2015年7月アーカイブ

異端審問所の行進:ゴヤの黒い絵

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聾の家二階サロンの入り口から向かって右側の奥の壁に描かれていたのが「異端審問所の行進」と題されたこの絵(123×266cm)である。題名はゴヤ自身がつけたものではなく、ブルガーダやイリアルトによるものなので、この絵が本当に異端審問所を描いているのかはっきりはしない。現在この絵を保存しているプラド美術館は、これを「聖イシードロの泉への巡礼」としているが、聖イシードロ修道院の周辺にはこのような光景は見当たらぬことから、殆どの研究者が疑問視している。

片山杜秀「未完のファシズム」

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20世紀の二つの大戦の谷間の時期に、日独伊三国で典型的な形で成立した全体主義体制を「ファシズム」と呼ぶことが、日本の近代史学界の趨勢となってきた。日本の全体主義は、厳密な意味ではファシズムと言えるかどうか疑問があり、筆者などは軍国主義と言うべきだと考えているが、この本の著者片山杜秀は、ファシズムと呼んでいいと言っている。しかしそれは、イタリアのファシズムやドイツのナチズム(ファシズムのドイツ版)と比較して不徹底なところがあった。それ故「未完のファシズム」と呼ぶべきだというのが、片山の立場のようだ。本の題名は、その立場を端的にあらわしたものと言える。

北斎は、天保年間に何回かに分けて花鳥版画を刊行している。最初は、天保三年頃、横大判(B4程度)のシリーズを十枚刊行した。それらは、どちらかというと渋い色合いで、線を強調したものであった。

禅と日本文化:鈴木大拙の啓蒙的著作

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西田幾多郎を読み直した機縁で鈴木大拙をも読み直す気になった。と言うのも筆者は、比較的若い頃に大拙の著作を何冊か読んだことがある。その節は、西田幾多郎を意識しないで読んだのだったが、書かれてあったことは殆ど覚えていない。筆者の問題意識に訴えることが薄かったからだと思う。その時の問題意識とは、恐らく禅とはなにかについて理解の手がかりを得たいということだったと思うのだが、そもそもそういう問題意識に応えるような書物など、ありえないということが、改めて鈴木大拙の啓蒙的著作「禅と日本文化」を読んでわかったような次第だ。

中納言、さこそ心にいらぬ氣色なりしかど、その日になりて、えも言はぬ根ども引き具して參り給へり。小宰相の局に先づおはして、 「心幼く取り寄せ給ひしが心苦しさに、若々しき心地すれど、淺香の沼を尋ねて侍り。さりとも、まけ給はじ」 とあるぞ頼もしき。何時の間に思ひ寄りける事にか、言ひ過ぐすべくもあらず。 

泥の河:小栗康平

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小栗康平の映画「泥の河」は、日本の映画史上十指で数えられるべき傑作だと思う。すぐれた映画というのは、それが描いている時代の雰囲気を凝縮した形で盛り込んでいる一方、その時代に拘束されない、永遠の時の流れといったものを感じさせるものだが、この映画もまた、そうした特別の時代感覚に満ちている。

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(こはだ小平二)

こはだ小平二は「木幡小平次」という怪談物の主人公。小平次は大根役者だったために、もっぱら幽霊の役ばかりやらされていた。その小平次には妻がいて、これが他の男と密通したうえ、共謀して小平次を殺してしまった。殺された小平次は、恨みの余り往生できず、今度は本物の幽霊となって、自分を殺した者の前に現れる、という話である。

二人の女と一人の男:ゴヤの黒い絵

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聾の家二階サロンの入口を入って正面右側の壁に描かれていたのが、「二人の女と一人の男」と題されたこの絵(125×66cm)である。現存する絵を見た限りでは伝わってこないが、この絵は実に不道徳な絵なのである。画面では、男の右手が、黒い布の下に隠れて見えないが、レントゲン写真からわかったことは、もともとこの男の手は、自分のペニスをつまんでいたのである。つまり、この絵は、マスターベーションに耽る男と、それを見てあざけりの表情をうかべる女たちを描いていたのである。

五月待ちつけたる花橘の香も、昔の人戀しう、秋の夕に劣らぬ風にうち匂ひたるは、をかしうもあはれにも思ひ知らるゝを、山郭公も里馴れて語らふに、三日月の影ほのかなるは、折から忍び難くて、例の宮わたりに訪はまほしう思さるれど、「甲斐あらじ」とうち歎かれて、あるわたりの、猶情あまりなるまでと思せど、そなたは物憂きなるべし。「如何にせむ」と眺め給ふほどに、 「内裏に御遊び始まるを、只今參らせ給へ」 とて、藏人の少將參り給へり。 

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アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )の1946年の作品「汚名( Notorious )」は、女スパイとCIA捜査官との、恋と冒険を絡めた映画である。この映画には、1946年という時代の背景が強く影を落としている。この映画で二人の主人公が立ち向かう相手は、ナチスドイツの残党と言うことになっており、彼らがアメリカとの再戦を目的に開発している兵器の情報を探ろうというのが、この映画のストーリーになっているからだ。

無毛のチキン

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この鶏は、生きたまま羽をむしられたわけではない。羽のない状態で生まれたのだ。というのもこの鶏は、遺伝子科学の成果の一つとして、突然変異によって、このように無毛の状態で生まれるようにセットされたのである。

ボノボたちの愛のささやきあい

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これはボノボの恋人たちを写したもの。左がオス、右がメスだと思われる。オスがメスを軽く抱き、額のあたりに接吻しようとしている。その様子がまるで愛をささやき合っているように見える。ボノボにもこんな愛すべき面があったのかと、心が温まる。

内田樹「街場の教育論」

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内田樹は、自身が教育者という立場もあって、教育についてさまざまな発言をしてきた。彼の発言は、主に現在の日本の教育が抱えている問題点の指摘と、その指摘の背後にある教育の本質についての考え方をめぐるものだ。

小林秀雄の西田幾多郎への言いがかり

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小林秀雄に西田幾多郎を批判した文章があることを、中村雄二郎から知らされて、早速それを読んでみた。「学者と官僚」と題した短い文章である(新潮社版全集第七巻所収)。中村は、小林の西田批判を積極的に評価して、「小林らしい鋭い批判」などと持ち上げているが、筆者がそれを読んだ限りでは、とてもそうは思えなかった。批判というものは、相手の論旨を自分なりに整理して、それをある特定の基準に照らして論じて行くものだが、小林のこの文章は、西田の主張の論旨については何も触れておらず、また、それを批判する際の基準もあいまいだ。これでは、批判などというものではなく、単なる言いがかりではないか、そんな風に感じた次第だ。

KKKが公然とデモ

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写真(NYTから)は、サウスカロライナ州の首都コロンバスで行われた白人至上主義者の団体KKK(クー・クラックス・クラン)のデモの様子。サウスカロライナ州内のチャールストンで起きた白人至上主義者による黒人教会襲撃事件を受けて、南部諸州で白人至上主義のシンボルとなっていた旧南部諸州の旗の掲揚が、州の施設で禁止されたことに反発して、KKKのメンバーが抗議デモを起こしたものだ。

ほどほどの懸想(三):堤中納言物語

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「御返り事なからむは、いとふるめかしからむか。今やうは、なかなか初めのをぞし給ふなる」 などぞ笑ひてもどかす。少し今めかしき人にや、 
  一筋に思ひもよらぬ青柳は風につけつゝさぞ亂るらむ
今やうの手の、かどあるに書き亂りたれば、をかしと思ふにや、守りて居たるを、君見給ひて、後より俄に奪ひ取り給へり。 

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アルフレッド・ヒッチコックの1945年の作品「白い恐怖( Spellbound )」は、それまでの彼の作品と比べて、ミステリー映画としての完成度が高いといえよう。少なくともこの二年前の作品「疑惑の影」よりも数段上である。「疑惑の影」では、ミステリーの仕掛けが映画の早い時期に観客に明らかにされてしまったし、また、サスペンスという点でも中途半端だった。それに対してこの映画は、ミステリーの全貌は最後の最後になって初めて観客に明らかになる。また、そこに至るまでの間、スクリーンには緊張感が張りつめている。というわけでこの作品は、ミステリーとしても、サスペンスとしても、申し分がない。

安倍晋三の虚言癖

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国立新競技場の白紙撤回問題をめぐる安倍晋三総理大臣の公約破りを見ていると、この男の虚言癖ともいうべき性癖が改めて気になる。安倍晋三総理大臣は、そもそもこの競技場のデザインは民主党政権時代に決まったことだなどと責任を転嫁するような言い方をしているが、オリンピック都市選考の場で、デザインや財源も含めて、保証付きの立派な競技場を作りますと明言したのはほかならぬ安倍晋三総理大臣自身だ。つまり、安倍晋三総理大臣は自らの威信にかけて、新国立競技場を売り込んだわけで、それを白紙撤回することは明確な公約破りであり、虚言を吐いたと言われても致し方がないところだ。

北斎は、「富岳三十六景」と並行する形で妖怪画シリーズ「百物語」を、天保二年頃に刊行している。百物語というのは、徳川時代に流行った怪談話のスタイルで、夏の夜長に、人々が交代で怪談を話し、百話終った時点で本物のお化けが出てくるという趣向だった。

書類を読む男たち:ゴヤの黒い絵

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聾の家二階サロンの入り口向かい側の壁左手に描かれていたのが、とりあえず「書類を読む男たち」としたこの絵(126×68cm)である。ゴヤの遺産相続目録を作ったブルガーダによって「二人の男」と名づけられ、後イリアルトによって「政治家たち」と名づけなおされた。ブルガーダがなぜ「二人の男」としたかについては、わからないことが多い。というのも、この絵には六人の男が描かれているからである。イリアルトが、「政治家たち」としたことには、一定の辻褄がつけられる。

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NASAの宇宙探査機ニュー・ホライズンスが、先日(7月14日)冥王星に最接近し、そのまま通過し去った。その際に冥王星本体と五つの衛星についての詳細な画像を撮影したほか、冥王星の組成などを知る手掛かりになる情報を集めた。それらの映像や情報は今後16か月かけて地球に送られてくるそうである。

ほどほどの懸想(二):堤中納言物語

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この童來つゝ見る毎に、頼もしげなく、宮の内も寂しく凄げなる氣色を見て、かたらふ、 「まろが君を、この宮に通はし奉らばや。まだ定めたる方もなくておはしますに、いかによからむ。程遙かになれば、思ふ儘にも參らねば、おろかなりとも思すらむ。又、如何にと、後めたき心地も添へて、さまざま安げなきを」 といへば、 「更に今はさやうの事も思し宣はせず、とこそ聞け」 といふ。 「御容貌めでたくおはしますらむや。いみじき御子たちなりとも、飽かぬ所おはしまさむは、いと口惜しからむ。」 といへば、 「あな、あさまし。いかでか見奉らむ。人々宣ふは、萬むつかしきも、御前にだにまゐれば、慰みぬべしとこそ宣へ」 と語らひて、明けぬれば往ぬ。 

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アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)の1942年の映画「疑惑の影(Shadow of a doubt)」は、ヒッチコックにしては出来の悪い作品だ。ミステリーと言うには、ミステリーの要素が弱い。というのも、ミステリーの内容が映画の比較的早い時期に明かされているからだ。また、サスペンスと言うには、サスペンス特有の逼迫感がない。というのも、サスペンスの主体が、あまりにも中途半端な人格になっているからだ。

新国立競技場の建設費用を巡って日本中を巻き込む大騒ぎが起ったあげく、安倍晋三総理大臣自らが計画を白紙撤回すると言い出した。その理由は国民の理解が得られないということらしい。この計画の推進者であると目され、いまや渦中の人となった感のある某元総理大臣は、後輩の安倍総理大臣から説得されて、倅から説教された親父のようにふてくされて見せた。曰く、2600億円のどこが高いのかと。

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(摂州天満橋)

摂州天満橋とは、大阪の大川に架る橋のこと、大阪三大橋の一つに数えられている。天満橋の名の由来は、近くにある天満宮から来ている。天満宮の祭である天神祭は、大阪の風物として古くから親しまれてきた。この絵は、その天神祭の様子を織り込んで描いたものである。

決闘:ゴヤの黒い絵

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聾の家二階サロンの入り口から向かって左手の壁の、窓を隔てた奥側に描かれていたのが「決闘」と題する長大な絵(123×266cm)である。麦畑と思われる広大な大地の上で、巨大な図体の二人の男が棍棒を振りかざしながら、殴りあっている図柄である。この男たちが巨人であることは、背景との比較から、ほぼ間違いない。

仲正昌樹「<法と自由>講義」

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「法と自由」といえば、法哲学とか政治哲学のもっとも核心的な問題領域である。思想史的に見れば、この問題についてのアプローチは、大きく二つに分けられる。一つはホッブズやルソーに代表される社会契約的なアプローチであり、もう一つはヒュームやバークに代表される慣習を重んじるアプローチである。仲正のこの本は、この二つのアプローチのうち、社会契約的なアプローチ、それもルソー、ベッカリーア、カントの系列に焦点をあてて、法と自由の本質について考えようとするものだ。

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(すほうの国きんたいはし)

「すほうの国きんたいはし」とは、山口県岩国市にある錦帯橋のこと。徳川時代の初期に、岩国城と城下町をつなぐ橋として、錦川に架けられた。その奇抜な姿から、日本三大奇橋に数えられ、北斎の時代にも有名だったようだ。

廣松渉の西田幾多郎批判

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廣松渉は、哲学者としての西田幾多郎については、全くといってよいほど言及していない。認識と存在とを貫く四肢的契機を重視する廣松にとって、主客未分の純粋経験から出発する西田の議論は、あまりにも粗雑に映ったからだろう。廣松が西田に言及するのは、国家論の文脈においてである。廣松は、「『近代の超克』論」の中で、いわゆる京都学派の国家観を手厳しく批判したのであったが、彼らの国家観を西田もまた共有していたのではないか、という問題意識から西田を取り上げるわけなのである。

ポン酢でうどんを食う

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うどんをポン酢で食うという発想がいままでなかったのが残念だ。今日初めてこれを食ってみて、そのうまさに舌を巻いた。こんなうまいものを何故いままで、作って食おうとしなかったのか。

ほどほどの懸想(一):堤中納言物語

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祭のころは、なべて今めかしう見ゆるにやあらむ、あやしき小家の半蔀も、葵などかざして心地よげなり。童の、袙・袴清げに著て、さまざまの物忌ども附け、化粧じて、我も劣らじと挑みたる氣色どもにて、行き違ふはをかしく見ゆるを、況してその際の小舍人・隨身などは、殊に思ひ咎むるも道理なり。

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アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)の映画「迷走迷路」の原題「Saboteur」は、破壊工作員という意味である。この映画はこの原題の通り、一人の工場労働者が破壊工作組織の活動に巻き込まれて警察に追われることになり、その嫌疑を晴らそうとして破壊工作組織を追求する過程を描いたものである。その破壊工作組織と言うのは、アメリカに存在する全体主義的な組織ということになっており、そのリーダーは、アメリカをドイツのような全体主義国家に作り直したいと思っている。彼らの破壊活動は、その一つの手段なのだ。こういうストーリーは、この映画が作られた1942年という時代背景を思い出すと判りやすい。この映画のなかでは、主人公はアメリカ的な価値の体現者として、破壊工作組織はナチスのような全体主義的勢力として描かれているわけである。

幸運を呼び寄せる宝くじ爺さん

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東京を描く市民の会の皆さんと落ち合う場所になっていた地下鉄浅草橋の駅入り口に来てみると、ご覧のような光景が目を引いた。小さな路上宝くじ売り場に、人が列を作っているのである。列そのものは長蛇の列というほどではないが、切れ目がないのである。しばらく眺めている間にも、いつも数人がこのように列を作っている。よく見ると、売り場の周りに過去の実績のようなものを記載した紙が貼られていて、それを見ると、この売り場から多くの当たり籤が出たことを誇っている。この売り場に集まってくる人々は、どうもその籤運に自分もあやかりたいと思っているのだろう。

水上から東京を眺めるその二

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(佃島のマンション群)

日本橋川の河口近く、湊橋の手前で右手の水門をくぐり、亀島川と言う水路に入った。水路の右手は日本橋の下町、左手は新川の埋立地だ。このあたりは日本橋地区でありながら、何故か深川八幡宮の氏子地域になっている。ここを埋め立てたのが深川の衆だったせいかもしれない。

「諸国名橋奇覧」は、「富岳三十六景」と「諸国滝廻り」の成功に気をよくした北斎が、同じ版元の西村屋から出版したシリーズで、計11枚が伝わっている。横大判錦絵で、ほぼB四版の大きさである。

水上から東京を眺めるその一

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(浅草橋の船宿三浦屋)

東京を描く市民の会の皆さんと屋形船に乗って、水上から東京の街を眺めた。前野会長の計らいで、浅草橋の船宿三浦屋から屋形船を出してもらい、神田川、日本橋川、亀島川を周航し、晴海の先から相生橋をくぐり、隅田川から再び神田川に戻って来るというもので、40名ほどの会員が参加した。

運命:ゴヤの黒い絵

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聾の家二階サロンの入り口から向かって左側手前の壁に描かれていたのが「運命」と題された絵(123×266cm)である。「運命」とは、ギリシャ神話に出てくる運命の女神モイライの三姉妹のことをさす。画面には、その三姉妹とともに正体不明の男が描かれている。男を含めた四人の人物が、夕日を反照した湖の上に浮かんでいる。なんとも不思議な雰囲気に包まれた絵だ。

蟲愛づる姫君(五):堤中納言物語

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童の立てる、怪しと見て、 「かの立蔀のもとに添ひて、清げなる男の、さすがに、姿つき怪しげなるこそ、覗き立てれ。」 と言へば、此の大輔の君といふ、 
「あな、いみじ。御前には例の蟲興じ給ふとて、顯はにやおはすらむ。告げ奉らむ。」 とて、參れば、例の簾の外におはして、鳥毛蟲のゝしりて拂ひ墜させ給ふ。

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アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)の映画「断崖(Suspicion)」は、原題を「疑惑(Suspicion)」というが、この方が映画の内容をよく表している。この映画は、結婚したばかりの妻が、夫の異様な行動に疑いを持つようになり、ついにはそれが疑惑から妄想に発展し、精神衰弱へと追い詰められていくという話なのである。

新国立競技場をめぐる政府や関係者の無責任な対応振りが大いに問題になっている。安部晋三総理も、この問題に「問題」があることを認めたが、これからやり直すには時間が足りないということを理由に、この問題に幕を引こうとする姿勢を見せた。安部晋三総理の代弁者である菅官房長官も、この問題を白紙に戻してやりなおそうというのは「無責任」だと言って、批判勢力を牽制している。

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(木曽街道小野ノ瀑布)

木曽街道小野ノ瀑布とは、今の長野県木曽郡上松町にあり、木曽街道の名所寝覚め床のやや南に位置している。木曽御嶽に近いことから、山岳修行者たちがよく立ち寄り、修行をしたことで知られている。

先稿「誰がツケを払うのか:新国立競技場の巨額建設費」で、新国立競技場の建設費用の一部を都が負担する場合には、東京都のみを対象とした特別立法が必要なことに触れたが、もしこうした立法措置をせずに、舛添都知事の計らいで建設費用の一部を負担するとした場合に、どんなことになるか、片山善博氏がシミュレーションしている。(「新国立競技場をめぐるドタバタ」"世界"2015年8月号」

スープを飲む老人:ゴヤの黒い絵

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この絵(53×85cm)は、とりあえず「スープを飲む老人」としておいたが、題名も、描かれた場所も、確定的なことがわかっていない。場所については、聾の家一回食堂の入り口の上部に描かれたという説と、二階サロンの入り口左手の壁に描かれたという説が拮抗している。ゴヤの研究で知られる堀田善衛は一階説だが、ここでは二階説を取りたい。そうしないと、二階サロンの入り口左手の壁だけが、空白になってしまうからである。

仲正昌樹「精神論ぬきの保守主義」

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仲正昌樹は、政治思想を主な研究対象とする大学教授で、近代の政治思想を中心に古典的な著作をわかりやすく読みといていることで定評がある。筆者も、彼の著書をドイツ思想史など何冊か読んだが、それなりにこなれた説明が、なかなか読み応えがあると感じたものである。

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(下野黒髪山きりふりの滝)

下野黒髪山とは、栃木県の日光にある男体山のこと。その麓の霧降高原に霧降の滝と呼ばれる滝がある。上下二段からなっていて、それぞれが二つ以上に枝分かれしている。上滝は25メートル、下滝は26メートルで、合せた全長は70mを超える。滝からあがるしぶきが、霧となって垂れ込めるところから、霧降の滝と名づけられた。

西田幾多郎の最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」は、その題名から連想されるように、宗教を場所の論理から改めて基礎づけようとしたものである。そこでキーワードとなるものは、「逆対応」という言葉と「平常底」という言葉であった。西田自身、これらの言葉を厳密に定義しているわけではないので、理解しづらいところもあるが、単純化して言えば、「逆対応」は神と人間との関係について、「平常底」は信仰の状態にある人間のあり方のようなものについて、語っている言葉だといえよう。

2500億円にものぼる巨額の建設費を誰がどう払うのか、ほとんど何も詰まっていない状況の中で、事業主体の日本スポーツ振興センターが、有識者会議なるもののお墨付きを得て、計画通り建設を進めることを決定した。この会議には、そもそもこの問題の当事者と言うべき二人、某文科大臣とこの計画の推進者だった高名な建築家が入っていない。文科大臣と並ぶ責任者である都知事は入っているが、焦点となっている建設費用の負担については、全くの白紙だなどと言っている。

蟲愛づる姫君(四):堤中納言物語

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右馬の助見給ひて、 「いと珍かに、樣異なる文かな」 と思ひて、 「いかで見てしがな」 と思ひて、中將と言ひ合せて、怪しき女どもの姿を作りて、按察使の大納言の出で給へるほどにおはして、姫君の住み給ふ方の、北面の立蔀のもとにて見給へば、男の童の、異なることなき草木どもに佇み歩きて、さていふやうは、 「この木にすべていくらも歩くは、いとをかしきものかな。これ御覽ぜよ。」 とて、簾を引き上げて、 「いと面白き鳥毛蟲こそ候へ」 といへば、さかしき聲にて、 「いと興あることかな。此方持て來」 と宣へば、 「取り別つべくも侍らず。唯こゝもとにて御覽ぜよ。」 といへば、荒らかに蹈みて出づ。

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アルフレッド・ヒッチコックの1940年公開の映画「海外特派員(Foreign Correspondent)」は、ミステリー・サスペンス映画の傑作である。というより古典といってもよい。ミステリーの要件たる謎解きやどんでん返し、鬼気迫るサスペンス、そして要所で差し挟まれるアクションシーン、そうした要素が盛り込まれていて、それらが壮大な時代状況を背景にして展開されていく。その濃密な世界は、これこそミステリー・サスペンスの見本だと思わせる。

湯河原の湯に浸かる

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翌日の朝食も質量ともにすごかった。金目の刺身がでてきたほか、イナダのカマの煮つけまでついている。これではとてもアルコールなしでは済まないと言うので、朝からビールで乾杯したという具合だ。運転手役の松子には、気の毒というほかはないが。

「北斎諸国滝廻り」のシリーズは、富嶽三十六景と並行する形で天保4年に発行された。版元は同じく西村屋で、富嶽三十六景の売れ行きを見ながら逐次刊行されたとされる。現存する絵は8点である。いづれの絵も、瀑布を流れ落ちる水のダイナミックな動きを様式的に表現する一方、それを眺める人々を配置することで、自然と人間との対比を強調しているところは、いかにも北斎らしいところである。

真鶴で食道楽

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(真鶴の旅館いずみの舟盛)

今年の正月に、山、落、松の諸子と銀座で豆腐を食った席で、真鶴に安くてうまい宿があるから是非行って見ようと山子が言いだし、他の連中も相槌を打ったことについては、このブログでも紹介したところだ。その後、梅雨入りする頃になって、山子がほかの連中にメールで連絡をとり、日程が整った次第だった。そんなわけで我々は、かねての心つもり通り、七月四日から一泊の旅程で、真鶴・湯河原へドライブ旅行を楽しんだ。

藤岡靖洋「コルトレーン」

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台湾旅行の飛行機の中で、藤岡靖洋著「コルトレーン:ジャズの殉教者」(岩波新書)を読んだ。コルトレーンは、60年代のジャズ黄金時代において、モダンジャズの究極の音を吹き鳴らしたミュージシャンとして、我々団塊の世代には大きな存在だったと言えるが、そのプライベートな面については、日本のファンにはあまり知られることがなかった。この本は、そんなコルトレーンの人間としての面を紹介したものとして、ファンにとっては興味深いものだ。

聖イシードロへの巡礼:ゴヤの黒い絵

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聾の家一階食堂の右手側壁に、「魔女の夜宴」と正面から向かい合う形で、「聖イシードロへの巡礼」と題する絵(140×438cm)が描かれていた。二つの絵のサイズはほぼ同じである。

蟲愛づる姫君(三):堤中納言物語

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かゝる事世に聞えて、いとうたてある事をいふ中に、ある上達部の、御子うちはやりて物怖ぢせず、愛敬づきたるあり。この姫君のことを聞きて、「さりとも、これには怖ぢなむ」 とて、帶の端の、いとをかしげなるに、蛇の形をいみじく似せて、動くべきさまなどしつけて、鱗だちたる懸袋に入れて、結び附けたる文を見れば、  
  はふはふも君があたりにしたがはむ長きこころのかぎりなき身は 
とあるを、何心なく御前に持て參りて、 「袋などあくるだに怪しくおもたきかな」 とてひき開けたれば、蛇首をもたげたり。

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「レベッカ(Rebecca)」は、アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)がハリウッドで作った最初の作品である。この作品はアカデミー作品賞を受賞し、ヒッチコックにとってはハリウッドでの華々しいデビューを飾るものとなったが、ヒッチコックはその後なぜかアカデミー賞とは無縁になり、作品賞はおろか、監督賞を取ることもなかった。それには、ミステリー映画が格下に見られていたこともあったが、ヒッチコックがハリウッド関係者から傲慢なやつだと思われて、嫌われていたことも作用していたと考えられている。

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桃園空港で帰国の便を待つ間、みんなで台湾そばを食ったことは本文で書いたとおりですが、その折の様子を水彩画で描いてみました。ご覧のとおり、そばを盛った器は底が深く、花瓶としても使えそうです。こんな器は、日本は無論中国本土でも見かけたことがありません。台湾独自の器なのでしょうか。

国父記念館:アヒルの台湾旅行その六

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(国父記念館)

六月廿二日(月)晴。旅行最終日。空港まで案内してくれるガイドが10時半に迎えに来ると言うので、それまでどこかを散策しようということになった。横ちゃんアヒルと今ちゃんアヒルは散策よりテレビでゴルフの試合を見ていたいと言うので、残りの三羽で出かけた。行き先は国父記念館だ。

北斎千絵の海(三):甲州火振、待ち網

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(甲州火振)

火振とは、松明の火を振って魚を追い込んでとる漁法。焚き寄せともいう。甲州は、鵜飼と共にこの焚き寄せが盛んだった。両者ともに火を用いて魚をおびき寄せるところが共通している。

米・キューバ国交回復の背景

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米とキューバが54年ぶりに国交回復するようだ。キューバ危機以来、米はキューバをテロ国家に指定し、封じ込めを図ってきたわけだが、ここにきて俄に国交回復の動きが出て来たことに背景には、日本のメディアからはほとんど伝わってこないが、中国の影があるようだ。

故宮博物院:アヒルの台湾旅行その五

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(故宮博物院)

免税店を出た後、円山ホテルの脇を通って故宮博物院に向かった。地下の入り口から中へ入ったが、ロビーは膨大な数の人間で埋まっていた。三連休の最後の日曜日にあたっているので国中から観光客が押しかけたのだろうと言う。観光客は国内からに限らず大陸からも大勢やって来ているに違いない。いまや中国人のツアー客は世界中を闊歩しているようだから。

魔女の夜宴:ゴヤの黒い絵

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聾の家一階食堂の左手の側壁に描かれていたのが「魔女の夜宴」と題する長大な絵(140×438cm)である。魔女たちが夜中に集まって、悪魔の主催する宴会を催すという中世以来の民間伝承を下敷きにしており、ゴヤはこの他にも何枚か同じテーマの絵を描いている。その伝承によれば、悪魔は牡山羊の姿であらわれるということになっている。ゲーテのファウストに出てくる「ワルプルギスの夜」の場面も「魔女の夜宴」のテーマを描いたものだが、「ファウスト」の場合、牡山羊は魔女の乗り物とされている。

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(中正記念堂)

六月廿一日(日)朝方八時にガイドの葉氏が迎えに来た。今日は中型のバスに合計13人が同乗するという。昨日の11人から2人が抜け、新たに4人が加わった勘定だ。そのうちの一組は夫婦もので、もう一組は若い女性の二人連れだった。昨日に引き続き同乗する4人は、年寄りの遊び仲間と見受けた。

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(総州利根川)

「総州利根川」は、利根川の河口近くでの漁労のさまを描いたもの。猟師がいましも四つ手網を引き揚げようとする瞬間を捉えた。四つ手あみというのは、日本の竹竿を十文字に結びあわせ、竹の四つの先端に網を結びつけたもの。フナ、コイ、ウナギ、ナマズなどをとるのに用いられた。

西田幾多郎の神

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西田幾多郎は、日本人哲学者としてはめずらしいほど「神」というものにこだわった。西洋のキリスト教圏の哲学者が神にこだわるのは不思議ではないが、日本人であり、かつキリスト者でもない西田が何故神にこだわるのか。何しろ西田は、「善の研究」において「神」を持ち出して以来、終生神を問題とし続けた。彼の最後の論文となった「場所的論理と宗教的世界観」も、まさに神と人間との緊張あふれる関係について論じたものなのである。

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