2014年10月アーカイブ

三島由紀夫は、人によって好き嫌いがはっきりと別れる作家だと思うのだが、佐高も西部も苦手だといっている。嫌いではないのだが好きでもない、苦手だというのだ。苦手とはどういうことかいまいち判然しないが、要するにかかわりになりたくないということだろう。三島を材料にして何かいうと、変な方向から余計なリアクションが返ってくる。それをまともに相手にしていると非常に疲れる。だから触らぬ神に祟りなし、という態度をとりたくなるらしい。

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「アダムとイヴ」と題したこの絵には、一見してキュビズムの影響が見て取れる。この絵を描いた当時の「ラ・リューシュ」には、キュビストのフェルナン・レジェも暮らしていたから、あるいはその影響を受けたのかもしれない。しかしこの絵は、キュビズムという言葉には収まりきれない要素をあわせもっている。例えば、アダムとイヴの頭上に覆いかぶさっているリンゴの木や、背後の空間に描かれている鹿やヤギの描き方などだ。これらの描き方は、キュビズムとは縁がない。

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狂言「二人袴」は、婿狂言の部類に分類されるものである。婿狂言には、婿選びの話と婿入りする話とがあるが、「二人袴」は婿入りの話の一種ということができる。まだ対面したことがない婿と舅が、大安吉日に晴れて対面することになるが、婿は一人で挨拶するのが不安で、父親の同席を求める。だが、この父子は貧しいと見えて、袴を二人分用意することができない。そこで一枚の袴を二人で穿きあい、舅の前で何とか体面を保とうとするが、最後には仕掛けがばれて、大恥をかくという内容である。

エルンスト・マッハは、新カント派の中心的な思想家であり、かつ自然科学者としても数々の業績を残しているが、レーニンが「唯物論と経験批判論」のなかで徹底的に批判したこともあって、日本では、一流の思想家としてはなかなか認められなかった。そんなマッハを、本格的に日本に紹介したのが廣松渉である。廣松はマッハの主著「感覚の分析」や「認識の分析」を翻訳する一方、その思想の特徴を解明している。「事的世界観への前哨」に収められた「マッハの現相主義と意味形象」と題する論文は、その成果である。

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むかし、をとこありけり。女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でゝ、いと暗きに来けり。芥川といふ河をゐていきければ、草の上にをきたりける露を、かれはなにぞとなむをとこに問ひける。ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
  白玉かなにぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり。まだいと若うて、后のたゞにおはしましける時とや。

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冒頭でクライマックスに当たる部分を提示し、その後で、主人公の回想や第三者の証言という形で、クライマックスに至った背景を描いていくという手法は、小説や映画で数多く用いられてきた。回想ものともいえるそういったジャンルのうちで、マルセル・カルネ(Marcel Carné)の「陽は昇る(Le Jour se lève)」は、もっとも成功したものの一つだろう。この映画では、冒頭の部分で主人公が銃で殺人を犯す場面がアップされた後、殺人現場としてのアパートの一室に閉じこもった主人公の男が、自分がこの殺人を犯さざるを得なかった背景について、警察による包囲網をくぐりながら回想するという形で進んでいく。題名の「陽は昇る」は、回想の長い一夜と、その夜が明けて主人公が自殺するという内容を、象徴的にあらわしているわけである。

300人以上の死者を出した韓国船セウォル号事件について、韓国の検察が当時の船長に対して死刑を求刑したそうだ。この求刑を聞いて首をかしげたのは筆者だけではあるまい。求刑の前提となる罪は殺人罪だということだが、果してこのケースで殺人罪を適用するのが妥当なのか。

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(源氏物語絵巻:鈴虫1)

蓮の花盛りの頃、源氏は女三宮の持仏堂の開眼供養を行った。その席上、源氏は女三宮に去られてひとり取り残されることの耐えがたさを訴えるが、三宮は色よい返事をしない。かえって、父君の朱雀帝は、三宮をはやく三条宮に移すよう勧めるほどである。

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ヘラクレス座の方角にあるヘラクレスA銀河は、肉眼でも見えることで知られている。肉眼で見ると、楕円形に見える。ところがハッブル宇宙望遠鏡のデータをもとに精査したところ、上の映像にあるような形をしており、端から端までの距離は100万光年もあることが分かった。(天の川銀河の直径は10万光年)

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1911年の末近くに、シャガールは「ラ・リューシュ(蜂の巣)」と呼ばれるモンパルナスの集団アトリエに引っ越した。そこで最初に描いたのが、「私と村」と題したこの絵である。このタイトルを思い付いたのは、「婚約者に捧げる」の場合と同様に、ブレーズ・サンドラールであった。

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むかし、をとこありけり。ひむがしの五条わたりに、いと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきゝつけて、その通ひ路に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、いけどえ逢はで帰りけり。さてよめる。
  人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごどにうちも寝なゝむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。二条の后にしのびてまゐりけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせ給ひけるとぞ

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マルセル・カルネ(Marcel Carné)は、「霧の波止場」に続いて、しかも同じ年(1938年)に、同じような男女のラブ・ロマンス「北ホテル(Hôtel du Nord)」を作った。前作同様男女の愛をテーマにしたメロドラマだが、多少異なったところもある。前作ではジャン・ギャバン演じる男が愛の主導権を握っていたが、この作品ではアナベラ(Annabella)演じる女が愛の主導権を握っている。アナベラといえば、クレールの「パリ祭」やデュヴィヴィエの「地の果てを行く」などで清純な女性を演じた女優だ。この映画でもやはりそうした清純なイメージが強く伝わってくる。この時点で彼女は三十歳を超えていたのだが、二十歳代前半の若さにしか見えない。

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(源氏物語絵巻:横笛)

柏木が死んだ後、柏木の未亡人落葉の宮(女三宮の姉)のもとを夕霧が足しげく通うようになった。ある時、落葉の宮を訪ねた折に、夕霧は柏木の形見の横笛をもらった。それを持って帰宅すると、妻の雲井の雁の機嫌が悪い。彼女は夫が落葉の宮を訪ねるのが気に入らないのだ。
中国がイランとの軍事協力、特に海軍のそれについて前向きになっている。現在中国を訪れているイランのサヤリ海軍少将と中国側の常万全(Chang Wanquan)国防部長との間で、両国の海軍同士の緊密な協力関係が強調され、今後人的交流を含めた様々な分野で一層の協力を推し進めていくことが確認されたという。

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「婚約者に捧げる」と出したこの絵は、シャガールが自分の婚約者に捧げたものではない。この絵を見た友人のサンドラールが、この絵の中の女性が、死んだばかりの自分の婚約者に似ていると言うので、勝手にそう名付けたのを、シャガールが拒まなかったということである。シャガール自身の恋人ベラは、ロシアに置いてきたままだったのである。

「坑夫」は「吾輩は猫である」に始まる漱石の遊戯的な作品の系列の最後に位置するものである。この作品の後に「三四郎」を書き、そこで試みた小説の手法を深化させていくことで、漱石独自の深みのある文学を確立していくわけであるが、この作品「坑夫」」には、三四郎以降の展開を予想させるようなものは殆ど感じられない。その意味で、前期の遊戯的な作品の系列の最後に位置するものだと言ったわけである。

サルトルは、ヘーゲルの自己意識論に依拠しながら、独自の対人関係論を展開したが、廣松渉はそれを、自分の「共同主観性」論と対比させながら、その意義と限界について論じている。(「世界の共同主観的存在構造」Ⅱ、一、第二節 役柄的主体と対他性の次元)

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むかし、ひむがしの五条に、大后の宮おはしましける。西の対に、住む人ありけり。それを本意にはあらで、心ざしふかゝりける人、行きとぶらひけるを、む月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、人のいき通きかよふべき所にもあらざりければ、なを憂しと思ひつゝなむありける。又の年のむ月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見ゝれど、去年ににるべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでゝよめる。
  月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。

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映画には国民性といってよいようなものがある。国民性を映し出しているような映画がある、と言い換えてもよい。アメリカの場合には西部劇がそれにあたるだろう。日本の場合にはチャンバラ時代劇がそれだろう。では、フランスの場合にはどうかといえば、それは男女のロマンスだ、と誰もが答えるだろう。それほどフランス人は男女のロマンスが好きだ。フランス映画で、男女のロマンスの要素がないものは、駄作であるか、あるいは変った映画であるか、そのいずれかである。

インドで最近起きた一連のレープ事件が世界中の耳目をそばだたせたが、その背景には、カースト意識に基づいた人権軽視の考え方があると筆者は思っている。カーストがらみの犯罪は、近年減少傾向にあったとされてきたが、最近になってまた盛んになってきたようだ。その例として、英紙ガーディアンがいくつかのケースを報告している。(Lynching of boy underlines how the curse of caste still blights India By Jason Burke)

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(源氏物語絵巻、柏木1)

柏木の巻は、源氏物語54帖のなかでも最も変化に富んだ部分ということもあってか、源氏物語絵巻においても3面が割りあてられている。それぞれの絵が理解しやすいように、背景を整理すると次のようになる。

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シャガールが、ペテルブルグの美術学校での2年間の修行を終え、パリに出て来たのは1910年の秋だった。マクシム・ヴィナヴェルが、1914年までの四年間にわたって奨学金を出してくれたからだ。その前年にパリに出ていた師匠のバクストを頼り、また、多くの芸術家たちの支援をあてにしながら、シャガールはこの芸術の都で、自分の個性を磨いていくことになる。時に、シャガールは23歳の青年であった。

マルク・シャガール(Marc Chagall 1887-1985)は、パブロ・ピカソと並んで、20世紀で最も成功した画家と言える。成功したというのは、比較的若い時期に大家としての名声を確立し、その名声を長い生涯に保ち続けたばかりか、死後においてもなお、世紀を代表する偉大な画家という評価を勝ち取ったという意味である。シャガールは、画家としては非常に長命と言うべく、98歳まで生きたのであるが、死ぬ直前まで現役の画家として活躍し続けた。ある意味、幸福な生涯だったといえよう。

従軍慰安婦についての国連報告、いわゆる「クマラスワミ報告」について、安倍政権が国連に対して、その一部を取り消すように求めた。先般朝日新聞が従軍慰安婦に関する自社の記事の一部を訂正した事態を踏まえてのものだ。クマラスワミ報告は、今回朝日が取り消した記事も引用しており、それが取り消されたからには、国連報告の一部もまた取り消されるべきだという理屈だ。

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むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもといふ物をやるとて、
  思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつゝも
二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり

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ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の戦後の代表作「パリの空の下セーヌは流れる(Sous le Ciel de Paris coule la Seine)」は、映画の中で流れるシャンソンの方が有名になってしまった。この映画の中では二曲のシャンソンが流れるのだが、そのうちの一つである「パリの空の下(Sous le Ciel de Paris)」が、エディット・ピアフやイヴ・モンタンによってカバーされるや、たちまち世界中でヒットした。いまでも、シャンソンの名曲として愛され続けている。かくいう筆者も好きな曲だ。とにかく、メロディがすばらしい。

今週10月13日に、英下院がパレスティナ国家承認決議を274対12という圧倒的多数で可決した。採決に加わった議員数が下院の定数650の半数に満たず、また法的な拘束力を持たないとはいうが、これは英国の歴史でも画期的なことであるのはいうまでもなく、世界の歴史にとってもひとつの節目になるかもしれない。

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(源氏物語絵巻、蓬生)

蓬生の巻は、末摘花との再会の場面を描く。源氏は、須磨にいた折に末摘花と契りを結んだのだったが、その後は忘れたままに捨て置いていた。一方、末摘花の方は、源氏と再び会える日を待ち望み、叔母が引き取ろうというのを拒んで、ひたすら待ち続けていた。

先稿「クローニー・キャピタリズム」の中で筆者は、各国における経済のクローニー度を分析した雑誌 Economist の記事を紹介しながら、日本はいまのところ世界で最もクローニー度が低い国と結論付けた。だが、そうも言ってられないようだ。日本にもクローニー・キャピタリズムの模範のようなものが存在する。原子力村といわれるのがそれだ。

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クレーの生涯最後の作品がこの不思議な絵である。クレーはこの絵に題をつけなかったが、クレー研究者の間では「静物(Stilleben)」と呼ばれている。黄色いテーブルの上のポットやら、逆さまになったテーブルに乗った壺など、つまりふつう静物画のモチーフとなるような図柄が描かれているからだ。

朝日がこの四月から九月にかけて、漱石の小説「こころ」を連載していたのを読んだ。「こころ」の連載が始まったのはちょうど百年前の四月だった。朝日はそれを連載した新聞社として、百年経った記念に、百年前とそっくり同じ体裁で再連載をしたということだったが、筆者はその連載を一日も欠かさずに読んだ、熱心な読者のひとりだった。

この奇妙な題名は、廣松渉の哲学的著作「世界の共同主観的存在構造」第一章の章題である。この書物の課題は、人間の認識の根本的なあり方を明らかにすることであるが、それを廣松は共同主観的なあり方としてとらえた。従来の哲学の主流の意見においては、人間の認識作用を主観―客観図式でとらえたうえで、主観は意識内在的なもの(したがって各私的かつ自律的)であり、かつすべての個人を通じて同型的であるとされてきた。このような見方に対して廣松は、主観の各私性・自律性を否定し、それが共同主観的な枠組によって歴史的・社会的に制約されていること、その制約は個別の意識にとっては外在的なものとして働くということを主張した。何故そういえるのか、その根拠を明らかにしたのが、この「現象的世界の四肢的存在構造」と題する章なのである。

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むかし、をとこ、うひかぶりして、平城の京、春日の里に、しるよしゝて、狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このをとこ、かいま見てけり。おもほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。をとこの着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。そのをとこ、しのぶずりの狩衣をなむ、着たりける。
  春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず
となむ、をいつきて言ひやりける。ついでおもしろきことゝもや思ひけむ。
  みちのくの忍ぶもぢすり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
といふ哥のこゝろばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。

伊勢物語は今も多くの日本人に愛されている。九世紀の半ばごろに成立したこの古い歌物語は、二十一世紀に生きる日本人の心にも訴えかけるものを持っているからだろう。かくいう筆者も、少年時代にこの物語に感激して以来、還暦を過ぎた今でも、時折繙いては読んでいるところである。最近は、単に物語の本文に接するばかりではなく、絵巻物になったものを、絵物語として鑑賞するようにもなった。

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ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の映画「望郷(Pépé le Moko)」(1937年)は、「地の果てを行く」(1935年)と同じく、アフリカを舞台にしたものである。どちらの作品もジャン・ギャバン(Jean Gabin)が主演している。「地の果てを行く」の中のギャバンはフランスで殺人事件を犯し、官憲の追及を逃れるためにモロッコの外人部隊に潜伏する男に扮していたが、この映画「望郷」のなかでは、やはりフランスの警察に追われ、アルジェリアの都市アルジェの、カスバと呼ばれる一角に潜伏する男に扮している。原題の Pépé le Moko はその男の名前だ。

朝日新聞が従軍慰安婦の記事の一部を撤回したのに乗じる形で、極右勢力による歴史修正主義の動きが表面化してきたが、それが暴力を連想させるというので、日本が暴力的な排外主義に進んでいくのではないかとの懸念が、海外でも出て来たようだ。その一つの例として、英紙ガーディアンの記事を紹介しておきたいと思う。

源氏物語絵巻

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源氏物語を絵画にしたいわゆる「源氏絵」は、平安時代から現代にいたるまで、様々な形で描きつがれてきた。その中で最も古いものは、国宝指定されている平安時代末期の「源氏物語絵巻」である。これは、尾張徳川家に伝わってきた15面の絵(蓬生、関屋、柏木3、横笛、竹河2、橋姫、早蕨、宿木3、東屋2、現在は徳川美術館蔵)と、阿波蜂須賀家に伝わってきた4面(鈴虫2、夕霧、御法、現在は五島美術館蔵)からなる。いづれも、同一の絵巻物の一部がそれぞれ別れて伝わったとされるが、どのようないきさつで両家に伝わったか、その経緯はよくわかっていない。もともと鷹司家にあったものが、子女の婚礼の引き出物として両家に分与されたのではないか、と推測されている。

人道は死語になった、こういって嘆いているのは鋭い時評で定評のある作家高村薫さんだ。高村さんは、最近世界で立て続けに起きている紛争を前にして、人道に反した行為がなぜこうもまかり通っているのか、読書誌「図書」への投稿の中で、疑問を投げかけているのだ(「この夏に死んだ言葉」図書2014年10月号)。

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この絵「手、足、そして心を持っている(hat Kopf,Hand,Fuss und Herz)」は、人間の身体を分解してみせたものだろうか、それとも人間の部品らしいものを寄せ集めてきて、これから人間のモデルを作ろうというのだろうか。クレーには、このような実験を思わせるような試みの絵がけっこうある。

白楽天の五言古詩「自ら老身を詠じ諸家屬に示す」(壺齋散人注)

  壽及七十五  壽は七十五に及び
  俸沾五十千  俸は五十千に沾ふ
  夫妻偕老日  夫妻 偕老の日
  甥侄聚居年  甥侄 聚居の年
  粥美嚐新米  粥は美にして新米を嚐め
  袍溫換故綿  袍は溫かにして故綿を換ふ
  家居雖濩落  家居 濩落と雖も
  眷屬幸團圓  眷屬 幸ひに團圓たり
  置榻素屏下  榻を置く 素屏の下
  移鑪青帳前  鑪を移す 青帳の前
  書聽孫子讀  書は孫子の讀むを聽き
  湯看侍兒煎  湯は侍兒の煎るを看る
  走筆還詩債  筆を走らせて詩債を還し
  抽衣當藥錢  衣を抽いて藥錢に當つ
  支分閑事了  閑事を支分し了り
  爬背向陽眠  背を爬きて陽に向って眠る
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ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の1935年の映画「地の果てを行く(La bandera)」は、ジョゼフ・スタンバーグの「モロッコ」(1930年)、ジャック・フェデーの「外人部隊」に続き、モロッコのスペイン外人部隊を舞台にした作品である。モロッコの外人部隊というのは、ヨーロッパ中からわけありの人間たちが集まってきており、いわば人生の吹き溜まりと言うような印象があったのだろう。映画の舞台としては恰好ということで、何度も取り上げられたようである。映画の有力なジャンルのひとつになっていたわけだ。

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(平家納経、薬王品、縦26.0cm)

平家納経は、平家が一門の繁栄を願って厳島神社に奉納した経典類のことである。単に経典を書写したにとどまらず、金泥を散らした豪華な絵を伴い、一種の装飾画としての側面も持っている。また、絵の中に絵文字を忍ばせ、その文字によって経典の趣旨を表現するなど、判じ絵的な面もあわせ持っている。

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クレーは、魚が好きだったのだろうか、魚のモチーフを繰り返し描いている。この絵は、幻想的な空間を泳ぎまわる魚の群れを描いたもの。「魚の魔術(Fisch Zauber)」と題しているのは、魚たちを対象にした魔術なのか、魚たち自身が行っている魔術なのか。どちらとも読み取れる。

今ではあまり聞かなくなったが、かつては愚かな行いをするものを「たわけ」といって罵った。かくいう筆者も子供の頃に、愚かなことをした際に、年長の者から「たわけ」と言われたものだ。

廣松渉といえば、ユニークなマルクス主義者として、1960年代前後の日本の新左翼的言説の中心にいた人物として評価されるのが普通だが、彼にはもうひとつ、哲学者としての顔があった。というのも、かれは東大の哲学教授であったわけだし、そのような立場から、日本の哲学界の歴史的な傾向に掉さすようなかたちで、哲学的な思考を展開してもいたわけである。

白楽天の詞「江南を憶ふ」(壺齋散人注)

其一

  江南好          江南好し
  風景舊曾暗      風景 舊(も)と曾て暗(そら)んず
  日出江花紅勝火  日出でて 江花 紅火に勝り
  春來江水緑如藍  春來って 江水 緑藍の如し
  能不憶江南      能(よ)く江南を憶はざらんや
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ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の映画「ゴルゴタの丘(Golgotha)」は、四大福音書に基づくキリスト受難劇である。キリストの受難は、ヨーロッパ絵画の長い伝統の中でも、最大かつ最重要のテーマとして、多くの画家によって描きつがれてきた歴史があるが、ジュリアン・デュヴィヴィエは、それを動く絵画として実現させた。キリストの受難をテーマにした映画としては、最初の本格的な芸術作品ではないか。

西部邁と佐高信は吉田茂嫌いでも一致しているようだ。その理由を西部は、吉田が非日本人的であることだと言っている。その更に根っこの理由としては、吉田が対米従属の戦後レジームを作り上げた張本人だということがあるらしい。吉田は、戦時中にはほとんど何もせずにいたくせに、戦後になると一躍花形政治家になった。それはアメリカが吉田の利用価値を認めて登用したやったおかげで、吉田本人の実力ではない。吉田は、アメリカの威光をバックにして政敵どもを叩き潰し、自分の思うような戦後レジームを作り上げた。そのレジームというのが対米従属の平和主義というものであり、それが西部には非日本的な軽挙の如く受け取られるということなのだろう。

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(伴大納言絵詞下巻、大納言邸の愁嘆場)

下巻では、舎人の証言にもとづいて、応天門放火の犯人が伴大納言であると断定され、検非違使が大納言を逮捕、大納言は刑一等を減じられて流罪となる様子が描かれる。

西部邁は、左翼として出発し、後に右翼・保守主義に転向したのだそうだ。左翼といってもそう根の深いものではなかったらしく、東大に入学したあとブントの学生運動にかぶれた程度であったらしい。だから、豚箱に半年ほどぶち込まれると目が覚めて正気に戻ったということのようだ。その点は、筋金入りの左翼として出発し、ブントにも理解を示しながら、終生左翼的な心情を抱き続けた廣松渉とは大きな違いがある。

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人形劇の世界は、どこか天使の世界と通じるものがある。人間たちに夢や希望を運んでくれるからだろうか。クレーの場合には、その夢を、息子フェリックスに届けてやりたいと考えたのだろう。彼は実際、息子のために、人形劇の舞台を作ってやったり、このような、人形劇の絵を描いてやったりした。その影響があったのだろう、息子は成人すると演出家になった。

白楽天の七言絶句「香山寺二絶」其一(壺齋散人注)

  空門寂静老夫間   空門 寂静にして 老夫間なり
  伴鳥随雲往復還   鳥に伴ひ 雲に随って 往き復(ま)た還る
  家醞満瓶書満架   家醞は瓶に満ち  書は架に満つ
  半移生計入香山   半ば生計を移して香山に入る

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ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)は非常に器用な映画監督で、活劇、音楽劇、喜劇、宗教劇と様々なタイプの映画を作り分けている。しかも(トーキー時代の初期においては特に)多産であった。それだけ人気があったのだろう。「白き処女地(Maria Chapdelaine)」は1934年の作品であり、彼の初期の代表作の一つだ。カナダのフランス人入植者の生活を詩情豊かに描いており、カナダの厳しい自然とそこに生きるフランス人たちの生きることへの拘りが伝わってくるような作品である。

昭和天皇実録が公表された。全60巻1万2千頁に及ぶ膨大な量なので、読みこなすのは大変なことだ。そこで、昭和天皇について民間の立場から研究してきて、著書も出しているノンフィクション作家の保坂正康氏が、これを読む際の視点のようなものについて、サンデー毎日(10月2日号)に乗せているので(「昭和」という時代)、とりあえずはそれを頼りに、この実録の内容について、多少のイメージを結ぼうとした次第だ。

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九月廿二日(月)晴。六時に起床して入浴すること毎日の如し。風呂場の脱衣場で体重を図るに、通常より一キロ以上も増加している。美食してかつ動かざるがためであろう。朝食を済ませ、七時四十分にホテルを出発。三陸鉄道の始発駅久慈を目指して進む。途中小川原湖をバスの窓より見る。この湖は周囲六十六キロメートルあり、十和田湖よりも大きいという。

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(伴大納言絵詞中巻、嘆き悲しむ左大臣"源信"家の人々、縦31.5cm)

中巻では、応天門火災の犯人の嫌疑をかけられた左大臣源信が朝廷に無実を訴える場面から始まり、主人の罪を嘆き悲しむ左大臣家の人々の様子が描かれたのち、真相解明の発端となった子供の喧嘩の様子と、舎人夫婦の証言によってついに真相が明らかにされるさまが描かれる。

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アラル海といえば、かつては世界で四番目に大きい湖として、世界地図の上にデンとした形で載っていたものだ。かつては、と但し書きを入れたのは他でもない。近年は水量が激減して次第に規模を縮小させ、ついには消滅する可能性さえ出て来たのだ。上の写真(NASA提供)を見て欲しい。実線で囲った内側が1960年代半ばのウラル海の姿なのに対して、50年後の今年(2014年)には、ダークグリーンに映っているところまで縮小したことがわかる。わずか50年の間に、アラル海には何が起こったのか。

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昼食後、バスは海岸線を北へと走り、大間岬というところに至った。大間マグロで有名な港のあるところだ。また本州最北端という点も売り物にしている。その最北端の所で、温暖な海の生き物であるマグロが獲れるというから面白い。ここで獲れたマグロは、築地の毎年の初競りで日本一高い値段で売れる。一時はその競り値が一億円を超えたこともあった。それを落したのは、やはり築地を本拠にしている鮨屋だったが、毎年のように最高価格で落しているとあって、一躍有名になった。そのおかげもあって、この鮨屋は大繁盛しているということだ。筆者も何回か入ったことがある。

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「さえずり器械(Zwitscher Maschine)」と題したこの絵は、鳥をモチーフにしている。なぜなら、さえずるものとは、ほかならぬ鳥であるからだ。しかし、この絵の中の鳥たちは、生きている鳥ではない。仕掛けの一部としての鳥、機会の部品としての鳥である。

10月2日の朝日の朝刊に、在特会の体質を分析した社会学者樋口直人氏の小文「極右を保守から切り離せ」が載っているのを読んで、考えさせられるところがあった。氏は一年半の期間をかけ、在特会のメンバー34人に直接インタビュー調査を行い、そこから彼らの特徴を分析・抽出したという。それによれば、彼らの大部分は高学歴で、正規雇用の職についており、しかもホワイトカラーが多かった。つまり、俗にいう勝ち組が大多数を占めるというのである。

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九月廿一日(日)晴。六時に起床。入浴後朝餉をなすこと昨日の如し。バスは八時にホテル前を出発し、九時頃陸奥湾に面する蟹田という港に到着する。ここからフェリーに乗って、下北半島に向かうわけである。船のデッキからは四方に広大なる海原を見渡せる。しかして前方にはこれから向かっていく先の下北半島が見え、左手には北海道のスカイラインが見え、右手には青森の市街がかすかに見える。後ろを振り返れば、船の通ってきた波の軌跡の先に、津軽半島の遠のいて行く様子が見える。

1940年9月下旬のある日、スペインとポルトガルを経由してアメリカへの亡命を図ったベンヤミンは、一時的に滞在していたマルセイユを出発してピレネーへと向かったが、その時マルセイユにはハンナ・アーレントも滞在していた。アーレントはベンヤミンより14歳も年下であったが、どこかで気が合っていたらしく、ベンヤミンは彼女に遺稿となった作品の一部(「歴史の概念について」)を託している。その遺稿をアーレントは、ベンヤミンの死の翌年にアメリカへ亡命した際に、ベンヤミンの指示にしたがってアドルノに渡している。彼女がベンヤミンの死の詳細について知ったのは、アメリカへ渡った後だったと思われる(死亡の事実については、ベンヤミンの死後4週間後に知らされたらしい)。

健康寿命

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健康寿命という用語があるのだそうだ。厚生労働省の役人が提唱しているもので、介護を受けたり寝たきりにならず、普通に日常生活をおくれる期間ということらしい。平均寿命が死ぬまで生きられる期間であるのに対し、健康な状態で生きられる期間だということで、健康寿命と名づけられたようだ。

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午後、不老不死温泉を出たバスは間もなくして十三湖に到着した。十二湖が十二の湖からなっているのに対して、これは十三の川が流れこんでいることからこう名付けられたそうである。周囲25キロメートル、水深1~3メートルで、白鳥の飛来地として知られるとともに、しじみの産地としても有名なところである。

宝暦二年(826、55歳)の秋、白居易は病を理由にして蘇州刺史の地位を辞し、洛陽の自宅に戻った、その翌年(太和元年)、秘書監を授けられたが、これは閑職といってよかった。その後、刑部侍郎の職を経て、太和二年には太子賓客として再び洛陽に隠棲。以後名目上の職につくことはあっても、実質的には隠居状態が続く。このように、白居易は五十台半ばにして、官僚としてのコースから外れてしまったのである。それも自らの意思で。

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ジャック・フェデー(Jacques Feyder)の映画「女だけの都(La Kermesse héroïque)」は、17世紀初め頃の80年戦争時代における、南フランドル(ベルギー)を舞台にした物語である。80年戦争というのは、フランドルがスペインからの独立を求めて起こした戦争であり、1568年から1648年までの80年間にわたって続いた。この戦争の結果、フランドル北部は独立を勝ち取ってオランダとなるが、南部フランドルの独立は、19世紀まで実現しなかった。この映画は、戦争が一時休戦状態にあった1616年のフランドル南部の小都市ボームが舞台ということになっている。

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