映画を語る

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アッバス・キアロスタミの2010年の映画「トスカーナの贋作」は、偽の夫婦を演じる中年男女の幻想のようなものを描いた不思議な作品だ。この男女は、「本物より美しい偽物」をテーマにした本を出した男に、女がモーションをかけるという内容なのだが、その挙句に、二人はある老人から夫婦と勘違いされたことがきっかけで、実際に夫婦になった想定で、お互いの関係を演じあう。その結果、女の方が、自分がかつて初夜を過ごした部屋に男を案内して、セックスをせまるまでに至るのだが、そこで男は現実に目覚め、一人立ち去っていくというような内容だ。

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アッバス・キアロスタミの1999年の映画「風が吹くまま」は、イランの農村地帯における日常を淡々と描いたものである。例によって寡黙な映画なので、何が描かれているのか、なかなか明らかにならないのであるが、そのうち、この映画に出て来る連中はテレビ制作かなんかの目的で地方の村落迄やってきたのだが、その目的は、この村落で行われるユニークな葬式を取材することだとわかって来る。ところが葬式が出るために必要な死人がなかなか出ない。彼らは、今にも死にそうな老女がいると聞いてこの村落まではるばるやって来たのだが、その老女が意外と元気で、なかなか死ぬ気配がないのだ。そこでやってきたスタッフたちは、とりあえず老女が死ぬのを待つことにするのだが、待ちくたびれてスタッフは解散し、監督が途方にくれているところに、やっと老女が死ぬというわけなのである。そんなシニカルな筋書きに沿って、このテレビ映画監督の目に映った村落の日常が淡々と描かれていくわけである。

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アッバス・キアロスタミの1997年の映画「桜桃の味」は、それ以前のキアロスタミ作品とは大分趣を異にしている。それまで子どもの世界やイラン地震の被災者たちを描いてきたキアロスタミがこの映画で取り上げたのは、自殺志望者の気持だ。人生に絶望した男が自殺をしたいのだが、自分一人ではうまくいくかどうか不安だ。それで自分の自殺を手伝ってくれて、綺麗な形で死んでいけるように協力してくれる人を捜し求める話なのだ。

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アッバス・キアロスタミの1994年の映画「オリーブの林をぬけて」は、「友だちのうちはどこ」に始まり、「そして人生はつづく」に続く、イランの片田舎コケルを舞台にした青春映画の第三作目だ。この映画でも、キアロスタミは現地の人々を俳優に起用し、イラン大地震でひどい目に遭った人々が懸命に生きるさまを描きだしている。

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アッバス・キアロスタミの1992年の映画「そして人生はつづく」は、1990年に起きたイラン大地震をテーマにしている。この大地震では三万人以上の人が死んだといわれるが、その被害を受けた地域に、映画「友たちのうちはどこ」の舞台になったコケルやポトシュの村も含まれていた。そこでその映画を監督したキアロスタミが、息子をつれて被災地を訪れ、かつて映画に出ていた人々の安否を知ろうとするところを、この映画は描いている。劇映画というわけではないが、完全なドキュメンタリー映画でもない。セミ・ドキュメンタリー映画とでもいうべきか。

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アッバス・キアロスタミの1989年の映画「ホームワーク」は、前作「友だちのうちはどこ」の余韻を引きずっている。「友だち」では、宿題帳が大きなテーマになっていたが、イランの子どもたちが宿題にあれほどこだわる理由が、この「ホームワーク」というドキュメンタリー映画を見ると、よくわかる。この作品は、小さな子どもたちを相手に、学校での宿題について、インタビューをしている模様を、淡々と映し出すことからなっているのである。

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アッバス・キアロスタミの1987年の映画「友だちのうちはどこ」は、キアロスタミの出世作となった作品だが、同時に世界中にイラン映画の魅力を発信したものだった。この映画に続く三部作で、キアロスタミは世界映画界の巨匠の仲間入りを果たし、それに刺激させられる形で、多くのすぐれたイラン映画が作られるようになった。イランはいまや、世界の映画界をリードする国の一つである。

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1974年のイラン映画「トラベラー」は、アッバス・キアロスタミの長編第二作であるが、傑作「友だちの家はどこ」と同じようなテーマが扱われている。「友だち」の場合には、友だちの所在を求めて懸命になる少年を描いたのだったが、この映画は、本当のサッカー試合を見たいという少年の執念がテーマだ。その少年は自分の執念を実現するためには、なんでもする。執念の実現に拘ることこそが自分の生きがいなのだ。そのような少年は、今の日本のように、ある意味満ち足りた世界ではなかなか現れない。1970年代のイランのような、社会全体が貧しい環境だからこそ現われるのだろう。

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蚤とり侍は、徳川時代に実在した稼業だったという。侍が猫の蚤をとる商売をやるとみせかけて、実は男の売春をするというものだ。これは女を相手にする場合も、男を相手にする場合も、両方含まれる。そんな蚤とり侍をテーマにした映画が、2018年の鶴橋康夫の作品「蚤とり侍」だ。

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堤幸彦の映画「天空の蜂」は、東野圭吾の同名の小説を映画化したものだ。原子力発電所の危機をめぐって、電力会社の金儲け主義と政府の無責任さを抉り出した作品だ。原作は1995年に書かれており、したがって3.11のクライシスは考慮されていないが、映画のほうは3.11後の2015年に作られたとあって、ある程度3.11の影響を見ることができる。しかし原発の安全性を考えさせることをねらったシリアスな意図はないといってよい。あくまでもサスペンスにこだわった娯楽映画に徹している。

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上田慎一郎の「カメラを止めるな!」は、ゾンビ映画の傑作だとして内外で結構話題になった。ただのゾンビ映画ではなく、楽しめる工夫がなされている。その工夫がいかにも映画らしい工夫なので、話題性がいっそう高まったのだと思う。その工夫とはメタ映画ともいうべきもので、前半でゾンビコメディのフィルムを紹介しておいて、後半でそのフィルムができるまでのプロセスを公開するというものだ。

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「恋人たち」というタイトルからは、フランス人ルイ・マルの映画を想起させられる。やはり「恋人たち(Les Amants)というタイトルのルイ・マルの映画は、倦怠せる男女の糜爛した恋のアヴァンチュールを描いていたものだったが、日本人の橋口亮輔が作ったこの映画が描いているのは、いかれた中年男女がくりひろげるかなり崩れた人間関係である。一応「恋人たち」というタイトルがつけられているが、男女の恋が描かれているわけではない。描かれているのは、なにやらあやしげな人間模様である。

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2013年の映画「ペコロスの母に会いに行く」は、同名の連載漫画を映画化したものである。ペコロスというのは小さな玉ねぎのことだが、そのペコロスのような形の頭の男が、認知症になった母親を世話する、というか互いに世話しあう関係を描いたものだ。大したストーリーはなく、母親の奇妙な行動に振り回される息子のどぎまぎした反応が見どころだ。

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マルタイとは警察用語で身辺警護の対象者のことをいう。対象者のタイをとってマルタイというわけだ。伊丹十三の1997年の映画「マルタイの女」は、そのマルタイをテーマにしたもの。伊丹自身、「ミンボーの女」をめぐって暴力団から付け狙われ、警察の身辺警護を受けた経験があり、この映画にはその際の経験が生かされているという。なお、伊丹自身はこの映画を作った後で不可解な死に方をしており、これが彼の遺作となった。

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「スーパーの女」は、スーパーマーケットの経営をテーマにした、伊丹映画らしいコメディ・タッチの作品である。津川雅彦演じるさえない男の経営する落ち目のスーパーを、宮本信子演じる幼馴染の女が立て直しに向けて協力し、ついに店を繁盛させるという人情物語である。

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伊丹十三の1995年の映画「静かな生活」は、大江健三郎の同名の小説を映画化したということになっているらしい。小生は原作を読んでいないので、何とも言えないのであるが、映画を見た限りでは、どうも忠実な映画化ではないらしい。というのも、この映画には、大江健三郎の様々な小説からの引用と思われるシーンが多く出て来て、単一の作品の映画化というより、大江作品のエッセンスをつまみ食いするような形で映画を作ったと思われるところがある。無論小生は原作と厳密な比較をしているわけではないので、何とも言えないのではあるが。

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伊丹十三の1993年の映画「大病人」は、末期がん患者の死に方を描いた作品である。人は、生まれ方は選べないが死に方は選べる、とはよく言われる言葉だが、まさにその言葉通り、自分の死に方を自分自身で自主的に選んだ男の物語である。いまでこそ、医療の現場では、患者に延命治療の是非を選択させる風潮が起ってきたが、この映画が公開された頃は、そんなことはあり得ないと考えられていた。医者は、少しでも患者の命を伸ばすために延命治療を行うのが当然だと考えられていたし、患者のほうにも延命治療を拒否する権利は与えられていなかった。「終の信託」という映画のなかで、延命治療を拒んだ患者に協力して、死なせてやった医師が嘱託殺人に問われる話があったが、そんな時代状況だった。そんな状況のなかで、延命治療について考えさせるこの映画は、社会に向って一定の問題提起をしたところがあった。

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チャールトン・ヘストンがマーク・アントニーを演じた1969年版の「ジュリアス・シーザー」は、原作の雰囲気がよく生かされているわかりやすい作品だ。アメリカ映画なので、無教養なアメリカ人でも理解できるように作られていながら、肝心な部分では原文を生かすなど、心憎い演出がなされている。

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リア王の映画化には様々なヴァージョンがあるが、オーソン・ウェルズがリア王を演じた1953年の作品が、とりあえずはもっとも原作の雰囲気を生かしたものと言ってよい。もっともこの映画は、75分という長さなので、かなり思い切ったカットを行っている。その結果、リア王に特化したメーン・プロットのみからなっており、サブプロットは、グロスター泊が目玉を繰りぬかれる場面をのぞいては、ことごとく省かれている。それでも、原作の雰囲気をほとんど損なっていないのは、映画作りのうまさもあるが、オーソン・ウェルズの演技の賜物だろう。

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数あるシェイクスピア劇のなかでも「ロメオとジュリエット」はもっとも多く映画化された作品だ。その中でもジョージ・キューカーによる1936年の映画化作品は、原作の雰囲気をもっともよく再現したものといえる。多少の省略はあるものの、ほとんど原作に忠実であり、台詞もなるべく原作そのものを採用している。その結果、やや荘重すぎるきらいに流れないではないが、シェイクスピア劇としての雰囲気はたっぷり味わえるように出来ている。この映画を見ただけで、「ロメオとジュリエット」という芝居を語る資格ができそうである。

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