壺齋小説

学海先生の明治維新その卅六

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 九月の半ば過ぎ小生はあかりさんを誘って千駄ヶ谷の国立能楽堂で能の見物をした。先日転任祝いに音楽会に招かれたお礼のつもりだった。千駄ヶ谷駅前の喫茶店で待ち合わせをし、そこでサンドイッチの軽い昼食をとったあと、肩を並べて能楽堂まで歩いた。このあたりには土地勘がある。千駄ヶ谷駅前の東京都体育館にはリニューアル後の事業課長として一年ちょっと勤めていたことがあるからだ。その折にはこの辺をよく散歩したり、津田塾の学生食堂で女学生たちにまじってランチを食べたりしたものだった。

学海先生の明治維新その卅五

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 徳川将軍が全面降伏したあとも旧幕府側の抵抗は収まらなかった。とくに関東から東北地方の各藩には反政府意識が強く各地で新政府軍と衝突した。学海先生の日記はその衝突の情報をことこまかく記載している。

学海先生の明治維新その卅四

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 学海先生は早速藩主一行の宿泊先を確保しなければならなかった。知らせによれば三百人もの藩士を従えているという。それを収容できる大きな施設が必用だ。色々当たってみたところ花園の妙心寺が貸してくれることとなった。妙心寺といえば禅宗の大本山で広大な境域を有している。これくらいの人数は十分に対応できる。

学海先生の明治維新その卅三

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 学海先生は将軍慶喜の赦免を朝廷に哀訴すべく決意するや精力的に動いた。慶應四年二月十七日には諸侯の重臣を佐倉藩邸に招き、そこで慶喜のために哀訴すべきという議案を提出して一同の賛同を得た。賛同するものは譜代大名四十数藩。学海先生が哀訴状の作成を委任された。学海先生は哀訴状を作成したうえで諸藩の連判を求め、それを持参して急遽京都へ向かうことになった。

学海先生の明治維新その卅二

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 戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いは慶應四年一月三日から六日までのわずか四日間の戦いで討幕勢力が完勝した。つまり幕府側が完敗したわけである。その幕府側は会津・桑名の藩兵が主力になっていた。鳥羽方面には桑名の藩兵が、伏見方面には会津の藩兵が中心に終結したが、それに対して討幕側は、鳥羽方面には薩摩藩兵が、伏見方面には長州藩兵が中心となって迎え撃つ形になった。朝廷の威光をかさにきた討幕側は幕府軍に撤退を求め、それでも歯向かうならば朝敵と見なして成敗すると通告したが、幕府側はそれに応じず、ついに戦端が開かれた。この戦いは数の上では幕府側が圧倒的に有利だったにかかわらず、あっさりと敗北した。それには淀・津両藩の寝返りなども影響したが、何といっても討幕側が近代的な兵器と規律の高さで優っていたという事情があった。幕府側は旧態依然とした刀・槍中心の戦い方で、指揮命令系統も徹底していなかったのである。

学海先生の明治維新その卅一

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 お盆がやって来た。小生の両親は一昨年に相次いで亡くなった。二月に父が入院先の病院で亡くなり、六月にはやはり病気で入院していた母が亡くなった。父が亡くなったときに、妹と一緒に母のもとに行きその死を報告したら、母はおいおいと声を出して泣いた。そしてそのわずか四か月後に自分自身が亡くなったのであった。ほぼ一時に両親をなくして、小生は心のどこかに穴が開いてしまったような気がした。

学海先生の明治維新その三十

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 王政復古のクーデターが起きて討幕派が政治の主導権を握ったのは十二月九日のことであった。その情報の第一報が学海先生の耳に届いたのは十四日のことであった。この時点では情報はまだ断片的だった。学海先生の日記には、
「去る十日、長・防等入京の命あり、官位如故。九門の警衛を薩・土・芸・尾・越前とともに命ぜられて、既兵端を開くべきの形勢あり。将軍家危うきこといふべからず。忠節を存ずるものはすみやかに登京すべしとなり」とある。

学海先生の明治維新その廿九

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 学海先生が兵制改革に携わったと言ったが、それにはそれなりの背景があった。十一月二日に幕府は諸侯八十四家に江戸城内外の警護を命じた。佐倉藩は雉子橋の警護を命じられた。それには浪士が江戸市中に放火して庶民を不安に陥れようとしているとの噂が市中に流れたために、庶民の不安を鎮めるという意味もあった。そしてその陰謀の陰には薩摩藩ら討幕勢力の動きがあると広く信じられていた。そこで親藩・譜代を中心に兵を江戸に集めて討幕勢力の動きに対抗したわけである。しかし諸藩がばらばらに行動するより一致して行動する方が有効だ。そのためには諸藩の兵制を統一して、できれば一元的に運用した方がよい。そういう判断があって兵制改革の議論が起こったわけなのであった。

学海先生の明治維新その廿八

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 徳川慶喜が京都で大政奉還を上表したのは十月十三日であるが、江戸の学海先生にその情報が伝わったのは二十日のことだった。この日は諸藩の留守居仲間の親睦会が春南冥の家で予定されており、先生は朝方そこへでかける前に、京都で大事件が起こり郡山や松代の諸藩がつぎつぎと上洛していると聞いた。南冥の家につくと北沢冠岳から更に詳しいことを聞かされた。将軍が自らの不徳を恥じて政権を朝廷に奉還したというのだ。先生はこれを聞いて大いに驚き、席を立とうとしても足腰が立たないほど狼狽した。

学海先生の明治維新その廿七

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 慶応三年の後半は幕末史最大の山場となった時期だ。幕権派と討幕派の対立が最高潮に達し、大激動ともいうべき混乱を経て、大政奉還とそれに続く王政復古の大号令が鳴り響き、倒幕派の勝利のうちにクライマックスを迎える。ここに徳川封建時代は終わり、新しい時代が幕を開けるというわけである。

学海先生の明治維新その廿六

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 学海先生は五月の下旬以来勘定奉行小栗上野介にたびたび呼び出された。小栗は勝海舟と並んで幕末期の幕臣を代表する人物だ。安政七年の遣米使節団に目付け役として参加し、米国人を相手に堂々と振舞ったというのであたかも使節団の代表の如く受け取られたというから、押し出しの強い男だったようである。その押し出しの強さで幕政を改革し徳川幕府の権威を再興しようとした。彼の業績として知られているのは幕府兵制の改革と製鉄所の建設である。特に幕府兵制の改革は画期的なものだった。それを単純化して言うと、従来旗本ら家臣団に現物の軍役を課していたことに代え石高に応じて金納させ、その金で幕府の軍隊を近代化しようというものだった。この試みは広範な反響を呼び佐倉藩にもその波が伝わってきたから、学海先生も小栗の兵制改革にはかねて注目していたところだった。

学海先生の明治維新その廿五

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 人事異動後あかりさんとデートしてしばらく経った頃、彼女から職場に電話があった。
「ねえ、今晩時間とれる?」
「なんとか工夫すればとれると思うけど」
「演奏会の切符が二枚手に入ったの。マーラーのシンフォニー第一番。今売り出し中のダニエル・ベンヤミンの指揮。ベンヤミンって知ってるでしょ?」
「ああ、聞いたことはあるよ」
「急で悪いけど一緒に聞きにいかない?」
「ああ、いいよ」
「場所は上野の文化会館なの。今夜六時に演奏開始だから、その一寸前に文化会館の一階のロビーで会いましょう」
「わかった」
 こうして我々はその日の夕方五時半頃文化会館一階のロビーで会ったのだった。

学海先生の明治維新その廿四

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 学海先生は新聞会の人々とは懇意にする一方、留守居組合の連中には相変わらず愛想をつかしていた。職務の一環だから付き合わざるを得なかったが、彼らの愚劣さを見たり聞いたりする毎にほとほとうんざりさせられるのであった。そんな留守居のなかでも松代藩の北沢冠岳とは気が合うところがあって、仕事を離れた付き合いをするようにもなった。この人のことを学海先生は、
「北沢氏は文学ありて詩を作れり」とか
「此人、学問ありて当世の議論をよくす。留守居中の翹楚なるべし」とか言って褒めている。学海先生は学問があってしかも文学をよくするものを自分が付き合うにふさわしいと思う傾向が強かったのである。

学海先生の明治維新その廿三

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 学海先生は紀州屋敷をほぼ十日おきごとに訪ねては竹内孫介はじめ新聞会の人々と情報交換を行った。留守居組合の連中とよりもこの人々と交際していたほうがよほど有益な情報が得られた。交際は会議形式のものを超えて、私的な飲み会にまでわたった。そういう席では酒が入ることもあって、普段話題に上らぬようなことまで話すことができた。

学海先生の明治維新その廿二

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 四月二十一日、学海先生は三年半ぶりに川田毅卿を訪ねて歓談した。代官職を拝命して江戸を去ること三年、戻ってきたときには毅卿は国元の備前松山に出張していて会えなかった。それが最近江戸に戻ったというので学海先生は欣喜雀躍して訪ねたのだった。なにしろ弘庵翁の塾で机を並べ寝食をともにした仲だ。年は毅卿のほうが四つほど上だが、隔てなく心を割って付き合える。刎頸の友と言ってよい。その毅卿の顔を見ると学海先生の顔は思わず綻んだ。

学海先生の明治維新その廿一

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 学海先生の江戸留守居役への転身について書いていた頃、東京都の夏の定期人事異動があって、小生は教育委員会から財務局へ異動した。異動先は管財部というところで、用地買収価格の査定や公有財産の売却価格を決定する部署だった。金にからむ職というのはいろいろ気を遣うと聞いていたのであまりうれしくない辞令であったが、勤め人は自分に与えられた職に不平を言ってはならぬという鉄則があるので、辞職を覚悟していない限りは唯々諾々と従うほかはない。小生もまたその例に漏れなかった。

学海先生の明治維新その二十

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 留守居役というのは、各藩が江戸屋敷に配置し、藩を代表して幕府や他藩とのさまざまな連絡・交渉にあたる職である。藩によって聞役とか公儀役とも称された。いわば藩の外務大臣といったところである。外務大臣とはいっても、交渉相手は幕府や他藩の渉外担当であるから、そんなに大げさなものではない。とは言っても藩を代表しているわけであるから責任は重い。時には藩主に代って重要な判断をしなければならないこともままある。留守居が失敗をしたことで藩が重大な危機に見舞われたこともあるらしい。忠臣蔵で浅野内匠頭が窮地に陥ったのは留守居役の手違いから来たとの指摘もある。だから息を抜けない仕事である。 

学海先生の明治維新その十九

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 学海日録は慶応三年正月朔日に再開され、以後明治三十四年二月十七日までほぼ中断無く書き継がれた。したがってこの期間については先生自ら書いた話を読むことができるわけで、史伝作者としては非常に都合がよいわけである。しかし先生の言葉をそのまま掛け値なしに受け取ってよいものかどうか、それは別の問題だろう。やはりそこには曇りのない目で先生の言い分を検証する批判的な態度が要請されると思う。

学海先生の明治維新その十八

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 学海日録は文久三年十月朔日の記事を最後に二年以上中断する。そのためその時期については先生の史伝に必要な資料が極めて少ない。あっても先生の個人的な動向や考えまではわからない。そこで小生はこの穴をどう埋めるか、大いに迷った。先日のように先生自身が小生の前に現われて、その時期のことについて語ってくれることが最も望ましいのは言うまでもないが、しかし先生がいつ現われるかはわからない。それを待っていては執筆の動機が弱まってしまうかもしれない。そこで利用できる資料をもとにして、足らないところは想像で補い、とりあえず書き進めることを決断した次第であった。史伝とはいえ小説であるから、多少事実と齟齬をきたしても、読者諸兄には大目に見てもらえるであろう。

学海先生の明治維新その十七

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 江戸を離れて佐倉に引っ込んでも、学海先生には天下の情勢についてかなりの量の情報が入ってきた。先生はそうした情報に接するにつけても、この国が未曽有の困難に直面しつつあることを感じないではいられなかった。
 兄の貞幹が六月五日に所用で佐倉に来た。その際先生は兄から、長州藩が諸外国の船舶に砲撃を加えたという話を聞いた。これは長州藩による攘夷政策の一環として文久三年五月に起きた外国船砲撃のことをさす。これにかかわる情報が学海先生にはかなり詳細に伝わっているのである。
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