映画を語る

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ヴェルナー・ヘルツォークはヴィム・ヴェンダースとならんでニュー・ジャーマン・シネマの旗手として知られる。1972年の映画「アギーレ 神の怒り」は彼の代表作だ。16世紀の南米を舞台にしたこの映画は、ヨーロッパ人の傲慢さと狂気を描いている。

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2012年の映画「かぞくのくに」は、在日朝鮮人と北朝鮮のかかわりあいをテーマにした作品である。監督のヤン・ヨンヒは韓国籍だそうだが、両親は北朝鮮籍だったという。そのヤン・ヨンヒが、北朝鮮に対する徹底的な批判意識というか、拒絶感情のようなものを、この映画に込めていると伝わって来る。近親憎悪ともいうべきその感情がどこから来ているのか、日本人の筆者にはわからない。ディストピア社会に生きる同胞への憐憫なのか、あるいは嘲笑なのか、それとも侮蔑なのか。

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北野武の1999年の映画「菊次郎の夏」は、北野にしては珍しくロードムーヴィーである。北野演じる菊次郎という風来坊が、母親に捨てられた子供とともに旅に出る。目的は、とりあえずは、愛知県の豊橋に住んでいる子どもの母親に会いに行くことだが、ついでに菊次郎も自分を捨てた母親に会いに行こうとする。その結果、子どもの母親は他の男と結婚して自分の新しい家族をもっていることがわかり、菊次郎の母親は老人ホームの嫌われものになって生きていることがわかる。そんな事態を前にして、子どもも菊次郎も自分の母親に会う気持ちになれないという、悲しい物語だ。

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是枝裕和の2017年の映画「三度目の殺人」は、法廷を舞台としたサスペンスドラマであるが、サスペンスがききすぎて、かなりわかりづらいところがある。当初は犯行を認めていた被疑者(役所広司)が、弁護士(福山雅治)とのやりとりの中で何度も供述を変え、挙句には犯行を否定したりする。最後には有罪判決を下されて死刑になるのだが、本人はそれを残念なこととは思っていないらしい。そんな被疑者を見て弁護士は、真実は何かについて自信が持てない。いったい自分は何のためにこの男の弁護をしていたのか、途方に暮れるのである。そしてこの男の目的は、自分も含めた司法関係者を愚弄することにあったのではないかと、そんな風に思ったに違いない、というふうに伝わって来る。

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是枝裕和の2016年の映画「海よりもまだ深く」は、前年の「海街ダイアリー」と似た雰囲気の作品である。ある家族の日常生活を淡々と描いている。描かれているのは、なんということもない平凡な生活なのだが、そこに見る人はなにか自分に通じるものを感じる。そこが映画を陳腐なものにさせず、人々の共感を得る所以なのだと思う。

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是枝裕和の映画「花よりもなほ」は、「誰も知らない」の次の作品だが、同じ監督の映画とは思われないほど、違った印象を受ける。「誰も知らない」が日本の現代社会への強い批判意識に裏打ちされているのに対して、この映画は徳川時代の昔の日本を舞台にして、気軽なエンタメ気分があふれている。基本的には、エンタメ作品といってよいだろう。だが、良質なエンタメであり、見てて気分がいい。小生の好きな女優宮沢リエが出ているということもあるが。

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「幻の光」は、是枝裕和のデビュー作である。テーマは女の生き方だ。夫を不可解な事故で失った女が、小さな子どもを伴なって別の男に嫁入りするが、前の夫のことが忘れられないで、いつまでもこだわり続ける。そんな妻を、新しい夫は忍耐を以て受けとめるといった内容の話だ。

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ヴィム:ヴェンダースの2004年の映画「ランド・オブ・プレンティ」は9.11後のアメリカ社会の一断面を描いている。9.11テロはアメリカ国民に深刻なダメージを与え、アメリカにはイスラムに対する敵意が蔓延するようになった。その敵意がイラク戦争を起こさせるのであるし、またヘイトクライムを増加させもした。トランプ大統領の登場にも、そのような敵意による社会の不寛容と分断が、幾分かは作用しているのだと思われる。

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ミリオンダラー・ホテルはロサンゼルスに実在するホテルだそうだ。もし映画のとおりだとしたら、名前とは裏腹に安宿ということらしい。映画はその安宿を舞台にして、ある種のサスペンス・ストーリーを展開してみせる。ある種のサスペンスと限定的な言い方をするのは、サスペンスとしては多少ゆるんだところがあるためだ。その理由は、主人公の青年が知的障害者で、かれの行動がかなりずっこけた印象を与えるからだ。

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ヴィム・ヴェンダースが「ベルリン、天使の詩(Der Himmel über Berlin)」を作ったのは1987年のことだから、まだベルリンの壁があった頃だ。その頃のベルリンの街を、この映画は詩情豊かに描いていた。筋らしきものはない。二人の堕天使がベルリンの街に下りて来て、街の佇まいを見物しながら、人々の暮らしぶりを観察し、時には不幸な人に寄り添いながら、感想を詩にして披露する。その詩というのは、「子供は子供だった頃」に始まり、「ブルーベリーがいっぱい降って来た」とか「くるみを食べて舌を荒らした」とか続くものだ。映画の中で空から降って来たのは、ブルーベリーではなく、天使だったわけだが。

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ヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー風の映画「東京画(Tokyo-Ga)」は、小津安二郎へのオマージュといってよい。同じような趣旨の映画は、溝口健二へのオマージュである新藤兼人の作品があるが、新藤の映画が溝口の半生を描いた伝記的なものだったのに対して、これは小津の映画作りの魅力について語ったものだ。その魅力を語るためにヴェンダースは二人の人物を登場させて、小津への敬愛を語らせる。

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ヴィム・ヴェンダースといえば、「都会のアリス」を始め、ロード・ムーヴィーの名人という印象が強いが、「パリ、テキサス」も広い意味でのロード・ムーヴィーに入るだろう。ただし、構成はすこし入り組んでいる。映画は大きく二つの部分からなるが、前半では放浪していた主人公の男が弟によって連れ戻される途中の旅を描いており、後半はその男が自分の息子を連れて、離別した妻を求めて旅をするところを描いている。前半も後半も旅をするという点では、ロード・ムーヴィーの条件を満たしているが、ロード・ムーヴィーとして相互に深い関連があるわけではないので、二つのロード・ムーヴィーの物語が併存しているような印象を与える。

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ヴィム・ヴェンダースは、「都会のアリス」から始まるロード・ムーヴィー三部作では、旅をしているという以外これといったストーリーを持たず、登場人物たちの繰り広げる日常の動きを淡々と写し取ることに映画作りの情熱を傾けていた。その傾向は、ロード・ムーヴィーではない作品では一層強まる。1982年の作品「ことの次第(Der Stand der Dinge)」は、ロード・ムーヴィーのように旅という枠設定も持たないまま、登場人物の日常を淡々と描いているために、作者はいったいそれを通じて、何を主張したいのか、観客には一向にわからない。それでいて退屈なわけではない。二時間に及ぶこの映画を、ヴェンダースは観客を飽きさせることなく見せているのである。

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「さすらい」という映画の題名を聞くと、ミケランジェロ・アントニオーニの映画を思い出す。アントニオーニの映画は、妻に捨てられた男が一人娘を伴なって放浪する話だったが、この映画は中年男が二人連れ立って放浪する話だ。彼らはトラックで放浪する。トラックのヘッドには UMZUGE(引っ越し)と大書され、ボディには「メーベル運送」と書かれてあるので、運送車かといえばそうではない。トラックの内部には映画関係のマシンが多数設置され、人が寝るためのスペースも確保されている。このトラックの持ち主は、このトラックでドイツじゅうを移動しながら、映画館に立ち寄って映写機の調整を仕事にしているのだ。

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ヴィム・ヴェンダースは戦後ドイツ映画を代表する監督である。1974年公開の映画「都会のアリス(Alice in den Städten) 」は彼の出世作となったもので、ロードムーヴィー三部作の嚆矢をなすものだ。中年男がゆきずりの女から押し付けられた小さな女の子とともにさすらうというテーマは、前年のアメリカ映画「ペーパームーン」とよく似ている。「ペーパームーン」のほうは、アメリカの宗教リバイバルという社会的な背景をからませてあるが、こちらにはそういった問題意識はない。ただ単に、中年男と小さな女の子とのほんわりとした関係が描かれている。

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ファティ・アキンはトルコ系ドイツ人として、ドイツ社会に生きるトルコ人たちの生きづらさをテーマに取り上げて来た。その生きづらさは、ドイツ人のトルコ人に対する差別意識に根差していたものだが、ファティ・アキンはドイツ人を表立って批判することは避けて来た。トルコ人の生きづらさは、トルコ人自身に根差しているのだというような描き方をしてきたわけである。ところが、この「女は二度決断する」では、初めてドイツ人社会をストレートにやり玉にあげて、ドイツ人社会の欺瞞ぶりを強烈に批判した。しかもその批判を、差別されるトルコ人にさせるのではなく、ほかならぬドイツ人にさせるというやり方をとったために、この映画はある種のスキャンダル効果を生み、ドイツ人社会に深刻な反省をもたらしたようである。

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河瀬直美の2017年の映画「光」は、河瀬にはめずらしく男女のラブロマンスがテーマである。その男女というのが、若い女と、彼女にとっては父親ほど年の離れた中年男の組み合わせなのである。こんなに年の離れた間柄でも、恋愛は成立するのか。もっともこの映画の中での男女の恋愛は、性愛と言うよりは、精神的なつながりということになっている。男女の精神的なつながりを恋愛と呼べるのかどうか、議論があるところだが、この映画の中の男女は、互いを深く愛しているように映る。

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河瀬直美の2014年の映画「二つ目の窓」は、奄美大島を舞台にして、少年少女が大人へと成長してゆく過程を、美しい自然描写を交えながら、ゆったりとした感覚で描いている。映画に出て来る少年少女は、それぞれが思春期らしい悩みを抱え、かけがえのない人の死や、人間不信を経験しながら、すこしづつ大人に近づいていく。そしてかれらが大人になったことは、島の海岸の砂浜の上でセックスすることで象徴的に表現される。セックスで結ばれたかれらは、サンゴ礁の海で、イルカのように泳ぎ回るのだ。

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河瀬直美の2011年の映画「朱花の月」は、奈良の豊かな自然を背景にして、男女の不倫を描いた作品だ。この映画の場合、不倫は女の側の行動だ。亭主を裏切ってほかの男と道ならぬ恋をする。そんな妻の不倫に絶望した亭主が、風呂桶のなかで血管を切って自殺する。ちょっとゆるい設定だが、これは男の目からみるからなので、女の目にはまた違って映るのかもしれない。

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河瀬直美の2008年の映画「七夜待」は、タイを単身で旅行する若い女性の話である。この女性は言葉も話せずに一人旅をしている。度胸がいいといえば聞こえがいいが、ようするにおっちょこちょいなのだ。そのおっちょこちょいぶりの余りに、偶然乗りこんだタクシーに、とある家に連れていかれる。ホテルに行くつもりが、言葉が話せないままにいい加減な受け答えをしているうちに、タクシーのドライバーが誤解して、彼女を自分の知り合いの家に連れてゆくのだ。彼女は誘拐されたと思ってパニックになるが、家の人たちの親切な対応に心を許す。

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