ自分の命をかけて愛し合った男女の物語である。

息子:山田洋次

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山田洋次は「寅さん」シリーズとは別に、家族の絆とか人と人の触れ合いをテーマにしたヒューマン・タッチの映画を作り続けてきた。「息子」はそのなかでも、社会的な視線といい、感傷的なところといい、この路線を代表するものと言える。社会的な視線と言うのは、この映画に描かれた家族の姿が、日本社会の変貌振りを映し出しているからであり、感傷的というのは、解体する家族を、孤独な父親の背中を通じて、いとおしむように描いているからだ。この映画は、「息子」という題名がついてはいるが、父親の孤独をテーマにしたものと言ってよい。

キネマの天地:山田洋次

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1986年の松竹映画「キネマの天地」は、松竹が社をあげて一体となり、松竹のオールキャストを動員し、全国の松竹映画ファンのために作った映画と言ってよい。そのため監督の山田洋次は、毎年恒例の「寅さんシリーズ」を一回分中止し、この作品に勢力を集中した。渥美清と倍賞千恵子はじめ寅さんシリーズの常連がまるごと出演しているほか、当時松竹とかかわりのあったあらゆる映画人が参加した。その中には歌舞伎役者の松本幸四郎や松竹新喜劇の藤山寛美もあった。

遥かなる山の呼び声:山田洋次

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1980年公開の山田洋次の映画「遥かなる山の呼び声」は、1950年代に大ヒットした西部劇映画「シェーン」の主題歌の日本語題名である。そんなこともあってこの映画は、「シェーン」を連想させるものがある。風来坊が突然やってきて一家にいつき、一家のためにいろいろ手助けをしているうちに、その家の子どもやその母親から愛されるようになる。だが最後には風来坊は何も言わずに去ってゆく。その去りゆく風来坊の背後から小さな男の子が「シェーン・カム・バック!」と叫ぶ。その場面を記憶している人もいるだろうと思う。

幸福の黄色いハンカチ:山田洋次

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四十年近く前に「幸福の黄色いハンカチ」を暗い映画館の中で見たとき、筆者はなんともいえない強い情動に捉われ、闇の中を涙が流れてくるままにしたものだった。四十年ぶりに自分の家の中でDVD装置で見返したときも、やはり同じような情動に捉われた。今度は自分の家の中であるから、涙が流れるのを遠慮することはない。

同胞:山田洋次

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山田洋次の映画「同胞」が公開されたのは1975年のことだが、その時点でもこれは日本社会をかなりアナクロニスティックな目で捉えているという印象が否めない。この映画は表向きには農村の啓蒙とか、農村青年たちの団結とかをテーマにしているのだが、高度成長が絶頂期にさしかかっていたこの時期は、日本の農業が大きな転換期、つまり解体に向かっての歩みを始める時期に当たっているので、こうしたテーマはすでに時代遅れになっていたことは否めないのである。しかし別の見方もありえないわけではない。

故郷:山田洋次

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「故郷」は、「家族」同様家族の絆を描いた作品だ。「家族」では故郷を捨てて北海道に新天地を求めに行く家族の姿が描かれていたが、この作品では一家が故郷を捨てるまでの過程が描かれている。

家族:山田洋次

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山田洋次は、「男はつらいよ」シリーズを年二回のペースで作り続け、その合間に単発的な作品を結構多く作った。1970年の「家族」はその走りといえるものだ。映画評論家の中には、「男はつらいよ」シリーズを盆・正月用の興業を当て込んだ娯楽作品とし、「家族」を含めたその他の作品を芸術的な作品だと分類するものもいるが、そんなふうに単純に分けられるものではない。作品に流れている叙情的な雰囲気は共通しているし、人間を感傷的に描き出しているところも同じだ。要するに、人間の心のふれあいに拘っている。

男はつらいよ:山田洋次

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「男はつらいよ」シリーズは、1969年から1995年までの26年間にわたり48本の作品が作られた。日本はもとより世界的に見ても、息の長い人気を誇ったシリーズで、ギネスブックにも登録されたほどだ。なぜこんなにも長い間、高い人気を誇ったのか。それを明らかにするためには、改めて全作品に目を通したうえで、多角的な視点から構造的な分析を施す必要があると思うが、筆者は一映画ファンに過ぎないので、とりあえず、第一作を見た限りでの印象を述べてみたいと思う。

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ブニュエルは「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」で、ヨーロッパのブルジョワたちの不道徳な生き方をあっけらかんとしたタッチで描いたのだったが、その続編ともいうべき「欲望のあいまいな対象(Cet obscur objet du désir)」は、不道徳な欲望そのものが生き方を支配するに至った、呪われた無信仰者をウェットなタッチで描き出した。異星人がこの映画を見れば、地球人の本質がわかるだろう、そんなブニュエルの思いが込められた作品だ。

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ルイス・ブニュエルが1972年に作った「ブルジョワジーの秘かな愉しみ(Le Charme discret de la bourgeoisie)」は、現代人の虚妄振りを描き続けてきたブニュエルにとって、中間決算のようなものといえる。ここでブニュエルは、現代人の虚妄のカタログから、愚かしさ、不道徳、無信仰といったものに加え、好色、貪欲、暴力といったさまざまな要素を取り混ぜて料理している。まさに七つの大罪のオンパレードといったところだ。ひとつ嫉妬が含まれないのは、飽食した現代人には、嫉妬の感情は無縁になった、とブニュエルが考えたためだろう。

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ルイス・ブニュエルの映画「哀しみのトリスターナ(Tristana)」は、フランス資本で作られたフランス映画ということになっているが、舞台はスペインだし、カトリーヌ・ドヌーヴはじめ登場人物はすべてスペイン語をしゃべっているので、実質的にはスペイン映画と言ってよい。だが、映画の内容には、スペインを舞台に選ばねばならぬ決定的な理由はない。フランスを舞台にして、フランス語をしゃべっていてもなんら問題はないわけだ。なのに何故ブニュエルは、こんな手の込んだことをやったのか。その理由は、やはりこの映画の不道徳なところにあるようだ。ブニュエルはフランスで映画造りを再開して以来、フランス人の愚かさや不道徳さや無信仰ぶりを執拗に描いてきたわけだが、それがフランス人の愛国感情に触れた側面もあった。だからまたしも同じようなことをして、フランス人を怒らしては、今後フランスで映画造りを続けられなくなる恐れがある。そこでブニュエルは、日頃フランス人に対して抱いていた皮肉な感情を、そのまま祖国のスペイン人に投影して、わずかに自分の創作意欲を満足させようとしたのではないか、どうもそんなふうに受け取れる。

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スペイン人として隣国の民フランス人の愚かさや不道徳振りをあばき続けてきたルイス・ブニュエルは、「銀河(La Voie lactée)」では、フランス人の無信仰について、もしそう言ったら言い過ぎになるなら、フランス人の信仰の欺瞞性について暴きだした。もっとも(この映画のなかで描かれた)フランス人はカトリックであるから、その欺瞞性をあばくことは、同じカトリック教徒であるスペイン人に跳ね返ってこないとも限らない。どちらにしてもブニュエルは無神論者なので、その立場から見た宗教の欺瞞性を、この映画のなかで描き出したともいえよう。

昼顔(Belle de Jour):ルイス・ブニュエル

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スペイン人であるルイス・ブニュエルは「小間使いの日記」でフランス人の愚かさを描いたが、「昼顔(Belle de Jour)」では、愚かさに加えフランス人の不道徳な生き方を描いた。ブニュエルの目にはフランス人はとことん不道徳に映ったようだ。といってもブニュエルは、なにも特別なことをことさらに描いたわけではない。フランス人にとってはごく日常的でありふれたことを描いたに過ぎない。それでも出来上がった作品は十分な不道徳さを感じさせる。フランス人は生きながらにしてそのまま不道徳な人間だからだ、そんなブニュエルの思いが、この映画からは伝わってくる。

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ルイス・ブニュエルは第二次大戦後、メキシコとスペインで映画を作ったあと、1963年にフランスにやってきて、以来フランスで映画を作り続けるようになる。ブニュエルはスペインの生まれであり、メキシコでも活躍しているのだが、一応フランスを代表する映画作家の一人に数えられている。それは初期の作品とともに、晩年の多くの作品をフランスで作ったことにもとづいている。「小間使いの日記(Le Journal d'une femme de chambre)」は、フランス復帰後最初に作った映画である。

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