映画を語る

伊豆の踊子:五所平之助

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川端康成の短編小説「伊豆の踊子」は、手ごろな青春物語ということもあって、何度も映画化されてきた。五所平之助が1933年に作った映画は、その走りとなったものである。五所は、映画評論家の佐藤忠男によれば、若い男女の恋を描いた所謂青春ものを得意としていたようだから、川端のこの小説は、自分の趣味にあったのだろう。といっても、彼はこの小説の内容をそのまま忠実に映画化したわけではない。一高生が伊豆で見かけた旅芸人の一座の若い女にひかれたという枠組を借りただけのことで、筋書に共通するところはほとんどなく、全く別物といってもよい。

安城家の舞踏会:吉村公三郎

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吉村公三郎は、ハイカラな感じのする、いわば洋風のメロドラマを作り続けた作家だったが、戦後の映画作りの実質的なスタートを飾った「安城家の舞踏会」もやはりハイカラなメロドラマといってよかった。吉村の映画には、社会的な関心を感じさせるものはほとんどないのだが、この作品は例外で、やはり時代の雰囲気を色濃く感じさせる。作られたのが戦後まもない1947年だから無理もない。この戦後の混乱のただなかで、吉村が描いたのは、旧華族階級に属する一家の没落だ。吉村は、日本の上流階級を描くのが好きだったので、その対象となった階級が戦争で没落したとあっては、それに対する吉村なりの感慨を、作品のなかに持ち込まずにはいられなかったということだろう。

暖流:吉村公三郎のメロドラマ

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吉村公三郎はもっぱらメロドラマを作り続けた。メロドラマと言えば一段低く見られがちで、大衆受けをねらった通俗作品だと言われることが多い。そんなこともあって、メロドラマの作り手であった吉村公三郎は、あまり高く評価されていない。しかし、それは今の時点でのメロドラマについての評価を、過去に遡って適用した結果で、あまりフェアなことだとはいえない。少なくとも吉村が作った作品は、メロドラマだとはいえ、それまでの日本の映画にはなかったタイプの作品だったわけで、そういう意味では、多少の歴史的な意義を認めてやらねばならぬと思う。

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マキノ雅弘は、日本映画の父ともいわれる牧野省三の長男として、子供の頃から映画作りの現場を見てきた。父親の映画に子役として登場したこともある。だから、彼が映画作家になったのは、いわば家業を引き継ぐようなものであった。彼にとっての映画とは、芸術というよりも客商売のエンタテイメントであり、その使命はあくまでも観客を楽しませることにあると考えていた。彼の映画づくりが職人技に喩えられるのには、そんな背景がある。

御誂次郎吉格子:伊藤大輔の鼠小僧もの

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伊藤大輔は、日本映画の黎明期をリードした映画作家の一人で、特に時代劇を得意とした。第二新国劇の無名の俳優だった大河内伝次郎とコンビを組み、丹下左膳シリーズを始め多くの時代劇を作った。それまではただの活劇に過ぎなかった時代劇を、日本映画の一ジャンルとして確立するうえで、大きな業績を果たしたといえる。

瞼の母:稲垣浩の時代劇

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稲垣浩は、「無法松の一生」のイメージが強い。戦前には坂東妻三郎、戦後には三船敏郎を松五郎役にして、二度にわたって作ったし、戦後版はヴェネチア国際映画祭でグランプリを取った。だが稲垣は時代劇のほうが性にあっていたらしく、生涯に膨大な数の時代劇作品を作り続けた。「宮本武蔵」シリーズは特に有名だが、「瞼の母」は彼の初期の代表作である。

赤西蠣太:伊丹万作と片岡千恵蔵

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伊丹万作はいまでは、俳優兼映画監督の伊丹十三の父親そして作家の大江健三郎の義理の父親として知られているが、自分自身は映画監督だった。彼の映画監督としての活動は、片岡知恵蔵と切っても切れない。彼が映画作家としてデビューしたのは、千恵蔵に迎えられたからだし、その映画作りの実績も千恵蔵プロでの活動が中心だった。だから彼は、千恵蔵プロ(昔風にいえば千恵蔵一座)の座付き作者としての道を歩んだと言ってもよい。

丹下左膳余話百万両の壺:山中貞雄

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丹下左膳シリーズはちゃんばら映画の定番として、戦前から戦後にかけて夥しい数の作品が作られた。左膳を演じた俳優の数も、この種のシリーズものとしては群を抜いて多い。筆者などは、団塊の世代の一員として、大友柳太郎の演じる左膳を、ことさらかっこよく感じたものだ。しかし、全時代を通じて最も人気の高かった左膳役者と言えば大河内伝次郎だろう。大河内伝次郎は、無声映画の時代から派手な立ち回りで左膳を演じ、トーキー時代になっても、「シェイはタンゲ、ナはシャジェン」というあの伝説的な台詞回しで一世を風靡した。

五人の斥候兵:田坂具隆

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先の戦争中にはおびただしい数の戦意高揚映画が作られた。大別すると戦場の模様をリアルに伝えるドキュメンタリー風の映画と、兵士の戦いや暮らしをテーマにした劇映画に分けられる。ドキュメンタリー映画については、亀井文夫がもっとも優れた業績を残したといえよう。一方劇映画については、田坂具隆が特筆されるべきだろう。「五人の斥候兵」は「土と兵隊」と並び、田坂の戦争映画の傑作と言うべき作品だ。

狂った一頁:衣笠貞之助

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衣笠貞之助が1926年に作った映画「狂った一頁」は、佐藤忠男によれば、日本の映画史上最初の芸術的な作品ということである。それまでの日本映画は、ただの娯楽であって、芸術とは縁がないと思われていた。ところがこの映画が出たことで、日本の映画もやっと芸術に目覚めた。日頃映画について無関心であった日本のインテリ層も、この映画を見ることで、映画を見直すようになった、というのである。

鳥:アルフレッド・ヒッチコック

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ヒッチコックは「サイコ」で、従来の正統派のミステリー・サスペンスからはみ出したホラー映画というべきものを作ったわけだが、それが新しさを感じさせたのは、狂った人間を主人公にした点にあった。狂った人間というのは、予測不可能な行動をする。そこが正常な人間にとっては不気味である。人間というものは、世界についての一定の了解の上に立って生きているわけだから、その了解が足場を失うと、不安に陥らざるを得ない。狂った人間ほどこの了解を破壊するものはないゆえ、彼らは人を不安にさせるわけである。その不安は無論、ホラーをもたらす。「サイコ」が映画として成功したのは、このホラーをもたらしたことにある。

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アルフレッド・ヒッチコックの映画「サイコ(Psycho)」は、今日サイコ・スリラーと呼ばれている映画のジャンルを確立した作品である。1960年にこの作品が公開されて以来、すべてのサイコ・スリラー映画はこの作品を手本にしているといってよい。ということは、この映画によってかなり強固なステロタイプが成立したということだ。そのステロタイプとは、人間の精神異常は他の人間の気晴らしになりうるという信念をさす。ステロタイプいうのは、ある種の信念無しには成立しないものなのである。

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アルフレッド・ヒッチコックには、国際スパイ組織の暗躍をテーマにした「スパイアクション」というべき一連の作品があるが、「北北西に進路を取れ(North by NorthWest)」はその集大成と言ってよい。ヒッチコックの映画の中でも、もっとも成功したものの一つだ。その理由は、タフな男の息をつかせぬ活躍ぶりに、美人の女スパイとの恋を絡ませたところにある。派手なアクションと男女の恋はアメリカ人のもっとも好むところであるから、それらをともに満喫させてくれるこの映画が大ヒットしたのは当然だろう。

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世界映画ランキングのベスト・ワンと言えば、長い間オーソン・ウェルズの「市民ケーン」の指定席のようなものだったが、21世紀になってまもなく、イギリス映画協会がヒッチコックの「めまい(Vertgo)」をベスト・ワンに選んで以来、多くの国でそれに追随する動きが広がり、いまやこれこそ世界映画史上最高の作品だと言う評価が定着するようになってきた。

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アルフレッド・ヒッチコックの1956年公開の映画「知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)」は、暗黒組織の国家的な陰謀をテーマにしている点で、「三十九夜」とよく似ている。「三十九夜」は、陰謀に巻き込まれた男が、偶然知り合った女性とともに、少ない手がかりをもとに陰謀を解明し、自分の身の潔白を証明するところを描いていたが、「知りすぎた男」は、国家的な陰謀に巻き込まれたうえに息子をさらわれた夫婦が陰謀を暴いて息子を取り戻すところを描いている。

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ヒッチコックは「ロープ」において、マンションの一室を舞台にした一場ものの作品を作ったが、「裏窓(Rear Window)」もその延長といえる作品である。全編が一つの場面に固定されている。両者の違うところは、「ロープ」では部屋の中に据えられたカメラが、部屋の中だけを写すのに対して、「裏窓」では部屋の中に据えられたカメラが、部屋の中だけではなく、部屋の外も映し出すところだ。

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「ダイアルMを廻せ(Dial M for Murder)」は、完全犯罪の目論見を描いた映画だ。目論見というのは、完全犯罪が思惑通りに完結しないで、犯罪が最後には暴露してしまうからだ。暴露してしまった犯罪は完全犯罪とはいえない。そこで目論見というわけである。

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アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )の映画「見知らぬ乗客( Strangers on a Train )」は、サイコ・サスペンスの秀作と言ってよいだろう。サイコ・サスペンスとは、精神異常者の異常な言動に善良な人々が振り回されるというパターンが主流で、同じくヒッチコックの作品「サイコ」がその頂点をなす。「見知らぬ乗客」は、その走りをなすものと位置付けてよい。

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アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )の映画「ロープ( Rope )」は、色々な点で映画作りの常識を破るような作品である。まず、構成が型破りだ。作品全体が、ワンシーン・ワンカットでできている。舞台はマンションの一室で、そこに複数の登場人物が出てきて、様々な会話を交わすという設定だ。まるで、一幕ものの舞台を見ているような感じなのだ。舞台と違うところは、適度にカメラアングルを変えたり、クローズアップを挟んだりして画面にある程度の変化をもたらしているところだが、それにしても、普通の映画とは全く違うイメージでできている。

おくりびと:滝田洋二郎

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滝田洋二郎の映画「おくりびと」は、納棺業の世界を描いた作品だ。納棺というのは、葬儀にかかわる業務の一つで、死者を棺に納める仕事のことである。棺に納めるに当たって、遺体の清浄とか死装束を施すという作業を併せて行う。葬儀という儀式は、死者をあの世に送り出すということから、それにたずさわる人々はみな「おくりびと」と言ってよいのかも知れぬが、死者にかかわる葬儀の中でも、納棺という仕事をする人は、直接死者に触れるということから、この「おくりびと」という言葉がもっともふさわしいと言えよう。

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