映画を語る

父と暮せば:黒木和雄

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「父と暮せば」は、井上ひさしが二人芝居として書いたもので、1994年以降何度も舞台上映され、そのたびに大きな話題になった。それを黒木和雄が2004年に映画化した。細部で相違はあるが、舞台をそのままスクリーンに移したような出来栄えで、やはり大きな評判を呼んだ。原爆投下三年後の広島の被爆者を描いた作品で、テーマとしては歴史を感じさせるのだが、そこに描かれた人間の生き方が、今日の日本人にも大いに通じるものがあるので、共感を呼んだということなのだろう。

世界の中心で、愛を叫ぶ:行定勲

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行定勲の2004年の映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」は、思春期の少年少女の恋愛を描いたものだ。その描き方がいわゆる少女マンガ風で、折からの少女マンガブームに乗って大ヒットした。少女マンガというものについて、筆者は余り読んだことがないのでたいそうなことは言えないのだが、愛する少年少女に焦点をあてるあまり、主人公たちが世界そのものの全体を占めるようになって、残余の部分がまったく見えなくなる、ということに特徴があるようだ。この映画もその特徴を共有していて、主人公の少年少女に焦点をあてるあまり、世界には二人のほかに誰も存在しないといったありさまを呈している。題名は「世界の中心で」とあるが、実質的には、「私たちしか存在しない世界で」といった雰囲気が伝わってくる。

美しい夏キリシマ:黒木和雄

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「美しい夏キリシマ」は、戦争映画のジャンルに分類される。戦争映画といっても、戦争そのものを描いているわけではなく、戦時下の庶民の生活を描いたものだ。その点では、山田洋次が21世紀に入って作った戦争批判映画や、降旗康男の「少年H」の魁となる作品だ。この映画は、2003年の公開で、戦後半世紀以上たっていたわけだが、その時間の経過が、戦争について相対的な視点を付与させている、という面が指摘できるのではないか。

GO:行定勲

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行定勲の映画「GO」は、在日コリアンをテーマにしたものである。この映画は21世紀の始めの年に上演されたのだが、世紀の変わり目が何らかの意味を持つと感じさせたものだ。20世紀の日本映画は、在日コリアンを正面から取り上げた作品を生み出さなかった(少なくともメジャーなものとしては)。ところがこの映画では、在日コリアンの生き方が正面から胸をはって描かれている。在日コリアンだって日本人と変らぬ人間なのだ、ということをこの映画は訴えているのだが、そういう映画を、日本人である行定勲が監督し、山崎勉や大竹しのぶら日本人の俳優が演じた。主演の男女カップルも日本人である。

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ウディ・アレンには、大都市の観光案内を思わせるような一連の作品がある。「僕のニューヨークライフ」とか、「それでも恋するバルセロナ」とか、「恋のロンドン協奏曲」といった作品がそれだ。「ミッドナイト・イン・パリ」もその系列に入る作品だが、この映画の場合には、同時代のパリの観光案内にとどまらず、パリの歴史も紹介してくれる。1920年代のパリ、そして1890年代のベル・エポックのパリが、ノスタルジックによみがえってくるという趣向になっているのだ。

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「それでも恋するバルセロナ(Vicky Cristina Barcelona)」は、二人の若いアメリカ女がスペインのバルセロナを舞台にして繰り広げる恋のアヴァンチュールを描いた映画だ。アメリカ女たちの名前は、タイトルにあるとおりヴィッキーとクリスティーナ。二人はバルセロナへ観光旅行に来ている。その二人の前に、画家を標榜するスペインの色男が現われ、いきなり三人で乱交セックスをやろうと誘われる。さすがにすれた女たちも、この申し出をどう受け取っていいのか戸惑うのだが、そのうち男の魅力に屈服し、一人の男を二人の女が共有するという事態に発展する。男女のやりとりに熟達したスペイン男と、尻軽なアメリカ女たちが繰り広げる行動は、恋のアドヴェンチャーというよりは、セックス賛歌といったほうがよいかもしれない。

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「マッチポイント」は、ウディ・アレンの作品としてはシリアス・タッチなものだ。プロットの基本部分はセオドア・ドライザーの「アメリカの悲劇」を下敷きにしている。ブルジョア社会での成功をつかんだ男が、それを失いたくないために、邪魔になった恋人を殺すというのが、ドライザーの小説の基本プロットだが、この映画も、貧乏な青年がブルジョワ社会での成功を失いたくないために、邪魔になった愛人を殺すのである。

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ウディ・アレンの作品「世界中がアイ・ラヴ・ユー(Everyone says I love you)」は、ミュージカル仕立てのラヴ・コメディである。完全なミュージカルではないが、随所に歌と踊りを取り混ぜて祝祭的な雰囲気を演出している。テーマは無論男女の愛だ。アメリカのミュージカルといえば、男女の愛をテーマにしないものはない。ウディ・アレンもその伝統に倣ったということだろう。

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「ハンナとその姉妹(Hannah and her sisters)」は、「アニー・ホール」とともにウディ・アレンの代表作といってよい。どちらも、ニューヨークを舞台にしてアメリカ人のシティ・ライフを描いている。「アニー・ホール」では、アニー・ホールという名の女性とウディ・アレンとの、セックスを中心とした都会人の男女関係のあり方が描かれてきたが、「ハンナ」では、ハンナとその二人の妹たちを囲んで、いくつかのパターンの男女関係が描かれる。人間の生きざま、すくなくともニューヨークに生きている成年男女の生きざまは、究極的には男女関係に集約されるというのが、この映画の基本的なコンセプトである。

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ウディ・アレンの映画「マンハッタン(Manhattan)」は、アレンなりのニューヨーク賛歌といったところか。ガーシュウィンの曲に合わせながらニューヨークを賛美する言葉で始まるこの映画は、ニューヨークはセクシーな女と手馴れた男の街であり、白黒が似合う街だと締めくくる。その言葉通り映画はわざわざモノクロームフィルムで作られ、世事に手馴れた男アレンとセクシーな女たちとの恋のやり取りを描いてゆく。筋書きはほとんどないに等しい。男女のさやあてがとめどもなく続いてゆくだけだ。その点では、フィリーニの「甘い生活」やアントニオーニの「愛の不毛三部作」と似た雰囲気を持っている。

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「アニー・ホール(Annie Hall)」は、ウディ・アレンにとって転機となった作品だ。それまでは専ら軽いタッチのコメディ映画を作っていたアレンが、この映画では喜劇的精神をベースにしながらも、シリアスなことを語るようになる。その語り振りが独特で、しかも時代の雰囲気にマッチしていたというので、アレンは一躍メジャーな映画作家として認められるようになった。

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ウディ・アレンの1973年の映画「スリーパー(Sleeper)」は、1973年に凍結保存された男が200年後に目覚めるという話だ。彼が目覚めた200年後のアメリカは、独裁者が支配する全体主義社会ということになっている。それがオーウェルの「1984」の世界を想起させる。オーウェルの小説の主人公たちは、その世界で窒息させられてしまうわけだが、アレンのこの映画の主人公は、全体主義社会に挑戦し、その支配者たちを粉砕するということになっている。そこがオーウェルの悲観論とは異なったところで、コメディに相応しい幕引きになっている。コメディはこうでなくちゃ、というわけであろう。

ウディ・アレンのバナナ(Bananas)

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「ウディ・アレンのバナナ(Bananas)」は、ウディ・アレンが監督・主演した二本目の映画で、いわゆるウディ・アレンさが見られる最初の本格的な作品だと言うことだ。ウディ・アレンらしさというのは、ギャク漫画を映画に転換させたような軽いタッチのコメディで、それを小男のアレンが真顔で演じることで比類ないユーモアを感じさせるということらしい。そういう「らしさ」を、この映画は十分感じさせてくれる。

阿修羅の如く:森田芳光

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森田芳光の映画「阿修羅の如く」は、1979年から翌年にかけてテレビで連続放送されたホームドラマを映画化したものである。原ドラマ自体がホームドラマとしてかなりゆるいところにきて、10年以上たっての映画化とあって、テーマの時代性も消え去ってしまい、今見ても無論、封切り当時の観客もいまひとつぴんとこなかったのではないか。

失楽園:森田芳光

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渡辺淳一の小説「失楽園」が単行本になったのは1997年のことだが、発売されるやいきなり大ヒットした。読者の大部分は所謂団塊の世代の男たちだった。彼らはこの小説の中で描かれた初老の男を自分自身に重ね合わせ、その男の生き方に、よくも悪くも激しく反応したのだと思う。そして、この男と同様不倫に耽っていた連中は、そこに自分自身の分身を見出してニンマリとしただろうし、不倫と縁のなかった連中は、俺もやってみたいと思ったに違いない。

それから:森田芳光

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森田芳光の1985年の映画「それから」は、漱石の同名の小説を映画化したものだ。この小説は日本の近代文学史上初めての大恋愛小説と言ってよい。恋愛小説に「大」の字がつくのは、そこに描かれた恋愛が、男女ふたりだけの出来事ではなく、彼らを取り巻く社会を背景にしての、というより社会全体を敵に回しての、激しい恋愛を描いているためだ。漱石がこの小説で描いた男女の愛とは、当時の社会にあっては許されない愛だった。夫を持つ女を、一人の男が略奪する、いまでいう不倫の愛である。当時の言葉で言えば姦通である。姦通はとりわけ女にとって危険な行為であった。その危険な行為を、女は男の愛にほだされてあえて犯し、男は女が不幸になるのを判っていながら誘惑する。そういう愛を漱石は、近松の時代以来の日本の文芸の伝統とは違った形で、つまり近代的な装いを持たせて描いたわけだ。姦通というテーマは古いものだが、それに近代的な意味合いでの恋愛という形をとらせることで、日本にも始めて本格的な恋愛小説が成立した、そう言えるのではないか。

家族ゲーム:森田芳光

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森田芳光の1983年の映画「家族ゲーム」は、変容しつつあった日本の家族関係をシニカルなタッチで描いたものだ。1983年といえば、日本は高度成長を達成して分厚い中間層が形成されていた。そうした中間層は、核家族として団地に住まい、子供の教育が最大の目標だった。教育熱心なあまり、親が子どもの反発をくらいバットで叩き殺されるという事件も起った。この映画の中でも、子どもにバットで殺されたくはないが、それでも子どもの教育に熱心にならざるを得ない親と、比較的素直で親の期待に応えようとする子どもが描かれている。

オペラは踊る:マルクス兄弟

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マルクス兄弟は、トーキー時代になって頭角を現わした。サイレント時代の喜劇映画は、身体演技からなっていて、せりふが字幕で示される場合にも、言葉はあくまでも二義的だった。ところがトーキー時代になると、喜劇といえどもせりふをしゃべらねばならない。サイレント映画の人気者だったバスター・キートンやハロルド・ロイドはせりふをしゃべるのが苦手だったが、マルクス兄弟はせりふをしゃべるのがうまかった。そこで彼らがトーキー時代の喜劇のチャンピオンに躍り出たわけである。

ロイドの人気者(The Freshman)

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1925年の喜劇映画「ロイドの人気者(The Freshman)」は、原題にあるように、大学の新入生をめぐる話だ。アメリカの大学には、新入生を歓迎する様々な仕掛けがあり、毎年その仕掛けを駆使して新入生を大学に迎える。そのことを通じて、新入生が大学のカラーに馴染み、一人前の学生になるよう指導するわけである。

猛進ロイド(Girl Shy)

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猛進ロイド(Girl Shy)は、理屈無しに笑える映画、それも腹を抱えて笑える映画である。とにかく全編これ笑いの渦にあふれている。喜劇映画でもこんなに笑いに富んだ映画もめったに無い。その笑いは、サイレント映画であるから、基本的には身体の動きから生まれてくる。その身体の動きがサーカスのように正常と異常の境界を極度に逸脱しているので、それを見せられているものは、自分自身の関節がはずされるような感じになる。

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