映画を語る

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フランシス・コッポラの映画「ゴッドファーザー」はアメリカばかりでなく世界中で大ヒットした。日本でもやはり大ヒットになった。公開から40年以上経ったいまでも、人気は衰えないという。この映画のなにが、それほど人々をひきつけるのか。

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マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」は不思議な映画である。タクシーの運転手といえば、普通人の目には退屈な下積み仕事という印象にうつるが、当事者にしてみれば、結構変化に富んだ仕事であるらしい。単に客を目的地に運ぶだけではなく、客とのさまざまなやり取りを通じて社会の情勢にも敏感になるし、時には社会に対して鋭い批判意識を持つようにもなる。そればかりではない、運転手によっては、そうした批判意識を実現しようとする者も現れる。この映画のなかのタクシー・ドライバーもそうした一人だ。彼はタクシーの運転という自分の仕事を通じて、社会に対する鋭い批判意識に目覚め、それを実現する為にすさまじいエネルギーを傾注する。その結果どんな事件が巻き起こるか、この映画はそうしたどきどきさせるようなストーリー展開からなっている。タクシー・ドライバーもなかなか棄てた商売ではない、そんなふうに観客に思わせるわけである。

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ミロス・フォアマン監督による1975年の「カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)」は、精神病院の運営における官僚的側面とロボトミー手術の非人間性を描いた作品である。ロボトミー手術というのは、外科的手術を用いて精神疾患の治療をするというもので、自傷他害の傾向が強い患者を対象に実施されたものだ。具体的には、こめかみに穴をうがち、そこから頭蓋内に手術用具を入れて大脳前頭葉の一部を除去する。現在では、人体への傷害行為として禁忌となっているが、この映画が公開された当時にはまだ行われていた。そんなロボトミー手術の禁止に向かって、この映画は一定の影響を与えたと評価されている。

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ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ(The long goodbye)」は、レイモンド・チャンドラーの同名の小説を映画化したものである。原作は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした一連の作品のうち最も人気の高いもので、日本でも古くからファンが多かった。近年は村上春樹の翻訳が出たりして、新たなブームを起こしている。筆者も村上春樹の翻訳を通じてその魅力を堪能した一人だ。

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「スケアクロウ( Scarecrow )」は、世の中からドロップアウトした二人の男の奇妙な友情を描いた映画だ。二人のうちの一人は刑務所を出たばかりで、預金の口座があるピッツバーグで人生のやり直しをしようと思っている。もう一人は、妻子を棄てて放浪していたが、五年ぶりに会いたくなって、妻子のいるデトロイトまで帰ろうと思っている。その二人が旅先で偶然出会って、行動を共にするようになり、さまざまな波乱を起こしながらついにデトロイトまでたどりつくと、そこには思いがけない事態が待ち受けていた、というものだ。

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映画「ダーティハリー(Dirty Harry)」は、クリント・イーストウッドを大スターにした作品である。イーストウッドといえば、テレビ西部劇「ローハイド」のロディ役として、我々団塊の世代には馴染みの俳優だったが、映画俳優としては芽が出ず、イタリアに渡っていわゆるマカロニウェスタンなどのB級映画ばかりに出ていたが、「ダーティハリー」の破天荒な刑事役を通じて、一躍国際的な人気を博した。

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フレンチ・コネクションとは、フランスとつながりのある麻薬密売組織のことを言う。その麻薬密売組織を摘発しようとするニューヨーク市警の警察官たちの奮闘を描いたのが1971年の映画「フレンチ・コレクション」だ。実際にあった出来事をもとに作られたという。

卒業:マイク・ニコルズ

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1967年公開の映画「卒業」は、一応アメリカン・ニューシネマの初期の傑作ということになっている。アメリカン・ニューシネマと言えば、ベトナム戦争を契機に盛り上がった政治不信を背景にして、社会への覚めた見方とか異議申し立てといったもので特徴づけられるが、この映画にそうした要素を認めるのは、多少の困難を伴うだろう。この映画が描いているのは、道徳の頽廃ともいうべきものだ。道徳の頽廃を描きながらそれを批判するわけでもない。むしろそれを受け入れたうえで、その頽廃ぶりを楽しんでいるフシがある。こんな投槍とも言える姿勢が、逆説的に社会批判につながっていると言えなくもないが、それにしては、この映画には曖昧なところが多すぎる。

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1967年の映画「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)」は、アメリカン・ニューシネマの魁となった作品である。アメリカン・ニューシネマとは、1960年代の末近くから70年代半ば頃にかけて盛んに作られた一連の傾向的な作品群をいい、アメリカ社会への懐疑とか政治体制への反抗といったものを主なテーマにしている。その背後にはベトナム戦争があったわけで、この戦争に不正を感じた人々が、アメリカへの意義申し立ての表現として作ったという側面がある。したがって、ベトナム戦争が終わり、アメリカ社会に一定の落ち着きが戻ってくると、アメリカン・ニューシネマは下火になっていた。

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スティーヴン・ソダーバーグの映画「KAFKA 迷宮の悪夢」は、20世紀を代表する作家フランツ・カフカを題材にした映画である。とはいっても、カフカの作品をもとにしたわけでもなく、またカフカの伝記的事実にもとづいたものでもない。この高名な作家の名前を借りて、一人の映画作家が自分勝手な映画の世界を作りあげたというに過ぎない。だからこの映画を、カフカに関連づけて解釈するわけには行かない。ただのミステリー映画として見るべきである。

女ざかり:大林宣彦

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少年少女たちの青春を描き続けた大林宣彦が、中年女性の生き方を描いたのが「女ざかり」だ。これは丸谷才一の同名の小説を映画化したものだが、原作はちょっとした社会現象のようなものを巻き起こした。まず「女ざかり」という言葉が目新しかった。それまでは壮年の男をさして「男ざかり」ということはあっても、「女ざかり」という言葉はなかった。女の命は娘盛りにあるので、それを過ぎた女はもはや「女」とは認識されなかった。ましてや中年の女に色気があるなどと、誰もが思わなかった。そういうような時勢の中で、四十を過ぎた女を「女ざかり」と表現した丸谷の原作は古い人間たちの度肝を抜いた。しかしその一方で、この言葉に拍手喝采した人々もいたわけで、それは自分たちの存在意義をそこに感じることのできた当の中年女性ばかりではなく、彼らと同世代の男たちにもうなずくべきところがあったのである。

青春デンデケデケデケ:大林宣彦

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大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」は、尾道三部作の延長上にある青春映画だ。舞台は尾道とは瀬戸内海を隔てた対岸の町観音寺。この町は地図で見ると尾道の南東にあたっているのがわかるが、島影によって遮断されていないので、お互いに良く見えるそうである。だから尾道三部作を、大林本人がいうように瀬戸内海を舞台とした青春映画とすれば、「青春デンデケデケデケ」もその範疇に治まる。

さびしんぼう:大林宣彦

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大林宣彦の映画「さびしんぼう」は、所謂尾道三部作の最後の作品であり、前二作同様尾道を舞台とした青春映画である。ここでは、高校二年生の初恋が描かれている。その初恋がいかにも思春期の少年少女のういういしさに包まれており、見ていて思わずほんのりとした気分になってしまう。筆者のような、はるか大昔に青春を通り抜けた老人にとっても、このような映画を見せられると、自分の初恋のときの思いがありありとよみがえってきて、ついうっとりとしてしまう。筆者の初恋も、この映画の中の少年少女と同じく、十六歳の出来事だった。

時をかける少女:大林宣彦

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大林宣彦は、青春映画が得意で、いまでも多くのファンがいるという。彼の映画には、子どもから大人になりかけている少年や少女たちが登場して、人生の中で一回限り出会う出来事に体をはってぶつかっていく姿が描かれている。そうした姿が、同年代の少年少女たちの共感を呼ぶのは無論、かつてそのような少年や少女だった大人たちをもノスタルジックな気分にさせるのだろう。同じ大人でも、もはや少年時代の生き生きとした記憶を失ってしまった筆者のような老人には、彼らの気持にはなかなか感情移入できないが、それでもほのぼのとした気持にはなれる。

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映画を発明して始めて公開したのはリュミエール兄弟ということになっているが、映画を映像芸術かつ大衆娯楽として確立したのはジョルジュ・メリエスといえよう。仮にメリエスが現れず、リュミエール兄弟の段階で映画製作がとどまってしまったとしたら、映画が今日のように世界的な規模で発展することはなかっただろう。なぜかといえば、リュミエール兄弟の作った映画は、動く写真とでもいうべきもので、現実の世界の写像に留まっていたからだ。そうしたものに人間は、いつまでも高い関心を持続的に抱き続けるわけにはいかない。人間の高い関心を持続的にひきつける為には、ファンタジーの要素がなければならない。映画にそのファンタジーの要素を持ち込んだのがジョルジュ・メリエスなのだ。

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死や信仰などをめぐる人間の精神的な危機を描き続けてきたベルイマンが、この「叫びとささやき(Viskningar och rop)」では、生きることの罪深さとでもいうべきものを描いている。「生きることの罪深さ」というと、我々日本人には理解しがたいところがある。我々日本人にとって、この世で生きているということは、縁があって生きているということであり、したがった有難いこととして受け取られる。決して罪深いなどとは思われない。しかし、キリスト教文化にあっては、人間は原罪を背負ってこの世に生まれてきたものと信じられている。人間がこの世で生きることはだから、生まれながらにして罪深いことなのだ。

恥(Skammen):イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの映画「恥(Skammen)」は、内戦に翻弄される人々を描いた作品である。この映画が作られたのは1966年であるから、当時の観客は同時期に進行中であったベトナム戦争を想起したようだが、今日これを見ると、シリアの内戦が思い起こされる。政権側と半政権側が激しく対立し、市民はその対立に翻弄される。政権側の言うことをきくと反政権側から殺され、反政権側の言うことをきくと政権側から殺される。挙句は生活基盤を悉く破壊され、安全を求めて外国に逃れる。しかしその道も容易ではない。ボートで漂流する難民たちを待っているのは過酷な運命だ。全くこれと同じようなことが、この映画の中でも描かれている。

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イングマル・ベルイマンは「第七の封印」以後宗教的なテーマを描いた作品を作り続けてきたが、「仮面 / ペルソナ」は一転して、宗教とはかならずしも結びつかない、人間同士の葛藤を描いた作品だ。その人間同士の葛藤は、心と心が直接ぶつかり合うのではなく、仮面を通じて展開する。外面と内面が一致しない二人の人間同士が、外面のぶつかりあいを通じて内面のぶつかり合いに至った挙句、外面と内面とがねじれあうように融合してしまう。外面はそのままで内面を交換する、あるいは内面はそのままで外面を交換する。なんとも不可解な事態に陥った二人の人間(女性)の、不思議な関係を描いた映画なのである。

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イングマル・ベルイマンは、「処女の泉」で神の沈黙をテーマに取り上げたあと、立て続けに宗教色の強い映画を作った。「鏡のなかにある如く」、「冬の光」、「沈黙」からなる「神の沈黙」シリーズといわれる作品群である。このうち「冬の光(Nattvardsgästerna)」は、聖職者の信仰の揺らぎをテーマにした、非常に重い感じの作品である。

処女の泉:イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの1960年の作品「処女の泉」は、いかにもキリスト教らしい信仰の問題をテーマにしているにもかかわらず、前作の「野いちご」に続き、欧米諸国のほか日本でもヒットした。神の沈黙という重い宗教的なテーマは、キリスト教徒にとってはなじみの深いものだが、日本人には、ほとんど無縁な事柄と言える。それなのにこの映画は日本人にも受け入れられた、というので、映画史上では画期的な作品の一つに数えられる。

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