日々雑感

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昨日長津川の調整池でカルガモの親子を探したところ、どこにも姿が見えなかったことをこのブログで紹介した。小生は彼らの身になにか重要なことが起ったかと心配したのだったが、家人にそのことを話したところ、野鳥は生命力が強いからきっとどこかで生きているわよと慰められた。

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梅雨入りした翌日の今日、天は晴れ渡って一点の曇りもないのを幸い、カメラを提げてカルガモの親子に会いに行った。ヒナはまだ生まれたばかりで遠出する事が出来ないことは、昨年の観察でわかっていたので、先日見た場所の付近にいるに違いないと思ってそこいらを探してみた。ところがどこにも彼らの姿が見えない。どうしたことだろう。

今夕、いつものように長津川調整池公園を散策していたら、公園の入り口の水路で久しぶりにカルガモを三羽見かけた。しばらく見なかったのでなんだかうれしくなり、浮いた心で土手を一周して戻ってくると、さきほどの所よりやや下った水路で一羽のカルガモを見かけた。これは先ほどの三羽のうちの一羽だろうか、それとも別の個体だろうかと思いながら土手をもう一周して戻ってくると、今度や二つの水路が合流する当たりでカルガモの親子を見かけた。親を囲んで六羽のヒナが泳いでいる。みな頗る元気だ。そのうちの一羽は好奇心に駆られて寄り道をする様子に見えたが、自分だけが置き去りにされていると見るや、脱兎の如き勢いで母親のところに戻った。その様子がいかにもけなげに見える。

中央公論の最新号(2018年6月号)に、山崎正和と苅部直の対談が載っていて、その中で山崎の直近の著作「リズムの哲学ノート」が話題になっている。山崎は今年84歳になるので、この本も80歳を過ぎてからの仕事だ。そのこと自体すごいなと感じるのだが、山崎はそのことを、つまり自分が年をとったことを自覚しながらこの本を書いたということに、また別のすごさを感じた。80歳を超えて一冊の、しかも哲学的な著作をすること自体のすごさもさることながら、80歳を超えた自分の老いを自覚しながら哲学し、それを文章にして一冊の著作にするというのは、いまや同じように老いんとしている筆者にとっては、つきせぬ驚きのタネである。

歌手の西城秀樹が亡くなった。享年六十三というから筆者よりも六つも若い。自分より若い人が死ぬと、今度は自分の番かと思ったりもする。年をとるとはそういうことなのだろう。

今では古典的な著作となったスウィフトの政治的パンフレット「貧民児童の有益活用についての穏やかな提案」は、今日の日本にも参考にできるものを多く含んでいる。ただしストレートに適用できるわけではない。あのパンフレットは、スウィフトが生きていた時代のアイルランドに存在していた膨大な数の貧困児童に着目し、これら児童が両親や社会の重荷になっている事態を前に、いかにしてそれを解決し、両親や社会の負担を減らすばかりか、当の児童の幸福をも増大させるかことができるか、研究・提案したものであった。しかし今の日本が直面しているのは、貧困であれそうでない場合であれ、児童の過剰ではない。むしろ児童が少ないことが問題になっているくらいである。いまの日本が直面している問題とは、老人の割合があまりにも多いことに根ざしている。さよう、今の日本においては、老人の割合がこれまでに地球上に存在した如何なる国に比較しても異常に高く、それに比べて若者や児童の割合が異常に低いのである。これを人口の逆三角形化現象と呼ぶ向きもあるし、無子高齢化と呼ぶ向きもある。

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先日のこのブログで、小生が住んでいる船橋の辺では三月二十三日に桜が開花したと書いたが、それから五日経った今日二十八日には満開となった。そこで小生はカメラを持って花見に出かけた次第だ。折から春爛漫というのを越えて、夏のような陽気だ。朝方から着ていたセーターを脱いで、シャツ一枚で家を出た。行先は小生の家の近くにある長津川公園。途中すし屋で弁当を買い、コンビニで缶ビールを買った。

 ポーランド映画:ポーランドにとっては、ドイツもソ連も侵略者だった。しかし敗戦後はソ連圏に繰り入れられたこともあって、ソ連を表立って批判する映画は作れなかった。1956年にアンジェイ・ワイダが「地下水道」を作ったが、これは表向きは対独戦を描きながらも、ソ連に対する批判も含まれていた。この映画はワルシャワ蜂起を描いたものだが、この蜂起が失敗した根本的な原因は、ソ連側がわざとワルシャワを見殺しにしたというふうに受け取られていたからだ。ワルシャワ蜂起を描くこと自体、ソ連への批判だったわけだ。
 イタリアの戦争映画:イタリアは敗戦国ではあるが、ドイツや日本とはかなり違った事情がある。ドイツと日本は、国家全体が敗者として裁かれたのであるが、イタリアの場合には、国内に反ファッショのレジスタンス勢力があって、それがムッソリーニの打倒に大きな役割を果たした。したがってイタリア人にとっての敗戦の意味は、ドイツ人や日本人とは違う、反ファッショ・レジスタンス勢力にとっては、ムッソリーニ政権の崩壊は、イタリアの敗戦ではなく、民主主義の勝利と言うことになり、その意味では、反ファッショの勝利なのである。イタリア人の中には、イタリアは実は敗戦国ではなく戦勝国だと主張するものもあるが、それは反ファッショが勝利したということに焦点を合わせた主張だ。

 講和後:日本は1952年にサンフランシスコ講和条約を結び、一応形の上では独立を回復した。そのことは映画界にも反映し、それまでGHQに遠慮してタブー視してきたようなことをとりあげる動きにつながっていった。つまり敗戦後初めて、第二次世界大戦が日本にとって持った意味を考えるようになったわけである。しかし、そこには日本独自のねじれのようなものを指摘することができる。
2 日本の戦争映画
 日本の戦争映画は、時期的に、戦時中、敗戦直後、講和以降に分けて論じるのがよいだろう。
以下は二月十三日に催された四方山話の会の席上、小生が「戦争と映画」と題して行った講演の記録である。

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平成もついに三十年目を迎えた。来年は五月に改元が予定されているので、一年まるまる平成なのは今年で最後ということになる。この節目の如き年に、筆者も満七十歳になる。正直この年まで生きるとは、十年前には思っていなかったので、ありがたいことなのか、情けないことなのか、よくはわからぬが、とりあえず命のあることを実感している次第だ。何事も命あってこそ、だ。

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TIME恒例の Person of the Year に,今年はセクハラ被害について公然と発言した女性たちを、「沈黙を破る人々 The silence breakers」と命名したうえで選出した。今年は、こうした女性たちが声を上げたおかげで、ハーヴィー・ワインシュタインとかアル・フランケンといった各界の実力者が相次いで職を失い、セクハラはかならずしも得になる行為ではないという通念を、改めてアメリカ社会に喚起した。それは本来なら当たり前のことなのだが、その当たり前のことが今までのアメリカでは当たり前でなかった。正義は踏みにじられ、悪がはびこってきたのだ。そういう憂うべきアメリカを本来の姿に立ち戻すうえで、彼女らの行為には偉大な意義がある、というのが選出理由である。

今年のノーベル文学賞を日系イギリス人のカズオ・イシグロが受賞したというので、日本中が大騒ぎだ。たしかにイシグロのノーベル賞受賞は素晴らしいことだし、彼にはその資格が十分にあると思う。筆者もすなおに喜びたいと思う。

九 正義と共通善
 ロールズの議論は、正義という上位概念を持ち込んだおかげで、自由に一定の制約があることを認めた。人間は誰でも自由を無制約に行使できるわけではない。自分だけ幸福になれば、他人のことには無関心でもよいといった考え方や、他人の犠牲のうえで自分の利益を図るといったことは許されない。何故なら、そういうことは正義に反しているからだ。この場合、ロールズが正義という言葉で意味しているものは、ほとんど平等ということに近い。人間は、能力の上では不平等に生まれてくるものだが、だからといって、差別されてもよいということにはならない。まして、能力以外の要素、たとえば人種とか思想信条とかによって、差別されてはならない。人間は、自分の意志でコントロールできない要素について差別されるべきではない。何故なら、人間は基本的には平等に作られているものであって、それを否定することは人間の尊厳を踏みにじるものだからだ。ここからしてロールズの正義論からは、人間の自由の行使は、他人の自由を踏みにじらない範囲に制約されるという考えが生まれてくるわけだ。
7 ケルゼンの自由主義的民主主義論
 民主主義と自由主義とは本来異なる概念であり、両者は必ずしも密接に結びつくべき必然性を持たないとするシュミットの主張とは対照的に、民主主義と自由主義とは、歴史的に密接に結びついてきたばかりか、理論的にも結びつくべき運命にあると主張する立場もある。ハンス・ケルゼンはその代表である。ケルゼンは、民主主義というものは、自由と平等を目的としており、定義からして自由主義と不可分のものであると主張した(ケルゼンの議論は「デモクラシーの本質と価値」に手際よく要約されている)。彼も、議会主義が必ずしも民主主義と必然の結びつきをもたないとする点ではシュミットと一致するが、しかし彼のいう議会は、民主主義を実現するための一つの手段として観念されており、シュミットの言うような意味での、自由主義のための機関ではない。
5 シュミットによる自由主義批判
 議会主義と、その基盤となる自由主義についてこのように整理したうえでシュミットは、自分自身の立場を明らかにする。それを簡単に要約していうと、権力の集中と国家の役割の拡大というものである。

3 シュミットの民主主義論
 ここでテクストの「現代議会主義の精神的状況」を踏まえながら、シュミットの民主主義論がはらんでいる問題について考えてみたい。
 四方山話の会の平成廿九年九月の例会で、筆者は「民主主義と正義」をテーマにして、一時間ほど話をした。以下はその際に用いた原稿である。このテーマを筆者が選んだ理由は、本文にも触れているとおり、近年民主主義という言葉が安易に使われ、その結果人々が民主主義について鈍感になっているとの危惧を抱いたことによる。そこで、民主主義という概念の内包と外延を明らかにすることで、民主主義についての人々の認識を曇りのないものにしたい、そう願ったわけである。その際にシュミットを議論の手がかりにしたのは、シュミットが民主主義を以て独裁を基礎づけたことで、民主主義の問題点を逆説的に解明したと考えるからだ。以下、筆者の議論の内容を五回にわけて紹介したい。

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