上の絵は、クリムトが1917-18年に描いた未完の肖像画、モデルはヨハンナ・シュタウデという女性である。今ベルリンで開催中の美術展「ウィーン・ベルリン:二都の美術展」に展示されている。この美術展は、19世紀末から20世紀初頭にかけてのベルリンとウィーンを舞台に活躍した画家たちの作品をとりあげることによって、この二つの都市がコラボレートすることで、ドイツ圏の美術を高めていった過程をクローズアップさせている。
2013年10月アーカイブ
中編小説「海辺の光景」は、安岡章太郎の代表作という評価が高い。村上春樹もそのように評価している。「ガラスの靴」以来安岡が追及してきた私小説的な世界の一つの到達点としてだ。この小説を境にして、安岡の作風は大きな変化を見せるようになる。
釣狐は雑狂言(集狂言)の一つで、狐を主人公にした話である。ウツボ猿が狂言師としてのデビューの舞台で演じられるのに対して、独り立ちの記念として演じられることで知られる。狂言としては非常に長く、一時間以上に及ぶ。また、大小の鼓を入れ、中入の前後で面と衣装を変えるなど演出に凝っている。演劇性の高い狂言である。
清水宏はいまでは忘れられたも同然の存在になってしまったが、日本映画の黎明期を支えた監督の一人として、数々の名作を作った。彼の映画の大きな特徴は、子供に視線を向けていることで、古き時代の日本の子供たちを生き生きと描きだしていた。その子供好きは映画の世界を飛び越えて、実生活にも及んでおり、戦後の混乱期には親を失った浮浪児たちを自分の手で養っていたほどだという。
丸谷才一と山崎正和の対談「日本語の21世紀のために」を読んでいたら、面白い話題が出て来た。2000年にも及ぶ日本語の歴史を通じて、日本語の変わらぬアイデンティティともいえるものがあるとすれば、それは何か、という問題意識を山崎が投げかけ、それについて、ふたりが興味深い議論をしているのである。
アダムとエヴァと同じように、一対の男女をテーマにしたものに、アポロンとディアナがある。アダムとエヴァが人類最初の夫婦であり、したがってセックスと結びついているのにたいして、アポロンとディアナは、ローマ神話の上では兄妹となっており、したがって二人の間にセックスを連想させるものは生じない。そこが、同じく一対の男女であっても、アダムとエヴァとの決定的な差である。
福島第一原発事故に伴う放射能の除染費用の大部分の支払いを東電が拒否しているのだそうだ。朝日によると、環境省は現在までに計404億円を請求したが、東電が支払ったのはそのうち67億円。残りの部分は支払うつもりがないようだ。それに対して国の方では、いまのところ黙認する姿勢をとっているらしい。
コクトーの八つの歌から「目覚め(Réveil)」(壺齋散人訳)
ライオンたちの厳かな口
若ワニたちのしとやかな笑い
なにもかも流し去る
川の流れ
スパイスの島々
このすてきな男の子は
やもめの女王と
船乗りの子どもだ
船乗りがサイレンを置いていった
そのさびしいうなり声が
島の南にひびく
それは兵営の中庭に鳴り渡るラッパだ
短すぎる夢だったよ
消えそこなったランタンのような夜明け
さあ 起きよう
ぼろぼろのファンファーレだ
先日、ギリシャで青い目をした白人の少女がロマ人夫妻のところで発見され、その後その夫婦が誘拐罪で逮捕された事件がきっかけになって、ヨーロッパでは新たなロマ迫害の動きが広がっているようだ。ロマ迫害はここ10年以上にわたってヨーロッパ各国で強まってきており、フランスなど従来ロマに比較的寛大だった国でも、違法居住を理由に国外追放するケースも目立ってきていたところ、この事件がそうした動きを煽るのではないかと、アムネスティなども懸念しているという。
陸游の七言律詩「八十四吟」(壺齋散人注)
七十人稀到 七十すら人稀に到るに
我過十四年 我過ぐること十四年なり
交遊無輩行 交遊 輩行する無く
懐抱有曾玄 懐抱 曾玄有り
飲敵騎鯨客 飲んでは敵す騎鯨の客
行追縮地仙 行は追ふ縮地の仙
城南春事動 城南 春事動き
小蹇又翩翩 小蹇 又翩翩たり
アメリカによる各国首脳への盗聴疑惑が大きな問題となっている。先日はドイツのメルケル首相の携帯電話がオバマ大統領によって盗聴されていた可能性が指摘され、メルケル首相自らオバマに電話をかけ、事実関係の確認と、こうした行為は絶対に受け入れられない旨の表明を行ったそうだが、オバマの方では、自分はそんなことをしてはいないし、これからもするつもりはないと言って、とぼけたそうである。
アダムとエヴァも、クラナッハが好んで取り上げたテーマであり、30点ばかりが現存している。二枚の画面に別々に描かれたものと、一枚の画面に並んで描かれたものに別れるが、後者のほうがクラナッハらしさをより感じさせる。
丸山真男が「日本の思想」の中で展開した議論の中で、「実感信仰」とともに最も大きなインパクトを与えたものは「ササラ型とタコツボ型」の対比を巡るものであろう。(日本の思想第三章「思想のあり方について」)
戦争文学の中でも兵営での日常の軍隊生活に焦点をあてたものとしては、野間宏の「真空地帯」と安岡章太郎の「遁走」が二大傑作ということになっているようだ。しかしこの二つの作品は、同じようなテーマを描いておりながら、その描き方は大分異なっている。野間の方がいわゆる告発調で、軍隊生活の不条理さを客観的な視点から浮かび上がらせようとしているのに対して、安岡の方は、軍隊での生活を、そこに生きている当事者の視点から、淡々と描いている。野間が外部から覗きこんでいるのに対して、安岡は内部から打ち明けている、そんなふうに受け取れる。
内田吐夢は日本映画の黎明期を担った監督の一人で、溝口健二などとともに、リアリズム映画の確立に功績があった。映画にリアリズムを適用することで、単なる娯楽を超えた、芸術としての可能性を広げたわけである。戦前の作品には「土」などがあり、戦後は主に時代劇を作っていたが、1964年に作った「飢餓海峡」は晩年の傑作というにとどまらず、彼の集大成ともいえる作品になった。
魚もうつ病になると聞いてびっくりした。魚も天敵に長い間直面して強いストレスを感じ続けていると、うつ病になるというのだ。そういっているのはNHKの特集番組「NHKスペシャル病の起源:うつ病~防衛本能がもたらす宿命」のナレーターだった。この番組は、うつ病の起源を追っていたのだが、うつ病というのは基本的には脳の病だということで、脳を持っている生き物なら誰でもかかる、と言いたいらしかった。脳はあらゆる脊椎動物が持っている。魚も脊椎動物のれっきとした一員だから、うつ病になるのは当たり前だ、ということらしい。
先稿「愛する」の中で筆者は、現代日本人が愛情を表現する言葉として使っている「愛する」とか「愛」とかいう言葉が、明治以降に、西洋文学の翻訳を契機に広まった言葉であり、江戸時代以前には使われていなかったということを指摘した。その上で、徳川時代以前の日本人は、男女の性愛を表現する言葉として、恋ふ、慕ふ、思ふ、焦がる、惚れる、などを使っていたと指摘した。
安倍政権が特区諮問会議なるものの設置を考えているそうだ。これは一定の地域を国家戦略特区として指定し、そのなかでは規制を大幅に取っ払って、企業家たちの経済活動をやりやすくしてやろうというものだ。規制を緩和する対象としては、医療、雇用、農業、教育などを想定しているようだ。
ウェヌスとキューピッドは、クラナッハの数ある裸体画の中でも、もっとも早期に取り掛かったテーマだ。1509年に初めてこのテーマを描いて以来、折に触れて描いている。最初の作品では、ウェヌスは豊満な肉体で描かれているが、1525年のこの作品では、ウェヌスは非常に細身になっている。女性が細身で、プロポーションが極端に間延びして描かれているのは、後期のクラナッハの特徴と言える。
安倍政権が目指していたいわゆる「解雇特区」構想がつぶれた。最大の理由は労働行政を預かる厚生労働省の反対が強かったことだと聞こえてくる。国内に特区なるものを設けて、その内部で労働者の労働基本権を制約するのは、法の前の平等を定めた憲法の規定に違反するという理屈について、さしもの安倍政権とその取り巻きたちも突破できなかったということのようだ。しかし、完全にあきらめたわけでもないらしく、次は厚生労働省を落すことがターゲットになりそうだ。厚生労働省が反対しなくなれば、誰も「解雇特区」構想を遮る者はいなくなるだろうから。
コクトーの八つの歌から「エリック・サティへのオマージュ(Hommage à Eric Satie)」(壺齋散人訳)
アンリ・ルソー夫人が
気球で空に上って行く
手に灌木を抱えながら
いっぽう税官吏のルソー氏は
アペリティフを飲んでいる
月で膨らんだアロエも
安楽椅子用の木材も
きれいなおべべも
お月さんも
みんな葉っぱの上に見える
アフリカライオンが
ズタ袋みたいなお腹をして
共和国像の足元を守る
アフリカライオンが
馬車馬をたいらげる
黒人の吹くフルートの中に
お月様が吸い込まれていく
ヤドヴィガがとろりとして聞いている
黒人がフルートの先から
なしの形を吐き出す
強制わいせつ事件をめぐって、犯罪の被害者が、裁判で被告に自分の情報が洩れ、それがもとで報復されることを恐れたため、東京地検が起訴を取り下げたということだ。強制わいせつ事件は、「親告罪」事件なので、被害者が親告を取り下げれば事件にはならないが、それは形式手続き上のことで、日本の司法をめぐる実質的な議論にとっては、このケースは深刻な問題を孕んでいる。
陸游の七言律詩「素飯」(壺齋散人注)
放翁年來不肉食 放翁 年來 肉食せざるも
盤箸未免猶豪奢 盤箸 未だ猶ほ豪奢たるを免れず
松桂軟炊玉粒飯 松桂 軟かく炊ぐ 玉粒の飯
醯醬自調銀色茄 醯醬 自ら調ふ 銀色の茄
時招林下二三子 時に招く 林下の二三子
氣壓城中千百家 氣は壓す 城中の千百家
緩步橫摩五經笥 緩步して橫ざまに摩す 五經の笥
風爐更試茶山茶 風爐 更に試む 茶山の茶
政府閉鎖と債務上限問題を巡って展開されていたオバマ大統領とGOP(共和党)とのチキンレースは、今の所オバマの勝利といえそうだ。今の所と言うのは、今回で対立の根が除かれたわけではなく、当分のあいだ引き伸ばされたというだけであり、来年の一月には再び政府閉鎖の危機が、また二月には債務上限問題の蒸し返しが起こる可能性が強いからだ。
三美神はイタリア・ルネサンスの画家たちが好んで取り上げたテーマであり、ラファエルやボッティチェルリも描いている。クラナッハも、このテーマを繰り返し描いた。
丸山真男は、日本的思考(日本の思想の疑似形態ともいうべきもの)への国学の影響を大いに問題視している。丸山は国学を、儒仏の思想へのアンチテーゼとして出発したと抑えたうえで、それの基本的な特徴を、儒仏がイデオロギー的な体系性なり理論的な性格を持っていたのに対して、非イデオロギー的であり感覚的であることに求めた。
昨日の記事で、台風26号の大雨のために、船橋市にある長津川調整池が冠水したということを書いたが、これはその調整池の今日の時点での姿を映したもの。あれから一日経っているので、水の放流が大分進んでいるが、それでもまだこんなありさまだ。奥の方に見えているコンクリートの四阿が、昨日はほとんど水没しかけていた。
安岡章太郎の初期の短編小説をいくつか読んでみた。これらは過去に一度読んだことがあるはずなのだが、いずれも初めて読んだような印象を受けた。最初の読書体験の記憶がほとんど残っていないのだ。同じような時期に読んだ大江健三郎の短編小説、たとえば「死者の奢り」とか「飼育」といった作品についてはかなり詳細に覚えているのに、安岡の短編についてはきれいさっぱり忘れている。これはどういうわけなのだろうか。まずそんなことを考えた。
今回の台風26号は平成16年の台風22号以来の超大型台風だということで、各地に大きな災害をもたらしたが、特に伊豆大島では大勢の死者・行方不明者が出るなど大惨事となり、いたましい限りだ。筆者の周辺では幸いことなきを得たが、それでも台風のすさまじさを思い知らされることは起きた。
島津保次郎は、若い男女の関係をコメディ・タッチで爽やかに描いた作家であり、日本の映画監督の中では、最も早くから男女の恋愛を大らかに歌い上げた作家だったといえる。とにかく、日本人の多くが男女の自由な恋愛をなにか不道徳なことのように考えていた時代に、恋愛こそは人間性の最も自然で尊いあり方なのだ、ということを素直に表現したわけだから、映画のみならず、文化全体からしても、進取的な姿勢をとった作家だったともいえる。
「愛する」という動詞と、その名詞形である「愛」という言葉は、愛情表現を広く表す言葉として、今日の日本語に定着している。それは、男女の性愛を中心として、親子の間の家族愛や、場合によっては動物への慈しみの感情までカバーしている。しかし、こんなにも便利な言葉であるこの「愛する」が、日本語の中に定着したのは、そう遠い昔のことではない。精々遡っても、明治時代より前には遡らないのである。
中国では共産党政権のもとで長い間宗教が抑圧されてきたが、改革開放路線が本格化した1980年代以降、宗教に対して寛容な政策がとられるようになった結果、宗教に帰依する人々の数が劇的に増えてきた。キリスト教に関してだけも、改革開放以前には600万人だった信者が、現在では1億人になった。儒教の勃興も甚だしい。こうした事態の背景には一体どんな事情があったのか。NHKの特別番組「NHKスペシャル~中国激動:"さまよえる"人民の心」が、その一端に迫っていた。
クラナッハは、「ホロフェルネスの首を持つユディット」と云うテーマの絵を、とくに1530年以降、非常に多く描いた。それらには、切断された男の首を得意げに持つ、若い女性の表情が描かれている。
ヘーゲル「精神現象学」は、意識、自己意識、理性と進んできた後、精神の章へと移るが、ここで叙述の仕方ががらりとかわることに、読者はとまどうかもしれない。というのも、それまでは個人の意識を主語として叙述されてきたのが、この章以降では、主語が共同体へと切り替わるからだ。
写真(ナショナル・ジオグラフィック)は、イヌワシがシカを討ちとった瞬間。所はシベリア川流域の雪原地帯、アムールトラの生態研究のために設置されていた固定カメラに映っていた。シカは一歳のニホンシカで、イヌワシがわずか二秒で仕留めた様子をカメラが記録していた。
陸游は本草の知識を生かして晩年医師のようなことをした。医師と言っても、症状に応じた薬草を調合してやるくらいのことだったろう。それでも、まともな医師のいない郷里近くの山村地帯にあっては、民衆の頼りになる存在だったようだ。そんな医師としての自分の生きざまをテーマにした詩がある。開禧元年(1205、81歳)のときの連作「山村経行因施薬五首」がそれだ。
今年も村上春樹はノーベル賞を受賞できなかった。ここ数年、彼は常にノーベル賞受賞の最有力候補であると世界中の人々に言われ続けてきたし、日本のメディアも彼がノーベル賞を受賞するのは当然のことだと大声で言ってきた手前、毎年のように彼がノーベル賞受賞を逸している事態が信じられないと言った落胆ぶりを見せているが、筆者はそうは思っていない。村上春樹がノーベル賞を貰えないことには、本質的な理由があると考えているからだ。
クラナッハは、黄金時代をテーマにした絵を何点か描いている。黄金時代というのは、ギリシャ神話に出てくるものであり、聖書におけるエデンの園のような、一種の理想郷の展開していた時代を言う。
丸山真男の「日本の思想」は不思議な本である。この本はいまや、日本の思想というテーマに関する古典の一つとしてゆるぎない名声を獲得しているといってよい。それ故、日本の思想を学ぶ学生にとっての必読書にもなっている。ところがこの本を読んでも、日本の思想というテーマについて、具体的な知見が得られるかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ期待が裏切られることの方が多いかもしれない。というのもこの本は、「日本の思想」をテーマにしていながら、日本には厳密な意味で思想といえるようなものは存在しなかったというのだから。
東洋文化研究者のアレックス・カーさんが朝日新聞のインタビューに答えたなかで、靖国神社について言及していた。(10月10日付朝日朝刊)氏は「靖国神社が嫌いではないし、参拝したこともあります」といい、「A級戦犯がまつられていることも私は問題視していません」という。だが、「靖国神社は、あの戦争を肯定するかのような遊就館という施設を作り、政治的な道を選びました」と批判したうえで、もし靖国神社が、伊勢神宮や明治神宮と同じように、沈黙を保ち続けていたら、「総理大臣が言っても誰がいっても」問題にならなかっただろう、靖国神社が政治的な騒ぎにたえず巻き込まれるようになったのは、靖国神社自らが政治的な姿勢を示したからだ、と氏はいう。ということは、靖国神社にも政治化せずに静かな神社としての道を選ぶこともできたのだという認識をしているのだろう。
今まで一度も読んだことのなかった庄野潤三の作品を読んでみる気になったのは、村上春樹の影響である。あまり日本の作家を読まないという村上が,ある程度読んでいるというのが所謂第三の新人と呼ばれる作家たちで、その中でも庄野潤三の作品は結構高く評価している。村上は、第三の新人たちに共通する傾向を、私小説の枠組の中に非私小説的な内容を盛り込むことだといっているのだが、そんなやり方をもっとも意識的に遂行しているのが庄野潤三だと位置づけているのである。
毛のない生き物は人間だけではない。禿げ頭が売り物の猿ワカンや同じく禿げ頭がトレードマークになっているハゲワシなど。これらは体の一部に毛のない生き物だが、全身に毛のない生き物もある。ある種の豚がそうだし、犬の中にも無毛の種がある。ペルービアン・ヘアレス・ドッグ(Peruvian Inca Orchid)もそのひとつだ。
溝口健二の映画「赤線地帯」は、徳川時代には幕府公認の遊郭街として栄え、昭和に入っても日本最大の売春街(赤線)であった吉原の、最期の日々と、そこに生きる娼婦たちの過酷な運命を描いた作品である。家族の犠牲になったり、男の食い物にされたり、または社会に踏みつけにされながら健気に生きる女たちを描き続けてきた溝口にとっては、生涯の最後を飾るに相応しい作品となった。
レーシスト団体「在特会」が在日韓国・朝鮮人のひとたちを標的にして行っていたヘイトスピーチに違法判決が出た。京都の朝鮮学校前で街宣活動を行ったことに対して、京都地裁が新たな街宣活動の差し止めを命じるとともに、高額賠償を命じた。このようなケースで違法判決がでたのは、これが初めてで、これを契機に過激さを増すヘイトスピーチに一定の抑制効果が出るのではないかと期待する向きがある一方、法規制の強化に慎重な意見もある。
南方熊楠は小論「摩羅考」の中で、男根をあらわす言葉「まら」が記紀時代に遡る古い言葉であることを立証したが、その語源については特に言及しなかった。そこで筆者は、小学館の「日本国語大辞典」や「日本語源大辞典」を開いて、あたってみた。すると、この言葉は古代語で排泄することを意味する「まる」が転化したとする説が載っていた。男根は尿を排泄する器官だ。そのことを古代語では「尿(しと)まる」という。そこから「まら」という言葉が成り立ったのではないか、そのように推測しているわけである。
近年中国の華南地方を歩く機会が二三度あったが、そのたびに奇妙に感じた見聞のひとつとして、農村地帯のど真ん中に高層ビル群の林立するさまを見たことだった。初めて見たのは上海から蘇州に向かう途中で、蘇州手前にひろがる広大な田園地帯に突然高層ビルが林立するのを見た時だったが、その時は何故こんなところに、こんな高層ビル群が立っているのか、にわかには訳が分からなくて、おそらく蘇州都市圏のベッドタウンだろうくらいの受け取り方をした次第だった。いうまでもなく、日本の風景を中国にそのまま適用して、こんな判断をしたわけである。
先日ワシントンで、ホワイトハウス前の警備ポイントで不審な動きを見せて逃走した車が、警備当局によってカー・チェイスを受け、最期には乗っていた車に銃弾を浴びて、運転していた女性が死亡するという事件があった。死亡したのは37歳の黒人女性で、車にはこの女性の子供とみられる幼児も乗っていた。
クラナッハの専売特許ともいえる、あの独特の裸体画を、クラナッハは1510代の後半以降ぼちぼちと折に触れて描き始めるのだが、本格化するのは1530年以降のことである。それらの裸体画は、聖書やギリシャ・ローマ神話に題材をとったもので、類型的であるばかりか、同じテーマの絵をいくつも繰り返し描いている。なかには、40点も描いたテーマもある。
深い宗教的思索で知られるキルケゴールは、内在的理性から超越的宗教への飛躍を論じたあの「哲学的断片」という著作の中で次のように述べている。「人は自分の命を人質にすることはできるが、他人の命は人質にはできない」と。
「精神現象学」において、「宗教」は「絶対知」の直前に置かれている。このことは、二つの意味を持っていると考えられる。一つは、ヘーゲルが宗教を、精神がとる一つの形と考えていること、もう一つは、宗教が絶対知の直前に位置するに相応しい高度な精神の形と考えていること、この二つの意味あいを持っているということである。
相手を貶めたり侮辱することを目的に使われる言葉を侮蔑語というが、言葉というものは面白いもので、当初は侮蔑語として使われていた言葉が、使われているうちにマイナスのニュアンスを失い、かえってプラスのニュアンスを感じさせるように変化する場合がある。たとえば日本語の"小僧"という言葉。これは相手の人格を貶める意味で使われ始めた言葉であるが、そのうち相手の可愛らしさを強調する言葉に変化していった。勿論使われるコンテクストによっては、侮蔑の意味を感じさせないことはないが、コンテクストさえ間違えなければ、侮蔑と受け取られることは少ない。
陸游の七言律詩「懐旧」(壺齋散人注)
身是人間一断蓬 身は是れ 人間の一断蓬
半生南北任秋風 半生 南北 秋風に任す
琴書昔作天涯客 琴書 昔 天涯の客と作り
蓑笠今成沢畔翁 蓑笠 今 沢畔の翁と成る
夢破江亭山駅外 夢は破る 江亭 山駅の外
詩成灯影雨声中 詩は成る 灯影 雨声の中
不須強覓前人比 須ひず 強ひて前人に比を覓むるを
道似香山実不同 香山に似たりと道ふも 実は同じからず
先般口元校長というのが話題になったことがあった。公立学校の卒業式で教員が本当に君が代を歌っているか、口元の動きで確認したというので話題になったわけだが。その校長が維新の会の大阪府知事に取り立てられて教育長に出世するや、今度は大阪府のすべての公立学校長に、この口元確認を義務付けたというから、驚きだ。
マルチン・ルターが、修道院を出奔した尼僧カタリーナ・フォン・ボラと結婚したのは、1525年のことだった。その頃のルターは、すでに宗教改革者として有名だったので、この結婚はビッグ・スキャンダルになりそうだった。そこで、ルターは、この結婚を秘密裏に進めることにした。そこで、ルターから頼りにされたのが、またまたクラナッハだったのである。クラナッハはルターのために仲介人を買って出て、結婚立会人をつとめてやった。結婚披露宴は、ごく親しい友人だけを集めて、しめやかに行われた。
丸山真男と加藤周一の対話「翻訳と日本の近代」(岩波新書)を読んだ。これは、日本の近代化を支えた翻訳というものについての対話形式による省察だ。何を、どのような人がどのように訳したか、また日本では何故翻訳が巨大な役割を果たし、その影響も広くかつ深かったのか、ということについて、主に加藤が問題を投げかけ、丸山が応えるという形で進んでいく。その過程で、興味あるワキ話も出てきて、むしろ本題よりも面白かったりする。知的刺激に富んだ面白い対話だ。
駐日ドイツ大使フォルカー・シュタンツェル氏が朝日新聞とのインタビューの中で、同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツと日本が、戦後にたどってきた道を比較して、興味深いことを言っている。日本もドイツも、あの戦争では侵略者であったことを踏まえて、戦後は自制の姿勢を取ってきたが、それは大きい目で見てよかった。だが両国の間では、国際環境に大きな違いがあり、そのことで微妙な相違も生まれたというような趣旨である。
小島信夫の小説に出てくる人物たちは、適度にスムーズな人間関係を築くのが苦手で、反発しあったり、すれ違ったりしながら、不器用に生きているのだが、その不器用さの中にも、それなりに人間性を感じさせるものがある。彼の前期の代表作とされる「抱擁家族」は、そんな不器用な人たちからなる家族を描いた作品である。家族といえば、もっとも親密な人間関係の場であるにかかわらず、この作品に出てくる人々は、なにか互いにしっくりいかないものを感じている。家族とはそれぞれに抱擁しあうことのできる人間関係のはずなのに、この小説の中に出てくる家族は、素直に抱擁しあえない。題名の「抱擁家族」とはだから、ひとつの大きな逆説なのである。
アメリカ政府の一部が閉鎖されるといった事態が10月1日から始まった。閉鎖といってもすべてが閉鎖されるわけではなく、国民生活に重大な影響のあるサービス(たとえば年金の支給など)は実施されるわけだが、それでも影響は大きい。国立公園や歴史的モニュメント、博物館などが閉鎖され、それらに従事する80万人の公務員が、一時的レイ・オフの状態に入る。NASAも閉鎖の対象だが、国際宇宙ステーションにいる宇宙飛行士をサポートする業務は当然継続されるそうだ。
溝口健二の映画「近松物語」は、近松門左衛門の世話浄瑠璃「大経師昔暦」を下敷きにしている。近松はこの浄瑠璃を、30年以上も前に起きた事件に取材した。それは「おさん茂兵衛」と呼ばれた不義密通事件で、男女の不幸な愛の顛末が民衆の深い同情を呼んでいた。そこで近松は、二人の三十三回忌にあわせて、この事件の顛末を世話浄瑠璃に仕立てたのである。
先日アナゴ料理を食った仲間と久しぶりに小宴を催した。場所は椿山荘内の日本料理やみゆき。一種のバイキング方式で、自分の食いたいものを食いたいだけ食えるというコースを選んだのだが、普通のバイキングと違って、席にいながらにして料理を注文することが出来るというものだ。本当なら二週間前に行う予定だったのだが、例の台風騒ぎで延期したおかげで、Oが参加できず、Y夫妻とM、それに筆者の四人ということになった。
「あけび」とは実のなる植物の一種だが、それが「あけつび」から「つ」が脱落してできた言葉だと喝破したのは南方熊楠である。「あけつび」とは「開玉門」とも書くように、開いた女陰のことをさす。その姿に、熟して開いた「あけび」の実の形が似ているというので、それを「あけつび」といい、それではあまりにも露骨だとして「あけび」というようになったというわけである。
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