2014年4月アーカイブ

「核のごみ:再回収可能に...処分計画転換、エネ庁部会報告」と題した毎日の記事を読んで驚いた。これは、現在のように核のゴミの処分は永久的でかつ安全な方法でという建前をくつがえして、再利用を考慮した、暫定的なものへと転換するものだ。部会は、この方針転換について、核の再利用についての意思決定の余地を将来世代のために残しておいてやるのだと説明しているようだが、その説明が詭弁に過ぎないということは、そんなに頭を使わなくともわかろうというものだ。

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先の大戦中には、夥しい数の戦争映画が作られた。無論戦意高揚を目的としたものだったが、それらの映画の少なからざる部分が、勇ましい戦闘シーンや皇軍の大活躍を描いたというよりは、戦争の悲惨さを描いていた。戦場における兵士たちの苦労を描くことによって、銃後に残された家族に、肉親がこんなに苦労しているのだから、自分たちも困苦に耐えてお国にご奉仕しなければならない、という気持にさせることを狙ったのだと解釈されている。しかし、欧米人の眼には、どうもそうは見えないらしく、これらは戦意高揚映画と言うより、厭戦あるいは反戦映画ではないか、との印象を抱くそうである。

日本の訪問に始まったオバマ米大統領のアジア4か国歴訪、その意義を改めて考えると、オバマの中国封じ込めの意図が見えてくるような気がする。この四か国は、東シナ海から南シナ海にかけての、中国の防衛ラインたる第一列島線上に位置している。そのような諸国に対してオバマは、同盟の強化を持ちかけた。日本に対しては尖閣の共同防衛を明言し、フィリピンとの間では、米軍基地の配置について合意した。このような動きは、中国を想定したものではないとするアメリカ側の言い分にかかわらず、中国を第一列島線内に封じ込める意図に基づいたものだと受け取る十分な理由がある。オバマは同時に、日本と韓国が仲良くするようにも取り計らったが、それは、中国の脅威を前に、米の同盟諸国が足並みを揃えてあたりたいとする深謀遠慮のあらわれと考えてよい。

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(伎楽面<呉女面>、縦34.5×横23cm)

伎楽面は日本最古の仮面で、正倉院には実に171面の多数が伝わっている。それらの面の大部分は天平勝宝四(752)年の東大寺大仏開元の際に行われた供養会に用いられたものである。

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アメデオ・モディリア-ニ(Amedeo Modigliani)といえば、若くして死んだ天才であり、その強烈な画風で人々の心を捉え、いまでも世界中に熱狂的なファンを持っている。その展覧会は、個人の展覧会としては、どこででも最も多い観客を動員する。日本においても、いつだってモディリアーニの展覧会は、すさまじい反響を呼び起こし続けてきた。

オバマ大統領との間で尖閣防衛へのアメリカのコミットメントを確認できたり、韓国との間で冷え切っていた関係を修復できる可能性が出てきたり、このところ、安倍首相の外交状況は、一時期の状態に比べれば大分改善されてきた。中国との間でも、尖閣への公船侵入はやんだわけではないけれど、いままでと比べれば相手に自制の動きが見られる。

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2013年の秋、親しい仲間たちと木曽路を旅した。我々は、東京からバスに乗って中央道から木曽路に入り、まず馬籠塾を訪ねた。馬込宿は、島崎藤村の夜明け前の舞台となったところだが、それ以前に、あの木曽義仲の本拠としてしられていたように、木曽路の臍、中心と言ってよいところだった。何故か、斜面にそって町が展開しているのだが、それはわざわざそうしたのではなく、このあたりの土地は、すべて斜面を逃れられないことのあらわれなのかもしれない。

「人間的な、あまりに人間的な」は、ニーチェの思想の展開のうえで画期的な著作であるが、彼がこれを書くにあたっては、ワーグナーに対する深刻な失望があった。その失望とは、ワーグナーの中における一種の俗物根性への失望である。ニーチェはその俗物根性をドイツ的なものと同一視した。つまりワーグナーはドイツ人になりきってしまうことによって、精神の貴族性を失い、俗物の一人に成り下がってしまったというわけなのである。その辺の事情についてニーチェは、後年の著作「この人を見よ」の中で次のように語っている。

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オバマ来日の成果を評価して、筆者は「安倍首相はオバマ大統領をうまく料理した」と書いたが、そのオバマ大統領の米国内での評価はもっと厳しいようだ。NYTは、中東和平交渉の頓挫と並ぶ挫折だといって、オバマは日本が熱望していた防衛義務の確認に踏み込んだ言説を与える一方、TPPでは何も獲得することができなかったとオバマを批判している。(Obama Suffers Setbacks in Japan and the Mideast By Mark Lander and Jodi Rudorenapril)

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(刻彫尺八、長さ43.7cm)

正倉院宝物には管楽器として尺八(8口)、横笛(4口)、笙(3口)、竽(4口)などが伝わっている。

最期の段では、玄宗の使者と面会した楊貴妃が、自分の思いを切々とつづる場面が展開される。最後に有名な比翼の鳥と連理の枝の比喩を用いて、(玄宗と自分との)二人の切れぬ間を絶叫して終わる。

最大級のおもてなしでお迎えした甲斐があって、安倍首相はオバマ大統領からすばらしいプレゼントをもらうことができた。尖閣諸島について、アメリカは防衛義務を果たすと明言してもらったことと、安倍政権がいま進めようとしている集団的自衛権の憲法解釈変更による容認に支持を得たことである。一方、ほぼ時期を同じくして閣僚らが行った靖国参拝についてはとがめられことがなかったし、今回のオバマ来日の最大の目的であったTPPの妥結についても、何とか先送りすることができた。安倍首相としては申し分のない結果であり、喜びに耐えないといったところだろう。

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ゴッホは、1889年9月28日付の弟テオ宛の手紙の中で、母親の誕生日祝いに自画像を贈ってあげたいと書いた。その自画像がこれだと思われる。この後ゴッホが自画像を描いた形跡はないから、これが最後の自画像と言うことになる。

T.S.エリオットの詩「荒地」から「雷がいったこと」3(壺齋散人訳)

  いつも君のそばを歩いているあいつは誰だい?  
  数えてみると僕と君しかいないんだけど
  あの白い道のほうを見上げると
  君のそばにはいつももうひとりいる
  ブラウンのマントに身を包んでフードをつけてる
  男か女かわからないけれど
  君の向う側にいるあいつは誰なんだい?

  空高く聞こえてくるあの音はなんだい?
  母親たちの悲しみのつぶやきかい
  あのフードをつけた一群の人々は誰だい?
  果てしなき荒野を台地の裂け目によろめきつつ進む
  背景をなしているのは地平線だけだ
  あの山の彼方の町はどんな町だい?
  すみれ色の空を背景にして
  裂け目やゆがみや爆発や倒れる塔
  エルサレム アテネ アレクサンドリア
  ウィーンにロンドン
  非現実
安倍政権の産業競争力会議なるものが、「残業代ゼロ」の議論を蒸し返しているそうだ。安倍政権は先般、「雇用特区」構想なるものをぶち上げ、一定の特区の内部では、「残業代ゼロ」や「首切り御免」を認めようとする議論をしたところだ。その際には、一部の労働者だけを対象に差別的待遇をするのは、法の前の平等を保障した憲法の理念に反するという至極もっともな意見が、厚生労働省サイドから出され、しぶしぶ撤退した経緯があった。それを今回は、特区に限らず全国的規模で導入しようという議論に切り替えているらしい。そうすれば、一部の労働者ではなく、すべての労働者に適用することとなり、憲法違反の疑念をクリアできると考えたのであろう。

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黒沢明の映画「乱」(1985年公開)は、日仏合作ということになっている。といっても、フランスの光景が出てくるわけでもないし、フランス人の俳優が出てくるわけでもない。日本を舞台に日本人の俳優たちが演じる純日本映画だ。それが何故日仏合作ということになったのか。その理由は、資金の大部分がフランスから出ているということなのだ。つまり、フランスの金を使って作られたから、生粋な日本映画ではなく、日仏共同映画になったというわけだ。

300名以上の死者・安否不明者を出した韓国船の沈没事故は、乗客を放り出して自分が真っ先に逃げた船長の行動など、事故の状況があきらかになるに従い、筆者などは絶句せざるをえないほどあきれかえってしまった。日本でなら到底考えられない事態だ。いったい、この国はどうなっているんだろう、と疑問が湧き上るのも当然だろう。

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(木画紫檀琵琶、長さ100cm、幅41.7cm)

正面(左側)の表面の板は沢栗、覆手(絃止め)は楓、鹿頸(細くなった部分)、乗弦、転手(絃を巻くところ)及び裏面(右側)は紫檀である。

ウォール・ストリート・ジャーナル(Web)の日本語版に、日本のプロ野球球団数を4増やして16にする案が、安倍自民党内で話題になっているという記事が載っていた。某スポーツ評論家が、自民党の会合で提案したところ、アベノミクスの第四の柱として是非取り入れたいというような話が出たということらしい。実現性のほどははっきりしないが、できれば是非実現して欲しいものだ。

読売(Web版)が、「小学1・2年の交通事故、5月以降多発」と題する記事(4月21日配信)の中で、五月以降に小学校1・2年生の交通事故が多発する原因について、「分析」を加えている。

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この絵は、1889年9月6日付の弟テオ宛の手紙の中で触れられた二枚の自画像の内の一枚である。続いて9月20日付のテオあての手紙では、この絵を君に送ろうと書いている。たぶん送ったのだろうと思われる。(ゴッホの死後、テオはこの絵を、兄がお世話になったガッシェ医師に送っている)

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惑星ウォチャーにとってビッグニュースがまたひとつ加わった。しかも特大のニュースだ。いわゆるハビタブル・ゾーン内にあり、大きさがほぼ地球と同じ惑星で、岩石でできており、水がある可能性も高い。これまで発見されたすべての惑星の中で、条件が地球に最も近い、というものだ。

「反時代的考察」の第一論文において教養俗物を徹底的に批判したニーチェだが、それを批判するだけでは時代は前進しないままだろう。教養俗物が人間像のマイナスの典型としてドイツをスポイルしているのであるならば、ドイツを救済して前進させていくようなプラスの人間像の典型がなければならない。そのような人間像とはいかなるものなのか。それを取り上げて考察したのが、第三論文の「教育者としてのショーペンハウアー」である。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者で知られるエズラ・ヴォーゲル氏が、朝日新聞のインタビューに答えて、現在の日本の政治状況について憂慮の念を表していた。安倍政権が登場して以来、日本では過去を正当化しようとする議論が湧きあがっているが、日本がそうすればするほど、国際社会の信頼を失うことになるといって、日本の向かう先を憂慮している。

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正倉院には天平時代の筆が十八本伝わっている。そのうち東大寺の大仏開眼に用いられた大筆(長さ56.6cm)を除く17本はすべて実用品で、雀頭筆と呼ばれるものである。筆管はおおむね太く、穂は紙を芯にして毛を巻き込んだもの、その形が雀の頭に似ていることから雀頭筆と呼ばれた。なお、毛の材質には、兎毛、狸毛、鹿毛があって、それぞれ用途が違う。兎毛は経文の本分を写すのに使い、狸毛は題書に、鹿毛は罫線を引くのに用いたという。

この段(四)では、悲しみに沈む君王のために四川省の名高い道士が招かれ、楊貴妃の魂魄を呼び出すようにと命じられる。そこで道士は弟子の方士に命じて、天上天下至る所を探させる。すると海上の仙山に仙女たちが住んでいるという噂を聞きつけ、そこに行ってみるに、果して楊貴妃らしい仙女が住んでいることがわかった。こうして、死に別れた楊貴妃と玄宗とが、夢幻のなかで結ばれる可能性が高まるのである。

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ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説は、代表作の「100年の孤独」を、英訳で読んだだけだから、日本人の読者としては、筆者は、あまり熱心な部類には入らないかもしれない。それでも、読んだときは、それなりの衝撃を受けたことを思い出す。もっとも、筆者がこれを読んだのは、はるか昔のことで、いまでは筋書きもろくろく覚えていないのだが。

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米誌TIMEによる安倍首相へのインタビューがWEB上にアップされているのを読んだ。日米関係、日中関係、尖閣問題、アジア太平洋戦争についての認識、靖国参拝問題、従軍慰安婦問題、憲法改正など幅広い問題についてインタビューが行なわれているが、どのイシューについても、安倍首相はそつなく答えていた。従軍慰安婦問題については、第一次安倍政権で、強制性はなかったとする閣議決定を行ったことには触れたが、今は河野談話を見直すつもりはないと答えて、この問題が政治化する事態を回避しようとする意思が働いているように受け止められた。

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1889年5月、ゴッホは自分の判断で、アルルの北にあるサン・レミの精神病院に入院した。カトリック系の精神病療養施設だったという。入院後初めの頃は外出を許されなかったが、6月からは外で写生することが許されるようになった。だから、ゴッホは入院中もせっせと創作に励むことが出来た。

T.S.エリオットの詩「荒地」から「雷がいったこと」2(壺齋散人訳)

  ここには水がなく岩ばかりだ
  岩ばかりで水はなく砂の道がある
  山々のあいだをくねくねと続いている道
  その山は水のない岩山なのだ
  水があれば立ちどまって飲むところだが
  岩の間では立ちどまることも考えることも出来ぬ
  汗は乾き 足は砂の中だ
  岩の間に水さえあれば
  奇妙な歯をした口のような死んだ山では唾も吐けぬ
  ここでは立つことも横たわることも座ることも出来ぬ
  山の中には沈黙さえもない
  雨を伴わぬ乾いた不毛な雷がなるだけだ
  山の中には孤独さえもない
  赤い不機嫌な顔が 裂けた泥の家のドアから
  歯をむいてあざ笑うだけだ
        水があって
    岩がなければ
    岩があっても
    水があれば
    そう 水が
    泉があれば
    岩の間にプールがあれば
    せめて水の音さえすれば
    蝉の声でもなく
    乾いた草の音でもなく
    岩を超える水の音があれば
    ツグミが松の枝にとまって鳴くことだろう
    ポトン ポトリ ポトン ポトリ ポトリ ポトリ ポトリ
    でも水がないんだ

復活するKKK

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先日米カンザス州でおきた白人レーシストによるユダヤ人襲撃事件は、アメリカの伝統的なレーシスト団体KKKの復活を印象付けた。というのも、犯人のフレージャー・グレン・クロスが、KKKの地方組織のリーダーであったことが明らかになったからだ。クロスは自分の行為が正義にかなっているといっており、白人の権利を守ることが自分たちの使命だと、まじめな顔でいっているそうだ。そんなことから、連邦政府では、この事件を連邦法の規定によるヘイト・クライム事案として扱うべきかどうか、検討しているという。

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「影武者」は、黒沢明の映画の中で興行的に最も成功した作品だが、制作費用を調達するのに困難を極めたという。そこで黒沢を尊敬していたフランシス・フォード・コッポラ(ゴッド・ファーザーや地獄の黙示録のプロデューサー)とジョージ・ルーカス(スター・ウォーズなどのプロデューサー)から資金の提供を受けてようやく制作することが出来た。そんな因縁からこの作品は、始めから国際市場を意識して作られており、その意図があたって興行的に大成功を収めたわけである。

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(聖武天皇宸筆「雑集」)

「国家珍宝帳」所載のもの。奥記天平三(731)年の署款があり、天皇31歳の時の宸筆だと知れる。内容は、六朝時代から隋、唐にかけての仏教に関する史文類を抄録したものである。それ故「雑集」といわれる。

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「耳に包帯をした自画像(Self-Portrait with Bandaged Ear)」と題したこの絵も、前作「パイプを咥え耳に包帯をした自画像」とほぼ同じ時期に描かれた。この絵も結構念入りに描かれているが、それは彼の病状を心配する医師たちに対して、自分が健康な状態にあることをアピールするためだとする見方もある。

安倍政権が今回閣議決定したエネルギー基本計画には、青森県六ヶ所村の再処理工場の稼働も含まれていた。この再処理工場では、年800トンの使用済み核燃料を再処理し、8トンのプルトニウムを取り出す能力がある。取り出したプルトニウムは、原発で燃料として消費することとなっているが、周知のとおり、その目途はまったく立っていない。これまでに再処理した結果すでに44トンのプルトニウムがたまっており、これに毎年8トンのプルトニウムが加わり続けることになることになるわけだが、これにたいして米側から深刻な懸念が寄せられていることが判ったという。

「反時代的考察」の第二論文は「生に対する歴史の利害」と題しているが、むしろ「歴史に対する生の利害」と題したほうが相応しい。というのもニーチェがこの論文で展開したのは、生に対して歴史が抱く利害、すなわち歴史からみた生の意義ではなく、生から見た歴史の意義、すなわち歴史に対して生が抱く利害についてだからである。これをニーチェは、次のように端的に定式化している。

安倍内閣が新たなエネルギー基本計画を閣議決定し、原発再稼働の方針を明記した。注目すべきは、既存の原発を再稼働するにとどまらず、原発の新増設も否定していないことだ。つまり、安倍政権は原発の復権に向けて全面的に舵をきったということだ。原発村の住人達はさぞ大喜びだろう。なにせ、民主党政権時代に決定された「原発ゼロをめざす」という方針を葬り去ることができたわけだから。

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(鳥毛立女屏風図、136×56cm)

国家珍宝帳に記載されている屏風六扇のうちの第三扇。名称にあるように、もともとは墨で描いた輪郭の中に山鳥の羽毛を貼ってあったが、今日では羽毛は殆ど剥落して残っていない。ただ、顔や手に施された淡彩がまだ色彩の名残をとどめている。

この段(三)は、安禄山の乱が一段落して、皇帝が都へ帰るさまが描かれる。帰る途中、馬嵬にさしかかったところで、楊貴妃が空しく死んでいった悲しみにふけり、都に戻ってからも、楊貴妃のいない毎日を味気なく過ごす皇帝の気持ちが歌われる。

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ゴッホは、1889年の12月23日に、ゴーギャンと激論した末に自分の左耳を切り落とすという事件を引き起こした。これは、ゴッホが精神疾患にかかっていたからだとも、また、ゴーギャンの自己中心的な振舞いがゴッホの神経を刺激したからだともいわれているが、このためにゴーギャンはゴッホのもとを去り、ゴッホ自身は精神病院に入院することとなった。

安倍政権下の自民党にも、まだこんな気骨のある人が生き残っていたか、と感じさせる人がいた、村上誠一郎衆議院議員だ。氏は雑誌「世界」のインタビューに応えて、安倍政権の危険性について、ナチス・ドイツと比較するなどして、歯に衣着せぬ率直な発言をしている。現下の日本政治を覆うムードを考えれば、余程の気骨がなければ、こんなことは言えない。

T.S.エリオットの詩「荒地」から「雷がいったこと」1(壺齋散人訳)

  汗だらけの顔を赤く照らす松明の後で
  庭園を満たす冷たい沈黙の後で
  岩地での苦悩の後で
  叫び声と泣き声が聞こえ
  牢獄と宮殿 そして春雷の残響が
  遥か山々を超えてこだまする
  生きていた者は今は死に
  生きていた俺たちは今や死につつある
  わずかな忍耐を伴いながら

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黒沢明の映画「どですかでん」は、前作「赤ひげ」の5年後に作られた。黒沢としては満を持しての作品だったろうし、また木下恵介らとともに結成した「四騎の会」の初作品という位置づけもあったが、興行的には失敗した。時代の雰囲気とマッチしていなかったというのが、主な理由だ。というのも、この映画が描いているのは、貧民窟に住む住民たちの貧しい日常であったからだ。そうした貧しい日本人というのは、10年前ならリアリティを持ち得たが、高度成長に成功した1970年(この映画が公開された年)にはアナクロニスティック以外の何ものでもなかった。だから、「どん底」に感動した日本人も、この映画には感動することができなかったのだろう。

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明智光秀といえば、日本の歴史上さえない男の代名詞になっているが、平成になってもなお亡霊が彷徨しているらしいところから、日本の負の宿命かと思ったら、同じような男がどうやらエジプトにもいるらしい。今や破竹の勢いで、権力を簒奪しようとしているアル・シーシ将軍のことだ。

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正倉とは、もともとは官倉をさす一般的な名称であり、上代には中央の大蔵省を始め地方官庁の倉庫、果ては東大寺などの諸大寺にも置かれていたが、他のものはことごとく滅び東大寺のもののみが残った。そこで正倉といえば東大寺のものを指すようになった。鎌倉時代にはすでに、正倉院という言い方が一般化していたようである。

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エジプトでは、5月の大統領選挙に向けて、アル・シーシ将軍が軍服を脱いで立候補を表明したことで、事実上新たな大統領が決まったと言える。というのも、いまのところ、ムスリム同胞団は先の憲法制定時と同じようなボイコット戦略をとるといっており、したがって有力な対立候補がいないばかりか、誰もアル・シーシに対抗しようなどとは考えていないからだ。こんななかで、疑問があるのは、アル・シーシはなぜ、一挙に権力を奪取しないで、時間をかけてゆっくりしていたのか、ということだ。

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1888年10月にゴーギャンがアルルにやって来ると、二人は共同生活を始める。この共同生活はわずか二か月しか続かなかったが、その間に、ゴッホはゴーギャンから肖像画を描いてもらった。キャンバスに向かってひまわりの絵を描いている構図である。その時の自分のことをゴッホは弟への手紙の中で、「とても疲れていて、電気を帯びたようだった」と書いている。

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シマウマにしま模様はあるのはどういうワケか。この疑問は、ダーウィンの時代から科学者たちの論争のタネになってきた。これまでさまざまな仮説が提起されてきたが、その中でもっとも蓋然性が高いのは、ツェツェバエやアブなどの吸血昆虫から身を守るためだとの研究成果が、米カリフォルニア大学カロ教授らの研究グループによって発表されたそうだ。

国土強靭化と称するばらまきにオリンピック需要が加わって、建設業を中心に深刻な労働者不足が生じている。そこで、安倍政権は外国人労働者を活用する方向へと踏み出した。対策の中心は、いまある技能実習制度の弾力化だ。この制度による日本滞在の上限を3年から5年にのばしたり、一旦帰国した人にも再度の来日を許可するなどして、日本でできるだけ長く働いてもらおうとするものだ。オリンピックが行なわれる2020年までの限定的措置で、それ以降は日本から出て行ってもらうという、ある意味都合の良い措置だ。

ニーチェはすでに「悲劇の誕生」において、近代人のものの見方を規定している合理主義的・主知主義的考え方を、「ソクラテス批判」という形をとって強烈に批判していたが、なにしろ批判の直接の対象が古代の哲学者であったということもあり、同時代人にはあまり痛烈には響かなかったきらいがあった。ニーチェの同時代人たちは、そんな批判に気を配る程の暇人ではなかったためでもある。そこでニーチェは、批判が批判としてスッキリと判るような形で、つまりストレートな言い方を以て彼の同時代人たちの物の考え方を批判することにした。その成果が「反時代的考察」という表題のもとに収められた四つの論文である。まさに題名が如実に物語っているように、この書物は同時代のドイツに対する強烈な批判、反ドイツの書なのである。

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写真(PAから)は、メスの羊と彼女が生んだばかりの子ども。アイルランドの牧場で生まれた。牧場主のパディ・マーフィーさんが産婆役を勤めてとりあげたそうだが、羊の子なのに真っ黒なのに先ず驚いたそうだ。驚きはそれにとどまらなかった、よく見ると、色が黒いほかに、足が長いし、頭には小さな角が生えている。羊の子にしては、あまりにもおかしい。どうしたことだろう。

オンライン版東洋経済に「オバマは"KYな安倍"を説得できるか?」という記事が載っていたので、興味深く読んだ。この記事は、4月に来日するオバマ米大統領が、なにかと暴走してアメリカをハラハラさせている日本の安倍首相を、おとなしくしているように説得できるかどうか、について推測しているのだが、そんな暴走気味の安倍首相のことを「KY」といっている。

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(鑑真和上坐像、乾漆造、像高79.7cm)

鑑真は中国揚州の律宗寺院の僧侶であったが、742(天宝元)年、遣唐使の留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の十二年間に五回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなったが、753(天平勝宝五)年、六回目にして遂に日本の地を踏んだ。その和上を聖武天皇は手厚く迎え、自身東大寺大仏殿前で和上より戒を受けた。以後和上は、日本仏教における戒律制度の確立に寄与した。

第二部は、安禄山の反乱に始まり、皇帝の軍隊が蜀へと逃亡するさまを描く。その逃避行の途中、馬嵬において兵士が反乱を起こし、楊貴妃を皇帝の目の前で殺してしまう
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吉野梅郷といえば、水戸の偕楽園や横浜の三溪園と並んで、関東の梅の名所だ。旧街道沿いの道端や畑に群がるように並んでいるほか、梅の公園には数々の品種の梅が植えられていて、さながら梅の博物園といった観を呈していた。その梅が、すべて伐採されることになったと聞いて、残念な思いに駆られた。
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1888年10月、ゴッホはゴーギャンをアルルに招待し、ともに共同生活を始めるのだが、それに先立つ1か月ほど前に、自画像の相互献呈を行った。この絵は、ゴッホからゴーギャンに献呈されたものである。

南極海における日本の調査捕鯨について、国際司法裁判所が中止命令の判決を出した。事前の予想では、ここまで厳しい判決が出るとは"誰も"思っていなかったとして、国内では大騒ぎになっている。その見通しの甘さについて、担当官僚は、安倍首相から厳しく叱責されたということだ。この男には、もう出世の見込みはないだろう。

T.S.エリオットの詩「荒地」から「水死」(壺齋散人訳)

  フェニキア人のフレバスは 死んでから二週間もたつので
  カモメの鳴き声も 深海のうねりも
  損得勘定も忘れてしまった
     海底の流れが
  ささやきながら彼の骨を拾った
  彼は立ち上がったり倒れたりしながら
  青春のステージを駆け抜け 渦に突っ込んでいったんだ
     キリスト教徒であれ ユダヤ人であれ
  舵をとり風向きをはかる君よ
  かつては君と同じようにハンサムで背の高かったフレバスを思い起こせ

STAP細胞の論文をめぐる疑惑について、理研が問題となっていた画像を調査した結果、それが改ざん、ねつ造されていたとして、研究リーダーである小保方晴子女史の責任を厳しく指摘した。これに対して小保方女史は、「単純なミスで、不正の目的も悪意もない」とし、これではSTAP細胞の存在自体が疑われることになり、受け入れられないとして、争う姿勢を見せている。

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黒沢明の映画「赤ひげ」は、ある種のスーパーマンを描いている点で、「用心棒」や「椿三十郎」の延長線上の作品といえなくもないが、違うところもある。桑畑三十郎や椿三十郎が、スーパーマン過ぎて人間ばなれしたところがあるのに対して、「赤ひげ」と呼ばれる医師は実に人間的なのだ。彼は一人の人間として、社会で確固たる居場所を持ち、周囲の者から深い尊敬を集めるばかりか、弟子の若者を立派な人間に教育する人格者でもある。それでいて腕っ節もめっぽう強い。人間として少しも落ち度のない理想的な人間だ。黒沢はそんな人間像を描くことで、自分の人間に対するこだわりについて、ひとつの形を与えたかったのではないか。自分の映画作りの集大成として。

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(秋篠寺伎芸天像、頭部乾漆像、本体木造、彩色、像高212.1cm)

秋篠寺は光仁天皇による勅願寺で、780(宝亀十一)年善珠僧正の開基になると伝わる。天平末期から平安初期にかけて大いに繁栄したが、1135(保延元)年の火災によりほとんどの伽藍が焼失した。現存する本堂は鎌倉時代に再建されたものである。

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