2015年11月アーカイブ

スペインの未来:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2101.79.jpg
(真理は死んだ)

これも、フェルナンド七世による王政復古の一断面を描いたものだとされる。手前中央に横たわっている女性は真理のシンボルである。その真理は、ゴヤにとっては、民主主義的な理念を意味した。それが死んだということは、スペインは民主主義を葬って野蛮な王政の手にゆだねられてしまったということをあらわしている。

永積安明「平家物語を読む」

| コメント(0)
永積安明の「平家物語を読む」は、岩波ジュニア新書向けに書かれたこともあって、非常にわかりやすい。忠盛以下十人の登場人物について、それぞれの生き方を取り上げてゆくことで、彼等を中心にして物語が進んでいくところが時間軸に沿って明かにされてゆくし、また彼等が互いに関りあうさまが語られることで、物語が空間的な広がりを以て展開してゆくさまが見えてくる。これは個々の登場人物に焦点を当てる方法の利点と言えるもので、物語を理解するに当たってはもっともわかりやすいものだ。

方丈記(十二)

| コメント(0)
又、ふもとに一つの柴の庵あり。すなはちこの山守が居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。若しつれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或は芽花をぬき、岩梨をとり、ぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて穂組を作る。若しうらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み煩らひなく、心遠くいたる時は、これより峯つゞき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は岩間にまうで、或は石山を拝む。若しは粟津の原を分けつつ、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川を渡りて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、折につけつゝ櫻を刈り、紅葉を求め、蕨を折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉り、かつは家づととす。

us.chaplin02.gold1.jpg

チャップリンの映画「黄金狂代( The gold rush )」は、いわゆるチャップリン喜劇の集大成といえる作品だ。小男が大男を相手にして、頓知や機転そしていささかの偶然に助けられて大立ち回りを演じる傍ら、可愛い女性に淡い恋心を抱く、その過程でさまざまな奇想天外な出来事が起こり、観客はつねに笑いの発作に巻き込まれる、喜劇としては理想的な出来栄えになっている。

中国海軍と対峙する日本の潜水艦隊

| コメント(0)
日本の潜水艦隊は、アメリカ海軍もびっくりするほど有能なのだそうだ。その様子を英字紙 Japan Times が紹介した記事を読んだ。もっともその記事は、同紙のオリジナルではなく、日本の雑誌「選択」11月号に掲載されたものを英語に翻訳して、同紙がオピニオン欄に掲載したものだ。

牡丹小禽図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak122.1.jpg

「牡丹小禽図」は、「薔薇小禽図」と一対をなすものだろう。画面にびっしり隙間なく牡丹の花と葉が描かれ、そのほぼ中央に一対の小禽が描かれている。右側の小禽は、赤いの蕾の上に止まって、首を背後に曲げて上のほうを眺めている。左手の小禽は、牡丹の木らしいものに止まって、配偶者のほうを見つめているのであろう。

旧体制の復活:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2091.71.jpg
(公共善に反して)

1814年にナポレオンが失脚すると、フランスによるスペイン侵略は終わりを告げた。スペインは、自力で勝ったわけではなく、いわば棚ぼた式にフランスのくびきから解放されたわけだ。だが、解放されたスペインには、ゴヤにとって面白くない事態が待っていた。フェルナンド七世と、彼に代表される旧体制が復活したのである。

us.chaplin01.kid.jpg

キッド( The Kid )は、チャップリン( Charlie Chaplin )の最初の長編映画である。長編と言っても、一時間ちょっとの長さだが、一応ストーリーはしっかりしているし、テーマも明確だ。母親に捨てられた少年が、貧しい男に拾われ、スラム街の一角で逞しく成長していく物語なのだが、その少年の姿というのがチャップリンの幼い頃の姿と重なりあうと同時に、少年を育てる気の優しい男もまた、チャップリンの分身と言うべきメンタリティを持っている。色々な面で、チャップリンが自分自身を語った映画と言える。

薔薇小禽図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak121.1.jpg

「薔薇小禽図」は、咲き広がった薔薇の花を背景に一羽の小禽を描いたものである。薔薇は三種類あり、それぞれ紅、うす紅、白の花弁を開いている。どの花も、上からの視線で描かれ、その形状はほとんど同じである。普通ならこうした描き方は稚拙さを感じさせるものだが、若冲の手にかかると、独特のリズム感を伴うようになる。

フーコーは、西欧文明圏におけるエピステーメーの変転の歴史を、中世・ルネサンス、古典主義時代、近代という三つの時代に対応させて論じた。中世・ルネサンスより前にはギリシャ・ローマの世界があり、そこにはそれなりのエピステーメーがあったはずだが、フーコーはとりあえずそれについては問題にしない。フーコーの当面の問題関心は、古典主義時代から近代にかけての時代なので、それに近接する時代を取り上げれば足りると考えたのだろう。また、西欧文明圏以外の世界におけるエピステーメーについても考慮しない。フーコーにとっては、エピステーメーは同じ文明圏内でも時代が異なれば共通のものはなく、それぞれが断絶している一方、同じ時代でも文明圏が異なれば共通するところはないのである。

方丈記(十一)

| コメント(0)
その所のさまをいはゞ、南にかけひあり、岩を立てて水をためたり。林の木近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を音羽山といふ。まさきの蔓跡うづめり。谷しげゝれど、西はれたり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほふ。夏は郭公をきく。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は日ぐらしの聲耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。

ミンボーの女:伊丹十三

| コメント(0)
j.itami05.minbo.jpg

伊丹十三の映画「ミンボーの女」は、日頃やくざのゆすり・たかりに悩んでいたホテルのスタッフが、勇敢な女弁護士や警察の協力を仰ぎながら、敢然としてやくざたちに立ち向かい、ついには撃退するという内容である。言ってみれば、やくざ撃退についてのハウツーものである。「お葬式」や「タンポポ」といった映画でハウツーものを手がけてきた伊丹としては、その延長線上にあるものだ。ところが、扱ったテーマがやくざということもあって、この映画のために伊丹はやくざとの間で軋轢を生じ、顔を切りつけられて大怪我をしたり、上映を妨害されたりもした。彼の死はいまだに謎の部分が多いと言われるが、その謎にはやくざの陰もさしている。つまり伊丹は、命がけでこの映画を作ったということだ。

ドナルド・トランプの勢いが止まらない。共和党の大統領候補としての支持率は32パーセントとなり、二位のベン・カーソンに10ポイントの差をつけている。この調子だと、来年の大統領選に共和党候補に収まる可能性が非常に高いばかりか、場合によっては民主党の候補者を破って合衆国大統領に選出されるのも、あながち絵空事でなくなった。

群鶏図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak120.1.jpg

鶏の画家若冲の代表作ともいえるこの絵は、文字どおり鶏だけを描いたものだ。鶏冠を頼りに数えてみると十三羽いるが、もしかしたら、他の鶏の陰に隠れているのが他にもいるかもしれない。そう思わせるほどこの絵は込み入った印象を与える。個々の鶏の頭部と胴体とがどうつながっているのか、一見してわからないところがある。

墓地へ:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2081.64.jpg
(山積みにして墓地へ)

版画集「戦争の惨禍」には、多くの死体を墓地に運んでゆく場面や、死体が折り重なった墓地の場面を描いたものが何枚かある。これはその一枚。死体を車に山積みにして、墓地へ運んでいこうとする場面を描いたものだ。

丸谷才一「忠臣蔵とは何か」

| コメント(0)
丸谷才一の日本文学論の特徴は、民俗学の方法を日本文学の背景分析の手段として応用するところにある。前日このブログで取り上げた「恋と日本文学と本居宣長」とか「女の救はれ」といった文章は、日本文学が、師事した中国の文学と違うところは、男女の恋とか女人成仏とかいうことを大事にするところにあるが、それは日本人の間に女性崇拝の思想が働いている結果なのだとしていた。これは、その女性崇拝を太古の時代の母系制社会のあり方に遡って位置づけるというような民俗学的な方法を応用した見方なのである。

方丈記(十)

| コメント(0)
こゝに六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはゞ狩人の一夜の宿をつくり、老いたる蚕の繭を営むがごとし。是を中ごろのすみかにならぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齢は歳々に高く、すみかはをりをりに狭し。その家のありさま、世の常にも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継ぎごとにかけがねをかけたり。若し心にかなはぬ事あらば、やすく外へ移さむがためなり。その改め作る事、いくばくの煩ひかある。積むところわづかに二輌、車の力を報ふほかは、さらに他の用途いらず。

あげまん:伊丹十三

| コメント(0)
j.itami04.ageman.jpg

伊丹十三の1990年公開映画「あげまん」は、「あげまん」という言葉がその年の流行語になったくらい評判になった。1990年といえば、バブルの絶頂期、日本経済が永久に右肩上がりで栄えていくだろうことを誰もが疑っていなかった。「あげまん」という言葉は、そんな時相にぴったりフィットしたわけだ。

雪中錦鶏図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak119.1.jpg

「雪中錦鶏図」は、雪化粧をしたかやの木を背景にして一対の錦鶏鳥を描いたものである。錦鶏鳥はキジの仲間で鮮やかな色彩が特徴である。オスは一メートルもの大きさになる。この絵では、そのオスが全身を見せているのに対して、メスのほうは、オスの陰にかくれて上半身のみを覗かせている。

とばっちり:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2071.50.jpg
(可愛そうなお母さん)

対仏戦争は、スペインの一般民衆に塗炭の苦しみをもたらした。彼らは戦闘に巻き込まれてひどい目にあわされたほか、戦争に並行して広範囲に起こった飢饉のために、餓死するものが続出したのだった。

マルサの女:伊丹十三

| コメント(0)
j.itami03.marusa5.jpg

伊丹十三の映画「マルサの女」は国税査察官の活躍を描いた作品である。国税査察官とは脱税を告発する役人のことだ。脱税は国民としてよくないことだから、それを告発するのは正義の行為ということになるが、正義とはそんなにたやすく守られるわけではない。というより、戦いとるものだ。戦いとることで正義は初めて実現する。それ故国税査察官とは、正義の戦士なのだ、というメッセージの片割れのようなものがこの映画からは伝わってくる。片割れと言うのはほかでもない、脱税の告発とは正義一点張りではすすまない。時にはダーティな部分も飲み込まねばならない。だからこの映画が発するメッセージは、半分は正義だが残りの半分は正義とはかかわりがない。そのかかわりのない部分は人間的な要素にあふれた部分と言うことになる。その部分こそがこの映画を面白くしているというわけだ。

桃花小禽図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak118.1.jpg

「桃花小禽図」は、枝いっぱいに咲き広がった桃の花を背景に、五羽の小禽を描いたものだ。五羽のうち三羽は白鳩、二羽は青い羽と白い腹をした小鳥だ。二羽のうち一羽は、桃の枝に隠れて、頭しか見えない。一方鳩のほうは、三羽ともすっきりと見える。背景から白が浮き上がっているせいだ。

侍女たち:フーコーのベラスケス解釈

| コメント(0)
フーコーの著作「言葉と物」は全十章から構成されているが、その冒頭の章は「侍女たち」と題して、スペインの画家ベラスケスの有名な絵を解読するのに費やされている。

方丈記(九)

| コメント(0)
我が身、父方の祖母の家を伝へて、久しく彼の所に住む。其後縁欠け、身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむる事を得ず。三十餘りにして、更にわが心と一の庵をむすぶ。是をありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を作るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波のおそれも騒がし。

たんぽぽ:伊丹十三

| コメント(0)
j.itami02.tampop2.jpg

伊丹十三の映画「たんぽぽ」は心温まる人情コメディである。一人息子を抱えた未亡人がけなげに生きているのに同情した五人の男たちが、未亡人が一人前のラーメン屋として自立するのを助けるという内容だ。同情する男たちの動機はさまざまだが、同情される未亡人はどこか男をひきつける魅力があるのだろう。このひきつけあう男女の展開するストーリーがなんとも言えずユーモラスで、見るものをして心温まらしむというわけである。そのわりには、この映画は日本ではヒットしなかった。その分外国での評価は高かった。それは、この映画がラーメンづくりをテーマにしていたからだと思われる。日本人はなぜラーメンにこんなにもこだわるのか、その秘密の一端をこの映画が語っているからであろう。

蓮池遊魚図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak117.1.jpg

「蓮池遊魚図」は、蓮池の水中を悠々と泳ぎまわる魚たちを描いたものである。魚はあわせて10尾おり、そのうち9尾は鮎、一尾はオイカワだと思われる。これらの魚がすべて横からの視点で描かれており、しかもほとんど同じ姿勢である。一群の対象をほとんど相似的に描くのは若冲の特徴の一つで、この絵ではそれが不自然さを感じさせない。

見せしめ:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2061.36.jpg
(これもまた・・・)

フランス兵の残虐性は、抵抗するスペイン人を残酷な方法で処刑するだけにはとどまらなかった。彼らは殺した後の死体を、他のスペイン人への見せしめとして、さらしものにしたのだった。

丸谷才一「女の救はれ」

| コメント(0)
「日本文学は中国文学に長く師事して来た。何しろ文字それ自体だって中国のものを借用したのである。決定的な影響を受けたのは当たり前ですが、それにもかかはらず意外に真似をしてゐない局面がある。したたかに拒否して、個性を発揮している。この女人成仏もその一つなのでせう。」これは、丸谷才一の著作「女の救はれ」の一節であるが、丸谷はこう言うことで、日本文学の(中国文学と異なる)大きな特徴として、男女の恋を重んじる態度と並んで、女性の尊重ということをあげている。女人成仏の思想はその象徴的な事例だというのである。

方丈記(八)

| コメント(0)
すべて世中のありにくゝ、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひて、心を悩ますことは、不可計。

お葬式:伊丹十三

| コメント(0)
j.itami01.funeral2.jpg

「お葬式」は、伊丹十三の映画監督としての処女作である。処女作としては大変な評判となり、大ヒットをとったほか多くの映画賞も受賞した。この映画で、伊丹は一躍映画の大家になってしまったわけだ。ヒットしたわけは、葬式という非日常的でありながら、誰にでも起こりうる事態を、コミカルに描いて見せたことで、日本人の、死生観と言っては大げさだが、非日常的なものに関する意識の持ちように、大いに働きかけるところがあったためだろう。

棕櫚雄鶏図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak116.1.jpg

「棕櫚雄鶏図」は、林立する棕櫚を背景に二羽の雄鶏を描いたものである。そのうち一羽は軍鶏で、もう一羽は白鶏だ。軍鶏の姿は、南天雄鶏のそれと、白鶏のほうは「向日葵雄鶏図」の雄鶏を反転させた姿と似ている。ただし、こちらのほうが後でつくられたせいか、描き方はいっそう洗練されている。

処刑:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2051.32.jpg
(なぜだろう?)

版画集「戦争の惨禍」には、処刑を描いたものが多数ある。そのほとんどは、フランス兵によるスペイン人の処刑だ。どれを見ても、残虐きわまる。こんな絵ばかり見せられたら、戦争が心から嫌になるか、あるいは反対に、人間の残虐性に対して鈍感になるか、どちらかだろう。

お遊さま:溝口健二の世界

| コメント(0)
j.mizo13.oyusama.jpg

溝口健二は、戦中から戦後にかけてつまらぬ映画を何本も作ったが、「お遊さま」もそうした駄作の一つである。にもかかわらず筆者がここに取り上げるのは、これが谷崎の小説を映画化したものだからである。谷崎の原作「芦刈」の、あの独特の世界を溝口がどう映画化したか、そしてどのような理由で失敗したか、それに興味があった。

法の破壊者が法の支配を云々する異様さ

| コメント(0)
ミャンマーで、アウン・サン・スー・チー女史率いる野党が大勝し、ミャンマーでも民主的な政権が誕生する可能性が言われる中で、日本の安倍政権も、ミャンマーに民主主義や法の支配が進むことを期待する、などと言表している。これは、日頃アメリカへの気配りに遺漏なきを期している安倍政権が、アメリカの言い分を鸚鵡返しにしているのだと忖度されるが、言うに事欠くとはこういうことを言うのだろう。というのも、安倍政権による法の軽視と言うか、法の破壊ぶりは、目にあまるというほかはないからだ。

梅花群鶴図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak115.1.jpg

「梅花群鶴図」は、枝いっぱいに咲き広がった梅花を背景に、六羽の鶴を描いたものである。鶴が六羽いることは、脚の数からわかるので、頭を数えてもわからない。それらの鶴は一様に、小さな頭と長くて細い脚が特徴だ。頭にいたっては、背後の梅の花とほとんど同じ大きさだ。鶴の頭が小さすぎるのか、梅の花が大きすぎるのか、この画面からは判然としない。

エピステーメーとパラダイム

| コメント(0)
フーコーが「言葉と物」の中で「エピステーメー」の概念を提出したとき、これを「パラダイム」と比較する動きが結構あった。トーマス・クーンが「科学革命」の中でパラダイムの概念を提示したのは1962年のことだったし、フーコーの「言葉と物」はその4年後の1966年に出版されたこともあり、二つの概念の提出時期が重なっていたのと、その内容にかなり似ているところがあったので、無理もない動きだったと言える。

女戦闘機乗り

| コメント(0)
自衛隊が、女性にも戦闘機を操縦させるよう方針を変えたそうだ。三年後には、実働部隊に配置するという。戦闘機乗りというのは武力行使を使命にしているものだから、当然相手の戦闘機乗りを殺すことを目的としている。女性は、命を生み育むのが自然の形で、人の命を奪うのは相応しくないと、これは古い因習にとらわれた考えかも知れないが、生まれてから今までそう考えてきた筆者のような人間にとっては、天地が逆さまになるようなショッキングな話に思える。

方丈記(七)

| コメント(0)
又同じころかとよ、大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は浪にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舍廟塔、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の中に居れば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、たゞ地震なりけるとこそ覺え侍りしか。

新・平家物語:溝口健二の世界

| コメント(0)
j.mizo12.heike.jpg

溝口健二の晩年(1955年)の映画「新・平家物語」は、戦後の大ベストセラーとなった吉川英治の歴史小説をもとに、大映が企画した連作映画の第一作として作られた。大映は、1953年に衣笠貞之助に作らせた「地獄門」が大ヒットしたので、二匹目の泥鰌を狙っていたフシがあったが、溝口のほうも、「地獄門」の成功を横目に見て、それに匹敵するような歴史物を作ろうと意気込んでいたようである。しかしこの映画の最大の目的は、興行的な成功にあったので、溝口もそれに捉われるあまり、前後の優れた作品と比べれば、芸術的香気に劣る作品になったことは否めない。

自動運転技術は何を変えるか

| コメント(0)
自動運転技術の進歩が目覚ましい。この調子だと、自動運転車が普及するのもそんなに遠いことではないと言える。それが人間の生活スタイルにもたらす影響についてはさまざまに論じられているが、その場合に最も肝心な視点は、自動運転技術の進展が人間にどんなマイナス効果を与えるかということだ。

南天雄鶏図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak114.1.jpg

「南天雄鶏図」は、たわわに実をつけた南天の木を背景に軍鶏を描いたものである。軍鶏は両脚を踏ん張り、頭を後ろに回して、何かを見つめている。おそらく南天の実であろう。南天の実は画面一面に無造作に描かれているようだが、軍鶏も視線とかかわりを持つことで、画面上の必然性を主張しているかのようである。

日本人の生活満足度はOECDの平均以下

| コメント(0)
OECDの最近の調査(OECD Better Life Index 2015)によれば日本人の生活満足度(Life satisfaction)は、OECD加盟国の平均を下回っているそうだ。満足度を引き下げている要因のうち比重の大きいのは可処分所得の水準と子どもの教育機会の充実度だ。

敗者を略奪:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2041.16.jpg
(彼らはここまでむしり取る)

ゴヤの時代には、戦いに勝ったものが負けたものから略奪するのは当然のことだった。負けた当事者が、都市や村の住民だった場合には、都市ごと、また村ごと略奪にあった。財産が奪われるのは無論、生き残った男は殺され、女は強姦された。この時代の戦いは、そういう面で非常に人間的なスケールだったわけだ。なにもかもが可視的なだけに、その残虐性は目を覆うほどである一方、人間的なスケールをはみ出すことはなかったわけだ。

丸谷才一「恋と日本文学と本居宣長」

| コメント(0)
丸谷才一の日本文学論が本居宣長に多大な影響を受けていたことは良く知られている。丸谷は中国文学と比較して日本文学が男女の恋を描くことに熱心だったのは、日本人の国民性に深く根ざしていたのだというような主張をしたのだが、その根拠としてもっぱら本居宣長を援用していたのだった。

存在感を増すショイグ露国防相

| コメント(0)
151101.shoigu.jpg

ロシアの政治シーンにおいてショイグ国防相の存在感が高まっているようだ。ロシア軍は、冷戦終了以降すっかり弱体化し、戦争はおろか治安維持の能力もないと酷評されてきたが、最近になって、軍隊としての体裁を急速に整えた。クリミア併合やウクライナ危機に当たっては、ロシアの軍事能力を世界に向かって示したし、最近ではシリアに軍事介入して、ロシアの軍事的プレゼンスを強烈に印象付けた。ロシアの軍隊はもはや案山子の集団ではない。規律と戦力を伴った強力な軍隊になりつつある。軍隊をここまで強く鍛え上げたのがショイグとあって、彼の株は急に高まったわけである。自称事情通の間では、プーチンの次の大統領はショイグだ、と言われるようになった。

方丈記(六)

| コメント(0)
いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて、かならずさきだちて死ぬ。その故は、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。又母の命つきたるを知らずして、いとけなき子の、その乳を吸ひつゝ臥せるなどもありけり。

祇園囃子:溝口健二の世界

| コメント(0)
j.mizo11.gion.jpg

溝口健二が戦後作った映画「祇園囃子」は、戦前の名作「祇園の姉妹」と色々な面で共通点がある。題名にもあるとおり京都の祇園を舞台にしていること、姉妹関係にある二人の芸妓の生き様を描いていること、彼女らを囲む人間関係が封建的なしがらみに縛られていること、などだ。無論異なるところもある。一番大きな違いは、「祇園の姉妹」の「おもちゃ」が、男に踏みつけにされながらも、それを跳ね返して強く生きようとする気概をみなぎらせているのに対して、「祇園囃子」の美代栄(若尾文子)は、封建的なしがらみに反発しながらも、結局はそれに屈服してしまうという点だ。封建的なしがらみに反発しながら、結局は屈服する点では美代栄の姉格の美代春(小暮美千代)も同じだ。彼女もがんじがらめなしがらみを振りほどこうとして、結局はまかれてしまうということになっている。その点は、「おもちゃ」の姉が、はじめからしがらみに捉われて、それを疑わずにいたのとは大きな違いと言える。

花代、枕代、枕花代

| コメント(0)
花代といえば芸者遊びの代金をさし、枕代といえば女性と一夜を共にした代金というのが一般的な受け止め方だ。では、枕花代といえば何をさすか。普通の感覚なら、枕代と花代が合わされば芸者と一夜を共にした代金ということになろう。まして、この言葉の出処が、あの下着ドロボー容疑で世間を騒がせた某「スケベ」大臣とあればなおさらだ。というのもこの言葉は、この「スケベ」大臣の政治資金収支報告書の中で使われたというのである。

芦雁図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak113.1.jpg

「芦雁図」は、雪の降り積もった芦の生える沼地のようなところへ向かって、一羽の雁が急降下してゆくところを描いたものである。雁の姿は画面からはみ出すように大きく描かれており、実物よりもはるかに大きい。それ故、この絵を見た人は、雁の姿に異様な迫力を感じる。

抵抗もむなしく:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2031.11.jpg
(その連中のためでもない)

これはフランス兵によって陵辱されるスペイン女たちを描いたもの。女たちはフランス兵相手に戦いを挑んだものの、あえなく敗れてこのような目にあっているのだろう。前出の「やはり野獣だ」に描かれた場面の続きだとみれば、わかりやすい。

審判:オーソン・ウェルズ

| コメント(0)
us.wells02.trial.jpg

オーソン・ウェルズ(Orson Wells )の映画「審判( The trial )」は、フランツ・カフカの小説「審判( Der Prozeß )」の映画化である。この小説は20世紀文学最高傑作のひとつとしての評価が高いので、多くの人が読んだと思われる。まして映画化された1963年当時には、カフカを読むことが大流行していたので、これを映画化するには、かなりのプレッシャーがあったに違いない。原作にあまりに忠実すぎると、映画としての面白みが阻害されるだろうし、かといって原作に手を入れすぎると、これはカフカではないと批判を浴びせかけられることにもなる。オーソン・ウェルズは、映画作りの天才と言われるだけあって、このディレンマをうまく乗り越えている。原作になるべく忠実でありながら、映画としての面白さも十分に実現する、というような離れ業をなしとげている、と言ってよい。

老松鸚鵡図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak112.1.jpg

「老松鸚鵡図」は、松をバックにして一対の白い禽獣を描いた点では、「老松白鶏図」と対をなすものである。「老松白鶏図」では鶏たちの視線は真っ赤な旭日に収斂していくが、この絵では、白い鸚鵡たちの視線の先には緑色の鸚鵡がある。その鸚鵡の羽の一部に赤が塗られている以外には、この絵には赤い部分がない。それでいて寒々しさを感じさせないのは、背景や松の幹に多少の暖かさがあるためだろう。

フーコー「言葉と物」

| コメント(0)
フーコーにとって「言葉と物」は一つの転機を画した仕事といえよう。フーコー自身そのことを自覚していたらしいことは、それ以前の作品と比較して、力のこもった修辞的文体で書かれていることから伺える。この著作の文体は、同時代人たちの饒舌な文体と比べても、過剰と言ってよいほど饒舌なのである。

方丈記(五)

| コメント(0)
又養和のころとか、久しくなりておぼえず、二年が間、世中飢渇して、浅ましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬收むるそめきはなし。

us.wells01.kane.jpg

オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン( Citizen Kane )」は、20世紀中は、映画史上最高傑作との評価がゆるぎなかった。いまでも、ヒッチコックのサスペンス映画「めまい」、ハンフリー・ボガートが主演した「カサブランカ」と並んで、映画史上三大傑作という評判がもっぱらである。凝ったストーリーもさることながら、現在と過去とを自在に交錯させたり、ワンシーン・ワンカットを多用したり、パンフォーカスやローアングルといった斬新なカメラワークなど、技術的にも優れており、映画史上ひとつのメルクマールとなる作品なのである。

神社が墓地を経営する

| コメント(0)
寺院と違って神社に墓地がないのは、神道が死者の穢れを嫌うからだという。その理由はかならずしもあきらかではないが、神道が遺骸を忌み嫌うことは、そもそも古代日本人の宗教意識を反映していたものらしい。日本人の間に火葬が普及したのは、そんな日本人の習性にも関係があるようだ。ところが近年になって、墓地の経営に乗り出す神社が現れてきたという。たとえば日光東照宮だ。朝日新聞の11月2日付朝刊の記事によれば、神社の聖域から離れたところに墓地を造成し、分譲に乗り出したそうだ。

老松白鶏図:若冲動植綵絵

| コメント(0)
jak111.1.jpg

「老松白鶏図」は、枝葉を大きく広げた松をバックに、真っ白な鶏の雌雄一対を描いたものである。若冲は禽獣を白く描くのが好きだったようだが、これはその作例の初期のもの。鶏の躯体部分に、下地として金泥を引き、その上から胡粉を用いて丁寧に羽などの模様を施している。

北一輝「日本改造法案大綱」

| コメント(0)
北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。

勇敢な女性たち:ゴヤの版画

| コメント(0)
gop2021.5.jpg
(やはり野獣だ)

スペインの対ナポレオン戦争には、女性たちも大勢参加したといわれる。スペイン側の兵力は民兵が中心で、その戦いぶりは、正規戦というよりは、ゲリラ戦のごときものだったから、そのゲリラ戦に、男たちに混じって多くの女も加わったわけだ。ゴヤは、版画集「戦争の惨禍」の最初の部分で、そんな女たちの勇敢な戦いぶりを描いた。

方丈記(四)

| コメント(0)
又治承四年水無月の頃、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた此の京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、すでに四百歳を經たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人やすからず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。

愛怨峡:溝口健二の世界

| コメント(0)
j.mizo10.aien.jpg

溝口健二の1937年の映画「愛怨峡」は、「浪速悲歌」と「祇園の姉妹」を作った後、「残菊物語」などいわゆる芸道三部作と呼ばれる作品群への橋渡しとなるものであり、溝口の戦前の傑作と言えるものであるが、戦後長い間フィルムが消失したと考えられてきたのを、近年発見されたフィルムをもとにDVD化された。フィルムの状態は「浪速悲歌」よりひどく、特に音声の状態が悪いのであるが、見ていてうるさく感じないのは、傑作だからだろう。

最近のコメント

アーカイブ