2016年4月アーカイブ

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高台寺は、秀吉の死後その妻おねねが、徳川家康の許可を得て慶長十一年(1606)に創建した寺である。おねね自身の墓もある。秀吉が茶を愛したことにちなみ、傘亭、時雨亭という一対の茶室を小高い丘の上に建てた。これがこの寺のシンボルとなっている。

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ダンテらが第7圏から第8圏へと向かおうとするとき、下方(第8圏)から一匹の怪獣が上ってくる。その怪獣は、二人を第8圏へとぶために遣わされた使者だった。その怪物に乗って出発する前に、第7圏にうごめいている高利貸しの亡霊どもをよく観察せよとヴィルジリオに言われたダンテは、その者たちの側へと近づいてゆく。彼らをよく見ると、いずれもフィレンツェに縁のある高利貸しだった。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の三列目右側は、呪われた人々を描いている。彼らは天使の吹くラッパに促されてイエス・キリストの前にやってきたはいいけれど、キリストから「のろわれた者どもよ」と呼ばれ、悪魔のもとへ去るように命じられる。

清水次郎長といえば、日本的な侠客の典型としてなじみ深いと思う人は多いだろう。筆者の親の世代(戦中・戦前派)では、広沢虎蔵による浪花節や講談師たちによって全国の津々浦々まで語られていたし、筆者の世代では映画やテレビドラマに繰り返し取り上げられ、日本人として知らないものはないといってよかった。

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二条城は、慶長八年(1603)に徳川家康が、京都における徳川家の居城として作った。家康はこの城を、内裏のあった神泉苑の敷地をつぶす形で作ったが、それは朝廷に対する家康の挑戦だったと言われている。寛永三年(1626)には、二代将軍秀忠が後水尾上皇を、行幸と言う名にこじつけて、ここに呼びつけている。そのために大改築が行われ、今日の二の丸の形となったが、そのさいにあわせて庭園が整備された。造園を担当したのは小堀遠州である。

フーコーが「自己への配慮」のなかで取り上げる紀元一世紀および二世紀のギリシャ・ローマ世界あるいはローマ帝政期の時代は、古典古代ギリシャの時代とキリスト教の支配的となった時代とを結ぶ過渡的な時代である。あらゆる過渡的な時代がそうであるように、この時代も、前後の時代との連続性と断続性を指摘することができる。「性」の問題に関していえば、古典古代ギリシャに特徴的だった性についての人々の態度の余韻が見られると共に、今までには見られなかった特徴も現れてくる。その新たな特徴は、キリスト教道徳を先取りしたようにも見えるのであるが、必ずしもキリスト教道徳と一致するわけでもない。そこにも連続性とならんで断続性が見られるのである。

某女性タレントが、安倍政権肝いりの「一億総活躍国民会議」に呼ばれ、その席上PTAに触れて、本来任意加入のはずなのに実際には強制的に加入させられている実態があるが、それはおかしいという旨の発言をしたというので、話題になっている。この女性タレントは母親としての立場から意見を述べたのだが、日頃同じような疑問を感じていたという母親たちから、多くの共感の声が寄せられているという。

平惟盛は、平家の嫡流として一門を代表すべき立場だったが、戦は苦手で戦場には立たなかった。一の谷で平家が大敗したことを聞くと、屋島を脱出して、三人の従者(重景、石童丸、武里)とともに高野山へ向かった。高野山には、かつての家臣で今は僧形となった滝口入道がいた。入道の導きで高野山に参拝し、出家をすると、入道を伴って熊野へ向かった。

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大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」は、尾道三部作の延長上にある青春映画だ。舞台は尾道とは瀬戸内海を隔てた対岸の町観音寺。この町は地図で見ると尾道の南東にあたっているのがわかるが、島影によって遮断されていないので、お互いに良く見えるそうである。だから尾道三部作を、大林本人がいうように瀬戸内海を舞台とした青春映画とすれば、「青春デンデケデケデケ」もその範疇に治まる。

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高桐院は、細川幽斎の長子三斎忠興によって慶長六年(1601)に建立された大徳寺の塔頭である。細川忠興は、織田・豊臣・徳川三代を武人として息抜き、正室ガラシャが明智光秀の娘であったにもかかわらず光秀にくみせず、自主独立を貫いたことで知られる。彼の遺体は、遺言によってこの高桐院に埋葬された。

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熱砂の輪を通過すると、その先に滝の音が聞こえてきた。すると二人の前に三人の亡霊が現れ、輪を作ってグルグルとまわり始めた。この亡霊たちは、フィレンツェの人ヤコボ・ルスティクッチと、その仲間なのであった。とまどうダンテにヴィルジリオは、これらの人々に敬意を払いなさいと進める。その亡霊たちの求めに応じてダンテはフィレンツエの近況を伝えるのだ。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の上から三列目には、中央にラッパを吹く天使たちを描き、その左右に多くの人々を配置している。そのうち向かって左側は「祝福された人々」、右側は「呪われた人々」と解釈できる。というのも、イエスが天使たちにラッパを吹かせると、右手に(画面左側に)集まって来た人々に向かって「わたしの父(神)に祝福された人々よ」と呼びかけ、左手に集まって来た人々には「呪われた者どもよ」と呼びかけているからである(マタイ伝26章)。

「村上はいまや文化を論じるうえでの格好の素材、持論展開のうえでの好個の話題提供者だ。そこでの彼の本質は文化象徴であり、また作品の本質は、商品である」。このように加藤典洋は言って、村上春樹の読まれ方について指摘したうえで、それらに自分の読み方を積み重ねるようにして提示する。彼の意図は、「どこに村上の文学的な達成があるのかというような基本的な議論」を提供することにあるらしいが、どうもこの本を読んだ限りでは、加藤は村上を格好の素材として持論を展開してみせたという印象が伝わってくる。もっとも、すぐれた文学というものは様々な読み方に向かって開かれていると村上自身が言っているので、村上は加藤のそうした読み方を否定することはしないだろう。

平重衡は生け捕りにされたが、それは彼の命と引き換えに三種の神器をとりもどそうという配慮からだった。後白河法皇はその旨を記した院宣を平家の一門に届けさせるが、一門では会議を開いた結果申し出を拒絶することとした。

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大林宣彦の映画「さびしんぼう」は、所謂尾道三部作の最後の作品であり、前二作同様尾道を舞台とした青春映画である。ここでは、高校二年生の初恋が描かれている。その初恋がいかにも思春期の少年少女のういういしさに包まれており、見ていて思わずほんのりとした気分になってしまう。筆者のような、はるか大昔に青春を通り抜けた老人にとっても、このような映画を見せられると、自分の初恋のときの思いがありありとよみがえってきて、ついうっとりとしてしまう。筆者の初恋も、この映画の中の少年少女と同じく、十六歳の出来事だった。

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円徳院は、秀吉の死後妻のねねが移り住み隠居所としたのが始まりで、その後、寛永九年(1632)に高台寺の塔頭となった。庭は、伏見城内にあった化粧御殿の庭を移築したとされ、庭師賢庭の作と伝えられている。桃山時代を代表する庭園である。

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二人はやがて真っ赤になって煮えたぎる流れの畔に着く。この川は、森から流れだし、熱砂を貫いて流れてゆくようである。ヴィルジリオは、この川が何処から流れて来るか、その由来について語る。

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最後の審判あるいは世界終末の日に当たって、天使たちがラッパを吹いて合図をしたという記事は、福音書と「ヨハネの黙示録」の双方にある。このうち黙示録の記事にある七人の天使の吹くラッパがより知られているが、ミケランジェロがこの絵の中で示したイメージは、福音書に依拠しているように思える。その部分についてマタイ伝は、つぎのように記している。

成島柳北は晩年温泉を愛した。主な目的は気晴らしだったようだが、身体の休養あるいは持病の治療も兼ねていたようだ。彼がとくに好んだのは熱海の温泉であり、また箱根の湯であった。寒い時期には熱海に行き、夏には箱根に暑を避けるというのが彼の理想であったようだ。「熱海文藪」は、そうした柳北の温泉三昧の記録である。

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三宝院は永久三年(1115)に遡る古い寺だが、応仁の乱で焼けて以降荒廃していたところを、秀吉によって再興された。有名な醍醐の花見はこの三宝院で行われ、その際に現在に伝わる庭園が整備された。池泉回遊式の見事な庭園で、秀吉好みの豪華な雰囲気に包まれている。

「性の歴史」第二巻「快楽の活用」において、紀元前四世紀の古典古代のギリシャにおける「性」について考察したフーコーは、続く第三巻「自己への配慮」においては、紀元後一・二世紀(帝政ローマ時代)のギリシャ・ローマ文明における「性」を考察の対象とする。それに先立ってフーコーは、紀元二世紀後半に活躍したギリシャ人アルテミドロスの著作「夢を解く鍵」を、この考察の手がかりとして、分析して見せる。夢の中では性的なイメージが奔放にあらわれるということをのぞいても、夢は「性」をめぐる問題群を解くうえで大きな手がかりになると考えたからであろう。

平知盛は生田の森の大将軍として、平家軍の正面を守り、最後まで踏みとどまっていたが、やがて味方は四散、息子の知章、侍の監物頼方と、合せて三騎だけになってしまった。そこで、平家の助け舟を求めて汀のほうへ向かったが、そこへ追っ手の集団が背後から迫ってきた。

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大林宣彦は、青春映画が得意で、いまでも多くのファンがいるという。彼の映画には、子どもから大人になりかけている少年や少女たちが登場して、人生の中で一回限り出会う出来事に体をはってぶつかっていく姿が描かれている。そうした姿が、同年代の少年少女たちの共感を呼ぶのは無論、かつてそのような少年や少女だった大人たちをもノスタルジックな気分にさせるのだろう。同じ大人でも、もはや少年時代の生き生きとした記憶を失ってしまった筆者のような老人には、彼らの気持にはなかなか感情移入できないが、それでもほのぼのとした気持にはなれる。

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近江町市場の次に金沢城を訪ねた。石川門から入って、五十間長屋の脇を通り、三十間長屋のある高台に上った。金沢城は明治維新後陸軍に接収されたが、天守閣はじめ主要な建物は火災で焼失し、徳川時代のままの姿をとどめるのはこの三十間長屋だけだという。高台の周りに掘られている空堀は敵を防ぐ役目より、馬を遊ばせるために使われたそうだ。小生の出身地下総佐倉の城跡にある空堀もやはり馬を遊ばせるために作られたことを思い出した。

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西芳寺の近くにある地蔵院は、いまでは竹の寺として知られるが、南北朝時代の貞治六年(1367)に、管領細川頼之が夢窓国師の高弟宗鏡禅師を招請して建立した禅寺である。夢窓国師を開山としているが、実質的な開山は宗鏡である。一時は、大寺院として繁栄したが、応仁の乱で消失。その後、徳川時代に、皇室と細川氏の援助によって再建された。現方丈は、貞享三年(1686)に再建されたものである。

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亡霊たちの苦しんでいる様子をよそに、炎をどこ吹く風と涼しい顔をして、ふてぶてしく横たわっている者がある。テーベを攻略したギリシャ七王の一人カパネウスである。かれは神をないがしろにし、ゼウスも自分にはかなうまいと豪語した咎で、ゼウスの怒りに触れ、雷に打たれて死んだ。

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翌日(四月十五日)六時前に起床し、朝風呂を浴びてテレビをつけると、熊本で大地震が起きたというニュースをやっていた。震度七の揺れを記録し、熊本城が崩れるなどしたほか、大勢の死傷者が出ているという。最初の揺れは昨夜九時過だというから、筆者は体調が悪くて床に潜り込んでいた時だ。しかし同室の二羽(オーさんあひるとあんちゃんあひる)も、揺れを感じるでもなくテレビも見なかったので、こんな地震が起きていたことは知らなかったという。ともあれ熊本城が崩れるくらいだから、よほどすさまじい地震だったに違いない。

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「最後の審判」の壁画の最上列、すなわちキリストの頭上にあたる部分には、キリストの受難にかかわりのあるものを持った天使たちが描かれている。それらは、福音書が伝えるキリスト最後の場面において、キリストが架けられた十字架、十字架に架けられるに先立って鞭打たれたときの鞭打ちの為の円柱、そしてゴルゴダの丘に向かう道で頭にかぶせられた冠である。

笠井潔はかなり徹底した戦後日本批判論者のようだ。彼が戦後日本を批判する口調は、批判の域を超えて罵倒に近い。こんな日本に、一人の日本人として生きているのが恥ずかしい、というか忌々しい、そんな鬱憤が彼の文章からは伝わってくる。そこは、近年新たな視点から戦後日本を批判している白井聡より、ずっとラディカルだと言えよう。

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今年のあひるの新年会の席上、幹事役の横ちゃんあひるに、今年の春の旅行の計画はどうなっているかね、と聞いたところが、帰ってくる返事が一向に要領を得なかったので、静ちゃんあひるに応援を頼んだのだったが、そこは静ちゃんあひるのこと、てきぱきと要領よくことを運び、北陸地方に一泊の温泉旅行を計画してくれた。かくして我々あひるの一族は、今年の春も楽しい旅を楽しめることとあいなった次第だった。参加したあひるは、絵かきあひること小生及び静ちゃんあひるのほか、オーさんあひる、少尉あひる、あんちゃんあひる、それに横ちゃんあひるを加えた六羽だった。常連の今ちゃんあひるは、仕事の都合がつかなかったとの理由で、参加しなかった。

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(平家物語絵巻から 敦盛最期)

忠度の最後と並んでひとしお哀れさを催させるのが敦盛の最後である。まだ数え年十七歳の敦盛が、海上を馬に乗って味方の船に向かう途中に、熊谷直実に呼びかけられて岸へと引き返し、直実によって首を掻き切られる。切ったほうの直実は、深い無常観に打たれて出家し、敦盛の菩提を弔うことに自分の半生を捧げたという話だが、これが日本人の心の琴線に触れたと見え、平家物語の中でも最も愛されるところとなった。能(敦盛、生田敦盛)や幸若舞(敦盛)に取り上げられたほか、浄瑠璃や歌舞伎(一谷嫩軍記)にもなった

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映画を発明して始めて公開したのはリュミエール兄弟ということになっているが、映画を映像芸術かつ大衆娯楽として確立したのはジョルジュ・メリエスといえよう。仮にメリエスが現れず、リュミエール兄弟の段階で映画製作がとどまってしまったとしたら、映画が今日のように世界的な規模で発展することはなかっただろう。なぜかといえば、リュミエール兄弟の作った映画は、動く写真とでもいうべきもので、現実の世界の写像に留まっていたからだ。そうしたものに人間は、いつまでも高い関心を持続的に抱き続けるわけにはいかない。人間の高い関心を持続的にひきつける為には、ファンタジーの要素がなければならない。映画にそのファンタジーの要素を持ち込んだのがジョルジュ・メリエスなのだ。

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日本最大規模の禅寺である妙心寺は、康永元年(1342)に創建され、四十六もの塔頭からなる。広大な寺域は、石畳で結ばれた寺町を形作っている。その中には仕舞屋もあり、大徳寺以上に寺町らしい雰囲気を漂わせている。退蔵院は、塔頭のなかでも最も歴史が古く、応永十一年(1404)に建立された。

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自殺者の森を離れたダンテとヴィルジリオは、熱砂の砂漠に入ってゆく。そこは第二の輪と第三の輪の境にあって、広大な砂の台地に火の雨が降り注ぎ、大勢の亡霊たちが、火攻めにあって苦しんでいた。それらの亡霊たちは、神や自然を冒涜した咎でここに落されてきたのである。

朝日新聞が、今日(4月13日)付の社説で、右翼による言論封殺を批判していた。「放送法遵守を求める視聴者の会」を名乗る右翼団体が、TBSの報道姿勢を監視する動きを強める一方で、TBSへの広告の出稿を計画する企業に、自粛を求めて圧力をかけているのは、自由な言論活動を封殺しようとするもので、見過ごせないという趣旨の批判だ。

四方山話の会で、メンバーが交互に自分史を語るという取り決めになって、筆者がその先陣をおおせつかったことについては先述したとおりだが、二回目の話者は柳子が勤めることになった。前回同様一同新橋の古今亭に集合して、彼の話を聞いた次第だ。いつもはかならず遅れてくるという柳子が、今宵は珍しく時間通りに来た。

一の谷の戦いでは、平家一門の多くが死んだり生け捕りにされたりした。その中で、死に様がとりわけ人々の涙を誘ったものとして、平家物語はいくつかの挿話を挟んでいる。「忠度最期」もその一つである。

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死や信仰などをめぐる人間の精神的な危機を描き続けてきたベルイマンが、この「叫びとささやき(Viskningar och rop)」では、生きることの罪深さとでもいうべきものを描いている。「生きることの罪深さ」というと、我々日本人には理解しがたいところがある。我々日本人にとって、この世で生きているということは、縁があって生きているということであり、したがった有難いこととして受け取られる。決して罪深いなどとは思われない。しかし、キリスト教文化にあっては、人間は原罪を背負ってこの世に生まれてきたものと信じられている。人間がこの世で生きることはだから、生まれながらにして罪深いことなのだ。

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龍安寺は、宝徳二年(1450)、細川勝元が妙心寺の義天玄承を開山として創設した禅寺である。この寺は石庭で有名だが、これが有名になったのは戦後のことである。そんなこともあって、この石庭の造営時期や設計者については、研究が浅く、いまでも定説というものがない。

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ダンテらがヴィーニャの告白を聞いているそこへ、けたたましい声と共に、二人の亡霊が犬に追われて近づいてきた。そのうちの一人はすばやく茨と合体したが、もう一人は犬に身を引き裂かれ、バラバラにされてしまった。

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閉経とそれに続く更年期を持つのは人間とシャチのメスだけだそうだ。というより、人間のメスの他に更年期を持つ動物がいることが、近年初めて明らかになった、ということらしい。人間以外のその動物と言うのがシャチだというわけだ。

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キリストの左手、画面向かって右側にも、聖人たちの群像が描かれている。ところがこの部分については、マタイ伝には次のように記述されている。

レーニンの思想の三つの源泉のうちグノーシス主義は、革命的実践と大きなかかわりがある、と中沢は捉える。レーニンは革命の実践主体としての革命党を非常に重視したが、その党のあり方をグノーシス主義の現われとして捉えた、というふうに考えたわけである。ではグノーシス主義とは何か、それを見ておこう。

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(平家物語絵巻から 坂落)

一旦都落ちした平家は、九州で体勢を立て直し、讃岐の八島に進出して挽回を期していたが、その後、旧都福原付近の一の谷に城砦を築いて、源氏との戦いに挑んだ。その戦いの先頭に立ったのは能登の守教経で、六度にわたって源氏の軍を打ち破った。

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イングマル・ベルイマンの映画「恥(Skammen)」は、内戦に翻弄される人々を描いた作品である。この映画が作られたのは1966年であるから、当時の観客は同時期に進行中であったベトナム戦争を想起したようだが、今日これを見ると、シリアの内戦が思い起こされる。政権側と半政権側が激しく対立し、市民はその対立に翻弄される。政権側の言うことをきくと反政権側から殺され、反政権側の言うことをきくと政権側から殺される。挙句は生活基盤を悉く破壊され、安全を求めて外国に逃れる。しかしその道も容易ではない。ボートで漂流する難民たちを待っているのは過酷な運命だ。全くこれと同じようなことが、この映画の中でも描かれている。

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銀閣寺は、足利八大将軍義政が、将軍職を子の義尚に譲った後、文明十四年(1482)から延徳二年(1490)の死に至るまで、八年間の歳月をかけて、隠居所として造営した東山殿を起源としている。東山殿が慈照寺として相国寺の末寺に加えられたのは、義政の死後のことである。

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前回の自殺者の森の場面に続き、ダンテの本文は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世に仕えたピエル・デッラ・ヴィーニャの告白の場面に移る。

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キリストと同じ第二列に配されているのは聖人たちである。これは向かって左の列にいる聖人たち。キリストから見て右側の人々である。この人々についてマタイ伝は、次のように記述している。

成島柳北は、明治二年十月中旬から十一月下旬にかけて四十日ほど関西方面に遊んだ。徳川幕府の要職にあって、明治維新の激動を潜り抜けてきた柳北は、徳川慶喜が維新勢力に降参して恭順の意思を示すや、自分の政治的な生命の終わったことを痛感して、一切の公職を辞し、謹慎に近い状態にあった。自分自身を無用の人と称して、世の中に対して斜に構えて暮らしていた。墨堤に構えていた別荘を妻永井氏の姻族戸川成斎にゆずり、浅草の森田町に仮寓して、気楽な生活を装い、世の中の動きを注視していた。そんな折に戸川成斎から、関西に遊ぼうと誘われたのである。成斎は、備中妹尾の実家に用があって赴くので、柳北にも誘いをかけたのであった。かねて関西方面に遊んでみたいと思っていた柳北は、この誘いを渡しに舟とばかり、一緒に行くことにした。「航薇日記」一巻は、その折の日々の記録である。

米国のカリフォルニア州で、医師による自殺ほう助を合法化する条例が成立した。今年の6月9日から施行される。

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フランスが、セックスの対価として金を払うこと、つまり金で女を買うこと(買春とも言う)を非合法化したそうだ。違反者には罰金が科されるほか、買春についての再教育プログラムの受講が義務付けられる。罰金は、一回目の摘発で1500ユーロ、二回目の摘発で3750ユーロ。違反の履歴は前科として記録される。

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金閣寺は、足利三代将軍義光が、応永五年(1398)に造営した北山殿の一部である。京都の北山に設けられた北山殿は、護摩堂、懺法堂、紫宸殿、公卿間、舎利殿、天鏡閣、泉殿、看雪亭などの立ち並んだ広大な邸宅であったが、そのうち舎利殿が現在に伝わる金閣寺である。そのほかの建物は、義光の死後、その子義持によってことごとく破壊されてしまった。その理由ははっきりしないが、父親への嫉妬だとする説もある。

ミシェル・フーコーと本居宣長を比較して論じるのは乱暴な企てかもしれない。一方は現代のヨーロッパ思想を代表する哲学者だし、もう一方は徳川時代の日本に生きたかなり意固地なところのある国学者である。お互いの存在を知る由もなかった。宣長にとってフーコーはまだ生まれていない西洋の人間であり、フーコーにとって宣長は、歴史的には先行者だが、存在しなかったも同然の人間だ。だがこの二人には、非常にわずかだが、共通点がないわけではない。その共通点を手がかりに、細い糸を手繰りながら、比較することができないわけではない。

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(平家物語絵巻から 木曾最期)

宇治川の戦いの後、義経の軍勢は京へ入る。それを義仲が賀茂の河原に迎え撃とうとしたが、勢いのある義経の軍に義仲の軍はまたもや敗走、義仲はついに主従七騎となって戦場を離脱、とりあえず瀬田のほうへと落ち延びて行く。その七騎の中には、女ながらいくさ上手と言われた巴御前も含まれていた。

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イングマル・ベルイマンは「第七の封印」以後宗教的なテーマを描いた作品を作り続けてきたが、「仮面 / ペルソナ」は一転して、宗教とはかならずしも結びつかない、人間同士の葛藤を描いた作品だ。その人間同士の葛藤は、心と心が直接ぶつかり合うのではなく、仮面を通じて展開する。外面と内面が一致しない二人の人間同士が、外面のぶつかりあいを通じて内面のぶつかり合いに至った挙句、外面と内面とがねじれあうように融合してしまう。外面はそのままで内面を交換する、あるいは内面はそのままで外面を交換する。なんとも不可解な事態に陥った二人の人間(女性)の、不思議な関係を描いた映画なのである。

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南禅院は、鎌倉時代の末に亀山上皇が離宮としたところで、南禅寺発祥の地といわれる。応仁の乱以降荒廃していたが、元禄十六年(1703)桂昌院(徳川綱吉の母)によって再建された。庭園は、創建直後の面影を伝えるとされ、亀山上皇の作庭によるとも、夢想国師の作庭によるとも言われる。

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ネッソに導かれて川を渡るうちに、ダンテたちは道のない森に入る。この森は、自殺した者たちが木に変身して立ち並んでいるところだった。その木の一つについて、ヴィルジリオにいわれるままダンテが小枝を折ると、木からは苦痛を訴える叫び声が聞こえてくる。

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システィナ礼拝堂の天井画を完成させた1512年には、ミケランジェロはまだ三十台の若さだった。その若さにして、彼はフィレンツェのダヴィデ像や、サン・ピエトロ寺院のピエタ像をも完成させており、当時のヨーロッパにおける最高の芸術家としての名声を確立したのであった。そんな彼に、天井画に続きシスティナ礼拝堂を飾る作品の注文が来たのは、1534年頃のことであった。そして製作に取り掛かったのが1536年。ミケランジェロは60歳になっていた。完成させたのは四年後の秋、天井画のお披露目記念日と同じ日のことである。このあらたな作品のテーマは「最後の審判」である。

中沢新一は、レーニンの思想の三つの源泉のひとつとして「東方的三位一体論」をあげた。これは古代の原始キリスト教の中で芽生えていた思想なのだが、その後キリスト教がカトリックとして体系化されるのに伴い大きく変容したのだった。それをドイツ哲学の父ともいえるヤーコブ・ベーメが再発見し、その後ヘーゲルがそれを哲学的に深化させ(弁証法というかたちで)、それを更にマルクスが唯物論的に逆立ちさせ(弁証法的唯物論として)、その逆立ちした弁証法をレーニンが受け継いで、あの独特の唯物論的世界観を作り上げた、というのが中沢の主張である。

義仲の所業に怒った頼朝は、ついに義仲討伐のために、頼家、義経を大将とする数万の大軍を京に送った。あたかも平家追討のために西国へ出発しようとしていた義仲は、宇治川の瀬田の橋で迎撃する体制を整えた。橋の桁板をはずし、川底に杭を打って、容易に河をわたることが出来ないようにした上で、前進する敵を弓矢で迎え撃とうとする作戦である。

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イングマル・ベルイマンは、「処女の泉」で神の沈黙をテーマに取り上げたあと、立て続けに宗教色の強い映画を作った。「鏡のなかにある如く」、「冬の光」、「沈黙」からなる「神の沈黙」シリーズといわれる作品群である。このうち「冬の光(Nattvardsgästerna)」は、聖職者の信仰の揺らぎをテーマにした、非常に重い感じの作品である。

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天龍寺は天平年間に行基によって創建された古い寺院であったが、その後荒廃していたところを、暦応二年(1339)夢窓国師によって再建された。その際に曹源池を中心にした池泉回遊式庭園も造営された。この同じ年に、夢窓国師は西芳寺の庭園も造営しており、この二つの庭園は双子の庭園とも呼ばれ、日本の庭園造営の歴史に大きな影響を及ぼした。

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ダンテたちはやがて、煮えたぎる血の川フレジェトンタに出る。そこには隣人に向って暴力を振るった者たちが浮かんでおり、それらを三体のケンタウロスが、目を光らして監視している。ケンタウロスたちは、ダンテを見て、ここは生きている者の来るところではないといぶかるが、ヴィルジリオが首領格のキロンを説得して、先へ進めるようにし、ケンタウロスのうちの一体ネッソがかれらを案内することとなる。ネッソは、この川に浮かんでいるさまざまな暴君たちを指さしては、彼らの行った悪行を説明する。

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皇居内の桜の名所として知られる乾通りが一般開放されるというので、単身出かけてみた。10時半ごろ東京駅に降り、皇居を目指したが、堀の手間から行列が出来ていて、それがぐるりと大きな弧を描いて迂回しているので、目的の場所までなかなか近づけない。それでも東京駅を降りてから、入口の坂下門を潜るまでにかかった時間が丁度一時間であったから、そんなにメチャクチャな混雑振りとはいえない。普通に歩いても20分ほどはかかる道のりだ。途中門の手前で二重のセキュリティチェックがあったことを考えると、かなり順調に人を捌いたといってよい。

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システィナ礼拝堂の天井画は、天井中心部を飾る創世記の逸話を描いた部分、それを囲む預言者たちの像の部分に接して、更にその外周部に三角形で囲まれた部分がある。その三角形の部分のうち、天井の四隅にあたるところ(ペンデンティヴと呼ばれる)に、ミケランジェロは、旧約聖書の中の、ユダヤ人の救済についてのエピソードを描いた。「ユディットとホロフェルネス」はその一つである。

戦後二五年経ってからフィリピンを訪問した大岡には、自分たち日本人に対するフィリピン人の怨恨はいまだに強いだろうと予感された。一般の日本人も、フィリピン人とは酒を飲んではいけないと、現地の大使館筋から注意されていたらしい。フィリピン人は、戦争の賠償問題が片付いて以来、表面では日本人に好意的な態度をとっていたが、「しかし酒を飲んで、長時間日本人と対面していると、怨恨の中核があばれ出す。不意に表情が変り、とめどなく怨みの言葉が吐き出される。伝聞が自分の経験として語られ、実際自分が被害者であったような気持になって来る。その結果としてとかく刃傷沙汰が起る」

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