2014年11月アーカイブ

伊勢物語絵巻十九段(雨雲)

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むかし、をとこ、宮づかへしける女の方に、御達なりける人をあひ知りたりける、ほどもなくかれにけり。同じところなれば、女のめには見ゆるものから、をとこはあるものかとも思ひたらず、女、
  雨雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆるものから
とよめりければ、をとこ、返し、
  雨雲のよそにのみしてふることはわがゐる山の風はやみなり
とよめりけるは、又をとこなるある人となむいひける。

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1960年のフランス映画「太陽がいっぱい(Plein Soleil)」は、何といってもアラン・ドロン(Alain Delon)を一躍大スターにした映画だ。フランス映画には、ほぼ10年ごとに大スターが現れる。1930年代にはジャン・ギャバン、40年代にはジャン・マレー、50年代にはジェラール・フィリップが現れた。アラン・ドロンはそれらに引き続いて、60年代以降のフランス映画を代表する看板スターになった。その後、映画は世界的な規模で斜陽化していくから、アラン・ドロンは銀幕を飾る最後のフランス人大スターとなったわけである。

鳥獣戯画4(逃げる猿)

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続いて、逃げる猿と、それを追いかける兎と二匹の蛙。前の画面で、犬と兎が後ろの様子に気を取られていたのは、この追いかけっこのことだったようだ。

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第二次パリ時代のシャガールは、恋人たちの絵を数多く描いた。「リラの中の恋人たち」と題したこの絵は、その代表的傑作といわれるものである。シャガールと妻のベラが、リラの花束の中で抱き合っている。二人の表情は幸福感に溢れている。こんな幸福なイメージを絵にすることができたのは、この時代のシャガールが公私に渡って順風満帆だったことを反映しているように思われる。

漱石と明治末の東京:「それから」から

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漱石は東京で生まれ東京で育ち、かつ幾度となく東京市域内での転居を繰り返したこともあって、東京の地理には明るかった。そんなこともあって、漱石は東京についての自分の知識を、小説の中で遺憾なく披露した。東京を語った作家といえば、荷風散人があまりにも有名だが、漱石もそれに劣らず東京を語っている。ここでは、「それから」を題材にとって、漱石の眼で見た明治末の東京を俯瞰してみよう。

廣松渉の真理論

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西洋哲学の伝統においては、真理は主観と客観、認識と存在との一致の問題として考えられてきた。主観的な意識内容が客観的な意識対象と、あるいは主観的な認識作用が客観的な存在と合致すること、それが真理であるとされてきた。ところが廣松は、そうは考えないという。真理について主題的に論じた著書「存在と意味」のなかで、廣松は次のように宣言する。

伊勢物語絵巻十八段(くれなゐ)

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むかし、まな心ある女ありけり。をとこ近うありけり。女、歌よむ人なりければ、心見むとて、菊の花のうつろへるを折りて、をとこのもとへやる。
  くれなゐにゝほふはいづら白雪の枝もとをゝに降るかとも見ゆ
をとこ、知らずよみによみける。
  くれなゐにゝほふがうへの白菊は折りける人の袖かとも見ゆ

居酒屋(Gervaise):ルネ・クレマン

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ルネ・クレマン(René Clément)の映画「居酒屋(Gervaise)」は、エミール・ゾラの小説「居酒屋(L'assommoir)」を映画化したものである。原作はゾラの代表作の一つであり、フランス自然主義文学の台頭を飾る記念碑的な作品ということになっている。ゾラの自然主義文学というのは、人間の生きざまや社会の矛盾をありのままに描こうという問題意識に貫かれていたので、とかく暴露趣味的なところがあり、それが当時の読書層にとってスキャンダラスに映った側面もあった。この小説は新聞連載という形で始まったのだったが、読書界の拒絶反応が大きくて、連載を中止せざるを得なかったほどなのである。

鳥獣戯画3(猿の僧正)

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続いて袈裟衣を着た猿の僧正が描かれる。兎が鹿を導いてやってきたのは、僧正への引き出物のつもりだろうか。手前には、平伏する狩衣姿の猿と、その下男らしい猿が描かれているが、僧正に法会を依頼した者なのかもしれない。だとすると、鹿の引き出物は、この猿から僧正へのお布施ということになる。

雄鶏:シャガールの恋人たち

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シャガールは動物を効果的に使った数少ない画家の一人である。それが生涯にわたったことを思えば、数少ないというよりは、唯一といってもおかしくないほどだ。それほど彼の絵と動物は切り離せない。

伊勢物語絵巻十七段(桜花)

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年ごろおとづれざりける人の、桜のさかりに見に来たりければ、あるじ
  あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり
返し、
  けふ来ずはあすは雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや

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ルネ・クレマン(René Clément)の作品「禁じられた遊び(Jeux interdits)」は、究極の反戦映画として、また感動的な愛のドラマとして、世界の映画史上に不滅の足跡を残した作品である。空襲で親を失った少女が、田舎の農家に拾われ、そこの少年と折角仲良しになって生きる希望が出て来た時に、無残にもその少年から引き裂かれてしまう。その際に、少女が少年の名を叫びながら、群衆でごった返す駅の構内をさ迷い歩く、その場面は誰でも涙なしには見られないだろう。

鳥獣戯画2(宴会の準備)

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射的の場面に続いて、なにやら荷物を運ぶ動物たちが描かれている。様子からして、宴会の準備をしているようである。先頭にいる兎が、弓を抱えながら、ほかの兎たちを扇で鼓舞しているところは、早く運んで来い、という意味なのだろう。二羽の兎が宴会道具を収めているらしい駕籠を担いでいる。駕籠の上には、二羽の小鳥が乗っているが、どうやら串刺しにされているらしい。

アベポリティクスの是非を争点に

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安倍晋三総理が衆議院を解散したことを巡って、様々な論説が行き交っている。そのほとんどは、今回の解散には大儀らしいものが見られず、ただひとつ見られるのは、まだ勝てるうちに勝って、すこしでも長期政権につなげようとする安倍総理の政治的打算ばかりだ、といったものだ。

農民の生活:シャガールの恋人たち

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1922年の7月にシャガールはロシアを出てヨーロッパに回帰する。これをシャガールは、政治的な理由からではなく、芸術上の理由から行なったのだといっている。おそらく半分はそのとおりなのだろう。しかし半分は政治的な理由が働いていたに違いない。シャガールは、新政府の芸術委員などの公職に就いたりはしたが、ロシアでの生活に安らぎを感じていたわけではなかったようだ。いずれにしてもシャガールはロシアを後にして、まずベルリンに立ち寄り、そこで一年余り暮らした後、パリに着いた。

昨日(11月19日)は、所謂アベノミクスが、「アホノミクス」から「ドアホノミクス」に進化したとの、経済学者浜矩子女史の説を紹介したところだが、筆者自身が最近の「アベノミクス」に抱いている印象は、どうも統制経済を狙っているのではないか、というものだ。

それから:漱石を読む

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半世紀ぶりに漱石の「それから」を読んだ。半世紀前の筆者はまだ高校生だったわけだが、その高校生が「それから」を読んだ印象というのは、一途な恋愛を描いた単純な恋愛小説といったものだった。この小説の中で漱石が描いている恋愛感情を単純だと感じたのは、筆者が若すぎて、恋愛の何たるかについて、まだ十分な理解をもっていなかったからだろう。老年になって改めてこの小説を読んでみると、たしかに恋愛小説には違いないが、単純な恋愛を描いたものといえるほどに、単純なものではないということがわかった。

廣松渉の存在論

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廣松渉の主著「存在と意味」は、廣松なりの流儀で、認識論と存在論との間に橋渡しをし、人間の認識と世界の存在とを整合的・一体的に説明しようと試みたものである。というのも、この二つは西洋哲学の歴史において長らく分裂したままで、認識論を語るものは存在を語らず、存在論を語るものは人間の認識を軽視していたからだ。こうした傾向の中でも、どちらかといえば認識論が優位に立ち、存在論はやや陰をひそめていた観があった。とりわけ、現代哲学に巨大な影響を及ぼしたカントが、人間の認識を意識の内部に限定して、客観的な存在者をそれ自体は認識不可能な物自体としたことで、この傾向はさらに強まったといえる。廣松の問題意識は、このような歴史的経緯を踏まえ、存在論の復権をはかりつつ、それをいかに認識論と融合させるかということにあった。

アベノミクスの阿呆ぶりを称して「アホノミクス」と断じたのは、日頃率直な物言いで知られる経済学者の浜矩子女史だが、その女史が最近は「アホ」のうえに「ド」をつけて「ドアホノミクス」というようになった。その訳は二つあると女史は言う。一つは、「アベノミクス」が人間不在である点、もう一つは、アベノミクスがグローバルな経済環境と親和性が低く、このままでは日本の国民経済が消滅する恐れがあるという点だ。

伊勢物語絵巻十六段(紀有常)

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むかし、紀の有常といふ人ありけり。み世の帝につかうまつりて、時に遇ひけれど、後は世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず、人がらは、心うつくしうあてはかなることを好みて、こと人にも似ず、貧しく経ても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、をとこ、まことにむつまじきことこそなかりけれ、いまはと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければするわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、かうかういまはとてまかるを、何事もいさゝかなることもえせで、遣はすことゝ書きて、おくに、
  手を折りてあひ見しことをかぞふれば十といひつゝ四つは経にけり
かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる。
  年だにも十とて四つは経にけるをいくたび君をたのみ来ぬらむ
かくいひやりたりければ、
  これやこのあまの羽衣むべしこそ君がみけしとたてまつりけれ
よろこびにたへで、又、
  秋やくる露やまがふと思ふまであるは涙の降るにぞありける

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ルネ・クレマン(René Clément)の映画「鉄格子の彼方(Au-delà des grilles)」はフランス・イタリア共同作品という形を取っている。だから両国で同時公開された。イタリア語でのタイトルは Le mura di Malapaga(マラパーガの壁)という。会話はフランス語を中心とし、それにイタリア語がからむ。というのも、フランス人がイタリアの都市で繰り広げる行動が映画の内容だからだ。

マイナス成長は意外だった?

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昨日(11月17日)、7月~9月期のGDPの実質成長率が公表された。年率換算でマイナス1.6パーセント、二期連続のマイナス成長であり、日本経済が本格的な不況局面に入っていることを証拠立てた形だ。この結果株価は急落する一方、円安も進んだ。気味の悪い展開といえよう。

鳥獣戯画1(泳ぎと弓)

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甲の巻物の右端にあたる冒頭部には、渓流で遊ぶ兎と猿が描かれている。この画面の右上には、猿が岩に腰を下ろして、仲間の猿に背中を洗ってもらい、兎が柄杓に水を汲んでかけてやろうとしている。左側には、兎が鹿の背中に乗って川をわたり、いましも陸に上ろうとするところが描かれている。鹿の前には別の兎がいて、進路を先導しているようだ。

鳥獣戯画総論

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京都栂尾の高山寺に伝わってきた「鳥獣戯画」は、国宝指定上の名称では「鳥獣人物戯画」ということになっている。それが単に「鳥獣戯画」として流布しているのは、甲乙丙丁と四巻あるうちの甲巻が、鳥獣をユーモラスに描き、それが全四巻を代表するものとして余りにも有名になってしまったからである。

沖縄県知事選結果をどう受け取るか

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沖縄県知事選挙が行われ、米軍基地の辺野古移転に反対を表明していた翁長氏が、現職の仲井間氏を破って当選した。翁長氏は、公約通りに辺野古移転阻止に向けて万全を期すと表明している。これに対して安倍政権の菅官房長官は、選挙結果にかかわらず、辺野古移転の方針にいささかの変更もないといって、翁長氏の主張を正面から無視する姿勢を示している。また安倍政権寄りの右翼メディアである読売も、翁長氏に向かって、考えを改めよと迫っている。

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「ふたりの肖像とワイングラス」と題したこの絵も、「誕生日」や「町の上」と同じ系列の絵である。重力を無視するかのように空中に漂う男、女性の肩に乗っているとはいえ、ふわふわとした感じを漂わせながらワイングラスを天に向かって差し上げている男、彼らのイメージが、昂揚した精神を感じさせる。

伊勢物語絵巻十四段(陸奥)

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むかし、をとこ、陸奥の国に、すゞろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにや覚えけむ、せちに思へる心なむありける。さてかの女、
  なかなかに恋に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり
歌さへぞひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、いきて寝にけり。夜深く出でにけれは、女
  夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる
といへるに、をとこ、京へなむまかるとて、
  栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを
といへりければ、よろこぼひて、おもひけらし、とぞいひをりける

海の牙(Les Maudits):ルネ・クレマン

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ルネ・クレマン(René Clément)は、鉄道を舞台にフランス人のレジスタンスを描いた映画「鉄路の戦い」を、第二次大戦終了直後の1945年に公開して、一躍有名になった。この映画は、最初は短篇のドキュメンタリー作品として構想されたのであるが、作成に協力した鉄道労働組合が本格的なレジスタンス映画にしたいという意向を示したこともあって、本格的な映画作品になったといういきさつがある。

早すぎた葬儀

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死亡診断を下されて葬儀場に送られた91歳の老女が、葬儀場の冷蔵庫の中で生き返るという事態が起こったそうだ。このことを巡って、舞台となったポーランドはもとより、世界中が大フィーバーしている。無理もない。一旦医師によって死亡が宣告された人間が生き返ったわけだから。

源氏物語絵巻九:東屋

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(源氏物語絵巻:東屋1)

「東屋」の巻は浮舟という女性を中心に展開する。浮舟は、宇治八の宮と中将の君との間に生まれた娘で、中君とは異母妹に当たっていた。薫は、彼女の存在を中君を通じて知ったが、大君の面影と良く似ているので、心が引かれたのであった。しかし、浮舟の母は身分の低い常陸の介と結婚しており、また、浮舟が八の宮に認知されていなかったこともあって、薫は、相手が自分の結婚の相手としては不相応に思った。

町の上:シャガールの恋人たち

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ベラとの結婚式の前後、シャガールはベラの単独肖像や、二人が一緒にいる絵を数多く描いた。第一次世界大戦中ということで、シャガールにも軍役の義務があったのだったが、軍隊への入隊は免除され、軍属の仕事に従事すればよいことになった。

APECブルー

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北京で開かれていたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)は、様々な話題を振りまいたが、なかでも世界の注目を集めたのは北京の空だ。深刻な大気汚染のために、咫尺も弁ぜず、というほどに空気が濁ってみえた北京の街で、APECの期間中青空が見られたのだ。これは、習近平政権が国家の威信をかけて、首都の空を浄化したことの効果だというので、APECブルーなどと呼ばれて皮肉られた。しかし、そんな皮肉をいう者にとっても、一時的とはいえ、北京の空が青く見えたことはいいことだと言わざるを得ないだろう。問題は、今後もこれが維持されるのかということだ。

先日、西部邁と佐高信が対談の中で三島由紀夫を語ったことについて、このブログで取り上げた際には、三島の憂国ということをテーマにしたわけだが、この対談にはもうひとつ面白いテーマがあった。それは三島の天皇観とでもいうべきものだ。三島は、天皇の人間宣言をひどくショッキングに受け止めたらしく、「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」という言葉を発したが、それは三島が天皇について誤解していたあらわれだと西部が言ったことに、筆者は聊かの関心を覚えたのだった。

廣松渉の謂う「事的世界観」とは、「"もの"に対する"こと"の基底性」、「"実体"に対する"関係"の第一次性」を基本に置く思想である。デカルト以来の西洋哲学の伝統においては、"もの"がまずあってそれが相互にかかわりあうことから"こと"が生じる、あるいは、"実体"がまずあってそれが相互に"関係"しあう、という風に考えられてきたのであるが、廣松はそれを逆さまにしたわけである。

伊勢物語絵巻十二段(武蔵野)

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むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率て行くほどに、ぬす人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中におきて、逃げにけり。道来る人、この野はぬす人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
  武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり
とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともに率ていにけり。

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マルセル・カルネ(Marcel Carné)の映画「嘆きのテレーズ(Thérèse Raquin)」はエミール・ゾラの小説「テレーズ・ラカン(Thérèse Raquin)」を映画化したものである。原作はある女の亭主殺しを描いており、罪深い女の心理を描いたリアリズム小説だが、カルネはそれにサスペンスの味付けを施して、映画としても楽しめるものに作り変えた。

日中首脳の握手

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写真(APから)は、昨日(11月10日)北京で行われた日中首脳会談を前に、安倍晋三、習近平両首脳が握手する場面を映したものだ。これを見て異様な感じを抱いたのは筆者のみではあるまい。両首脳ともぎこちないというか、不如意というべきか、要するに喜んで握手しているようには見えない。この時の様子は動画でも放送されていたが、それを見ると、習近平のほうは安倍総理から意識的に視線を外そうとしているようにも見えた。

源氏物語絵巻八:宿木

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(源氏物語絵巻:宿木1)

「宿木」の巻は、亡き八の宮の娘中君を中心に展開する。匂の宮と結婚した中君は、匂の宮の子を懐妊するが、匂の宮の心は次第に中君から離れていく。一方、薫の方は、中君への思慕の気持ちが高まるばかりである。そのうち、帝が皇女二宮を薫に降嫁させたいという意向を示す。薫は、中の君が忘れられないので、どうしたものかと迷う。

チープチャイナはもはや過去

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チープチャイナはもはや過去、こんな趣旨のことを東洋経済のWEB版の記事で読んだ。題名は「中国が直面する高成長モデルの終わり」。中国がこの数年の間にすさまじい成長を遂げた結果、賃金やら物価の水準が先進国レベルに近づきつつあり、もはやチープチャイナというイメージは通用しなくなったということを書いている。

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「エディット・ピアフ 天に届く声(La voix qui montait jusq'au ciel)」というDVDを見た。エディット・ピアフ(Edith Piaf)の没後40年を記念して、フランスのテレビ会社が2003年に制作したピアフの伝記をモチーフにしたドキュメンタリー・タッチの映画だ。冒頭に「水に流すわ(Non, Je ne regrette rien)」を歌う舞台上のピアフの映像がアップされ、「群衆(La Foule)」を歌うピアフを映したフィナーレとの間に、十数曲の歌を歌うピアフの映像を流す合間に、ピアフと関わりのあった人々のインタビューやら、ピアフ自身がインタビューに答える様子などを挿みながら、ピアフと言う稀有な歌い手が、一人の人間としてどのような生き方をしたのか、そこに焦点を当てたものだった。

誕生日:シャガールの恋人たち

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1914年から15年にかけては、シャガールにとって節目の時期になった。1914年の6月に、シャガールは妹の結婚式に参列するために、3か月の観光ビザをとってロシアに入国し、恋人のベラと再会した。ベラとシャガールはどちらもヴィテブスクのユダヤ人だったが、二人が知り合ったのは、成人した後だった。知りあった二人は互いを結婚相手と決めたのだったが、シャガールのパリ行きのために中断されていた。それが、4年ぶりに再会することで、急速に実現に向かって動き出したわけである。

伊勢物語絵巻九段(東下り)

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むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。三河のくに、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋とはいひける。その澤のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ、といひければよめる。
  から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。

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愛人ジュリエット(Juliette ou la Clef des Songes)は、リアリスティックな作風で定評のあるマルセル・カルネ(Marcel Carné)としては、非常にユニークな作品だ。この映画は、現実ではなく夢を描いている。夢と言えばシュル・レアルなところがつきものだが、この映画はシュルというよりコントル・レアルだ。というのも、夢の中で出てくる人々は、ことごとく記憶を失い、なおかつ失った記憶にこだわりつつあるような人々だからだ。そんな人々をテーマにするなんて、コントル・レアルとしか言いようがない。

自分で火をつけておいてその勢いに驚き火を消しに回る人のことを、評論家の佐高信が「放火犯の消火」といってあざ笑ったが、日中会談の実現を巡る安倍晋三総理大臣の騒ぎぶりを見て、この言葉を思い出した。安倍総理は、自分で日中関係を損なっておきながら、その回復に躍起になっている。その有様はまさに、火つけが火を消すのに大わらわといった観を呈している。

源氏物語絵巻七:橋姫、早蕨

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(源氏物語絵巻:橋姫)

「橋姫」の巻は、宇治十帖の最初の巻である。成人した薫の恋が描かれる。恋の相手は、宇治八の宮の姫君である。宇治八の宮は、源氏の異母弟であり、したがって薫には義理の叔父にあたるが、出世も出来ずに、どちらかというと不遇の生涯を送っていた。宇治に住む阿闍梨から八の宮の存在を知った薫は、度々八の宮のもとを訪れるようになる。

母性:シャガールの恋人たち

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前回は子を孕んだ馬の絵を見たが、ここでは妊娠した女性を描いた「母性」という絵を取り上げよう。この絵には、二つの見方がある。ひとつは聖母マリア伝説のシャガールなりの解釈だというものであり、もうひとつはシャガール自身の生活歴を描いたとする見方である。

オバマ敗北でアメリカはどう変わる

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アメリカの中間選挙の結果、オバマの民主党が敗北を喫し、共和党が上下両院で過半数を制した。これをオバマ自身が、歴史的な敗北というような表現を使って素直に認めた。その責任の一端は自分にもあるというのだろう。

紅葉狩:観世小次郎信光の風流能

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「紅葉狩」は、「船弁慶」などと並んで、観世小次郎信光の風流能の傑作である。信光は世阿弥の甥音阿弥の子であるが、世阿弥が幽玄を旨とする複式夢幻能を作ったのに対して、ショー的な要素を旨とする風流能を作った。世阿弥の幽玄を物足らなく思った当時の観客の需要に応えたのだと評価されている。

廣松渉のフッサール批判

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エドムント・フッサールに対する廣松渉の批判の眼目は、主に二つの点に集約される。ひとつは、フッサールが謂うところの「本質直観」が物象化的錯誤であるとする点、もうひとつは、間主観性の議論が抽象的な無内容の粋を出ていないとする点である。廣松は、これらの批判を、「事的世界観への前哨」に収められた小論「フッサールと意味的志向の本諦」の中で展開している。

伊勢物語絵巻八段(浅間の嶽)

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むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ、あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、  
  信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ

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「天井桟敷の人々(Les Enfants du Paradis)」は、「悪魔が夜来る」に続いて、マルセル・カルネ(Marcel Carné)がナチス・ドイツ占領下のフランスで作った二本目の映画である。この映画も、ナチス・ドイツの存在をはばかって、現代劇ではなく歴史を背景にした映画になった。とはいっても、ナチスに対する批判が影を潜めているというのではない。かえって逆である。ナチスへの強烈な批判が、この映画には込められている。スタッフにユダヤ人たちを起用していることがそうだし(これは極めて危険な行為だった)、テーマもまたそうである。この映画は、最もフランスらしいもの、即ちどんな困難をも乗り越える人間同士の愛を描くことで、ナチスによる非人間的な体制に強烈なノーをつきつけたのである。そんなわけで、この映画はポリティカルな一面を持っている。その面を含めて、この作品は、フランスの映画史上特別の位置づけがされている。

宇宙船スペースシップⅡの墜落

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アメリカの宇宙産業会社ヴァージン・ギャラクティック社がカリフォルニアで打ち上げた宇宙船スペースシップⅡがモハーヴェ砂漠に墜落し、二人の乗務員のうち一人が死亡、一人がパラシュートで脱出したものの重傷を負った。この事故を巡っては、直前にスペースX社の開発したロケットが爆発したことも併せて、民間会社による宇宙開発の限界を指摘する向きもあり、宇宙旅行の実現は当分先延ばしになりそうだなどとする論調が目立っている。

源氏物語絵巻6:竹河

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(源氏物語絵巻:竹河1)

竹河の巻は源氏物語の第四十四帖にあたり、源氏を中心に展開してきた本体部分の最後を飾るとともに、薫を中心とする宇治十帖への橋渡しのような位置づけになる。柏木の妹であり、源氏から子どものようにかわいがられた玉蔓の晩年について、玉蔓の侍女の回想という形をとって語られる。その晩年が、薫の十四歳から二十三歳までの期間と重なることから、おのずから宇治十帖への導入としての位置づけを持つわけである。

電車から中吊り広告が消える

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電車の中吊り広告といえば、日本の風物詩のようなものだったが、それが近い将来に消えていきそうだという。まずは、山手線から。2015年の秋以降に導入される新型車両から順次、車内広告は窓上に設置する液晶画面に一元化し、中吊り広告は廃止していこうというのだ。これによってすぐに中吊り広告がなくなるわけではないらしいが、いずれ消えてなくなる日がやって来るだろう。

家畜商人:シャガールの恋人たち

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「家畜商人」と題したこの絵は、ヴィテブスクでの少年時代を回想したものである。ヴィテブスクはベラルーシ東部の町で、65000人の人口のうち半分はユダヤ人だった。というより、ユダヤ人居住区(ペイルといった)を抱えた町だったということだ。こうしたユダヤ人居住区はロシアの各地に設けられ、ロシアにいた500万人のユダヤ人たちは、これらの居住区のいずれかに住むことを義務付けられていた。居住区内のユダヤ人は、自分たちの民族的な伝統を守りながら、助け合って生きていたのである。この絵からも、そうした人々の関係の暖かさのようなものが伝わってくる。

ポール・クルーグマンの日本への謝罪

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ポール・クルーグマンが、「日本への謝罪」へと題した小論をニューヨーク・タイムズに寄稿している。自分も含めて欧米のエコノミストたちは、この20年間の日本の経済的な失敗を嘲笑しつづけてきたが、もはやそんなことはしていられない。笑われるべきなのは、いまの我々欧米のエコノミストなのだ、という趣旨である。新味のある内容は殆どないが、何かの参考になると思われるので、引用しておきたい。

伊勢物語絵巻七段(かへる浪)

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むかし、をとこありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、
  いとゞしく過ぎゆく方の恋ひしきにうらやましくもかへる浪かな
となむよめりける
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1940年の6月に、フランスがドイツに占領されると、ルネ・クレールやジャン・ルノワールを始め主な映画監督はほとんどアメリカやイギリスに亡命した。そんな中でフランスに踏みとどまり映画作りを続けたのがマルセル・カルネ(Marcel Carné)である。

日銀は打ち出の小槌?

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日銀がこれまでにも増して大胆な量的緩和策を打ち出したと言うので、市場関係者の間でちょっとしたフィーバーになっている。折からアメリカのFRBが、量的緩和政策の打ちきりを発表したところだ。このタイミングでなぜ、日銀は追加の量的緩和に踏み切ったのか。黒田日銀総裁は、依然としてデフレ状況から抜け出せない日本経済を活性化させ、成長軌道に乗せることが目的だと、大見栄を切っているが、この言葉を額面通りに受け取る者は、余程の経済音痴というほかあるまい。

源氏物語絵巻五:夕霧、御法

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(源氏物語絵巻:夕霧)

夕霧は、柏木の未亡人落葉の宮に思いを寄せるが、宮はなかなかなびかない。そのうち、母君一条御息所の病気見舞いに、小野の山荘に移ってしまった。夕霧は、落葉の宮を追って小野の山荘まで行き、思いに応えてくれるようにかきくどくが、宮はあいかわらず拒んだままであった。そうこうしているうちに、柏木は小野の山荘で一夜をあかす羽目になった。

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