哲学とは何かという、ドゥルーズの晩年に到来した問にたいして、かれはそれを、「哲学とは概念を創造することである」と答える。そこで概念という言葉が何を意味するかが問題になる。ドゥルーズは例によって、真正面から答えないし、厳密な定義にこだわりもしない。とりあえず、一つの言葉として提示するのである。その厳密な内実は、そのうちおいおい明らかにすればよいと考えているようである。

dufy26.1.La Jetée et la promenade de Nice.jpeg

「ニースの桟橋(La jetée, promenade à Nice)」と題されたこの絵は、カジノで有名なニースの海岸風景を描いた作品。ニースはイタリアとの国境に近い地中海の沿岸の町。近くには映画祭で有名なカジノ都市カンヌや、やはりカジノで有名なモナコがあるので、このあたりはカジノの天国といってよい。

樋口一葉の作家としての代表作は「たけくらべ」以下の五編の短編小説であるが、そのうち「大つごもり」は最初に書かれた。明治二十七年(1984)十二月発売の雑誌「文学界」に発表。一葉は満二十二歳であった。

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2015年公開の映画「幕が上がる(本広克行監督)」は、平田オリザ原作の青春小説を映画化した作品。平田がかかわった高校の演劇活動をテーマにしている。女子高校生らが、演劇に身を捧げ、全国大会優勝をめざしてがんばる姿を描いている。主演のほか、有力な役柄を、当時人気のあったタレント・グループ「ももいろクローバーZ」のメンバーが演じているというので、評判になった。

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「ル・アーヴルに寄港するイギリス艦隊(La Visite de la flotte britannique au Havre)」と題されたこの絵は、デュフィの故郷であるル・アーヴルの光景を描いた作品。ル・アーヴルはドーヴァー海峡に面しているので、イギリスの船がよくやってきた。デュフィは子供のころからその眺めに親しんでいた。この絵には、そうしたデュフィの親しみの感情がよく表れている。

japan2015.aeka.jpeg

中村祐子の2015年の映画「あえかなる部屋 内藤礼と光たち」は、造形美術家内藤礼の創作を追うドキュメンタリー映画という触れ込みだが、中途半端な作品になっている。肝心の内藤礼が、自分の姿を撮らせようとしないし、また、途中で取材に非協力的になってしまうので、ドキュメンタリー映画としての制作継続が不可能になった。そこで、内藤とは関係のない人物を複数登場させて、それぞれの生き方を語らせるというやり方に切り替えた。そんなわけで、内藤礼についてのドキュメンタリー映画とは言えないものになっている。

アメリカ大統領選はトランプの勝利をもたらした。そのトランプを小生はかねがね不良老人と呼んで、批判してきた。一方、現職のバイデンを小生はボケ老人と呼んで、かれのあやふやな立居振舞にあきれかえってきた。先般この二人が討論会に臨んだ際には、たがいに相手を口汚く罵りあうのみなので、そのさまを「ボケ老人と不良老人の罵りあい」と表現した。この二人のうち、ボケ老人が去って、不良老人がアメリカの大統領に復帰することになった。その前に、不良老人に対してバイデンの副大統領カマラ・ハリスが立ち向かったのであったが、力不足は明らかで、ねじ伏せられた。ハリスはバイデンのコピーのように見なされて、独自の存在感を示すことができなかった。存在感の希薄なものに、権力は担えない。

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1920代の前半にデュフィは馬をモチーフにした作品を数多く手がけた。「サーカスの馬(Chevaux de cirque)と題されたこの絵は、その代表的なもの。これは、紙にアクリル絵の具で描いたものだが、ほかにカンバスに油彩で描いたものもある。こちらのほうが、当時のデュフィの画風をよくあらわしていると思われる。

japan2013.kawaki.jpeg

中島哲也の2013年の映画「渇き」は、崩壊した家庭を立て直そうとして、かえって家族の関係を一層悪くするという悪循環に悩む元刑事を描いた作品。中島は「告白」(2010)では、娘をいじめ殺された教師が、いじめた連中に復讐するさまを描き、それを陰惨な暴力シーンの連続で表現していた。この「渇き」では、暴力は一層エスカレートした形で表現されている。それはおそらく日本社会の暴力化が反映されているのであろう。小生は、韓国映画の暴力礼賛的な傾向に日本の映画が影響されている可能性があると考えている。韓国映画の暴力礼賛的な傾向は、社会の深刻な分断を反映していると思われるが、その分断が日本でも深刻化しているのではないか。

正法眼蔵第六十四は「優雲華」の巻。優雲華とは、仏教の教えでは、三千年に一度咲くという非常に珍しい花のこと。その珍しい花に、仏の教えの珍しさをたとえた。だが、道元は別の考えかたをする。仏の教えは決して珍しいものではなく、つねに仏祖から仏祖へと伝えられていると説くのである。

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「哲学とは何か」は、この二人にとって最後のコンビネーション作品であり、ドゥルーズにとっては最後の哲学的著作である。彼が窓から投身自殺するのは、この著作の刊行後四年後のことである。その最後の哲学的著作を「哲学とは何か」と題したのはどういうことか。まず、それが読者には問題に思える。というのは、ドゥルーズが生涯をかけて追及してきたことが、西洋の伝統哲学の解体であり、その解体の跡に彼独自の「哲学」を構築することだったということを、われわれ読者は知っているからである。にもかかわらずドゥルーズが(ガタリとともに)この著作の中で展開している議論は、ほかならぬかれがその解体を目指した西洋の伝統的哲学についての新たな品定めなのである。そんなことを(ドゥルーズの最後の仕事としては)我々は期待していなかったので、なんだかはぐらかされたような気に陥らざるをえない。

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1910代の後半から1920年頃にかけて、デュフィーは自分自身の独自の画風の確立に取り組んでいた。それはキュビズムやフォーヴィズムあるいは表現主義といった運動とは一線を画して、自分にしか描けないような絵でなければならなかった。「ヴァンスの噴水(La fontaine de Vence)」と題されたこの絵は、そうした努力から生まれたものである。

樋口一葉と聞けば大方の日本人は、平安時代の王朝風の女流文学の伝統を受け継ぎ、明治という時代に和文で創作した最後の作家というようなイメージを思い起こすだろう。その作品は、抒情的な雰囲気を以て人間とりわけ女性たちの心理の機微を描いたというふうにみなされる。そういう見立てのもとでは、一葉は明治の時代に源氏物語の世界を再興したと言われがちである。そういう見方を流布したのは森鴎外と幸田露伴であった。鴎外らは、一葉の小説「たけくらべ」が一年にわたる断続的連載を終えて、全編一機に掲載されたのを受けて、雑誌「めさまし草」の文芸批評欄「三人冗語」の場で、一葉の才能を絶賛したのだった。その際にかれらが持ち出した批評の基準が、抒情性とか日本的な美的感性といったものであった。一葉は抒情性の豊かな、日本的な美的感性を表出した作家というふうにカテゴライズされたのである。そうした一葉の見方は、その後の批評の大きな準拠枠となった。いまでも一葉をそうした作家として単純化する見方が支配的である。

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2020年のアメリカ映画「ノマドランド(Nomadland クロエ・ジャオ監督)」は、アメリカにおける車上生活者をテーマにした作品。タイトルのノマドは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが流行させた言葉で、定住しない遊動民を意味している。それは当事者の意思にもとづく選択としての遊動なのだが、この映画の中の車上生活者は、外的な事情によってその生活を強要された人々である。かれらはヴァンやキャンピングカーに乗って、そこらじゅうを放浪しながら、日雇いの仕事で糊口をしのいでいる。ある種のホームレスといえなくもないが、当事者はホームレスだとは思っていない。ハウスレスではあるが、ホームレスではないというのだ。ハウスレスとホームレスのどこが違うのか。

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デュフィはモーツァルトを敬愛していて、十数点の「モーツァルト頌」を制作している。1915年のこの作品は水彩画で、かれのモーツァルトへの敬愛がよく表現されたものだ。これを描いた頃のデュフィは、自分自身の画風の確立に向けて試行錯誤を続けていた。それまでは、表現主義の雰囲気を濃厚に感じさせるものが多かった。この絵には、それとは違った軽快さがうかがわれる。

usa2019.once.jpeg

2019年のアメリカ映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(Once Upon a Time in... Hollywood クエンティン・タランティーノ監督)」は、落ち目になった俳優とそのスタントマンの冴えない日々を描いた作品。それにシャロン・テート事件をからませてある。だが、事実をかなり修正してある。マンソンの一味はシャロンを襲うかわりに主人公の冴えない俳優を襲い、逆襲されて叩きのめされることになっている。シャロンは無論死なない。だから、シャロン事件はただのさしみのつま扱いだ。

dufy14.1.cavalier.jpg

「青い騎士(Le cavalier bleu)」と題されたこの絵は、タイトルからして、ドイツ表現主義を連想させる。アウグスト・マッケやエミール・ノルデらが1911年に結成した表現主義運動は「青い騎士(Blaue reiter)」と称していた。デュフィはそれに敬意を表してこの絵を描いたのであろう。

usa2013.gatsby.jpeg

2013年のアメリカ映画「華麗なるギャツビー(The Great Gatsby バズ・ラーマン監督)」は、スコット・フィッツジェラルドの同名の小説を映画化した作品。原作は20世紀アメリカ文学を代表する作品という評価が定着しており、村上春樹などはアメリカ文学の最高傑作とまで言っている。小生はかならずしもそうは思わない。俄か成金の失恋をテーマにした原作は、アメリカンドリームを感じさせる点ではアメリカ人好みではあるだろうが、そんなものに興味を感じない人間には、ただの失恋物語にしか見えない。「ウェルテル」のような若い男の失恋なら多少の色気も感じられるが、三十を越した俄か成金の失恋に共感するわけにはいかない。

正法眼蔵第六十三は「発菩提心」の巻。「発菩提心」と題する巻はもう一つある。追加十二巻のうちの第四巻だ。岩波文庫の旧版では、本体第六十三は「発無上心」と題していた。それが「発菩提心」と変えられたのは、本文の趣旨を踏まえたからだろう。本文を読むと、「発無上心」とか「無上心」といった言葉は一切出てこず。もっぱら「発菩提心」という言葉が頻出するのである。

ドゥルーズは、フーコーが普遍的なものや永遠なものにあまり重要性を与えなかったことに注目している。現代社会に生きている欧米人にとっては、人権とか資本主義といった概念は普遍的でかつ永遠なものとして無条件に受け入れられるが、実は条件づけられた概念なのだというのがフーコーの考えである。どんな知も条件付けられている。その条件付けは歴史的な背景を持っている。つまりどんな知も一定の歴史的な環境を前提としているのであって、その環境が異なれば、知の体系もおのずから異なる。だから歴史を超越した普遍とか永遠なるものはない。ある時代に生きている人間が、自分らの知の体系を普遍的で永遠なものとして受け取るのは、その知の体系の中にからめとられているからだ、というのがフーコーの基本的な考えである。だから、普遍的なものが知を基礎づけるのではなく、ある時代に支配的な知が己を普遍的と名付けるのである。そのことをドゥルーズ=フーコーは「普遍的なものは後から来る」と言っている。

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続 壺 齋 閑 話
哲学とは何かという、ドゥルーズの晩年に到来した問にたいして、かれはそれを、「哲学とは概念を創造することである」と答える。そこで概念という言葉が何を意味するかが問題になる。ドゥルーズは例によって、真正面から答えないし、厳密な定義にこだわりもしない。とりあえず、一つの言葉として提示するのである。その厳密な内実は、そのうちおいおい明らかにすればよいと考えているようである。

dufy26.1.La Jetée et la promenade de Nice.jpeg

「ニースの桟橋(La jetée, promenade à Nice)」と題されたこの絵は、カジノで有名なニースの海岸風景を描いた作品。ニースはイタリアとの国境に近い地中海の沿岸の町。近くには映画祭で有名なカジノ都市カンヌや、やはりカジノで有名なモナコがあるので、このあたりはカジノの天国といってよい。

樋口一葉の作家としての代表作は「たけくらべ」以下の五編の短編小説であるが、そのうち「大つごもり」は最初に書かれた。明治二十七年(1984)十二月発売の雑誌「文学界」に発表。一葉は満二十二歳であった。

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2015年公開の映画「幕が上がる(本広克行監督)」は、平田オリザ原作の青春小説を映画化した作品。平田がかかわった高校の演劇活動をテーマにしている。女子高校生らが、演劇に身を捧げ、全国大会優勝をめざしてがんばる姿を描いている。主演のほか、有力な役柄を、当時人気のあったタレント・グループ「ももいろクローバーZ」のメンバーが演じているというので、評判になった。

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「ル・アーヴルに寄港するイギリス艦隊(La Visite de la flotte britannique au Havre)」と題されたこの絵は、デュフィの故郷であるル・アーヴルの光景を描いた作品。ル・アーヴルはドーヴァー海峡に面しているので、イギリスの船がよくやってきた。デュフィは子供のころからその眺めに親しんでいた。この絵には、そうしたデュフィの親しみの感情がよく表れている。

japan2015.aeka.jpeg

中村祐子の2015年の映画「あえかなる部屋 内藤礼と光たち」は、造形美術家内藤礼の創作を追うドキュメンタリー映画という触れ込みだが、中途半端な作品になっている。肝心の内藤礼が、自分の姿を撮らせようとしないし、また、途中で取材に非協力的になってしまうので、ドキュメンタリー映画としての制作継続が不可能になった。そこで、内藤とは関係のない人物を複数登場させて、それぞれの生き方を語らせるというやり方に切り替えた。そんなわけで、内藤礼についてのドキュメンタリー映画とは言えないものになっている。

アメリカ大統領選はトランプの勝利をもたらした。そのトランプを小生はかねがね不良老人と呼んで、批判してきた。一方、現職のバイデンを小生はボケ老人と呼んで、かれのあやふやな立居振舞にあきれかえってきた。先般この二人が討論会に臨んだ際には、たがいに相手を口汚く罵りあうのみなので、そのさまを「ボケ老人と不良老人の罵りあい」と表現した。この二人のうち、ボケ老人が去って、不良老人がアメリカの大統領に復帰することになった。その前に、不良老人に対してバイデンの副大統領カマラ・ハリスが立ち向かったのであったが、力不足は明らかで、ねじ伏せられた。ハリスはバイデンのコピーのように見なされて、独自の存在感を示すことができなかった。存在感の希薄なものに、権力は担えない。

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1920代の前半にデュフィは馬をモチーフにした作品を数多く手がけた。「サーカスの馬(Chevaux de cirque)と題されたこの絵は、その代表的なもの。これは、紙にアクリル絵の具で描いたものだが、ほかにカンバスに油彩で描いたものもある。こちらのほうが、当時のデュフィの画風をよくあらわしていると思われる。

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中島哲也の2013年の映画「渇き」は、崩壊した家庭を立て直そうとして、かえって家族の関係を一層悪くするという悪循環に悩む元刑事を描いた作品。中島は「告白」(2010)では、娘をいじめ殺された教師が、いじめた連中に復讐するさまを描き、それを陰惨な暴力シーンの連続で表現していた。この「渇き」では、暴力は一層エスカレートした形で表現されている。それはおそらく日本社会の暴力化が反映されているのであろう。小生は、韓国映画の暴力礼賛的な傾向に日本の映画が影響されている可能性があると考えている。韓国映画の暴力礼賛的な傾向は、社会の深刻な分断を反映していると思われるが、その分断が日本でも深刻化しているのではないか。

正法眼蔵第六十四は「優雲華」の巻。優雲華とは、仏教の教えでは、三千年に一度咲くという非常に珍しい花のこと。その珍しい花に、仏の教えの珍しさをたとえた。だが、道元は別の考えかたをする。仏の教えは決して珍しいものではなく、つねに仏祖から仏祖へと伝えられていると説くのである。

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「哲学とは何か」は、この二人にとって最後のコンビネーション作品であり、ドゥルーズにとっては最後の哲学的著作である。彼が窓から投身自殺するのは、この著作の刊行後四年後のことである。その最後の哲学的著作を「哲学とは何か」と題したのはどういうことか。まず、それが読者には問題に思える。というのは、ドゥルーズが生涯をかけて追及してきたことが、西洋の伝統哲学の解体であり、その解体の跡に彼独自の「哲学」を構築することだったということを、われわれ読者は知っているからである。にもかかわらずドゥルーズが(ガタリとともに)この著作の中で展開している議論は、ほかならぬかれがその解体を目指した西洋の伝統的哲学についての新たな品定めなのである。そんなことを(ドゥルーズの最後の仕事としては)我々は期待していなかったので、なんだかはぐらかされたような気に陥らざるをえない。

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1910代の後半から1920年頃にかけて、デュフィーは自分自身の独自の画風の確立に取り組んでいた。それはキュビズムやフォーヴィズムあるいは表現主義といった運動とは一線を画して、自分にしか描けないような絵でなければならなかった。「ヴァンスの噴水(La fontaine de Vence)」と題されたこの絵は、そうした努力から生まれたものである。

樋口一葉と聞けば大方の日本人は、平安時代の王朝風の女流文学の伝統を受け継ぎ、明治という時代に和文で創作した最後の作家というようなイメージを思い起こすだろう。その作品は、抒情的な雰囲気を以て人間とりわけ女性たちの心理の機微を描いたというふうにみなされる。そういう見立てのもとでは、一葉は明治の時代に源氏物語の世界を再興したと言われがちである。そういう見方を流布したのは森鴎外と幸田露伴であった。鴎外らは、一葉の小説「たけくらべ」が一年にわたる断続的連載を終えて、全編一機に掲載されたのを受けて、雑誌「めさまし草」の文芸批評欄「三人冗語」の場で、一葉の才能を絶賛したのだった。その際にかれらが持ち出した批評の基準が、抒情性とか日本的な美的感性といったものであった。一葉は抒情性の豊かな、日本的な美的感性を表出した作家というふうにカテゴライズされたのである。そうした一葉の見方は、その後の批評の大きな準拠枠となった。いまでも一葉をそうした作家として単純化する見方が支配的である。

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2020年のアメリカ映画「ノマドランド(Nomadland クロエ・ジャオ監督)」は、アメリカにおける車上生活者をテーマにした作品。タイトルのノマドは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが流行させた言葉で、定住しない遊動民を意味している。それは当事者の意思にもとづく選択としての遊動なのだが、この映画の中の車上生活者は、外的な事情によってその生活を強要された人々である。かれらはヴァンやキャンピングカーに乗って、そこらじゅうを放浪しながら、日雇いの仕事で糊口をしのいでいる。ある種のホームレスといえなくもないが、当事者はホームレスだとは思っていない。ハウスレスではあるが、ホームレスではないというのだ。ハウスレスとホームレスのどこが違うのか。

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デュフィはモーツァルトを敬愛していて、十数点の「モーツァルト頌」を制作している。1915年のこの作品は水彩画で、かれのモーツァルトへの敬愛がよく表現されたものだ。これを描いた頃のデュフィは、自分自身の画風の確立に向けて試行錯誤を続けていた。それまでは、表現主義の雰囲気を濃厚に感じさせるものが多かった。この絵には、それとは違った軽快さがうかがわれる。

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2019年のアメリカ映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(Once Upon a Time in... Hollywood クエンティン・タランティーノ監督)」は、落ち目になった俳優とそのスタントマンの冴えない日々を描いた作品。それにシャロン・テート事件をからませてある。だが、事実をかなり修正してある。マンソンの一味はシャロンを襲うかわりに主人公の冴えない俳優を襲い、逆襲されて叩きのめされることになっている。シャロンは無論死なない。だから、シャロン事件はただのさしみのつま扱いだ。

dufy14.1.cavalier.jpg

「青い騎士(Le cavalier bleu)」と題されたこの絵は、タイトルからして、ドイツ表現主義を連想させる。アウグスト・マッケやエミール・ノルデらが1911年に結成した表現主義運動は「青い騎士(Blaue reiter)」と称していた。デュフィはそれに敬意を表してこの絵を描いたのであろう。

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2013年のアメリカ映画「華麗なるギャツビー(The Great Gatsby バズ・ラーマン監督)」は、スコット・フィッツジェラルドの同名の小説を映画化した作品。原作は20世紀アメリカ文学を代表する作品という評価が定着しており、村上春樹などはアメリカ文学の最高傑作とまで言っている。小生はかならずしもそうは思わない。俄か成金の失恋をテーマにした原作は、アメリカンドリームを感じさせる点ではアメリカ人好みではあるだろうが、そんなものに興味を感じない人間には、ただの失恋物語にしか見えない。「ウェルテル」のような若い男の失恋なら多少の色気も感じられるが、三十を越した俄か成金の失恋に共感するわけにはいかない。

正法眼蔵第六十三は「発菩提心」の巻。「発菩提心」と題する巻はもう一つある。追加十二巻のうちの第四巻だ。岩波文庫の旧版では、本体第六十三は「発無上心」と題していた。それが「発菩提心」と変えられたのは、本文の趣旨を踏まえたからだろう。本文を読むと、「発無上心」とか「無上心」といった言葉は一切出てこず。もっぱら「発菩提心」という言葉が頻出するのである。

ドゥルーズは、フーコーが普遍的なものや永遠なものにあまり重要性を与えなかったことに注目している。現代社会に生きている欧米人にとっては、人権とか資本主義といった概念は普遍的でかつ永遠なものとして無条件に受け入れられるが、実は条件づけられた概念なのだというのがフーコーの考えである。どんな知も条件付けられている。その条件付けは歴史的な背景を持っている。つまりどんな知も一定の歴史的な環境を前提としているのであって、その環境が異なれば、知の体系もおのずから異なる。だから歴史を超越した普遍とか永遠なるものはない。ある時代に生きている人間が、自分らの知の体系を普遍的で永遠なものとして受け取るのは、その知の体系の中にからめとられているからだ、というのがフーコーの基本的な考えである。だから、普遍的なものが知を基礎づけるのではなく、ある時代に支配的な知が己を普遍的と名付けるのである。そのことをドゥルーズ=フーコーは「普遍的なものは後から来る」と言っている。

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