壺齋小説

 明治二年十月二十一日に会津藩士小林平格が学海先生を訪ねてきた。この男はこれまでも幾度か学海先生を訪ねたことがあった。最初に訪ねて来たのは同年一月二十六日だった。真龍院隠居慈雲院を名乗って面会を求めて来たのであったが、会って話を聞いてみると会津藩士で、同藩士林三郎の友人ということだった。林三郎は留守居仲間として親しくしていた男なので、学海先生はその友人というこの男に心を許した。用件を聞くと、佐倉藩にあずかり置かれている会津藩士と連絡を取りたいということだった。佐倉藩では新政府軍に降伏した会津藩士数名を預かっていたのである。
 版籍奉還問題は明治二年六月十七日に薩長土肥以下の諸藩主が上表したことでけりがついた。これに伴いすべての藩について版籍奉還が行われた。当然佐倉藩も藩籍奉還を進んで行った。しかし藩がすぐになくなったわけではない。藩主は知藩事に任命され、従来行っていた藩内の統治を当面は引き続き行うべきこととされた。
 学海先生の細君の弟藤井喜太郎はかねて仏国留学の抱負を抱き、その準備として一昨年の慶應三年春より横浜で勉学修行をしていた。本来ならそろそろその抱負を実現すべき時期なのだが、維新の混乱で佐倉藩には喜太郎を留学させる余裕がなくなり、喜太郎も自力では資金を調達できず、延び延びになっていた。そんな折々喜太郎は横浜から義兄を訪ねてきて、色々と興味深い話を聞かせてくれた。
 明治二年の学海先生の主な活動は公議人としてのものである。公議人は木戸孝允の肝煎りで作られた公務人の制度が端緒となり、やがて公議人と名称を変えられていたものだ。だが、木戸が言うところの万機公論の器とは名のみで、ほとんど活動らしきものはしていなかった。活動を本格化させるのは明治二年三月以降のことである。だがそれ以前より、公議人同士の情報交換などを通じて、一定の活動は見られたようである。
 翌朝日の光を感じて目を覚ますと、一緒に寝ていたはずのあかりさんがいない。光の来るほうへ目をやると、窓の桟にもたれかかった彼女の後ろ姿が見えた。何も着ていない。素裸だ。膝を立てて前かがみになったその後ろ姿は、腰のところがくびれて、幅の広い大きな臀部にがっしりした太腿が続いて見える。山小屋の中で逆行になってはいたが、その光の中に浮かび上がった彼女の姿はアマゾネスのようなたくましい生命力を感じさせた。
 英策と一緒に佐倉の祭を見て、学海先生と言葉を交わしたその数日後、小生はあかりさんと北八ヶ岳方面にハイキングした。ハイキングと言っても北八ヶ岳は二千メートルを超える山岳地帯なのでちょっとした登山だ。だから一応登山用の服装をして行った。ニッカーボッカーに皮の登山靴といったいでたちだ。茅野からアプローチし、西側から登って白駒池に一泊し、小海線方面へ下る計画を立てた。
 佐倉の祭は毎年十月十五日前後に行われる。小生は英策から久しぶりに一緒に祭見物をしないかと誘われて出かけることにした。夕方近く京成佐倉駅に着いて外に出て見ると、ちょうど駅前広場を摩賀多神社の大神輿が通りがかるところだった。白装束を着た男たちが神輿を担いでいる。神輿が余程重いと見えて男たちの足元がふらついて見えた。
 学海先生が東京を目指して京都を立ったのは明治元年十月五日のことであった。公議人は東京に集合すべしとの新政府の指示に従ったものだった。先生が藩命を受けて京都へ来たのは慶應四年二月晦日のこと。それ以来実に七か月以上が経っていた。
 明治維新は無血革命などと呼ばれることがあるが、実際には方々の戦いで合わせて一万人近くの人が死んでおり、決して無血というわけではなかった。戊辰戦争という言葉がある通り、日本は一種の内乱状況を経て、天皇を中心とする新しい国の形が出来上がったのである。この内乱状況は国民の間に深刻な分断をもたらした。したがって新政府にはこの分断を埋めるという課題が大きくのしかかっていた。この課題の解決に最大限利用されたのが天皇だった。新政府は天皇を前面に担ぎ出すことで、その権威を借りて、国民を統合しようとしたのである。
 戊辰戦争最大の山場は奥州での激突だった。俗に北越戦争とか会津戦争とか呼ばれる。新政府軍は当初奥州諸藩のうち薩長の仇敵だった会津藩と庄内藩を他の奥州諸藩に攻撃・殲滅させるつもりであったが、仙台・米沢の両藩は会津と庄内に同情し、その処分を寛大にするよう嘆願したのだった。ところが、それが拒絶されるや奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗、ここに大規模な戦争が始まったのであった。
 九月の半ば過ぎ小生はあかりさんを誘って千駄ヶ谷の国立能楽堂で能の見物をした。先日転任祝いに音楽会に招かれたお礼のつもりだった。千駄ヶ谷駅前の喫茶店で待ち合わせをし、そこでサンドイッチの軽い昼食をとったあと、肩を並べて能楽堂まで歩いた。このあたりには土地勘がある。千駄ヶ谷駅前の東京都体育館にはリニューアル後の事業課長として一年ちょっと勤めていたことがあるからだ。その折にはこの辺をよく散歩したり、津田塾の学生食堂で女学生たちにまじってランチを食べたりしたものだった。
 徳川将軍が全面降伏したあとも旧幕府側の抵抗は収まらなかった。とくに関東から東北地方の各藩には反政府意識が強く各地で新政府軍と衝突した。学海先生の日記はその衝突の情報をことこまかく記載している。
 学海先生は早速藩主一行の宿泊先を確保しなければならなかった。知らせによれば三百人もの藩士を従えているという。それを収容できる大きな施設が必用だ。色々当たってみたところ花園の妙心寺が貸してくれることとなった。妙心寺といえば禅宗の大本山で広大な境域を有している。これくらいの人数は十分に対応できる。
 学海先生は将軍慶喜の赦免を朝廷に哀訴すべく決意するや精力的に動いた。慶應四年二月十七日には諸侯の重臣を佐倉藩邸に招き、そこで慶喜のために哀訴すべきという議案を提出して一同の賛同を得た。賛同するものは譜代大名四十数藩。学海先生が哀訴状の作成を委任された。学海先生は哀訴状を作成したうえで諸藩の連判を求め、それを持参して急遽京都へ向かうことになった。
 戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いは慶應四年一月三日から六日までのわずか四日間の戦いで討幕勢力が完勝した。つまり幕府側が完敗したわけである。その幕府側は会津・桑名の藩兵が主力になっていた。鳥羽方面には桑名の藩兵が、伏見方面には会津の藩兵が中心に終結したが、それに対して討幕側は、鳥羽方面には薩摩藩兵が、伏見方面には長州藩兵が中心となって迎え撃つ形になった。朝廷の威光をかさにきた討幕側は幕府軍に撤退を求め、それでも歯向かうならば朝敵と見なして成敗すると通告したが、幕府側はそれに応じず、ついに戦端が開かれた。この戦いは数の上では幕府側が圧倒的に有利だったにかかわらず、あっさりと敗北した。それには淀・津両藩の寝返りなども影響したが、何といっても討幕側が近代的な兵器と規律の高さで優っていたという事情があった。幕府側は旧態依然とした刀・槍中心の戦い方で、指揮命令系統も徹底していなかったのである。
 お盆がやって来た。小生の両親は一昨年に相次いで亡くなった。二月に父が入院先の病院で亡くなり、六月にはやはり病気で入院していた母が亡くなった。父が亡くなったときに、妹と一緒に母のもとに行きその死を報告したら、母はおいおいと声を出して泣いた。そしてそのわずか四か月後に自分自身が亡くなったのであった。ほぼ一時に両親をなくして、小生は心のどこかに穴が開いてしまったような気がした。
 王政復古のクーデターが起きて討幕派が政治の主導権を握ったのは十二月九日のことであった。その情報の第一報が学海先生の耳に届いたのは十四日のことであった。この時点では情報はまだ断片的だった。学海先生の日記には、
「去る十日、長・防等入京の命あり、官位如故。九門の警衛を薩・土・芸・尾・越前とともに命ぜられて、既兵端を開くべきの形勢あり。将軍家危うきこといふべからず。忠節を存ずるものはすみやかに登京すべしとなり」とある。
 学海先生が兵制改革に携わったと言ったが、それにはそれなりの背景があった。十一月二日に幕府は諸侯八十四家に江戸城内外の警護を命じた。佐倉藩は雉子橋の警護を命じられた。それには浪士が江戸市中に放火して庶民を不安に陥れようとしているとの噂が市中に流れたために、庶民の不安を鎮めるという意味もあった。そしてその陰謀の陰には薩摩藩ら討幕勢力の動きがあると広く信じられていた。そこで親藩・譜代を中心に兵を江戸に集めて討幕勢力の動きに対抗したわけである。しかし諸藩がばらばらに行動するより一致して行動する方が有効だ。そのためには諸藩の兵制を統一して、できれば一元的に運用した方がよい。そういう判断があって兵制改革の議論が起こったわけなのであった。
 徳川慶喜が京都で大政奉還を上表したのは十月十三日であるが、江戸の学海先生にその情報が伝わったのは二十日のことだった。この日は諸藩の留守居仲間の親睦会が春南冥の家で予定されており、先生は朝方そこへでかける前に、京都で大事件が起こり郡山や松代の諸藩がつぎつぎと上洛していると聞いた。南冥の家につくと北沢冠岳から更に詳しいことを聞かされた。将軍が自らの不徳を恥じて政権を朝廷に奉還したというのだ。先生はこれを聞いて大いに驚き、席を立とうとしても足腰が立たないほど狼狽した。
 慶応三年の後半は幕末史最大の山場となった時期だ。幕権派と討幕派の対立が最高潮に達し、大激動ともいうべき混乱を経て、大政奉還とそれに続く王政復古の大号令が鳴り響き、倒幕派の勝利のうちにクライマックスを迎える。ここに徳川封建時代は終わり、新しい時代が幕を開けるというわけである。
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