壺齋小説

 学海先生は新聞会の人々とは懇意にする一方、留守居組合の連中には相変わらず愛想をつかしていた。職務の一環だから付き合わざるを得なかったが、彼らの愚劣さを見たり聞いたりする毎にほとほとうんざりさせられるのであった。そんな留守居のなかでも松代藩の北沢冠岳とは気が合うところがあって、仕事を離れた付き合いをするようにもなった。この人のことを学海先生は、
「北沢氏は文学ありて詩を作れり」とか
「此人、学問ありて当世の議論をよくす。留守居中の翹楚なるべし」とか言って褒めている。学海先生は学問があってしかも文学をよくするものを自分が付き合うにふさわしいと思う傾向が強かったのである。
 学海先生は紀州屋敷をほぼ十日おきごとに訪ねては竹内孫介はじめ新聞会の人々と情報交換を行った。留守居組合の連中とよりもこの人々と交際していたほうがよほど有益な情報が得られた。交際は会議形式のものを超えて、私的な飲み会にまでわたった。そういう席では酒が入ることもあって、普段話題に上らぬようなことまで話すことができた。
 四月二十一日、学海先生は三年半ぶりに川田毅卿を訪ねて歓談した。代官職を拝命して江戸を去ること三年、戻ってきたときには毅卿は国元の備前松山に出張していて会えなかった。それが最近江戸に戻ったというので学海先生は欣喜雀躍して訪ねたのだった。なにしろ弘庵翁の塾で机を並べ寝食をともにした仲だ。年は毅卿のほうが四つほど上だが、隔てなく心を割って付き合える。刎頸の友と言ってよい。その毅卿の顔を見ると学海先生の顔は思わず綻んだ。
 学海先生の江戸留守居役への転身について書いていた頃、東京都の夏の定期人事異動があって、小生は教育委員会から財務局へ異動した。異動先は管財部というところで、用地買収価格の査定や公有財産の売却価格を決定する部署だった。金にからむ職というのはいろいろ気を遣うと聞いていたのであまりうれしくない辞令であったが、勤め人は自分に与えられた職に不平を言ってはならぬという鉄則があるので、辞職を覚悟していない限りは唯々諾々と従うほかはない。小生もまたその例に漏れなかった。
 留守居役というのは、各藩が江戸屋敷に配置し、藩を代表して幕府や他藩とのさまざまな連絡・交渉にあたる職である。藩によって聞役とか公儀役とも称された。いわば藩の外務大臣といったところである。外務大臣とはいっても、交渉相手は幕府や他藩の渉外担当であるから、そんなに大げさなものではない。とは言っても藩を代表しているわけであるから責任は重い。時には藩主に代って重要な判断をしなければならないこともままある。留守居が失敗をしたことで藩が重大な危機に見舞われたこともあるらしい。忠臣蔵で浅野内匠頭が窮地に陥ったのは留守居役の手違いから来たとの指摘もある。だから息を抜けない仕事である。 
 学海日録は慶応三年正月朔日に再開され、以後明治三十四年二月十七日までほぼ中断無く書き継がれた。したがってこの期間については先生自ら書いた話を読むことができるわけで、史伝作者としては非常に都合がよいわけである。しかし先生の言葉をそのまま掛け値なしに受け取ってよいものかどうか、それは別の問題だろう。やはりそこには曇りのない目で先生の言い分を検証する批判的な態度が要請されると思う。
 学海日録は文久三年十月朔日の記事を最後に二年以上中断する。そのためその時期については先生の史伝に必要な資料が極めて少ない。あっても先生の個人的な動向や考えまではわからない。そこで小生はこの穴をどう埋めるか、大いに迷った。先日のように先生自身が小生の前に現われて、その時期のことについて語ってくれることが最も望ましいのは言うまでもないが、しかし先生がいつ現われるかはわからない。それを待っていては執筆の動機が弱まってしまうかもしれない。そこで利用できる資料をもとにして、足らないところは想像で補い、とりあえず書き進めることを決断した次第であった。史伝とはいえ小説であるから、多少事実と齟齬をきたしても、読者諸兄には大目に見てもらえるであろう。
 江戸を離れて佐倉に引っ込んでも、学海先生には天下の情勢についてかなりの量の情報が入ってきた。先生はそうした情報に接するにつけても、この国が未曽有の困難に直面しつつあることを感じないではいられなかった。
 兄の貞幹が六月五日に所用で佐倉に来た。その際先生は兄から、長州藩が諸外国の船舶に砲撃を加えたという話を聞いた。これは長州藩による攘夷政策の一環として文久三年五月に起きた外国船砲撃のことをさす。これにかかわる情報が学海先生にはかなり詳細に伝わっているのである。
 文久三年四月二十五日、学海先生は政事堂に呼び出されて人事の辞令を受けた。大木楠右衛門に代って代官職に任じ加俸を賜るというのである。代官職というのは、藩の管内をいつくかに区分し、その地域の司法・行政全般を取り仕切る職である。いわば藩の支庁の最高責任者であり、藩士にとっては最も名誉ある職の一つだった。その職に身分低くしかも非才の自分が任命されるというのは先生が思ってもみなかったことで、まさに青天の霹靂だったに違いない。その驚きを先生は、
「此命は余の驚きのみならず、一藩みなその新奇におどろく。余、久しく読書に頭をうずめて世事にあずからず。豈おもはんや、かかる命をかふむらんことを」と表現している。
 文久三年の日記は三月朔日に始まり十月朔日に終わる。わずか半年あまりのことではあるが記された内容は公私に多彩を極めている。その理由は諸外国の圧迫を契機にして攘夷熱が異常に高まり、またそれに対応して日本の政治がめまぐるしく動いたことにある。学海先生自身も佐倉藩の代官職を命じられるなど、身辺がようやくあわただしくなった。
「先日も話したように、弘庵先生は国防について憂慮されてはいたが、頑迷な攘夷論者ではなかったのじゃ。海防を強化して外国の侵略を防ぐというのが先生の本意であって、なにも外国人を一人残らず締め出せなどとは考えていなかった。そこが水戸学とは違うところじゃ。水戸学は日本の神聖さを外国の野蛮さに対比させて、日本の神聖さを守るために外国を排除すべしと考えておった。しかし国力の差を考えればそんなことのできようはずもない。そのあたりは弘庵先生は十分に自覚しておったのじゃ。ところがその当時の日本は頑迷な尊攘思想が蔓延して、みな熱に浮かされたように絵空事のようなことを喚いておった。それを焚きつけたのは水戸学で、そういう意味では水戸学というのは時代の流れをわきまえぬ空疎な主張だったと言えよう。弘庵先生はその空疎な主張にかぶれておったわけではないぞよ。わざわざ京都まで出かけて行って尊攘派の人々と交わりもしたが、それは互いの意見を交換して世の中の流れを見極めるのが目的で、別に彼らと一緒になって攘夷の運動を起こそうというつもりはなかったのじゃ」
 日記は安政六年十一月で中断し、三年半後の文久三年三月に再開するが、同年十月以降またもや三年以上の長い中断をして慶応三年元旦に再開する。ということは安政六年十一月から慶応二年の末までの約七年間のうち六年以上がブランクということになる。学海先生の青年期のうち六年間の空白は、先生の史伝を書く者としては、たとえそれが小説であっても非常に大きな制約条件だ。小生はなんとかしてこの穴を埋めようと思い、色々と他の資料をあたってみたが、間隙を埋めるに足るものは見つけられなかった。そこで英策なら多少のことは知っているのではないかと思い、彼の助け船を得るために会って話を聞くことにした。
 安政五年の日記は九月に中断され、再開されるのは十か月後の安政六年七月である。この十か月の間には、学海先生にとって公私にわたり重要な意義を持つ出来事がいくつか起こった。それらは日録からは読み取れないので、ほかの資料をもとに再構成しなければならない。
 安政四年の日録は五月で中断し翌五年正月に再開された。その冒頭の記事は次の如くである。
「晴。正服して今上皇帝陛下・大将軍殿下・吾が侍従公閣下を拝す。毅堂公、雑煮餅を贈らる。三椀を食せり。愛宕山に上りて日の出づるを観、次いで神明祠及び毘沙門祠を拝して還る」
 文中今上皇帝陛下とあるのは孝明天皇、大将軍殿下とあるのは十三代将軍徳川家定、侍従公とあるのは主君佐倉藩主堀田正睦のこと。天皇を皇帝と称し将軍より上位に置いているのは師藤森弘庵翁の勤皇思想の感化をうけている表れであろうか。もっとも学海先生が心底からの勤皇家だったどうかについては、大いにあやうげなところがあるのだが。
 大阪に到着した翌々日、江戸からの書簡が旅館に届けられた。その中に学海に宛てた兄からの手紙もあって、その中で養父三浦氏の死を告げていた。俄かに病気になり正月廿四日に死んだということだった。驚いた学海先生がその旨を弘庵翁に報告すると、翁は、
「急なこととてお前としても如何ともしがたかったな。ともあれ養父が亡くなれば養子として喪に服さねばなるまいて。すぐに戻って葬儀の礼を尽くせ」と言った。
「そうではありますが、千里を離れた地にあっては、いますぐ駆け付けるというわけにはまいりませんし、それに私がいなくなっては先生のお世話にも差し支えがありましょう」
 安政四年一月、藤森弘庵翁は京阪に旅した。尊王攘夷運動の思想的な指導者たちと意見交換するのが目的だった。この旅に学海先生は小崎公平と共に随従した。小崎公平は伊勢亀山藩士で、後に政府の官僚となり岐阜県知事などをつとめた。学海先生より五歳年下でこの時満十七歳、学海先生は二十二歳だった。この若さが二人を弘庵翁が旅の従者に選んだ理由だったと思われる。翁は京阪の地で、頼三樹三郎、梅田雲浜、梁川星巌、僧月性といった人々と会うつもりでいた。いずれも尊王攘夷思想の論客である。
 学海日録は安政三年二月朔日から始まる。その日の記事は次の如くである
「二月朔己丑。四谷に遊び、手套子を市店に獲、並びに岡伯駒の開口新話一巻を買ふ。賃書肆来る。伝花田五集六巻を借る。是の日太田米三郎を訪ふ。費やすところの銭五百五十六文なり」
 原文は漢文であるものを読み下し文にしたものである。漢文での表記は二年半後の安政五年九月まで続く。この時代の教養人には日記を残したものが多いのであるが、それらの大部分は漢文で記されていた。まだまだ漢学が教養の基本だった時代である。
 いよいよ依田学海先生の史伝風小説に取り掛かるべきときがきた。史伝というからには一応出生から始めるのが穏当であろう。学海日録は安政三年先生満二十二歳の年から始められており、それ以前のことがらについての記載はないし、出生のことについても言及がない。そこでほかの資料にあたって知りえた限りのことを紹介したいと思う。
「オヌシの名はなんと言う?」 
 混乱している小生に学海先生は冷静な様子で語りかけた。
「鬼貫進一郎と言います」
「鬼貫という姓は佐倉藩士の中では聞いたことがないが、オヌシの家はいつからここに住んでおるのじゃ?」
「三十数年前からです。わたしの父親は会津の人間なのですが、たまたま仕事の都合で佐倉に住み、それ以来ここに定着したのです」
 その年の五月の飛び石連休が過ぎて新緑が日に日に深まる頃、小生は英策と誘い合わせて依田学海の墓を訪ねた。あらかじめ乗る列車を示し合わせておいて、船橋駅で車内合流し、日暮里で降りた。学海の墓がある谷中の墓地は南口を降りて石段を登り、数分歩いたところにある。我々はまず霊園管理事務所に立ち寄り、受付の女性事務員に学海の墓の所在を聞いた。事務員は霊園案内図を取り出して、学海の墓の所在を教えてくれた。広い霊園には番地のようなものが付されていて、依田学海の墓は乙列3号6側というところにあった。管理事務所からは目と鼻の先だ。
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