映画を語る

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シェイクスピアは、巨大な名声のわりに実生活に不明な部分が多いので、とかく作家たちの想像力を刺激してきた。映画作家の場合もその例外ではなく、シェイクスピアの「実生活」に題材をとった作品が多く作られてきた。1995年の映画「恋におちたシェイクスピア」は、そうしたシェイクスピア物の中でも、最も優れた部類に入る。

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ジョナサン・デミの1991年の映画「羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」は、シリアル・キラー(連続殺人犯)をテーマにした作品である。こういう映画は事柄上サイケデリックになりやすい傾向がある。このジャンルの映画の代表作と言われるヒッチコックの「サイコ」は、連続殺人よりも犯人の異常な人間性のほうに焦点が当てられていたし、今村昌平の「復讐するは我にあり」も、殺人の動機がはっきりしていないと言う点で、非常な不気味さを感じさせる。動機と言えば、人を殺すことそのものが快感だからというほかはない、というのはかなりエクセントリックなことだ。

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1982年のアメリカ映画「ランボー(First Blood)」は、ベトナム帰還兵の不幸を通じてベトナム戦争で蒙ったアメリカの傷を描いたなどと評されているが、筆者などにはそれ以上に、アメリカ警察の暴力的体質を描いたものだという印象が強い。この映画は、警察官がベトナム帰還兵である主人公を、流れ者だと言う理由で排除しようとしたあげく、手ごわい抵抗にあうと見るや、警察の総力を挙げて相手を抹殺しようとするところを描いている。その過程で見せる彼等のやり方は、暴力団と全く変わらない。変わっているのは彼等が権力を持っているということだけだ。こういう映画を見せられると、アメリカの警察と言うのは、基本的には、権力を持った暴力団に他ならないという印象を強く持たされる。

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「クレーマー、クレーマー(Kramer vs. Kramer)」は、離婚大国アメリカでの、子供の親権をめぐる争いをテーマにした映画である。世界的な反響を呼び、日本でも評判になった。というのも、この映画が公開された1979年当時は、日本でもようやく離婚が小さからぬ社会問題となってきていたからである。アメリカ人ほどではないが、日本人のなかでも離婚を経験するものが増えてきていた。離婚した夫婦に子供がいれば、当然親権をめぐる問題が生じてくるわけで、この映画を見た当時の日本人も、今すぐと言うわけではないが、いつか経験することになるかもしれない、離婚とそれに伴う子供の親権の問題について、この映画を通じて考えさせられるところがあったに違いない。

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ハンフリー・ボガート( Humphrey Bogart )とイングリッド・バーグマン( Ingrid Bergman )が競演した映画「カサブランカ( Casablanca )」は、映画史上最高のラブ・ロマンスとの評価が高い。単にラブ・ロマンスの傑作と言うにとどまらず、オーソン・ウェルズの社会派映画「市民ケーン」、アルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画「めまい」と並んで、映画史上の三大傑作とも言われる。

終の信託:周防正行

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周防正行の映画「終の信託」は、いわゆる尊厳死あるいは安楽死をテーマにした作品である。原作となった朔立木の同名の小説は、2002年に問題化した川崎共同病院事件を取り上げている。この事件は、重症の喘息患者から安楽死を懇願された医師が患者の意向に従って安楽死させたところ、殺人罪に問われたというものである。裁判の結果医師の有罪が確定したが(2009年12月)、何を以て尊厳死あるいは安楽死となし、何を以て殺人となすべきなのか、その境界についての社会的な合意が深まったとは、必ずしも言えなかった。周防は、そういう状況を踏まえ、尊厳死あるいは安楽死についての社会的な議論を深めたいと言う気持を込めてこの映画を作ったようである。

それでもボクはやってない:周防正行

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周防正行の映画「それでもボクはやってない」は、冤罪をテーマにした作品である。「シコふんじゃった」と「Shall we ダンス?」でエンターテイメント系の映画作家として人気のあった周防が、一転して日本の司法システムの人権軽視体質を批判した社会派の作品を作ったわけだが、テーマが重い割には、人々の関心を引き、映画はヒットした。恐らく周防と同じような問題意識を持つ人々が多かったと言うことだろう。冤罪の中でも痴漢をめぐるものは、男なら誰でも巻き込まれる恐れがあるわけで、その恐怖心の表れというか、一時、電車に乗るときには両手を上に持ち上げて乗ろうというジョークめいた合言葉が流行ったくらいだった。

Shall we ダンス?:周防正行

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周防正行の映画「Shall we ダンス?」は、前作の「シコふんじゃった」との間で色々な共通点がある。まず、相撲と社交ダンスという違いはあるが両者とも競技をテーマにしていること。しかもその競技を通じて登場人物たちが友情で結ばれていくと共に人間的にも成長していく過程を描いていること。また、両者とも競技についての観客の認識を改める効果を発揮していること。そのため「シコふんじゃった」は相撲人気を高める効果をもたらしたし、「Shall we ダンス?」はそうした効果を超えてダンスブームのようなものまでもたらした。かく言う筆者も、この映画に触発されて社交ダンスを始めようと思った一人だ。

シコふんじゃった:周防正行

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周防正行の映画「シコふんじゃった」は、いわゆるスポーツ根性ものの傑作である。このジャンルの作品は、テレビドラマを含めると、それこそ星の数ほど作られた。日本人の好みにあっているのだろう。この作品は、スポーツの中でも相撲という、伝統はあるがどちらかと言うとマイナーな競技にスポットライトをあててストーリーを組み立てたのが新鮮に映った。若くてイケメンな男子たちが、余り格好の良くない競技のために、青春を燃やし尽くして踏ん張る姿、それがユーモアとアイロニーを生みだし、何とも言えない雰囲気を醸し出す、そう言う感じの作品である。

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チャップリンの映画「ライムライト(Limelight)」は、ミュージカル・コメディともいうべき作品だ。パントマイムを身上とするチャップリンは、映画に台詞を挟むことは無用だと考え続けていたようだが、音楽の効用は認めていた。「黄金狂時代」を初めとして、多くのトーキー作品を再編集した際、音楽を活用することで、映画に新たな命を吹き込んだのは、そのしるしだ。しかも、彼自身に音楽の才能があったので、音楽のプロデュースを自らこなした。「ライムライト」は、チャップリンのこうした音楽への嗜好が反映された作品である。彼はこの映画を通じて、自分なりのミュージカルを作りたかったのだろう。

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チャップリンの映画「殺人狂時代(Monsieur Verdoux)」は、いわゆるチャップリンらしさを大きくはみ出した作品だ。それまでのチャップリン映画の基本的な要素である、あの放浪者のイメージに代わって、いささか滑稽さは伴っているとはいえ、シリアスな人物が主人公だし、その行動は、善良だが常識を逸脱した、いわば愛すべき行動ではなく、憎むべき犯罪だ。というのもこの映画の中でチャップリンが演じたのは、女たらしの結婚詐欺師であり、金のために次々と女を騙しては、都合が悪くなると殺してしまうという、身の毛もよだつような殺人者なのである。主人公自らが自分の死後に回想して言っているように、彼は20世紀の青髭なのだ。

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チャップリンの映画「独裁者(The Great Dictator)」は、ヒトラーの独裁専制を痛烈に批判したものとして、映画史上特筆すべき作品である。チャップリンがこの映画を公開した1940年は、第二次世界大戦が勃発してまもなくのことだったが、アメリカはまだ参戦しておらず、ドイツに対するアメリカの世論には複雑なものがあった。そういう状況の中でチャップリンは、ヒトラーの専制政治が民主主義に対する脅威であるばかりか、ユダヤ人への迫害を通じて人間性そのものをも蹂躙していると訴えた。チャップリンの映画の大きな要素であった政治的な視点が、この映画では最大限に発揮されているといえよう。

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チャップリンの映画「モダン・タイムズ(Modern Times)」は、20世紀の機械文明を批判した作品として映画史上屈指の名作に数えられる。人間の文明とは人間の生活を豊かにするはずのものなのに、20世紀の機械文明は、人間が機械を使うのではなく、人間が機械に使われると言う皮肉な現象を生むことによって、かえって人間の生活を惨めなものにしつつある。そんなメッセージがこの映画には含まれている。

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「街の灯( City Lights )」は、チャーリー・チャップリンのコメディ・ロマンスの傑作である。チャップリンの映画には、放浪者の淡い恋をテーマにした一連の系列があるが、この映画はその代表として、チャップリン自身の代表作であるにとどまらず、映画史上でも傑作との評価が高い。「コメディ・ロマンス」という言葉は、チャップリンがこの映画のために考案したものだが、同じ系列のほかの作品にも当てはまる。また、この映画には「パントマイム劇」という表現も用いられているが、チャップリンの表情豊かな動作は、まさにパントマイムの伝統を引くものだといえる。

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「サーカス(The Circus)」は、チャップリンにとっては三作目の長編作品だが、作り方は短編映画をつなぎ合わせたような性格が強い。ストーリー重視ではなく、チャップリン一流のドタバタシーンのつなぎ合わせたといった形だ。そのドタバタシーンの精神は、一言で表すと、意図と行動との食い違いと言うことにある。したいと思うことと実際にやってしまうこととが一致しないばかりか、まったく意図しなかったことをやりのけてしまうと言う具合で、これはベルグソンの言う笑いの本質をよくわかった上での演出だと言えよう。

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チャップリンの映画「黄金狂代( The gold rush )」は、いわゆるチャップリン喜劇の集大成といえる作品だ。小男が大男を相手にして、頓知や機転そしていささかの偶然に助けられて大立ち回りを演じる傍ら、可愛い女性に淡い恋心を抱く、その過程でさまざまな奇想天外な出来事が起こり、観客はつねに笑いの発作に巻き込まれる、喜劇としては理想的な出来栄えになっている。

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キッド( The Kid )は、チャップリン( Charlie Chaplin )の最初の長編映画である。長編と言っても、一時間ちょっとの長さだが、一応ストーリーはしっかりしているし、テーマも明確だ。母親に捨てられた少年が、貧しい男に拾われ、スラム街の一角で逞しく成長していく物語なのだが、その少年の姿というのがチャップリンの幼い頃の姿と重なりあうと同時に、少年を育てる気の優しい男もまた、チャップリンの分身と言うべきメンタリティを持っている。色々な面で、チャップリンが自分自身を語った映画と言える。

ミンボーの女:伊丹十三

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伊丹十三の映画「ミンボーの女」は、日頃やくざのゆすり・たかりに悩んでいたホテルのスタッフが、勇敢な女弁護士や警察の協力を仰ぎながら、敢然としてやくざたちに立ち向かい、ついには撃退するという内容である。言ってみれば、やくざ撃退についてのハウツーものである。「お葬式」や「タンポポ」といった映画でハウツーものを手がけてきた伊丹としては、その延長線上にあるものだ。ところが、扱ったテーマがやくざということもあって、この映画のために伊丹はやくざとの間で軋轢を生じ、顔を切りつけられて大怪我をしたり、上映を妨害されたりもした。彼の死はいまだに謎の部分が多いと言われるが、その謎にはやくざの陰もさしている。つまり伊丹は、命がけでこの映画を作ったということだ。

あげまん:伊丹十三

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伊丹十三の1990年公開映画「あげまん」は、「あげまん」という言葉がその年の流行語になったくらい評判になった。1990年といえば、バブルの絶頂期、日本経済が永久に右肩上がりで栄えていくだろうことを誰もが疑っていなかった。「あげまん」という言葉は、そんな時相にぴったりフィットしたわけだ。

マルサの女:伊丹十三

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伊丹十三の映画「マルサの女」は国税査察官の活躍を描いた作品である。国税査察官とは脱税を告発する役人のことだ。脱税は国民としてよくないことだから、それを告発するのは正義の行為ということになるが、正義とはそんなにたやすく守られるわけではない。というより、戦いとるものだ。戦いとることで正義は初めて実現する。それ故国税査察官とは、正義の戦士なのだ、というメッセージの片割れのようなものがこの映画からは伝わってくる。片割れと言うのはほかでもない、脱税の告発とは正義一点張りではすすまない。時にはダーティな部分も飲み込まねばならない。だからこの映画が発するメッセージは、半分は正義だが残りの半分は正義とはかかわりがない。そのかかわりのない部分は人間的な要素にあふれた部分と言うことになる。その部分こそがこの映画を面白くしているというわけだ。

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