壺齋小説

学海先生の明治維新その十九

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 学海日録は慶応三年正月朔日に再開され、以後明治三十四年二月十七日までほぼ中断無く書き継がれた。したがってこの期間については先生自ら書いた話を読むことができるわけで、史伝作者としては非常に都合がよいわけである。しかし先生の言葉をそのまま掛け値なしに受け取ってよいものかどうか、それは別の問題だろう。やはりそこには曇りのない目で先生の言い分を検証する批判的な態度が要請されると思う。

学海先生の明治維新その十八

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 学海日録は文久三年十月朔日の記事を最後に二年以上中断する。そのためその時期については先生の史伝に必要な資料が極めて少ない。あっても先生の個人的な動向や考えまではわからない。そこで小生はこの穴をどう埋めるか、大いに迷った。先日のように先生自身が小生の前に現われて、その時期のことについて語ってくれることが最も望ましいのは言うまでもないが、しかし先生がいつ現われるかはわからない。それを待っていては執筆の動機が弱まってしまうかもしれない。そこで利用できる資料をもとにして、足らないところは想像で補い、とりあえず書き進めることを決断した次第であった。史伝とはいえ小説であるから、多少事実と齟齬をきたしても、読者諸兄には大目に見てもらえるであろう。

学海先生の明治維新その十七

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 江戸を離れて佐倉に引っ込んでも、学海先生には天下の情勢についてかなりの量の情報が入ってきた。先生はそうした情報に接するにつけても、この国が未曽有の困難に直面しつつあることを感じないではいられなかった。
 兄の貞幹が六月五日に所用で佐倉に来た。その際先生は兄から、長州藩が諸外国の船舶に砲撃を加えたという話を聞いた。これは長州藩による攘夷政策の一環として文久三年五月に起きた外国船砲撃のことをさす。これにかかわる情報が学海先生にはかなり詳細に伝わっているのである。

学海先生の明治維新その十六

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 文久三年四月二十五日、学海先生は政事堂に呼び出されて人事の辞令を受けた。大木楠右衛門に代って代官職に任じ加俸を賜るというのである。代官職というのは、藩の管内をいつくかに区分し、その地域の司法・行政全般を取り仕切る職である。いわば藩の支庁の最高責任者であり、藩士にとっては最も名誉ある職の一つだった。その職に身分低くしかも非才の自分が任命されるというのは先生が思ってもみなかったことで、まさに青天の霹靂だったに違いない。その驚きを先生は、
「此命は余の驚きのみならず、一藩みなその新奇におどろく。余、久しく読書に頭をうずめて世事にあずからず。豈おもはんや、かかる命をかふむらんことを」と表現している。

学海先生の明治維新その十五

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 文久三年の日記は三月朔日に始まり十月朔日に終わる。わずか半年あまりのことではあるが記された内容は公私に多彩を極めている。その理由は諸外国の圧迫を契機にして攘夷熱が異常に高まり、またそれに対応して日本の政治がめまぐるしく動いたことにある。学海先生自身も佐倉藩の代官職を命じられるなど、身辺がようやくあわただしくなった。

学海先生の明治維新その十四

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「先日も話したように、弘庵先生は国防について憂慮されてはいたが、頑迷な攘夷論者ではなかったのじゃ。海防を強化して外国の侵略を防ぐというのが先生の本意であって、なにも外国人を一人残らず締め出せなどとは考えていなかった。そこが水戸学とは違うところじゃ。水戸学は日本の神聖さを外国の野蛮さに対比させて、日本の神聖さを守るために外国を排除すべしと考えておった。しかし国力の差を考えればそんなことのできようはずもない。そのあたりは弘庵先生は十分に自覚しておったのじゃ。ところがその当時の日本は頑迷な尊攘思想が蔓延して、みな熱に浮かされたように絵空事のようなことを喚いておった。それを焚きつけたのは水戸学で、そういう意味では水戸学というのは時代の流れをわきまえぬ空疎な主張だったと言えよう。弘庵先生はその空疎な主張にかぶれておったわけではないぞよ。わざわざ京都まで出かけて行って尊攘派の人々と交わりもしたが、それは互いの意見を交換して世の中の流れを見極めるのが目的で、別に彼らと一緒になって攘夷の運動を起こそうというつもりはなかったのじゃ」

学海先生の明治維新その十三

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 日記は安政六年十一月で中断し、三年半後の文久三年三月に再開するが、同年十月以降またもや三年以上の長い中断をして慶応三年元旦に再開する。ということは安政六年十一月から慶応二年の末までの約七年間のうち六年以上がブランクということになる。学海先生の青年期のうち六年間の空白は、先生の史伝を書く者としては、たとえそれが小説であっても非常に大きな制約条件だ。小生はなんとかしてこの穴を埋めようと思い、色々と他の資料をあたってみたが、間隙を埋めるに足るものは見つけられなかった。そこで英策なら多少のことは知っているのではないかと思い、彼の助け船を得るために会って話を聞くことにした。

学海先生の明治維新その十二

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 安政五年の日記は九月に中断され、再開されるのは十か月後の安政六年七月である。この十か月の間には、学海先生にとって公私にわたり重要な意義を持つ出来事がいくつか起こった。それらは日録からは読み取れないので、ほかの資料をもとに再構成しなければならない。

学海先生の明治維新その十一

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 安政四年の日録は五月で中断し翌五年正月に再開された。その冒頭の記事は次の如くである。
「晴。正服して今上皇帝陛下・大将軍殿下・吾が侍従公閣下を拝す。毅堂公、雑煮餅を贈らる。三椀を食せり。愛宕山に上りて日の出づるを観、次いで神明祠及び毘沙門祠を拝して還る」
 文中今上皇帝陛下とあるのは孝明天皇、大将軍殿下とあるのは十三代将軍徳川家定、侍従公とあるのは主君佐倉藩主堀田正睦のこと。天皇を皇帝と称し将軍より上位に置いているのは師藤森弘庵翁の勤皇思想の感化をうけている表れであろうか。もっとも学海先生が心底からの勤皇家だったどうかについては、大いにあやうげなところがあるのだが。

学海先生の明治維新その十

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 大阪に到着した翌々日、江戸からの書簡が旅館に届けられた。その中に学海に宛てた兄からの手紙もあって、その中で養父三浦氏の死を告げていた。俄かに病気になり正月廿四日に死んだということだった。驚いた学海先生がその旨を弘庵翁に報告すると、翁は、
「急なこととてお前としても如何ともしがたかったな。ともあれ養父が亡くなれば養子として喪に服さねばなるまいて。すぐに戻って葬儀の礼を尽くせ」と言った。
「そうではありますが、千里を離れた地にあっては、いますぐ駆け付けるというわけにはまいりませんし、それに私がいなくなっては先生のお世話にも差し支えがありましょう」

学海先生の明治維新その九

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 安政四年一月、藤森弘庵翁は京阪に旅した。尊王攘夷運動の思想的な指導者たちと意見交換するのが目的だった。この旅に学海先生は小崎公平と共に随従した。小崎公平は伊勢亀山藩士で、後に政府の官僚となり岐阜県知事などをつとめた。学海先生より五歳年下でこの時満十七歳、学海先生は二十二歳だった。この若さが二人を弘庵翁が旅の従者に選んだ理由だったと思われる。翁は京阪の地で、頼三樹三郎、梅田雲浜、梁川星巌、僧月性といった人々と会うつもりでいた。いずれも尊王攘夷思想の論客である。

学海先生の明治維新その八

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 学海日録は安政三年二月朔日から始まる。その日の記事は次の如くである
「二月朔己丑。四谷に遊び、手套子を市店に獲、並びに岡伯駒の開口新話一巻を買ふ。賃書肆来る。伝花田五集六巻を借る。是の日太田米三郎を訪ふ。費やすところの銭五百五十六文なり」
 原文は漢文であるものを読み下し文にしたものである。漢文での表記は二年半後の安政五年九月まで続く。この時代の教養人には日記を残したものが多いのであるが、それらの大部分は漢文で記されていた。まだまだ漢学が教養の基本だった時代である。

学海先生の明治維新その七

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 いよいよ依田学海先生の史伝風小説に取り掛かるべきときがきた。史伝というからには一応出生から始めるのが穏当であろう。学海日録は安政三年先生満二十二歳の年から始められており、それ以前のことがらについての記載はないし、出生のことについても言及がない。そこでほかの資料にあたって知りえた限りのことを紹介したいと思う。

学海先生の明治維新その六

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「オヌシの名はなんと言う?」 
 混乱している小生に学海先生は冷静な様子で語りかけた。
「鬼貫進一郎と言います」
「鬼貫という姓は佐倉藩士の中では聞いたことがないが、オヌシの家はいつからここに住んでおるのじゃ?」
「三十数年前からです。わたしの父親は会津の人間なのですが、たまたま仕事の都合で佐倉に住み、それ以来ここに定着したのです」

学海先生の明治維新その五

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 その年の五月の飛び石連休が過ぎて新緑が日に日に深まる頃、小生は英策と誘い合わせて依田学海の墓を訪ねた。あらかじめ乗る列車を示し合わせておいて、船橋駅で車内合流し、日暮里で降りた。学海の墓がある谷中の墓地は南口を降りて石段を登り、数分歩いたところにある。我々はまず霊園管理事務所に立ち寄り、受付の女性事務員に学海の墓の所在を聞いた。事務員は霊園案内図を取り出して、学海の墓の所在を教えてくれた。広い霊園には番地のようなものが付されていて、依田学海の墓は乙列3号6側というところにあった。管理事務所からは目と鼻の先だ。

学海先生の明治維新その四

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 結局小生は英策の言葉に動かされて依田学海の日記類を読んでみる気になった。日記本体の学海日録は岩波書店から十一巻本で出版されているものが新町の市立図書館にあるというので、それを借りて読んだ。墨水別墅雑録のほうは図書館に置いていなかったので、本屋から取り寄せた。借りた本は船橋のマンションで読んだ。マンションには無論荊婦がいて、その不機嫌そうな顔と毎日つきあわせになるのがつらかったが、我々はもとからあまり会話をする習慣がなかったので、毎日職場から戻ると夕食を手早くすませ、自分の部屋に閉じこもって借りて来た本を読んだ。

学海先生の明治維新その三

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 その日は秋もようやく深まりつつある九月なかばの満月の日に当たっていた。旧暦でいえば八月の半ばになるから、この月は中秋の名月と言ってよい。小生の佐倉の家は、縁側を隔てて外気に直接接している。その間には雨戸のほか障子一枚しか介入するものがないから、障子をあけ放つと家の内外の境はなくなる。小生は中秋の名月とて雨戸も障子も立てないまま、天上の月とその光に煌々と照らされた庭を見やりながら、英策との歓談を楽しんでいた。

学海先生の明治維新その二

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 あるとき小生は、英策を佐倉の小生の家に招いて酒を飲みながら語り明かしたことがあった。その家というのは、小生の一家が佐倉に引っ越してきたときに父が借りたもので、後に父はそれが気に入って買い取ったのだった。小生は結婚するまでその家で暮らしたが、結婚すると船橋でマンション暮らしを始め、またただ一人の妹も結婚して家を出たので、長い間両親だけで暮らしていた。その両親が昨年あいついで亡くなった後、小生はその家を売らずにそのままにしておき、時々息抜きを兼ねて風を入れるために訪れ、半ばは別荘のようにして使っていたのだった。

学海先生の明治維新その一

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 依田学海という名を聞いて何か思い当たる人はほとんどいないだろう。明治の二十年代前後に演劇界にかかわったことがあるので、明治の演劇史に明るい一部の人に知られているだけではないか。彼の劇作家としての業績は、勧善懲悪風の古くさい演劇観に毒されていたようなので、今日彼を評価するものはいないに等しい。ここで「いたようなので」という曖昧な言葉を使った理由は、小生自身依田学海の演劇上の業績をひもといたことがないからで、彼の書いた戯曲が果たしてどのようなものか、確認したことがないからだ。にもかかわらず小生が依田学海に関心を持つに至ったのには別の理由がある。小生は小学生の頃に千葉県の佐倉に移住してきて以来そこで育ったのであるが、依田学海はその佐倉にゆかりのある人だと知ったことが機縁となって、興味を抱いたのだった。

小説「学海先生の明治維新」を連載

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かねてこのブログの記事でも予告していたとおり、小生はこのたび小説の連載を始めようと思う。題名は「学海先生の明治維新」という。小生にとっては第二の故郷というべき千葉県佐倉市の先達である依田学海を主人公とした小説だ。依田学海は彼なりの明治維新を生きた。その姿に思うところがあってこれを小説にしたいと思ったのはもうだいぶ以前のことだが、いよいよその構想を実現させるべく、この正月から筆を執り始めた。今の時点ではまだ執筆途上である。

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