映画を語る

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2013年のイタリア映画「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(Sacro GRA)は、ローマ環状線の周辺で暮らす人々の日常を描いたドキュメンタリー映画である。ローマ環状線というのは、その名の通りローマ市街の外郭を環状に通る高速道路のこと。地図で見るとローマの町をすっぽり包み込むようにして通っている。市街に接するところもあれば、田園地帯の只中といったところもある。この映画を見ると、そうした田園地帯を走る場面も出て来るので、単なる都市高速というのでもなさそうだ。

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ルイス・ブニュエルは、フランスのブルジョワジーの背徳的な生き方を皮肉たっぷりに描くのが好きだったが、この「自由と幻想(Le Fantôme de la liberté)」という作品では、背徳性にプラスして欺瞞性まで描き出した。フランス人というのは実に欺瞞的な生き物であり、彼らにあっては、真実は欺瞞に内在するという格言が至上の価値を持つ。そんなフランス人の欺瞞性を見せつけられたら、当のフランス人をはじめ世界中の人間は、それをどう受け取ってよいやら途方にくれるに違いない。

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阪本順治の2012年の映画「北のカナリアたち」は、ミステリー仕立ての人情劇といったところか。北海道の離島を舞台に、かつてそこで学んでいた六人の子どもたちと教師とが、二十年ぶりに再会し、一旦は失われた人間同士の触れ合いを取り戻すというような趣向だ。それだけだとただのお涙頂戴映画になってしまうので、そこにミステリーの要素をからめてある。そのミステリーを、主演の吉永小百合が心憎く演じる。彼女のおかげで、観客は一杯喰わされたかたちになるのだが、なにせそれを演じているのが吉永小百合とあって、化かされたと言って憤慨するわけにもゆかないのである。

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阪本順治の2011年の映画「大鹿村騒動記」は、原田芳雄の遺作となった作品である。原田はこの作品の公開直後に死んだのであるが、その訃報が巷に伝わるや、連日大入りしたというから、原田という役者がいかに人々に愛されていたかを物語るエピソードとして語られている。原田の相役をつとめた大楠道代は、原田と共に鈴木清順の映画に出ていた。彼女を共演者に選んだのは、荒戸源次郎を通じて鈴木正順映画に親しんでいたらしい阪本の、心ばかりの配慮だったのだろう。

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阪本順治の2008年の映画「闇の子供たち」は、タイにおける児童の人身売買や性的虐待・搾取をテーマにしたものだ。一応、日・タイ共同制作ということになっており、タイ国際映画祭にも出品予定だったが、内容がタイ当局の反発を買い、タイでの上映はいまだに実現していない。この映画の中では、児童買春と並んで、生きた子供を対象にした心臓移植もテーマになっており、そこがタイ側の反発に火を注いだらしい。生きた子供から心臓を取り出したら死んでしまうわけで、それを承知で臓器を取り出すのは、あきらかに犯罪行為(殺人罪)だ。タイでは、そんな犯罪行為は許されていないし、また実際に日本人の子どもにそのような移植が行われたという事実もない、といってタイ側は、強く反発したようだ。たしかにそういうことはなかったようで、その点は勇み足と言うほかはないが、児童買春は実際にあったことだ。タイでの児童買春は一時国際的に問題となり、Newsweekなどが批判キャンペーンを張ったこともある。

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阪本順治の2002年の映画「KT」は、1973年に起きた金大中拉致事件をテーマにしたものだ。これは、当時朴正煕大統領のライバルとして知られていた政治家で、後に韓国大統領になった金大中が、東京のホテルから白昼拉致されたというショッキングな事件だった。その事件の概要はおおよそ明らかになってはいるが金大中自身はこのことについて語らないこともあって、微細なことまではわからない部分もある。一番肝心なことは、金大中が韓国に拉致された後で、釈放されたことだ。これには、日本政府からの圧力があったからだとか、アメリカ政府の圧力が働いたとか、色々な説があるが、真相ははっきりしない。しかし日本政府がこの事件を掌握していたのはたしかなことらしい。金大中を乗せた船を、海上保安庁の船が威嚇したことなどから明らかといわれる。

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1989年の映画「どついたるねん」は、阪本順治の監督デビュー作である。阪本はこの映画を、難波のロッキーとして一部に知られていたボクサー、赤井英和をフィーチャーして作ったが、自主製作のようなもので、劇場公開のあてがなかったため、原宿に特設テントを設けて上映した。ところが口コミで評判が広がり、それがもとで劇場公開にこぎつけたという、いわくつきのものだ。この映画で阪本はユニークな映画監督として認められたし、赤井の方もタレントとして活躍する糸口をみつけた。


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崔洋一の2004年の映画「血と骨」は、一在日コリアンの半生を描いたものだ。原作は、「タクシー協奏曲」(「月はどっちに出ている」の原作)の作者梁石日の同名の小説で、かれの実父の半生を描いたものだ。実録だというから、実際に存在した人物がモデルなのだろうが、映画を見た限りでは、世の中にこんな醜悪な人間が存在するものだろうかと疑問に思うほど、ひどい人間を描いている。利己的で冷酷で、人間的な思いやりは寸毫もないくせに、自尊心だけは異常に強い。その自尊心でもって誰彼かまわず、相手を強制的に服従させようとする。すこしでも反抗の様子をみると、すさまじい暴力に訴える。昔の日本にも、強い家父長権をかざしていばりくさっているものはいたが、こんなに自己中心的な人間はいなかっただろう。同じく儒教文化に染まった人間としても、この映画に出て来る在日コリアンは、化け物のような異様さを感じさせる。

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崔洋一の1999年の映画「豚の報い」も沖縄を舞台にした作品だ。前作「Aサインデイズ」のような政治的なメッセージ性はない。沖縄の離島につたわる葬儀がテーマだ。この離島ではいまだに風葬が行われているのだが、それは特殊な事情がある場合だ。海で死んだものは、十二年間は埋葬できないので、その間は風葬したまま遺骸は大気に曝しつづけられる。十二年たてば墓に骨を収めることが許される。この映画は、父親を海で失った子が、風葬された父親の骨を拾いに故郷の離島へ戻って来るというような筋書きだ。

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崔洋一の1998年の映画「犬、走る」は、日本社会のエスニック・マイノリテがテーマである。新宿の歌舞伎町から大久保あたりにかけてが舞台なので、在日韓国・朝鮮人や中国人が中心で、それに南アジア系と思われるものや国籍不明なものが多数出て来る。大したストーリーはないのだが、犯罪にかかわる外国人と、それを取り締まる日本人の警察官の攻防が描かれる。どうも、日本にいるエスニック・マイノリティは、権力による治安維持の対象だというような視点を強く感じさせる作品だ。

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崔洋一は、在日韓国人二世として、日本におけるマイノリティの存在にこだわり、そのこだわりを映画でも表現した。1989年の作品「Aサインデイズ」は、沖縄をテーマにしたものだ。沖縄の人びとは、在日韓国人とは違って、まぎれもない日本人だが、二級国民扱いされて、差別されている。米軍基地の大部分を集中的に押し付けられているところは、その最たるものだ。この沖縄差別を、いまの安倍政権は臆面もなくやっている。沖縄の人たちがいかに反対しようとも、そんなものは二級国民の悪あがきとばかり、沖縄の人々の声を、鉄面皮に無視している。だから沖縄の問題は、日本におけるマイノリティ問題の一つの、しかも大きな部分といってよい。

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ベルナルド・ベルトルッチの2012年の映画「孤独な天使たち」は、自閉症気味の少年と、その腹違いの姉で麻薬中毒の娘との、奇妙な共同生活を描いた作品だ。少年が自閉症気味というのは、母親や祖母など親密な人物とはコミュニケーションがとれているが、学校での対人関係を形成できないでいるという意味だ。学校では、スキー旅行が計画されているが、少年はそれに参加したくない。そこで参加費として母親からもらった金で、当分の食料を買い込み、自宅マンションの地下にある倉庫に閉じこもる。そこで学校が休みの間、一人暮らしをするつもりなのだ。

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ベルナルド・ベルトルッチの1998年の映画「シャンドライの恋」は、アフリカ出身の女性とローマ在住の白人男性との恋を描いたものだ。アフリカのどこかはわからない。ただ、独裁者が不法な権力を振るっている国らしい。その国に住んでいる男が官憲によって連行される。取り残された若い妻は、イタリアのローマに行って、あるマンションの女中をしながら、大学で医学を学ぶようになる。アフリカの原野に暮らしていたものが、いきなりローマの大学で医学を学ぶというのが、ちょっと面食らうところだが、それは脇へ置いておこう。問題は、この男女が愛し合うプロセスだ。

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ベルナルド・ベルトルッチの1993年の映画「リトル・ブッダ」は、仏教の輪廻転生思想と釈迦の修行をテーマにしたものである。キリスト教の教えには、復活の思想はあるが、輪廻転生の思想はないから、キリスト教を信じる人たちにとっては、輪廻転生とか生まれ変わりとかいったことは、荒唐無稽に思われるに違いない。ところがベルトルッチは、これを宗教上の信仰に属する問題だとして、荒唐無稽だとはしていない。こういう考え方もありうるのだという前提で、かなり理解ある描き方をしている。また、釈迦の修行についても、宗教的な啓示を得るための修行だとして、かなり好意的である。

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ベルナルド・ベルトルッチの1990年の映画「シェルタリング・スカイ」は、ニューヨークからアフリカにやって来た三人の男女の関わり合いを描いた作品だ。三人のうち男女二人は夫婦であり、残りの一人は妻の方を愛している青年だ。その青年は、若くてハンサムなので、妻はついつまみ食いのようにして、抱いてしまう。そんな妻の浮気心を気に入らない夫は、青年を追い払って妻と二人きりになろうとするが、アフリカの砂漠の真ん中で熱病で死んでしまい、妻は途方に暮れたあげくに、アラブ人の隊商に拾われ、その実力者の男の妾にされるというような筋書きの映画だ。

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ベルナルド・ベルトルッチの1987年の映画「ラスト・エンペラー」は、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の生涯を描いた作品だ。1908年、西太后の指名により二歳にして即位し、1967年に63歳で死ぬまでの生きざまを描いている。即位以後のことを編年的に描くのではなく、1950年に共産政権によって投獄され、そこで尋問されるシーンを重ね合わせている。史実としては、溥儀は共産政権に一定の評価を受け、国務を分担して晩年を過ごしたのであるが、この映画では、溥儀は十年間投獄された後釈放され、市井に身を潜めて暮らしたというふうになっている。

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ベルナルド・ベルトルッチの1972年の映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」は、日本でも大きな話題になった。過激な性描写もさることながら、マーロン・ブランド演じる不気味な中年男が、若い女を相手に鶏姦するシーンが衝撃的だったのだ。日本では鶏姦は男性同士の行為であって、女が対象となることはないと受け取られていた。だからこそ熊楠先生は、「婦女を姣童に代用せしこと」という小論の中で、女の後門を責めることの異常さを指摘したのだった。

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ベルナルド・ベルトルッチの1970年の映画「暗殺の森(Il conformista)」は、一ファシスト党員による反ファシストの大物クアドリ教授夫妻暗殺をテーマにしたものだ。暗殺の舞台はフランスのある森のなかである。ただこれだけのことを二時間近くかけて描いている。多少冗漫といえば冗漫な作品だ。

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ベルナルド・ベルトルッチ1964年の映画「革命前夜」は、ベルトルッチの自伝的な色彩の強い作品だといわれている。北イタリアのパルマを舞台に、コミュニズムを信奉するブルジョワ(イタリア語でボルゲーゼ)の一青年の悩みのようなものをテーマにしているのだが、その青年がベルトリッチの分身のようなものだというのだ。たしかにベルトルッチはパルマの出身だし、ブルジョワ出のコミュニストでもあった。同時にこの映画は、スタンダールの名作「パルムの僧院」をある程度下敷きにしているという。スタンダールのほうは、すでに忘れてしまったが、主人公の名がファブリツィオ(原作ではファブリス)であったり、その叔母の名がジーナだったりするのは共通している。

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ミケランジェロ・アントニオーニといえば「愛の不毛」三部作に代表されるような男女の愛の不毛を描き続けたのだが、1982年の映画「ある女の存在証明(Identificazione di una donna)」も、その延長上にある作品だ。妻に逃げられた中年男が、あいた隙間を他の女で埋めようとするが、なかなか思うようにいかない、その理由はどこにあるのか、そんなことを問いかけているような映画である。

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