壺齋小説

「オヌシの名はなんと言う?」 
 混乱している小生に学海先生は冷静な様子で語りかけた。
「鬼貫進一郎と言います」
「鬼貫という姓は佐倉藩士の中では聞いたことがないが、オヌシの家はいつからここに住んでおるのじゃ?」
「三十数年前からです。わたしの父親は会津の人間なのですが、たまたま仕事の都合で佐倉に住み、それ以来ここに定着したのです」
 その年の五月の飛び石連休が過ぎて新緑が日に日に深まる頃、小生は英策と誘い合わせて依田学海の墓を訪ねた。あらかじめ乗る列車を示し合わせておいて、船橋駅で車内合流し、日暮里で降りた。学海の墓がある谷中の墓地は南口を降りて石段を登り、数分歩いたところにある。我々はまず霊園管理事務所に立ち寄り、受付の女性事務員に学海の墓の所在を聞いた。事務員は霊園案内図を取り出して、学海の墓の所在を教えてくれた。広い霊園には番地のようなものが付されていて、依田学海の墓は乙列3号6側というところにあった。管理事務所からは目と鼻の先だ。
 結局小生は英策の言葉に動かされて依田学海の日記類を読んでみる気になった。日記本体の学海日録は岩波書店から十一巻本で出版されているものが新町の市立図書館にあるというので、それを借りて読んだ。墨水別墅雑録のほうは図書館に置いていなかったので、本屋から取り寄せた。借りた本は船橋のマンションで読んだ。マンションには無論荊婦がいて、その不機嫌そうな顔と毎日つきあわせになるのがつらかったが、我々はもとからあまり会話をする習慣がなかったので、毎日職場から戻ると夕食を手早くすませ、自分の部屋に閉じこもって借りて来た本を読んだ。
 その日は秋もようやく深まりつつある九月なかばの満月の日に当たっていた。旧暦でいえば八月の半ばになるから、この月は中秋の名月と言ってよい。小生の佐倉の家は、縁側を隔てて外気に直接接している。その間には雨戸のほか障子一枚しか介入するものがないから、障子をあけ放つと家の内外の境はなくなる。小生は中秋の名月とて雨戸も障子も立てないまま、天上の月とその光に煌々と照らされた庭を見やりながら、英策との歓談を楽しんでいた。
 あるとき小生は、英策を佐倉の小生の家に招いて酒を飲みながら語り明かしたことがあった。その家というのは、小生の一家が佐倉に引っ越してきたときに父が借りたもので、後に父はそれが気に入って買い取ったのだった。小生は結婚するまでその家で暮らしたが、結婚すると船橋でマンション暮らしを始め、またただ一人の妹も結婚して家を出たので、長い間両親だけで暮らしていた。その両親が昨年あいついで亡くなった後、小生はその家を売らずにそのままにしておき、時々息抜きを兼ねて風を入れるために訪れ、半ばは別荘のようにして使っていたのだった。
 依田学海という名を聞いて何か思い当たる人はほとんどいないだろう。明治の二十年代前後に演劇界にかかわったことがあるので、明治の演劇史に明るい一部の人に知られているだけではないか。彼の劇作家としての業績は、勧善懲悪風の古くさい演劇観に毒されていたようなので、今日彼を評価するものはいないに等しい。ここで「いたようなので」という曖昧な言葉を使った理由は、小生自身依田学海の演劇上の業績をひもといたことがないからで、彼の書いた戯曲が果たしてどのようなものか、確認したことがないからだ。にもかかわらず小生が依田学海に関心を持つに至ったのには別の理由がある。小生は小学生の頃に千葉県の佐倉に移住してきて以来そこで育ったのであるが、依田学海はその佐倉にゆかりのある人だと知ったことが機縁となって、興味を抱いたのだった。
かねてこのブログの記事でも予告していたとおり、小生はこのたび小説の連載を始めようと思う。題名は「学海先生の明治維新」という。小生にとっては第二の故郷というべき千葉県佐倉市の先達である依田学海を主人公とした小説だ。依田学海は彼なりの明治維新を生きた。その姿に思うところがあってこれを小説にしたいと思ったのはもうだいぶ以前のことだが、いよいよその構想を実現させるべく、この正月から筆を執り始めた。今の時点ではまだ執筆途上である。

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