2014年6月アーカイブ

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レオン・バクストはロシア生まれの画家かつ舞台美術家として知られ、ディアギレフのロシア・バレー団の美術監督として、名声を高めた。1912年以降はパリに定住し、ベル・エポックの芸術家とも親交を持った。モディリアーニとは、芸術家仲間を通じて知り合ったらしい。

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東武野田線塚田駅から西の方角に歩いて10分あまりの所に行田公園がある。戦前には海軍の無線基地があったところで、終戦後アメリカ軍に接収された時期があるが、現在では県立公園として、一般市民に公開されている。

ツァラトゥストラの言葉のうち最初に述べられるのは「三つの変転について」と題されたものである。「わたしはお前たちのために、霊の三つの変転を述べよう。すなわち、霊が駱駝になり、駱駝が獅子になり、最後に、獅子が幼児になる次第を述べよう」(「ツァラトゥストラはかく語った」浅井真男訳、以下同じ)で始まるこの言葉は、一見して精神の成長あるいは発展について述べたものだとの印象を与える。

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(向源寺十一面観音像、木造、像高177cm)

滋賀県長浜市にある向源寺は、現在は浄土真宗の寺であるが、もともとは渡岸寺といって延暦寺の末寺であった。この渡岸寺に伝わった十一面観音像は、密教の影響が色濃く見られる仏像で、貞観彫刻の代表的作品とされ、また日本の彫刻史上最高傑作との評価が高い。無論国宝である。

白楽天の「新楽府」から「其三十五 時世妝」(壺齋散人注)

  時世妝 時世妝   時世の妝 時世の妝
  出自城中傳四方  城中より出でて四方に傳はる
  時世流行無遠近  時世の流行 遠近無し
  腮不施朱面無粉  腮に朱を施さず面に粉無し
  烏膏注唇唇似泥  烏膏唇に注(つ)けて唇泥に似たり
  雙眉畫作八字低  雙眉畫きて八字の低を作す
  妍媸黑白失本態  妍媸 黑白 本態を失し
  妝成盡似含悲啼  妝成って盡く悲啼を含めるに似たり
  圓鬟無鬢堆髻樣  圓鬟(かん)鬢無く堆髻の樣
  斜紅不暈赭面狀  斜紅暈せず赭面の狀
  昔聞被髪伊川中  昔聞く 被髪伊川の中
  辛有見之知有戎  辛有之を見て戎有るを知る
  元和妝梳君記取  元和の妝梳 君記取せよ
  髻堆面赭非華風  髻堆面赭は華風に非ず

安倍政権が、次回の国会でカジノを合法化する法案を成立させる方針のようだ。その最大の目的は、2020年のオリンピック開催とならんで、日本の観光産業振興の起爆剤にしたいということらしい。この話はすでに、世界の博打業界を駆け巡っており、アメリカの博打業者などは、日本のカジノに多額の投資をして、その利権にあずかりたいとする意向を示しているそうだ。

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ポーランド生まれの詩人で、画商もやっていたレオポルド・ズボロフスキーとその妻のアンナは、晩年のモディリアーニを何かにつけて支えてやった。1916年に、モディリアーニとベアトリス・ヘイスティングスの関係が破局を迎え、モディリアーニが二人の住んでいた部屋から追い出された時、ズボロフスキー夫妻は、モディリアーニのためにモンマルトルの一角に住む部屋を用意してやり、また自分たちの住まいをアトリエとしてモディリアーニに提供した。

民主主義(デモクラシー)という言葉がギリシャ語のデーモクラティアに由来するように、民主主義を議論する際に、ギリシャのデモクラシーの意義を軽視することはできない。そこで、ギリシャ人が、デーモクラティアという名前で何を観念していたかが問題になるが、それは文字通りに受け取れば、デーモス(民衆)のクラティア(権力)を意味した。つまり権力の主体が民衆であることを表す概念であったわけだ。その点で、権力の主体が一人である君主制、複数である貴族性との、対立関係において表象され、理解された概念である。

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木下恵介の映画「笛吹川」は「楢山節考」に続いて深沢七郎の小説を映画化したものである。「楢山節考」は、棄老をテーマにして、民衆の貧困と蒙昧を、第三者的な視点(演劇を見ている観客の視点といってよい)から描いたものだったが、この作品では、舞台を戦国時代に設定して、(観客ではなく)時代を生きる当事者(民衆)の目から見た世の中の愚かさが描かれている。

都議会の本会議で、露骨な女性差別的言動が大騒ぎに発展した。騒ぎは日本国内に留まらず世界中を巻き込んだというので、さすがの安倍政権も黙っていられず、こんな言動をした議員は潔く名乗り出て謝罪しろといい始めた。というのも、この言動に関わった都議が皆自民党員だということは、誰の目にも明らかだったからだ。

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密教といえば大日如来ということになるが、貞観彫刻のなかで大日如来像が残されているものは少ない。その貴重なものの一つが、金剛峰寺西塔の大日如来像である。これは西塔に安置されている五仏の中心となるものだが、ほかの四仏が徳川時代の作であるのに対し、西塔創建時(仁和年間<885-888>)のものと推定されている。

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世の中には物好きな人が絶えないと見えて、自分の犬こそ世界一醜いと主張して、互いに愛犬の醜さを競い合う人たちがいるそうだ。そんなコンテストが今年もアメリカのカリフォルニアで開催され、この写真の犬が優勝したという。二歳の雑種犬で、顔つきが犬らしくなく醜悪だとして、見事栄冠に輝いた。

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モイズ・キスリングの妻ルネの肖像画をモディリアーニは二点描いているが、これはその二作目である。一作目のルネは、落ち着いた雰囲気を漂わせ、しとやかで上品な女性という印象を与えるが、この絵の中のルネは全く対照的に描かれている。しとやかどころか、一癖ありそうな、崩れた感じの女性としてである。

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筆者が普段散歩道としている長津川の流域、その一角にこんな水溜りがあって、いつも子どもたちが遊ぶ姿が見える。大抵の子どもはこのように釣りをしているのだけれど、何を釣ってるんだいと聞くと、大抵ザリガニを釣っていると答える。こんなところでザリガニをとってどうするんだい、と重ねて聞くと、ザリガニ同志を戦わせたり、はさみのような前足をくすぐってみたりして、遊ぶのだそうだ。

あらゆる価値の転倒を図ったニーチェにとって、「神の死」という命題は、究極的であるとともに根本的なものでもあった。何故なら神こそはあらゆる価値のなかでも究極的なものであるし、また根本的なものでもあるからだ。その究極的で根本的な価値である神が没落することで、世界は意味をはく奪されて無意味のものとなる。無意味即無価値というよりは、没価値というべきかもしれない。というのも、無意味という言葉は意味を前提としているのに対して、ここでは意味そのものがなくなるわけだから、無価値というよりは没価値と言う方が相応しいだろうからである。

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(東大寺弥勒仏像、木造、像高39cm)

貞観彫刻には、形態を強調するあまりにデフォルメを強く感じさせるものがあるが、東大寺の弥勒仏像はその典型である。像高わずか39センチの小さな仏像にかかわらず、その迫力のゆえに、実物よりはるかに大きく感じさせる。

白楽天の「新楽府」から「其三十二 賣炭翁」(壺齋散人注)

  賣炭翁          炭を賣る翁
  伐薪燒炭南山中  薪を伐り炭を燒く南山の中
  滿面塵灰煙火色  滿面の塵灰煙火の色
  兩鬢蒼蒼十指黑  兩鬢蒼蒼として十指黑し
  賣炭得錢何所營  炭を賣り錢を得て何の營む所ぞ
  身上衣裳口中食  身上には衣裳口中に食
  可憐身上衣正單  憐れむべし身上の衣は正に單
  心憂炭賤願天寒  心に炭の賤しきを憂へ天の寒からんことを願ふ
  夜來城外一尺雪  夜來 城外 一尺の雪
  曉駕炭車輾氷轍  曉に炭車を駕して氷轍を輾く
  牛困人飢日已高  牛は困しみ人は飢ゑ日は已に高し
  市南門外泥中歇  市の南門の外泥中に歇(やす)む
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(平等院鳳凰堂)

一時頃南門より平等院の境内に入る。平等院の建物は平成の大修理といはるる修理を経てこの春落慶したるばかりといふ。二年半ぶりの開帳とあって見物客も多しとみえ、見物するに時間交代制を採用してあり。余は一時三十分の組の切符を手渡されたり。

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「黒いネクタイの女」と題したこの絵は、「寝椅子に座った裸婦」、「ヴァン・ムイデン」夫人の延長線上にあるだけでなく、モディリアーニにとってひとつの頂点をなしているともいえる。この絵には、それまでモディリアーニが試行していきた様式上の要素がもれなく盛り込まれているとともに、精神的な要素も感じられる。それはオーラと言ってもよい。

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(醍醐寺金堂)

六月五日(木)陰。ホテル内の食堂にて朝餉をなし、駅内の売店にて新聞を買ひ求むること毎日の如し。九時過ぎにチェックアウトを済ませ、荷物をホテル内のロッカーに預けてのち、京都駅よりJR線に乗り、山科にて地下鉄に乗り換へ、醍醐駅に至る。そこより醍醐寺までは歩みて十分ほどの道のりなり。

民主主義という言葉には二つの意味が込められている。一つは統治システムにかかわるもので、多数者としての人民を統治の主体とするものをさして民主主義と言う場合である。この意味での民主主義は、歴史的には、ひとりによる統治である王制や、少数者による統治である貴族制と対立する。もうひとつは、政治理念にかかわるもので、これには自由と平等があげられる。これらの理念は、歴史上たまたま民主主義と結びついてきたのであって、かならずしも論理必然的に結びつかねばならない筋合いではないといえる。だが、少なくとも今日の民主主義を語るさいには、この二つの理念は民主主義にとって欠かせない要素となっている。

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(西芳寺の苔)

余が苔寺を訪ひしは高校生時代の修学旅行の折にて、その折には、同級の生徒らと隊列を組んで苔むしたる道を歩みたるものなり。当時の苔寺は、拝観に制限を設けず、誰にても遠慮なく立ち入ることをえしが、その後数に制限を設け、しかも事前予約を要することとなす。余も一ヶ月以上前にはがきにて申し込み手続きをなしおきたるなり。

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木下恵介の映画「楢山節考」は、深沢七郎の同名の小説を映画化したものである。深沢はこれを、姨捨山伝説に取材したといっている。姨捨山伝説とは、大和物語に出てくる老母虐待の話で、老母を山中に捨てた息子が自分の行為を後悔して、「我が心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と歌ったというものである。しかし、これは一人の親不孝な男の物語であって、棄老の風習があったということではない。それを深沢は、あたかも日本の古い時代に、現実に棄老の風習があったかのように描いたわけである。

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(広隆寺山門)

六月四日(水)ホテル内にて朝餉をすませしのち、駅の売店に新聞を買ひにいくこと昨日の如し。九時過ホテルを辞し、駅前より苔寺ゆきのバスに乗る。この日は苔寺と広隆寺を訪ふつもりなり。

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「ヴァン・ムイデン夫人の肖像」と題したこの絵が、構図的に「寝椅子に座った裸婦」と非常に似ていることは、両者を同じ平面に並べてみるとよくわかる。ヌードではなく着物を着て、片手を胸にはあてていないけれど、この絵のモデルは、裸婦とよく似た表情をしている。特に斜めに傾げた首と、それと逆向きに交叉させている顔の様子が。

安倍政権が、家事労働の分野に外国人を活用する方針を固めたそうだ。当面は大阪府など関西圏に限定し、「18歳以上、単身での入国」を前提に、外国人を受け入れるという。従事する仕事としては、掃除や洗濯などの家事労働というが、なぜこんな領域に外国人が必要なのか、安倍政権の説明でははっきりしない。というのも、安倍政権は、外国人に家事労働を担わせることで、日本女性の社会進出を促したいなどといっているが、他人に金を払って家事の代行を依頼するような女性は、そんなに多くいるわけではない。多くの女性にこの制度の恩恵が及ぶようにするには、外国人をとびきり安くこき使うことが前提になる。

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(三井寺金堂)

食後京阪電鉄の列車に乗り三井寺駅に至る。三井寺はそこより歩みて十分ばかりのところにあり。この寺なぜ三井寺と呼ばるるに至りしか、それいはれあり。天智、天武、持統三代の天皇の産湯に用ひられし霊泉この寺の敷地内より湧出すといふ、それによりて御井の寺すなわち三井寺とは呼ばるるやうになりたると縁起にいへり。

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(新薬師寺の薬師如来坐像、木造、像高190.3cm)

神護寺の薬師如来像とならんで、貞観彫刻の最も古い作品に新薬師寺の薬師如来坐像がある。ヒノキの一木彫で、背面に頭部に及ぶ長方形の内刳りをしてある。口ひげを墨で描き、唇を赤く塗ってあるほかは彩色を施しておらず、木彫りの素地を生かしている。

フランスの経済学者トマ・ピケティの著作「21世紀の資本論」が世界的な反響を呼んでいるそうだ。ポール・クルーグマンなどは「ピケティは我々の経済的論議を一変させた」といって絶賛したようだが、何がそれほどのインパクトを与えるのか。筆者はこの本をまだ読んではいないが、彼自身がこの本の意義について発言しているのを朝日が紹介していたので、それを読みながら、多少のことを考えた次第だ。

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山王祭は徳川時代には、神田の祭と共に天下祭と言われて、江戸の祭の代表的なものだった。なにしろ日枝神社は、江戸城のある土地の氏神でもあり、また、日本橋や京橋といった江戸最大の商業地域をカバーしていたということもあって、勢い江戸の祭の中でももっとも規模の大きなものだったわけである。

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葛飾区の端にある水元公園は、中川と江戸川を結んで流れる大場川の一部にできた小合溜という水溜りをいかした水生公園である。この大場川と小合溜が埼玉県との都県境になっている。

ニーチェは、すべての道徳には起源があると言って、キリスト教道徳が弱者の強者に対するルサンチマンから発生したことを見抜いたわけだが、同じようにして、すべての哲学上の真理にも起源があることを見抜いた。その起源とは人間の解釈である。真理とは人間によって都合のいいように解釈されたものに過ぎない、と言うことで、真理を完全に相対化させてしまったわけである。これは西洋の哲学史上画期的なことだったといえる。何故なら西洋哲学にとって、真理こそが永遠のテーマだったからだ。その真理が、実は人間の解釈が作り出したものだったとは!

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(神護寺薬師如来像、木造、像高169.7cm)

京都神護寺の薬師如来像は貞観彫刻の初期の傑作である(9世紀初頭の制作)。神護寺は、もともと高尾山寺といって、最澄や空海とも深いつながりがある。空海が唐から帰朝して初めて灌頂を行ったのはこの寺においてである。その折にはこの薬師如来像はすでに寺にあったものと思われる。

白楽天の「新楽府」から「其十七 五弦彈」(壺齋散人注)

  五弦彈 五弦彈  五弦の彈 五弦の彈
  聽者傾耳心寥寥  聽者は耳を傾け 心寥寥たり
  趙璧知君入骨愛  趙璧は知る 君が骨に入りて愛するを
  五弦一一爲君調  五弦 一一 君が爲に調す
  第一第二弦索索  第一第二の弦は索索として
  秋風拂松疏韻落  秋風 松を拂って疏韻落つ
  第三第四弦泠泠  第三第四の弦は泠泠として
  夜鶴憶子籠中鳴  夜鶴子を憶って籠中に鳴く
  第五弦聲最掩抑  第五の弦は聲最も掩抑にして
  隴水凍咽流不得  隴水凍咽して流れ得ず
  五弦並奏君試聽  五弦並び奏す 君試みに聽け
  淒淒切切複錚錚  淒淒 切切 複た錚錚
  鐵擊珊瑚一兩曲  鐵は珊瑚を擊つ一兩曲
  冰瀉玉盤千萬聲  冰は玉盤に瀉ぐ千萬聲

タイは世界有数のエビの産地で、その価格の安いことで世界中のバイヤーが買い付けに来るそうだ。このおかげで、テスコやウォールマートといった国際的なスーパーマーケット業界が、安い価格でエビを売ることができる。なぜこんなに安い価格が可能かというと、それはタイのエビ漁が奴隷労働によって成り立っているからだとする情報を、英紙ガーディアン(Web版)がすっぱ抜いた。(Globalised slavery: how big supermarkets are selling prawns in supply chain fed by slave labour - video)

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(比叡山延暦寺根本中堂)

六月三日(火)晴、暑気やややはらぐ。ホテルの食堂にて朝餉をすませ、駅構内の売店にて新聞を買ひ求む。駅に接続するホテルはなにかと便利なり。しかして九時二十五分京都駅発のJRバスに乗り、比叡山に直行す。比叡山は電車の乗継不便なれど、日に一便しかなきこのバスを利用すれば、一時間余にて至ることを得るなり。

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1917年はモディリアーニにとって「裸体画の年」といっていいほど多くの裸体画を描いた。翌年の1918年になるとエルヴィーラの立像などの外は、裸体画をほとんど描かなくなるから、この年がいかに特別の年だったかがわかとうというものだ。

今年秋に行われる上下両院の議院選挙に向けて、いまアメリカでは予備選挙が行われている最中だ。そんな中で、共和党の下院院内総務として大きな政治的影響力を持つといわれたエリック・カンター議員が、ティー・パーティ系の全く無名の新人に大敗を喫して、政治の舞台から消え去るという、思いがけない事態が起こった。アメリカではこのことをめぐって、すさまじいほどの議論が巻き起こっているらしく、その中で、これは前代未聞の、政治の常識では考えられない事態だとする論調が支配的だということだ。

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(仁和寺御室の庭園)

食後再びバスに乗りて仁和寺に至る。山門は巨大な仁王門なり。門をくぐりてすぐ左側に御室あり。平安時代初期に宇多天皇が住坊となされしところにて、それよりお室と呼ばれるやうになりしといふ。以来門跡寺院として高き格式を誇れる由なり。その御室の一角はいまなほよく保存せられ、皇居より移築したるといふ建物を中心にして、手入れのよく行き届いたる庭園を眺めること得たり。この庭園なかなかの見ものといふべし。往年謡曲の仲間とともにこの寺を訪ねし折、どういふわけか御室の中に立ち入ることをせざりき。仁和寺の価値はこの一角におふところ大なれば、うかつなりしといふべし。

サッチャー、レーガン、小泉らのいわゆる新保守主義的な政権が、一方ではポピュリズムの性格を持っていたことはよく指摘されることである。ポピュリズムの定義は必ずしも明らかではなく、民主主義との関連も多義的であるが、ゆるやかに解釈すると、政治と民衆とをストレートにつなげようとする動きだといえよう。民衆の要求をストレートに政治に反映させようとする点で、民衆による下からの運動という形態をとることもあろうし、あるいは民衆の要求を上から吸い上げる形をとることもあろう。いずれにしても、政治を民衆にとって身近なものにする試み、それがポピュリズムだと言えなくもない。

安倍政権の成長戦略の柱のひとつは、日本を企業にとって活動しやすい国にすることで、外国資本を導入しようとする戦略だ。企業にやさしい国づくり、と言い換えてもよい。これは二つの政策からなっている。ひとつは労働者をやすくこき使える環境を整えてやること、もうひとつは大胆な企業減税だ。

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(神護寺山門)

六月二日(月)この日も晴れて炎暑なり。七時に起床し、ホテル内にて朝餉をなしてのち、京都駅九時発のJRバスに乗り、五十分ほどして山城高尾なるところに下車す。下りの山道を歩き、渓流にかかれる橋を渡ると次は峻厳なる上り坂なり。上下の坂道を併せ十五分ほど歩みて神護寺に至る。山門をくぐれば、さまざまな伽藍山中に雑然と配置せられてあり。

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木下恵介は観客の涙を搾り取る名人との評価が高いが、なかでも「喜びも悲しみも幾歳月」は、日本中のひとびとの涙をしぼりとったことで定評がある。なにしろ昭和天皇ご一家もこれを見て涙ぐんだと伝わっているから、それこそ天上天下あらゆる日本人が泣かされたといってよい。かくいう筆者も、後にテレビでこの映画を見て(というのも封切り当時筆者はまだ子どもだったから)、感動の涙を流したひとりだ。この映画のなにが、人々をかくも感動せしむるのか。

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(三十三間堂)

三十三間堂に来るは高校生時代の修学旅行以来のことなり。この日も、中学生や高校生らしきものの集団を多くみかけたれど、おそらく修学旅行に来れるなるべし。京都に寺院多しといへども、この寺は特別の人気を誇れるものの如し。

平安時代前期(ほぼ9世紀に相当)の文化を弘仁・貞観文化と呼び、特に仏像を始めとする彫刻類を貞観彫刻と呼ぶ場合がある。最近では、単に平安時代初期とか、単に9世紀の文化とかいうことが多くなったが、ここでは貞観彫刻或は貞観仏といった名称を用いることにする。

平成二十六年六月一日(日)この春旧友らとともに京都へ遊び、庭園巡りをなせしところなりしが、その折の旅情にひかされて、次は古寺の仏像を見歩かんと思ふに至りぬ。ついては、誰ぞ同行の者もがなとも思ひしが、仏像ばかりを見て歩く計画に乗る者はなし、単身行くこととなす。もっとも、その方が気楽な旅を楽しむには都合よろしとすべし。

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モディリアーニは1917年に数多くの裸婦像を描いたが、それは友人のズボロフスキーがモディリアーニのためにモデルを雇ってくれたからだった。裸婦を描くことは無論モディリアーニの希望であったろうが、ズボロフスキーのほうでもまた、それを勧めたのかもしれなかった。

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先日のEU議会選挙での極右勢力の躍進に見られるように、最近のEU諸国での極右の伸長が目立っている。ギリシャも例外ではなく、「黄金の夜明け」という極右政党が人々の広範な支持を獲得しつつある。この政党は極右の中でもネオナチを標榜しており、党旗のデザインにもナチスのハーケンクロイツを思わせるイメージを採用している。

いよいよ現実化した日本の人口減少傾向は、このまま放置しておくと、2060年には8700万人まで減少するだろうとの予測まであるなか、安倍政権がそれなりの危機感を表明し、人口維持政策を打ち出した。6月中にも閣議決定するいわゆる「骨太方針」のなかで、50年後の人口一億人を維持する目標を織り込むというのだ。

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摩賀多神社の参道にあたる道を宮小路といい、その道の周辺に広がる街並みもまた宮小路といった。宮小路の中心は、摩賀多神社の前の広場である。広場と言っても、それらしき広場ではなく、道が周囲と比べて広がっているので広場のように見えるだけである。昔の日本人はそうした広場を広小路などといったものだが、摩賀多神社前の広小路はそんなに大それたものではない。

「力への意思」はニーチェの思想の根幹と言えるものである。それは人間の認識を始めとするあらゆる行動の背後に力への意思を想定し、それら(認識やその他人間の行動)は「力への意思」が発現されたものだと考える。その意味で、世界を意思と表象とに分け、意思が発現されたものが表象だとするショーペンハウアー思想の変形だといえよう。

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(石山寺本堂)

滋賀県大津市にある石山寺は、奈良時代に創建された古い寺であるが、平安時代に密教寺院になった。醍醐寺の開基として知られる聖宝僧正が座主として入寺したと伝えられるから、醍醐寺の創建と同じ頃に密教化したものと思われる。

白楽天の新楽府から「其九 新豐の臂を折りし翁」(壺齋散人注)

  新豐老翁八十八  新豐の老翁八十八
  頭鬢眉須皆似雪  頭鬢眉須 皆雪に似たり
  玄孫扶向店前行  玄孫扶けて店前に向かって行く
  左臂憑肩右臂折  左臂は肩に憑り右臂は折れたり
  問翁臂折來幾年  翁に問ふ臂折れてより幾年ぞ
  兼問致折何因緣  兼ねて問ふ折るに致りしは何の因緣ぞと

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ジャック・リプシッツはリトアニア生まれの彫刻家で、モディリアーニとは彫刻家仲間として知り合ったと思われる。1916年にベルトと結婚したリプシッツは、結婚記念としてモディリアーニに絵を描いてもらうように依頼した。その結果出来上がったのがこの絵である。微笑ましくポーズをとる男女の姿が、まさに結婚記念写真を思わせるようである。


グローバル化とナショナリズムは一見正反対のように見える。グローバル化は基本的には経済をめぐる現象であり、ナショナリズムのほうは政治的な現象だという違いはあるけれど、グローバル化が進めば国境の壁が低くなり、したがってナショナリズムも弱くなるのではないか。というのも、ナショナリズムとは基本的には国境の壁があることを前提にした現象だから、今後、グローバル化がいっそう進んでいけば、国境の壁が低くなることでナショナリズムはいよいよ足場を失い、「世界はひとつ」に向かって進んでいくのではないか。こんな期待が生まれるのも無理ではないように思える。

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木下恵介には、貧しい庶民の生きざまを、そっと寄り添うような視線で描いた作品が多い。「夕やけ雲」もそうした作品のうちの逸品だ。家の貧しさゆえに、船乗りになりたいという将来の夢をあきらめ、また愛する小さな妹と別れなければならない、そんな少年の悲しさを描いた作品だ。家のために犠牲になる話は溝口健二も好んで描いたが、溝口の場合には、犠牲になるのはいつも女だった。それを木下は、少年を犠牲にさせたのである。そこのところが、面白い。

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