映画を語る

さらば、わが愛/覇王別姫:陳凱歌

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「さらば、わが愛/覇王別姫」は、京劇の世界という、中国人にとっても特殊な世界を描いていると思うのだが、我々日本人から見ると、これも中国人の中国人らしい面をよく表現しているように映る。日本でいえば、歌舞伎役者とか伝統芸人の世界を描いているようなものだ。一般人の社会とはおのずから異なってはいるが、それでも日本人的な心情が集約してあらわれている、だからこれも日本文化の一つの側面を表現しているように見える。それと同じようなものだ。

陽炎座:鈴木清順

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「陽炎座」は、「ツィゴイネルワイゼン」同様怪談仕立ての映画である。薄気味悪さという点では「ツィゴイネルワイゼン」以上と言えよう。というのも、この映画では生きている女が幽霊のような真似をし、死んだはずの女が生きているように振る舞うからだ。この二人の女に、松田優作演じるところの新派作家が翻弄される、という筋書きである。

ツィゴイネルワイゼン:鈴木清順

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1968年に日活をクビになった鈴木清順は、その後長い間浪人生活を強いられ、映画作りもままならない時期が続いたが、1980年に「ツィゴイネルワイゼン」で劇的な復活をとげた。この映画で一躍世界的な名監督の仲間入りを果たしたのである。

殺しの烙印:鈴木清順

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鈴木清順の1967年の映画「殺しの烙印」は、鈴木が日活をクビになった原因となったものだ。60年代の日活といえば、アクション路線で稼いでいたわけで、鈴木のこの作品はある意味究極的なアクション映画なのだが、だから日活路線に沿った作品のはずなのだが、何故か日活の社長を激怒させ、鈴木は一方的に解雇されたのだった。鈴木を応援するものは、一部の熱狂的鈴木ファンをはじめ多くいたようだが、彼らの応援は実を結ばず、以後鈴木は十年間にわたり、本格的な映画作りからはずれることになった。

けんかえれじい:鈴木清順

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「けんかえれじい」は、旧制中学校を舞台にしたバンカラ青春劇である。旧制中学校は、漱石の「坊ちゃん」で描かれたようなバンカラで喧嘩っぽい雰囲気があるというイメージが形成されていたらしく、この映画はそうしたイメージに乗じて、思春期の若者の生態を大らかに賛美したものである。

東京流れ者:鈴木清順

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鈴木清順は1960年代に活躍した映画作家で、その破天荒と言われる映像は多くの熱狂的なファンを集め、いまでも日本の映画史を飾る名監督と言われている。そんなわけで、映画を論じようとする者には、必見の作家だと言えよう。筆者もそんな問題関心から彼の映画に接した次第だ。

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サム・ペキンパーは、「ゲッタウェイ」ではひたすら逃げ回る男を描いた。「ガルシアの首(Bring me the head of Alfred Garcia)」は逆に、ひたすら追い求める男を描く。方向は逆向きではあるが、あることをひたすら追求する点では共通している。ペキンパーは、人間が何ごとかに夢中になっている姿に、魅せられているように見える。

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「ゲッタウェイ(The Getaway)」は、アクション映画の巨匠サム・ペキンパーの代表作だ。アクション・スターとして一世を風靡したスティーヴ・マックィーンをフィーチャーして、思う存分暴れさせている。とにかくすごい。また面白い。一見して気分爽快になることは太鼓判を押せる。

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サム・ペキンパーは、最後の西部劇の大家である。60年代にはテレビの西部劇ドラマで人気を博した。「ガンスモーク」とか「ライフルマン」といった番組は日本にも輸入され、筆者も熱心なファンの一人だったものだ。彼の作風は、なんといっても暴力を荒々しく描くことだ。世の中(とくに開拓時代のアメリカ西部)には、いわゆる正義などといったものは存在しない。存在するのは力だけだ。その力のぶつかりあいが人間社会の本質なのであって、力の強いものが、正義を僭称する。そういうニヒリスティックな視点が、彼のあらゆる作品を貫いているといってよい。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1970年の映画「砂丘(Zabriskie Point)」は、ハリウッドで作られた。主な舞台はカリフォルニアの砂漠であり、テーマは1960年代のアメリカ文化に対する複雑な反応であるといえる。というのもこの映画には、当時のアメリカ社会への意義申し立て、それは一言でいえば反体制とヒッピー文化といってもよいが、それを描きながらも、別段それに同情的であるわけでもなく、そういうアンチ文化を体現している主人公たちは、亡びるべき存在として描かれているからだ。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1967年の映画「欲望(Blow Up)」は、いわゆる愛の不毛三部作に続いて作られた。愛の不毛三部作でアントニオーニが描いたのは、男女の不条理な関係についてだったが、この「欲望」からは、およそ人間が生きていることの不条理のようなものを描きたい、というアントニオーニの意思が伝わってくる。意思が伝わってくる、というのは、かならずしもそれが理解可能ということを意味しないということだ。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1957年の映画「さすらい」は、女に捨てられた男の悲哀を描いた作品だ。これをアントニオーニは自分自身の経験をもとに作ったという。彼は最初の妻からいきなり別れを告げられ、気が動転したそうだが、その折の自分の気持をこの映画で表わしたというのだ。この映画が独特の切迫感と哀愁を以てせまってくるのは、そうした生きられた体験のもたらすところらしい。

曽根崎心中:増村保造

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「曽根崎心中」は、日本の演芸史にとって画期的な作品だけあって、我々今日の日本人の眼にも実に新鮮に映る。題材が男女の命をかけた恋であることが、時代を超えた普遍性のようなものを感じさせるからだろう。演劇という点では、様式的にも構成上も稚拙なところはあるが、それを補って余りある迫力がある。その迫力とは、恋に命をかける男女の情熱に由来するのであって、それは先程もいったように、時代を超えて見るものに訴えかける。

痴人の愛:増村保造

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「痴人の愛」は、谷崎の実体験を踏まえた小説だ。実体験を盛り込むに当たっては、当然自分自身の面子が意識に上るだろうから、いくらエロ・グロなテーマを扱っていても、そこには自分の尊厳へのこだわりがいくらか働くものだ。この小説の場合には、谷崎の分身たる主人公が、女に溺れてしまったのは、女の尊い美しさと、それについての男の美意識が相乗的に働いた結果であって、なにも下世話な意図がもたらしたものではない、というようなメッセージが、谷崎一流のレトリックで発せられているわけだ。だから読者は、そのメッセージを受け損なうと、この小説を正しく受容することはできない。そのように少なくとも谷崎本人は思っていたに違いない。

刺青:増村保造

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増村保造の映画「刺青」は、谷崎のあの小説が原作だという触れ込みなので、そのつもりで見たら、全く違った代物だった。筋書きも雰囲気も全く似ていない。共通点があるとすれば、それはただひとつ、女の背中に彫られた刺青の図柄が蜘蛛だったということだ。谷崎の小説では、この刺青を彫られた娘が、少女から女へと変ったというふうな落ちになっているが、この映画の場合は、普通の女が悪女に化けたというわけだ。そういうわけで、刺青は筋書きを進めるための添え物で、本筋は悪女の悪女振りを描くところにある。その悪女を、これは悪女役をやらせたら型にはまる若尾文子が演じている。この映画はどうも、若尾文子のために作られたようなものだ。若尾はこの映画を通じて、永遠の悪女スターという名声を後世に残すこととなった。

兵隊やくざ:増村保造

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増村保造の1965年の映画「兵隊やくざ」は、日本軍の兵営生活を描いたものである。日本軍の兵営生活は、内務班といわれる単位を中心に営まれていたが、そのありさまは、野間宏が「真空地帯」で描いたように、身分意識と私刑が支配する陰惨な面を多分にもっていた。この映画は、そうした陰惨な面を、ブラック・ユーモアを駆使して、面白おかしく描き出したものだ。この手の映画は他にも沢山作られたが、出来のよさという点でも、評判の面でも、もっとも成功したものといえる。

卍:増村保造

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谷崎潤一郎の小説「卍」を筆者は、日本文学に聳える最高峰の一つだと思っているし、世界文学の舞台で日本文学を代表して渡り合えるものとしては、この作品が最も相応しいとまで考えている。それほど「卍」という小説は、日本的でかつ普遍的な文学性を帯びている。ということは、文学作品だからこそ、そのような優越性を主張できるわけで、これを映画化すると、その魅力のほとんどが失われてしまう、ということだ。だからこの小説の十全な映画化はありえないだろう。精々、原作のもつ雰囲気をなにがしかほど表現できるか、その程度が問題になるくらいだろう。

好色一代男:増村保造

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増村保造は溝口健二の助監督として出発したが、溝口を強く批判して、その作風を嫌悪した。理由はいまひとつすっきりしないが、溝口が因習的な人間像を感傷的に描いたということらしい。だがその増村自身も、好んで日本の因習的な世界を描いた。もっともその描き方には、溝口とは違ったところがあった。溝口が女や弱い者の視点から描き続けたのに対して、増村は男の視点から描いた。また溝口には社会に対する批判的な意識があったが、増村にはそういう要素はほとんどない。彼にとって映画とは、理屈を盛りこむ容器ではなく、人を楽しませるものだった。要するに面白ければそれでよいのである。

独立愚連隊西へ:岡本喜八

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「独立愚連隊西へ」は、前作「独立愚連隊」の成功に気をよくした岡本喜八が、その続編という触れ込みで作った作品だが、内容的なつながりはない。独立愚連隊というアイデアを引き継いだというだけである。独立愚連隊という言葉は、正規の軍隊用語ではなく、この映画のために作られたものだが、字面から推測できるように、正規の軍隊秩序からはみ出した余計者の部隊というニュアンスが込められている。こんな部隊が実在していたわけではない。

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ゴダールの1960年の映画「小さな兵隊(Le petit soldat)」は、アルジェリアの対仏独立戦争をテーマにしたものだ。この映画が作られたのはまだ独立戦争のさなかのことであったし、また、戦争の当事者が実名で登場することもあって、別にフランス政府を批判したわけでもなかったのだが、公開に待ったがかかった。公開されたのは、停戦後の1963年のことだ。

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