映画を語る

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2001年のアメリカ映画「アイ・アム・サム(I am Sam ジェシー・ネルソン監督)」は、精神薄弱者の子供に対する養育権をテーマにした作品。アメリカは、児童の権利を守るとして、子供の養育能力に欠けるとみなされるものから、子供を引きはがす文化が普及しているらしく、この映画はそうしたアメリカの文化に一定の批判を加えたもののようである。だが、何が言いたいのかよくわからぬ不徹底さがある。子供の立場に立っているのか、精神薄弱者の親にも言い分があるといいたいのか、どうもよくわからぬのである。

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1999年のアメリカ映画「ディープ・ブルー(Deep Blue Sea レニー・ハーリン監督)」は、人工的に知能を高度化されたサメが、その高度な知能を駆使して、人間に逆襲するというような内容の作品である。とりあえずは頭のよいサメが人間を弄ぶということになっているが、このサメをAIと読み替えると、今問題になっているAIの脅威につながるものがある。AI技術の発展はすさまじく、いまやAIは人間のコントロールを超えて自己発展し、もしかしたら人間にとって深刻な脅威になるかもしれない、だからAIの技術を、人間のコントロール下に置かねばならないという議論まで起きている。この映画は、そうした議論を先取りするものと受けとることができる。もっとも、制作者に当時そんな問題意識があったようには思えず、ただ単にSFホラー映画の材料として思いついたのであろうが。それにしても、この映画は奇妙な現実感をもって、われわれ人間に反省を迫るのである。

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2020年のルーマニア映画「アカーサ僕たちの家」は、ブカレストに生きるロマ人一家を描いたドキュメンタリー映画。ドキュメンタリーとはいっても、多少ドラマチックな要素も盛り込んである。そのためかなりな迫力を感じさせる。その迫力は、ルーマニアに暮らすロマ人への差別意識に発するのだと思う。この映画の中のロマ人一家は、文明の名のもとで、ロマ人として生きるに必要な尊厳をはく奪され、ルーマニア人社会への適応を強要されるのである。

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2019年のルーマニア映画「コレクティブ 国家の嘘」は、ルーマニアの医療システムの腐敗を追求するドキュメンタリー映画である。ユーマニアの医療について、小生はほとんど知るところがないが、このドキュメンタリー映画を見る限りかなりひどいという印象を受ける。医療システムが、少数の特権的な連中によって食いものにされ、国民の安全を犠牲にして一部の人間のふところを潤すという構造になっているらしい。

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2016年のルーマニア映画「エリザのために(クリスティアン・ムンジウ監督)」は、娘のために必死になる父親をテーマにした作品。それに現代ルーマニア社会への批判を絡ませてある。ルーマニアには個人が人生をかけるような意味がない、そう考えた父親が娘に明るい未来を託す。ところが娘には思いがけない試練が待っていて、未来へと順調にはばたけないかもしれない。そんな事態に直面した父親が、自分のすべてをかけて娘のために必死になる。そんな父親の姿を、映画は淡々と写しだすのである。

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2007年のルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督)は、女子大生の堕胎をテーマにした作品。ルーマニアでは堕胎は違法になっており、望まぬ妊娠をした女性は、出産するかあるいは違法な堕胎処置をするか、どちらかを選ばねばならない。国内で正式な医療処置を受けられる可能性はないので、闇の堕胎師しに頼ることになる。闇の堕胎師にはいかがわしい人間もいる。この映画は、そうしたいかがわしい堕胎師にめぐりあったために、ひどい心の傷を負う羽目になった女子大生たちを描く。

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クリスティアン・ムンジウによる2012年のルーマニア映画「汚れなき祈り」は、女子修道院での生活ぶりを描いた作品。時代背景は明示されていないが、現代のルーマニア社会を描いていることはわかる。その現代のルーマニアで、きわめて因習的な制度である修道院が、昔ながらの姿で保守されており、理屈よりも信仰がすべてを律するといった事態がいまだにまかり通っていることに、この映画は批判的な目を向けているというふうに伝わってくる作品である。

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2006年の中国映画「天安門、恋人たち(颐和园 婁燁監督」は、中国人女子大生の奔放な性遍歴を描いた作品。邦題に「天安門」とあり、また時代背景が1989年前後に設定されているので、例の天安門事件をテーマにしているかと思ったら、そうではなく、中国の大学生たちの糜爛した性関係を描いている。原題の「颐和园」は、そうした性関係の舞台の一つなのである。「颐和园」には小生も、観光ツアーで訪れたことがあるが、北京西北部にある巨大な庭園である。

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張楊(チャン・ヤン)の2005年の中国映画「胡同のひまわり」は、前作「こころの湯」に続き、中国人の家族関係をテーマにした作品。それに1876年以後の中国現代史を絡めてある。とはいっても、毛沢東の死や唐山大地震は触れられているが、1989年の天安門事件は、慎重に避けられている。そのかわりに、深圳に象徴される現代化の流には触れている。

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張楊(チャン・ヤン)監督の1999年の中国映画「こころの湯(洗澡)」は、北京の下町にある銭湯を舞台にした人情ドラマである。その銭湯は、知的障害の子ども(次男)を持つ父親が経営している。そこに長男が戻ってくる。長男は、弟の寄越したはがきが、父の危篤を知らせていると思ってもどってきたのだが、父親は元気だった。そこで帰ろうと思って航空券の手配等などしているうちに、なんとなく帰りそびれ、だらだらと居続ける。その間に、銭湯には周囲の顔なじみがやってきて、それぞれ自分の人生を引きずったようなやりとりをする。そのうち、父親は湯船の中で死んでしまう。知的障害を持った弟は自分一人では生きてはいけない。そこで、兄は弟の面倒を自分がみようと決意する。というような内容で、親子や兄弟の家族愛を中心にして、北京の下町で生きる庶民の人生模様を追いかけるというわけである。

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是枝裕和の2022年の映画「ベイビー・ブローカー」は、是枝が韓国に招かれて作った作品であり、俳優はすべて韓国人、言語も韓国語。要するに日本人の監督を使った韓国映画である。欧米では、映画監督が自国以外の映画の制作に携わるのはめずらしいことではないが、日本ではごく最近の現象だ。是枝はこの前にも、フランスに招かれて、フランス映画を作っているから、国際派の映画監督のチャンピオンのようなものだ。

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東京2020オリンピックSIDE:Bは、河瀬直美監督の東京五輪公式記録映画のうち、国際オリンピック協会及び日本の大会組織委員会など、五輪運営の当事者や大会関係者たちの活動を取材した作品。SIDE:Aがアスリートに焦点を当てた表向きの記録なのにたいして、これは裏の記録である。表の記録がかならずしも観客の喝さいを浴びたとは言えない一方で、こちらも芳しい評判は得られなかった。

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東京2020オリンピックの公式記録映画は、河瀬直美が監督し、SIDE:A及びSIDE:Bとして別々に公開された。SIDE:Aは2021年6月3日から公開、Bの方はその三週間後に公開されたが、どちらも営業成績は惨憺たるものだった。映画の内容が面白くなく、そのうえ、オリンピック自体が高い関心を集めたとはいえなかったので、国民の反応が鈍くなるのは覚悟されていたものの、その覚悟以上にひどい受け止め方をされた。色々な要因があると思う。オリンピックについての国民世論が盛り上がらなかったことが最大の理由だと思うが、映画自体にも問題を指摘できるのではないか。アスリートの活躍を描くはずだったSIDE:Aは、国民の人気が最低だった森大会組織会長を前面に出して、あたかも森会長を賛美することを目的に、この映画を作ったというふうに受け取られたこともあり、世間の反応はいきおい、冷笑的になったのではないか。どんな映画でも、公開後に観衆の共感を呼べば、おのずから評判になるものだ。ところがこの映画は、ほとんど評判になることがなかった。

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2014年のハンガリー映画「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲」は、人間に虐待された犬が、虐待した人間に復讐するという内容の作品。人間がほかの人間に復讐するという話は珍しくはないが、動物が人間に復讐する話は非常にめずらしい。虐待されて反射的に攻撃するということはあるかもしれないが、計画的に復讐するというのは、知能を前提としているので、動物に知能など認めたがらない人間にとっては、この映画は受け入れられないほどスキャンダラスに思えるだろう。

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2011年のハンガリー映画「ニーチェの馬 タル・ベーラ監督)は、世界の終末をテーマとした黙示録的な作品。ハンガリーの寒村で二人でわびしく暮していた父と娘が、世界の終末に直面し、ついには自らも亡びていく過程を描いた非常にショッキングな映画である。これまでディストピア化した世界を描いた作品は多く作られたが、世界の終末をテーマとしたまじめな映画は、イングマル・ベルイマンの「第七の封印」とこの作品の二つだけではないか。

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2020年のギリシャ映画「テーラー人生の仕立て屋」は、ギリシャの不況に翻弄される洋服仕立て屋の物語である。ギリシャ経済は、慢性的な不況におびやかされてきたと言われるが、とくに2010年代に深刻化し、国家は財政破綻し、失業率は25パーセント以上に達した。ギリシャ経済は、EUに組み込まれているので、EUからは財政赤字の解消を求められた。それはさらなる失業の増大に結びつくのだが、ドイツなど豊かな国は、ギリシャ人の失業問題などお構いなしだ。もっとも神の配慮もあって、ギリシャ経済はどうやらもっているようであるが、この映画は、深刻な不況に翻弄される庶民の姿を描いている。

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2009年のギリシャ映画「籠の中の乙女(Κυνόδοντας ヨルゴス・ランティモス監督)」は、ディストピア風の不条理劇である。ディストピアは、国家社会単位の現象であるが、この映画の中では、家族がある種のディストピアとなっている。父親だけが外界との接点を持っており、妻と三人の子供たち(娘二人と息子一人)は屋敷の中に閉じ込められた状態で、外界のことは何も知らない。子供たちは年頃なので、性欲を感じる。そこで父親は女をやとって、息子の性欲を満足させてやるが、娘のほうは放置したまま。娘たちは互いをなめあったりして性欲を発散するのだ。

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2003年のギリシャ映画「タッチ・オブ・スパイス(Πολίτικη Κουζίνα タンス・プルメティス監督)」は、ギリシャ現代史の一齣を描いた作品。ギリシャ現代史については、テオ・アンゲロプロスが壮大な視点から俯瞰的に描いた映画があるが、これは、ギリシャとトルコの対立に焦点を当てたものだ。ギリシャとトルコは長らくキプロス島をめぐって対立してきた歴史があり、1955年と1964年には大規模な軍事衝突に発展した。一方、トルコの大都市コンスタンティノポリスには大勢のギリシャ人が暮らしており、そのギリシャ人がトルコによる迫害の対象になったりした。この映画は、迫害されてトルコを追われたギリシャ人家族の物語なのである。

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ギリシャ映画を代表する作品「日曜日はダメよ」は、1960年に公開され、日本では翌年封切られたが、映画そのものよりは、主題歌のほうが有名になった。映画のほうは、アテネの外港ピレエスを舞台に、メリナ・メルクーリ演じる陽気な娼婦とアメリカから来た男の奇妙な恋を描いたものだ。そのアメリカ男を監督のジュールス・ダッシンが演じていた。その男は、娼婦をまともな人間に更正させようとしてさまざまな努力をするのだが、娼婦のほうはかれを捨ててマッチョなイタリア男になびくと言った内容だ。

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1981年の映画「砂漠のライオン(Lion of the Desert)」は、ムッソリーニのリビア侵略をテーマにした作品。ムッソリーニが対トルコ戦争の一環として、トルコが支配していた北アフリカに植民地を獲得しようとする。それに現地のイスラム勢力が抵抗する。ムッソリーニは、それを無慈悲に粉砕して、イタリアの覇権を確立しようとする。しかしムッソリーニの野心には大義がなく、イスラム側の抵抗にこそ大義がある、というようなメッセージが伝わってくる作品である。

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