日本の美術

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「柳下鬼女図屏風」は、鬼女を描いた作品。蕭白らしいモチーフである。木枯らしが吹きすさぶ中、柳の木陰に鬼女がたたずんでいる。背後を振り返っているように見えるのは、何かに未練があるからか。柳の木は強風に煽られてかしいでいるが、柔軟なために折れることはない。

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曽我蕭白は「寒山拾得」をモチーフにした作品を幾つか手がけているが、これはもっとも古い時期の作品。絵の様式が「久米仙人図屏風」のそれとよく似ているところから、ほぼ同時期のものと推測される。二曲一双の体裁である。

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ボストン美術館蔵の「久米仙人図屏風」は、現存する曽我蕭白の作品として作成年代が特定できる最古のもの。画中の落款に「平安散人曽我蕭白藤原暉雄行三十歳図之」とあることから、宝暦九年(1759)満二十九歳の時の作品である。暉雄は蕭白の本名だが、藤原にはたいした根拠はない。ただ、平安は京都を意味しているので、自分を京都の出身と主張していることは間違いない。

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曽我蕭白といえば、無頼とか奇怪といった言葉が付きまとう。時には狂人と呼ばれたりもする。それには、蕭白を最初に本格的に研究した辻惟雄が、岩佐又兵衛らと並んで蕭白を「奇怪の系譜」に位置づけたという事情もある。たしかに蕭白の絵には、奇怪という言葉が相応しい作品が多い。なかには、明らかに酔っ払って描いたものも指摘される。人柄が絵に出ているという推測から、そんな奇怪な絵を描く画家は人物も奇怪に違いないと思われがちである。

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「黄粱一炊図」は、崋山の絶筆とされる作品。中国の故事「邯鄲の夢」に取材している。邯鄲の夢は、黄粱一炊ともいわれ、黄粱が炊き上がるまでの短い時間に、盧生という青年が見た長い夢のことをいう。その夢の中では、実に多くの出来事があり、非常に長い時間が過ぎたように感じられたが、実は黄粱が炊き上がるまでの非常に短い時間だった。人の生涯とは、それに似てはかないものだという寓意を込めている。

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「蟲魚帖」は、崋山が田原蟄居中に、身辺の小生物を写生した画帳である。十二図からなり、それぞれに漢詩の墨書が添えられている。これらを崋山は、まず稿本の形で準備作業をしたうえで、正式な画帳にして、門人の椿椿山に贈っている。椿山なら、これらの絵に込めた自分の命をわかってくれるだろうと期待したからだが、しかし、その気持ちを公にしないで欲しいとも断っている。

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「月下鳴機図」は、崋山最晩年、天保十二年の作である。おそらく求められて描いたのであろう。タイトルの「月下鳴機図」には、英明な君主の存在が暗示されているところから、田原藩主への捧げものかもしれない。

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「千山万水図」は、最晩年の崋山の心境を絵に託したものだと言われている。描かれているのは三浦半島で、その周辺を行く船は外国船だという解釈にたち、日本の海防の必要性を訴えたのではないかというのである。そう思えないこともないが、あるいは考えすぎかもしれない。

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「海錯図」も天保十一年蟄居中の作。「海錯」とは、生みのめぐみといったほどの意味。蟄居した田原は、愛知県の渥美半島にあり、海が近かったので、「海錯」が豊富だった。崋山は罪人扱いとはいえ、日頃から人々に敬愛されていたので、海の幸を差し入れする人も多かったと思われる。

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渡辺崋山が蛮社の獄に巻き込まれたのは天保十年のこと。その年の5月に逮捕・拘禁され、取り調べを経て、年末の12月にお裁きが下った。仲間の高野長英が禁固刑を食らったのに対して、崋山は田原藩あずかりのうえ蟄居という比較的軽い刑で済んだ。翌年の正月、崋山は田原に赴き、そこで藩が用意した家屋に住んで蟄居するという形をとった。

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崋山は南画風の山水画にはあまり関心を寄せてはいなかった。風景は描いたが、南画風には描かずに、写実を心掛けた。「渓山細雨図」と題するこの絵は、崋山としては数少ない南画風の山水画である。

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崋山は儒者としての教育を受け、また終生儒者たちと交わったので、孔子に親しんだことはいうまでもない。そんな彼が、求めに応じて描いたのが、この孔子像である。依頼してきたのは、田原藩の藩校成彰館。納入された作品は、藩校の講堂に掲げられた。

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「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。

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「渓澗野雉図」は、崋山の花鳥図の大作。渓澗すなわち谷川に羽を休める雉の夫婦を描いている。オスは身を乗り出して、谷川の水を飲もうとし、メスはオスの背後に安らってオスの方を見つめている。長閑な光景である。

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市河米庵は、漢詩人市河寛斎の長男で、自身漢詩人であったとともに、幕末を代表する書家であった。篆刻を好み、全国に50以上の石碑が残されている。崋山との関係は、あまり深いものではなかったらしい。崋山が蛮社の獄で捕らえられ、証人尋問を受けた時には、そんな画家は知らぬと答えたそうだ。絵画が二人を結びつけていたようだ。

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「鷹見泉石像」は、崋山肖像画の最高傑作である。この肖像画を崋山は、天保八年に描いたと款に記したが、考証の結果異論が出されている。その時期泉石は大阪に住んでいた。また画中に描かれている脇差に藩主の門がついており、その脇差が付与された時期などから、天保十二年の作である可能性が強いという指摘がある。

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滝沢琴嶺は、馬琴の長男である。崋山とは、画家金子金陵門の同輩である。後に崋山の肖像画を描いた椿椿山も、金陵の同門だった。崋山は琴嶺と付き合う一方、その親の馬琴とも、親しい友人になった。その馬琴に依頼される形で、琴嶺像を描いたのである。

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松崎慊堂といえば、小生などは「慊堂日歴」がまず思い浮かぶ。この日記は荷風散人も愛読していたもので、徳川時代後期における武士の生活ぶりがよくうかがわれるものである。渡辺崋山との関係で言えば、蛮社の獄で崋山が窮地に立たされたときに、崋山の行く末を案じる気持ちを記している。

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(釜原)

渡辺崋山は、文政八年(1825)武蔵、下総、常陸、上総の各地に遊び、旅の風景などをスケッチした。「四州真景図」として今日に伝わっている。これは幅12~14センチの巻物に、墨で自在にスケッチし、それに淡彩を施したものだ。風景を見る崋山の視線がなかなか科学性のようなものを感じさせる。

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「白鵞遊魚図」と題するこの絵を、崋山は文政六年(1823)に田原藩主に献上したと思われる。款記に「臣渡辺登謹写」とあるからである。崋山は、文政二年に和田倉門の修築工事監督を仰せつかって、文政六年にその仕事を終えた。この絵は、その崋山をねぎらう藩主の謁見のさいに、献上されたのであろう。

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