壺齋小説

 三月の半ば過、小生はあかりさんを誘って横浜に遊んだ。本牧の三渓園で梅を見、中華街でお昼を食べて、港の見える丘周辺を散策するつもりだった。
 東京駅の地下ホームで待ち合わせ、横須賀線の列車に乗りこんで横浜で降りると、駅前からバスに乗って本牧方面へ向かった。三渓園へは裏側の、海に面した方の出入り口から入った。バスを降りるとあかりさんの手を引き、細長い池を渡って出入り口をくぐる。小生の手を握り返すあかりさんは、この日は白っぽい色のコットンジャケットにライトブルーのスラックスといった軽快な服装をしていた。そんなあかりさんを小生は心楽しく導いて行ったのだった。
 明治六年十月政変はいわば武断派と官僚派の権力闘争の観を呈していたが、武断派が敗れて官僚派が権力を牛耳ったことは、全国の不平士族や攘夷派をいたく刺激した。彼らは岩倉や大久保を中心とする官僚派の支配を有司専制と批判し、中には実力を以てこれを排除しようとする動きも強まった。
 明治六年は征韓論の嵐が吹き荒れた年だったと言ってよい。留守政府をあずかる西郷隆盛が主導して征韓論を盛り上げた。西郷は自分自身が朝鮮への特使となって日本との国交を強要し、相手がそれを拒絶すれば、その非礼を根拠として韓国を攻めようと構想した。西郷の構想には、板垣退助、江藤新平、副島種臣の諸参議も同調した。この動きに対して米欧出張中の岩倉、大久保、木戸らは強く反対した。しかし海外にいてはどうすることもできない。このままだと西郷の暴走を許すと懸念した岩倉は、まず五月に大久保を九月に木戸を帰国させて西郷を牽制しようとしたが、西郷の暴走をとめることはできなかった。大久保も木戸も参議の職務を放棄して隠居同様の状態を決め込んでしまった。
 学海先生の日記に妾の小蓮が初めて登場するのは明治六年二月二十一日である。
「小蓮とともに梅を墨水の梅荘に見る」と言う記事がそれである。
 この日学海先生は小蓮を伴なって墨水の梅荘に梅を見に行き、そこで隠士と思しき三人が月琴・胡琴を演奏しているのを見た。興味を覚えて小蓮とともに聞き入っていると、更に別の一人が現れて一曲を弾じ、名を告げずして去った。
 この当時、墨堤は根岸と並び隠士の遁世地として知られていた。記事に見える人たちもそうした隠士のような人だったように思われる。面白いのは学海先生が妾を伴いながら彼らを見て感興を覚えたことである。妾を伴っていればおそらく気分は晴れやかだったろう。その晴れやかな気分で隠士が琴を弾ずる模様を見れば、いっそうのびやかな気持ちになったに違いない。学海先生にはそういった風雅を愛するところがあった。
 あかりさんと初詣をした後、しばらく彼女に会えなかった。というのも一月の半ば過ぎに約束していたデートに、仕事の都合で行けなくなって、それ以来すれ違いのような状態が続いていたからだった。デートに行けなかったくらいに忙しかった仕事とは他でもない。昨年の暮にあかりさんと京都へ旅行した後、船橋のマンションにT新聞の記者から電話がかかって来たと書いたことがあったが、それと大きなかかわりがあることだった。
 前回、学海先生が市民会議所にかかわるようになったいきさつを書いたが、その会議所がゼロから生み出されたような印象を与えたかもしれない。しかしそうではなかった。江戸には徳川時代に町会所というものがあって、一定の自治を行っていた。その最も大きな仕事は天災とか米価騰貴の事態に際して窮民を救済することであった。そのための資金として、町民から集めた七分積金と徳川幕府からの貸付金をあてていた。この町会所とその資金とが維新後もまだ存続していて、それをどうするか、特に巨額な資金の使途をどうするか、懸案となっていた。市民会議所はこの町会所の組織と資金を引き継ぐものとしての役割を期待されたのである。
 学海先生は三十日ぶりに佐倉へ戻った。家の様子を見るに、先日の台風で多少壊れたところはあったが、たいしたことはなかったので安心した。もう一つ気になっていた相済会社については、経営は相変わらず思わしくなかった。特に靴は作れば作るだけ赤字を増やした。当時の日本人はまだ靴を日常的に履く習慣がなかったからである。
 六月の晦日に椿村の治兵衛というものが宮小路に学海先生を訪ねて来た。用件は近日開講予定の郷校に教授として来てくれまいかというものだった。椿村というのは八日市場の東側に隣接する漁村で、旧佐倉藩領の一部であった。そこに新たに郷校を作ると言う。郷校と言うのは民間が自主的に運営する学校のことで、生徒のほとんどは庶民の子だった。運営がしっかりしている点では寺子屋を大規模にしたようなもので、今の小中学校の前身と考えてよい。
 明治五年の正月を学海先生はほとんど浪人の身で迎えた。仕事が全くなかったというわけではないのだが、正規の職業を持たなかったのだ。前年の暮、印旛県令になった河瀬修治から西村茂樹共々県への士官を勧められ、いったんは心が動いたが、結局それを断った。その後西村はじめ佐倉藩士の多くが臨時の印旛県庁が置かれた行徳に移り住んだが、学海先生は佐倉にとどまって、藩務の残務整理を続ける一方、旧藩士たちの授産事業を手がけていた。この授産事業は廃藩後に藩士たちやその家族が路頭に迷わぬようにと、旧藩主正倫公が出してくれた資金をもとに始めたもので、当初は西村茂樹が中心に運営していたが、西村が印旛県庁に行くに伴って、学海先生にその運営を託されたのであった。その仕事は無報酬であるから正規の職業とは言えなかったわけである。
 英策と成田山に初詣をし、宮小路の家で学海先生と話した日の数日後、小生はあかりさんとともに明治神宮に初詣をした。初詣をするとしたらどこがよいか彼女に聞いたら、彼女が明治神宮を指定したのだった。
 小説の草稿のコピーを区切りのいいところでその都度英策に送ってきたが、その感想を聞いてみたいのと、正月の初詣を兼ねて、小生は英策を誘って成田へ出かけた。いつか上野の谷中墓地を訪ねた時同様、乗る列車を示し合わせて、小生は船橋を十時頃に停車するその列車に乗り、英策は佐倉で乗り込んで来た。一番前の車両だ。これだと成田駅で降りた時に、改札口に一番近い。
 廃藩置県によって藩知事を免ぜられた旧藩主堀田正倫公は政府の方針に従って東京に居住することとなった。一方大参事以下の旧藩士は当分の間現職にとどまるべしとの指示が出された。学海先生もそのまま権大参事の職にとどまったが、いずれ近いうちに辞職するつもりでいた。もはや佐倉藩としての実体を失い、中央政府の出先と化したところにとどまるべきいわれはないと考えたからである
 学海先生の東京での生活は当初の見込みを越えて長引いた。その間先生は無為に過ごしたわけではない。東京の藩邸にあって藩の訴訟事項の裁定に当たっていた。その裁定ぶりの一端を前に紹介したところだが、更にいくつか紹介してみよう。それらを見ることで学海先生の司法感覚のようなものを窺い知ることができるだろう。
 明治四年の正月を学海先生は東京で迎えたので、元旦には礼服を着て皇居に参朝し、大広間で天顔を拝した。また四日には神祇官に赴いて三殿を遥拝した。先生はすでに集議院議員を解任されていたが、国家に特別の功があったとしてこれらの参拝を許されたのであった。それについては、先生の方も誇りのようなものを感じたらしい。新政府を牛耳る薩長の芋侍たちは気に入らぬが、国家の象徴たる天皇や神祇官には相当の敬意を表したのである。
 目を覚まして枕もとの時計を見るともう九時になっていた。あかりさんは既に起きていて窓の近くの椅子に腰かけ身づくろいをしている。
「おはよう」
 小生が声をかけると、あかりさんは化粧の手を休めて小生の方を向き、
「よく眠れた?」と言った。
「よく眠れたよ」
そう小生が答えると、
「あなたって本当に寝相が悪いのね、おかげでベッドから落ちそうになったりして、よく眠れなかったわ」
「そんなに寝相が悪かった?」
「いびきもかいていたわ」
「それは悪かった。でも僕はよく眠れたよ。君の分まで寝てしまったようだね」
 どうも寝際に頑張りすぎたせいと、アルコールのために、いびき迄かいてしまったようだ。それはあかりさんに対して申し訳ないことをした。そう小生は反省したのだった。
 十二月の半ば過ぎに小生はあかりさんと京都へ一泊の旅をした。彼女の方から誘ってきた旅だった。教育委員会主催の会議が京都であり、東京都を代表して彼女が派遣されることになった。会議は半日で終わるのだがそのまま京都で一泊できる。いい機会だからあなたと一緒に行きたいと言うのだった。小生は是非もなく連れて行って欲しいと言った。
 学海先生は集議院議員を解任された後、藩務に専念することにした。そこで九月二十五日に家族を伴って東京を発ち佐倉に移った。途中佐倉の町の手前江原台なる兄の家に立ち寄りご母堂に逢った。鹿島橋に至ると、前日の大雨のために印旛沼が氾濫し、周囲一帯が水没している。道も水没して歩けない状態である。そこで船を雇って佐倉城裏手の栄門口で下りた。そして藩が用意した官舎にとりあえず入った。
 その頃学海先生は書肆で弊休禄という書を得た。彰義隊を組織した幕臣天野八郎忠告が上野戦争のことを獄中で著したというものである。上野戦争の時先生は京都にいて、その様子を詳しく知ることができなかった。この戦いは天下分け目の戦いとまではいかないが、幕府方と官軍とが江戸市中で正面衝突した大規模な戦いだ。ここで彰義隊があっけなく敗北したことで、幕府の落ち目が誰の目にも明らかになった。学海先生は先日その戦いの跡を上野の山で見たばかりだったので、彰義隊の隊長が獄中で書いたというこの書物に大きな興味を覚えたのである。
 明治三年の正月四日、学海先生は神祇官に赴いて神殿を拝した。神殿の内部には、中央に八神殿、東に天神地祇、西に歴世天皇が祭られていた。今日の宮中三殿の原型となるものだ。宮中三殿では八神殿と天神地祇を併せて神殿に祭り、皇霊殿に歴代天皇の霊を祭るほか、賢所を設けて天照大神を祭るとともに三種の神器の一つ八咫鏡が奉斎されている。これらを当代の庶民が気楽に見ることはできない。学海先生の時代にも神祇官に庶民が立ち入ることはできなかったろう。先生が立ち入ることを許されたのは集議院議員の肩書があったためだ。
 十一月の上旬、小生は公務出張で小笠原に行った。東京・小笠原間の航海は一隻の船で行っている。往復にそれぞれ二十四時間以上かかり、現地での荷の積み替えや船の手入れなどを含め、出発してから戻って来るまで六日間ほどを要する。これを一航海と称する。小生らの小笠原への出張旅行は、一航海六日間を要した。
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