壺齋小説

 十二月の半ば過ぎに小生はあかりさんと京都へ一泊の旅をした。彼女の方から誘ってきた旅だった。教育委員会主催の会議が京都であり、東京都を代表して彼女が派遣されることになった。会議は半日で終わるのだがそのまま京都で一泊できる。いい機会だからあなたと一緒に行きたいと言うのだった。小生は是非もなく連れて行って欲しいと言った。
 学海先生は集議院議員を解任された後、藩務に専念することにした。そこで九月二十五日に家族を伴って東京を発ち佐倉に移った。途中佐倉の町の手前江原台なる兄の家に立ち寄りご母堂に逢った。鹿島橋に至ると、前日の大雨のために印旛沼が氾濫し、周囲一帯が水没している。道も水没して歩けない状態である。そこで船を雇って佐倉城裏手の栄門口で下りた。そして藩が用意した官舎にとりあえず入った。
 その頃学海先生は書肆で弊休禄という書を得た。彰義隊を組織した幕臣天野八郎忠告が上野戦争のことを獄中で著したというものである。上野戦争の時先生は京都にいて、その様子を詳しく知ることができなかった。この戦いは天下分け目の戦いとまではいかないが、幕府方と官軍とが江戸市中で正面衝突した大規模な戦いだ。ここで彰義隊があっけなく敗北したことで、幕府の落ち目が誰の目にも明らかになった。学海先生は先日その戦いの跡を上野の山で見たばかりだったので、彰義隊の隊長が獄中で書いたというこの書物に大きな興味を覚えたのである。
 明治三年の正月四日、学海先生は神祇官に赴いて神殿を拝した。神殿の内部には、中央に八神殿、東に天神地祇、西に歴世天皇が祭られていた。今日の宮中三殿の原型となるものだ。宮中三殿では八神殿と天神地祇を併せて神殿に祭り、皇霊殿に歴代天皇の霊を祭るほか、賢所を設けて天照大神を祭るとともに三種の神器の一つ八咫鏡が奉斎されている。これらを当代の庶民が気楽に見ることはできない。学海先生の時代にも神祇官に庶民が立ち入ることはできなかったろう。先生が立ち入ることを許されたのは集議院議員の肩書があったためだ。
 十一月の上旬、小生は公務出張で小笠原に行った。東京・小笠原間の航海は一隻の船で行っている。往復にそれぞれ二十四時間以上かかり、現地での荷の積み替えや船の手入れなどを含め、出発してから戻って来るまで六日間ほどを要する。これを一航海と称する。小生らの小笠原への出張旅行は、一航海六日間を要した。
 明治二年十月二十一日に会津藩士小林平格が学海先生を訪ねてきた。この男はこれまでも幾度か学海先生を訪ねたことがあった。最初に訪ねて来たのは同年一月二十六日だった。真龍院隠居慈雲院を名乗って面会を求めて来たのであったが、会って話を聞いてみると会津藩士で、同藩士林三郎の友人ということだった。林三郎は留守居仲間として親しくしていた男なので、学海先生はその友人というこの男に心を許した。用件を聞くと、佐倉藩にあずかり置かれている会津藩士と連絡を取りたいということだった。佐倉藩では新政府軍に降伏した会津藩士数名を預かっていたのである。
 版籍奉還問題は明治二年六月十七日に薩長土肥以下の諸藩主が上表したことでけりがついた。これに伴いすべての藩について版籍奉還が行われた。当然佐倉藩も藩籍奉還を進んで行った。しかし藩がすぐになくなったわけではない。藩主は知藩事に任命され、従来行っていた藩内の統治を当面は引き続き行うべきこととされた。
 学海先生の細君の弟藤井喜太郎はかねて仏国留学の抱負を抱き、その準備として一昨年の慶應三年春より横浜で勉学修行をしていた。本来ならそろそろその抱負を実現すべき時期なのだが、維新の混乱で佐倉藩には喜太郎を留学させる余裕がなくなり、喜太郎も自力では資金を調達できず、延び延びになっていた。そんな折々喜太郎は横浜から義兄を訪ねてきて、色々と興味深い話を聞かせてくれた。
 明治二年の学海先生の主な活動は公議人としてのものである。公議人は木戸孝允の肝煎りで作られた公務人の制度が端緒となり、やがて公議人と名称を変えられていたものだ。だが、木戸が言うところの万機公論の器とは名のみで、ほとんど活動らしきものはしていなかった。活動を本格化させるのは明治二年三月以降のことである。だがそれ以前より、公議人同士の情報交換などを通じて、一定の活動は見られたようである。
 翌朝日の光を感じて目を覚ますと、一緒に寝ていたはずのあかりさんがいない。光の来るほうへ目をやると、窓の桟にもたれかかった彼女の後ろ姿が見えた。何も着ていない。素裸だ。膝を立てて前かがみになったその後ろ姿は、腰のところがくびれて、幅の広い大きな臀部にがっしりした太腿が続いて見える。山小屋の中で逆行になってはいたが、その光の中に浮かび上がった彼女の姿はアマゾネスのようなたくましい生命力を感じさせた。
 英策と一緒に佐倉の祭を見て、学海先生と言葉を交わしたその数日後、小生はあかりさんと北八ヶ岳方面にハイキングした。ハイキングと言っても北八ヶ岳は二千メートルを超える山岳地帯なのでちょっとした登山だ。だから一応登山用の服装をして行った。ニッカーボッカーに皮の登山靴といったいでたちだ。茅野からアプローチし、西側から登って白駒池に一泊し、小海線方面へ下る計画を立てた。
 佐倉の祭は毎年十月十五日前後に行われる。小生は英策から久しぶりに一緒に祭見物をしないかと誘われて出かけることにした。夕方近く京成佐倉駅に着いて外に出て見ると、ちょうど駅前広場を摩賀多神社の大神輿が通りがかるところだった。白装束を着た男たちが神輿を担いでいる。神輿が余程重いと見えて男たちの足元がふらついて見えた。
 学海先生が東京を目指して京都を立ったのは明治元年十月五日のことであった。公議人は東京に集合すべしとの新政府の指示に従ったものだった。先生が藩命を受けて京都へ来たのは慶應四年二月晦日のこと。それ以来実に七か月以上が経っていた。
 明治維新は無血革命などと呼ばれることがあるが、実際には方々の戦いで合わせて一万人近くの人が死んでおり、決して無血というわけではなかった。戊辰戦争という言葉がある通り、日本は一種の内乱状況を経て、天皇を中心とする新しい国の形が出来上がったのである。この内乱状況は国民の間に深刻な分断をもたらした。したがって新政府にはこの分断を埋めるという課題が大きくのしかかっていた。この課題の解決に最大限利用されたのが天皇だった。新政府は天皇を前面に担ぎ出すことで、その権威を借りて、国民を統合しようとしたのである。
 戊辰戦争最大の山場は奥州での激突だった。俗に北越戦争とか会津戦争とか呼ばれる。新政府軍は当初奥州諸藩のうち薩長の仇敵だった会津藩と庄内藩を他の奥州諸藩に攻撃・殲滅させるつもりであったが、仙台・米沢の両藩は会津と庄内に同情し、その処分を寛大にするよう嘆願したのだった。ところが、それが拒絶されるや奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗、ここに大規模な戦争が始まったのであった。
 九月の半ば過ぎ小生はあかりさんを誘って千駄ヶ谷の国立能楽堂で能の見物をした。先日転任祝いに音楽会に招かれたお礼のつもりだった。千駄ヶ谷駅前の喫茶店で待ち合わせをし、そこでサンドイッチの軽い昼食をとったあと、肩を並べて能楽堂まで歩いた。このあたりには土地勘がある。千駄ヶ谷駅前の東京都体育館にはリニューアル後の事業課長として一年ちょっと勤めていたことがあるからだ。その折にはこの辺をよく散歩したり、津田塾の学生食堂で女学生たちにまじってランチを食べたりしたものだった。
 徳川将軍が全面降伏したあとも旧幕府側の抵抗は収まらなかった。とくに関東から東北地方の各藩には反政府意識が強く各地で新政府軍と衝突した。学海先生の日記はその衝突の情報をことこまかく記載している。
 学海先生は早速藩主一行の宿泊先を確保しなければならなかった。知らせによれば三百人もの藩士を従えているという。それを収容できる大きな施設が必用だ。色々当たってみたところ花園の妙心寺が貸してくれることとなった。妙心寺といえば禅宗の大本山で広大な境域を有している。これくらいの人数は十分に対応できる。
 学海先生は将軍慶喜の赦免を朝廷に哀訴すべく決意するや精力的に動いた。慶應四年二月十七日には諸侯の重臣を佐倉藩邸に招き、そこで慶喜のために哀訴すべきという議案を提出して一同の賛同を得た。賛同するものは譜代大名四十数藩。学海先生が哀訴状の作成を委任された。学海先生は哀訴状を作成したうえで諸藩の連判を求め、それを持参して急遽京都へ向かうことになった。
 戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いは慶應四年一月三日から六日までのわずか四日間の戦いで討幕勢力が完勝した。つまり幕府側が完敗したわけである。その幕府側は会津・桑名の藩兵が主力になっていた。鳥羽方面には桑名の藩兵が、伏見方面には会津の藩兵が中心に終結したが、それに対して討幕側は、鳥羽方面には薩摩藩兵が、伏見方面には長州藩兵が中心となって迎え撃つ形になった。朝廷の威光をかさにきた討幕側は幕府軍に撤退を求め、それでも歯向かうならば朝敵と見なして成敗すると通告したが、幕府側はそれに応じず、ついに戦端が開かれた。この戦いは数の上では幕府側が圧倒的に有利だったにかかわらず、あっさりと敗北した。それには淀・津両藩の寝返りなども影響したが、何といっても討幕側が近代的な兵器と規律の高さで優っていたという事情があった。幕府側は旧態依然とした刀・槍中心の戦い方で、指揮命令系統も徹底していなかったのである。
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