2017年4月アーカイブ

源平争乱:西行を読む

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西行が高野山を下りて伊勢へ移った治承四年(1180)は、全国的な動乱の始まりを予感させた。六月には以仁王が兵士打倒に立ち上がって宇治平等院で敗死、八月には頼朝が伊豆で挙兵、九月には義仲が木曽で挙兵、十一月には宇治川で平氏が敗退といった具合で、戦乱が一挙に広がる一方、つむじ風や飢饉が人々を襲った。世の中がひっくり返りそうな予感が、西行を含め人々の心をとらえたのである。そんな予感に駆られるように、西行は高野山を去った。奈良では東大寺を初め大寺院が平氏によって焼かれる事態も起っており、高野山も決して無事にはすまないかも知れぬ、そうした不安が西行を駆り立てた、ということもあるだろう。

サニーサイド(Sunnyside):チャップリン

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「サニーサイド(Sunnyside)」は、「担え銃」から一転して田園地帯の長閑な生活を描いたものである。題名にある「サニーサイド」とは、日の当たる場所という意味だが、この映画の中では舞台となるホテルがある村の名称とされている。そのホテルで住み込みで働いている給仕のチャップリンの、ずっこけた働き振りと甘い恋がテーマである。大した筋書きはない。折角見つけた恋人を、一度は優男に取られてしまうが、それは転寝で見た夢の中の出来事で、現実のチャップリンは抜け目なく彼女と結婚できたという話である。

白隠の禅画

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白隠は徳川時代の中期に生きた禅僧である。貞享二年(1685)現在の静岡県沼津市に生まれ、明和五年(1768)に八十四歳で死んだ。若い頃から信仰心が厚く、三十二歳頃に沼津の禅寺松陰寺の住職となり、生涯その職にとどまった。しかし、その法名は日本中にとどろき、臨済宗中興の祖と称された。現在の日本の臨済宗はすべて、白隠の法統を受け継ぐとされる。

「騎士団長殺し」は、主人公の私が妻に去られることから始まる。その点では、妻が突然消えてしまったところから始まる「ねじまき鳥クロニクル」と似ている。違うのは、「ねじまき鳥」の主人公が最後まで妻を取り戻すことができなかったらしいのに対して、この小説の中の私は、妻との関係を回復し、新たな生活を始めることができたということだ。この小説の中の主要な出来事は、妻に去られてから再び彼女を取り戻すまでの、わずか数ヶ月の間に、私の身に起きたことなのである。

久しぶりに峨眉山で会う

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四方山話の四月の例会は約一年ぶりに曙橋の峨眉山でやった。前回は九州から出てきた秋子を歓迎する意味もあって、十名以上が出席したが、今宵集まったのは七人。小生のほか、福、六谷、岩、小、石、浦の諸子だ。まず、先月の歌声喫茶の模様を写した記念写真を小子が皆に見せた。するとこの場にいなかったほかの連中も興味を示し、そのうちまた行って見ようやという話になった。あのときに、鷲子から会場に電話があって、新子の病気のことを話していたが、そのあと新子に見舞いの電話を入れたら喜んでいたよ、と小子が皆に報告した。

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「マンゴーの花を持つ二人のタヒチ女」と呼ばれるこの絵は、ゴーギャンの肖像画の中では非常にユニークなものだ。ゴーギャンが人間を描くときには、何らかの意味をそこに込めようとして、わざとらしいポーズをとらせることが多かったのだが、この絵にはそうした意図は全く感じられず、女たちは自然な様子で立っている。彼女らは観客の視線を気にすることなく、自分自身、あるいはとなりの人にだけ関心を払っている。

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「担え銃(Shoulder Arms)」は、第一次世界大戦についてのチャップリンなりの反応である。チャップリンは、基本的には反戦主義者だったので、第一次世界大戦は愚かな戦争だと思っていた。だがアメリカの世論は、英仏連合に味方してドイツ・オーストリアの枢軸国と戦うべきだと盛り上がり、ついにはアメリカも参戦する事態になった。そんな世の中の動向に、疑問をぶつけ、戦争の愚かさを改めて訴えたのがこの映画だといえる。もっとも正面から反戦を唱えることは、当時のアメリカの世論からすれば非常に危険な行為だったわけで、チャップリンは、戦争への抗議を笑いのオブラートに包んで披露して見せた。

和辻哲郎の風土論

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和辻哲郎にとって風土論は、彼の人間論と密接な関係にある、というより人間論の不可分の要素となっている。和辻にとって人間とは、個であると共に全体でもあるが、その全体とは人間の共同態としての社会的な性格のものであり、そこには人間の間柄が働いている。風土というのは、この間柄のあり方を根本的に規定しているのである。したがって風土とは、言葉の表面的な意味から連想されるような単なる自然のあり方ではなく、人間の生き方そのもの、「人間が己を見出す仕方」としてとしてとらえられている。人間は風土を離れて存在し得ない、風土が人間を作る。そのように和辻は考えているわけである。

伊勢への移住:西行を読む

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治承四年(1180)、晩年の西行は高野山を引き払って伊勢へ移住した。動機はくわしくわかっていないが、恐らく源平争乱が本格化したことが背景にあると思われる。その年の夏には頼朝が挙兵し、戦雲が都にせまる気配を見せ始めていた。清盛と親しかったらしい西行は、別に平家に肩入れするでもなく、騒乱に巻き込まれることを恐れたのではないか。

犬の生活(A Dog's Life):チャップリン

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チャップリンの1918年の映画「犬の生活(A Dog's Life)」は、ルンペンプロレタリアートの惨めだが自由気ままな暮らしぶりを描いたものである。一人の宿無しが、野良犬のような暮らしをしているうち、一匹の野良犬と仲がよくなり、その犬とともに人生を切り開いてゆくという話である。短編映画にしては、四十分という長さであり、一応物語としてのまとまりは持っている。チャップリンにとっては、従来のスティックスラップ・コメディから本格的な劇映画への足がかりとなった作品だ。

山水図:雪舟の絶筆

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これは雪舟の絶筆となった山水図である。上部に、牧松周省と了庵桂悟による賛が添えられている。まず、牧松が賛を寄せ、彼の死後に了庵が賛を加えたことが、文面から読み取れる。

白い馬:ゴーギャン、タヒチの夢

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1897年の自殺未遂からゴーギャンは比較的早く回復したが、経済的な困窮が深まり、日々の糧を得る為に、現地の役所に雇われてつまらない仕事をするハメになった。だがそのうち、パリから「我々は何処から来たのか」が売れたという知らせと、いくばくかの金が届いた。そのことで気をよくしたゴーギャンは、再び制作の意欲が湧き上がるのを覚えた。「白い馬」と呼ばれるこの絵は、そんな折のゴーギャンの傑作である。

岡義武「山県有朋」

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明治の元勲のなかで山県有朋ほど人気のない者はいない。それゆえ彼の生き方や業績を肯定的に評価する研究もあまりない。そんななかで岡義武が1958年に著した「山県有朋」(岩波新書)は、山県という政治家をなるべく曇りのない眼で見つめ、その評価すべきところはきちんと評価しようという意思に貫かれている。山県有朋研究にとっては、古典的な意義をもつ本だ。

善通寺:西行を読む

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讃岐の白峰で崇徳院の墓に詣でた西行は、その脚で善通寺に赴いた。弘法大師が生まれたところである。高野山で真言仏教の修行をしている身の西行としては、是非とも行かねばならぬところだったと思える。西行は単にこれへ参詣したばかりでなく、その裏手の曼荼羅寺の行道所のあたりに庵を結び、そこで一冬を過ごしている。西行としては、修行としての意味とともに崇徳院の怨念を祈り鎮める意味もあったと思われる。

チャップリンの冒険(The Adventure)

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「チャップリンの冒険(The Adventure)」は、アメリカの警察をあざ笑った映画である。アメリカの警察は、移民社会の自警団のようなものから出発しており、国家権力の象徴という意味合いよりは、白人社会の自己防衛装置としての色彩が強かった。自己防衛ということは、よそ者に対して攻撃的であることを身上とする。攻撃されるほうは、たまったものではなく、警察に対して強い不信感を持たざるを得ない。この映画は、攻撃される立場の目から見た、アメリカ警察への不信感とか不快感をもとに、アメリカ警察をあざ笑ったものと言える。権力に対して常に距離感をとっていたチャップリンらしい作品だ。

天橋立図:雪舟

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「天橋立図」は、雪舟八十二歳以降の最晩年の作品と考えられる。技法的にも、品格の上でも、雪舟の画業の集大成といえるもので、彼の最高傑作の一つに数えてよい。

村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」は二部からなっていて、第一部を「顕れるイデア編」、第二部を「遷ろうメタファー編」と題する。イデアとはプラトン以来の西洋哲学にとっての主要概念である。日本語では理念と訳されることが多い。またメタファーのほうは、西洋で発達した修辞学における主要概念である。こちらは比喩と訳されることが多い。修辞学上の概念ではあるが、哲学上の議論にもよく援用される。

金正恩の挑発的な態度に頭に来たトランプが、もし金正恩が核実験をしたら許さない、その場合にはアメリカは北朝鮮に対して先制攻撃も辞さない、と言って、空母カールビンソンを旗艦とする海上攻撃部隊を北朝鮮に向かわせた、と発言したことで、世界中が大騒ぎになった。ところが、カールビンソンは北朝鮮に向かっていたのではなく、シンガポールを出航した後インド洋に向かい、そこでのんびり油を売っていることがわかった。それでまた世界中が大騒ぎになっている。いったい、どうなってるんだ、と。

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「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)」は、ゴーギャン畢生の大作であり、彼の代表作でもある。なにしろゴーギャンは、自殺する決意を固めた上で、この世を去るにあたっての遺言のつもりでこの大作を描いた。気迫がこもっているし、彼の人生や世界についての考えが集約的に表現されたものであるから、見る人を圧倒する迫力がある。

チャップリンの移民(The Immigrant)

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1917年の短編映画チャップリンの移民(The Immigrant)」は、ヨーロッパからアメリカへ来た移民をテーマにしたものだ。この時代のアメリカは、労働者不足を補うために大量の移民を受け入れていたし、ヨーロッパには仕事にあぶれた人々にこと欠かなかったので、需給がマッチして、大量の移民がヨーロッパからアメリカへと流れた。アメリカを目指した人々は、そこに希望の大地を夢想したわけだが、多くの場合それは幻想に過ぎなかった。アメリカに渡った人々には苦い現実が待っていた、というのがこの映画の描くところである。とはいっても、苦い現実を告発調で描くわけではない。一部の諦めと一部のペーソスをまじえて、いわばほろ苦く描くのである。

和辻哲郎の存在論

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和辻哲郎が存在論を持ち出してくるのは、人間存在を基礎付けるための方便としてである。その点では、人間存在としての現存在を存在の典型として、そこからすべての存在を基礎付けようとするハイデガーと似ているところがある。存在概念を腑分けするにあたって、ことば遊びを駆使するところもハイデガーと似ている。もっとも似ているのは外面だけで、論理展開の内実はかなり異なっている。そこには和辻の和辻らしさがうかがえるのである。

四国への旅:西行を読む

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仁安二年(1167)の冬、西行は中国路をへて四国に渡る旅をした。主な目的は、その四年前に崩じた崇徳上皇の墓に詣でることと、弘法大師ゆかりの善通寺に参ることだった。旅立つにあたって西行は賀茂神社に参り、その折に詠んだ歌を「山家集」に載せている。
「そのかみまゐりつかうまつりける習ひに、世を遁れてのちも賀茂にまゐりけり、年高くなりて四国の方へ修行しけるに、また帰りまゐらぬこともやとて、仁安二年十月十日の夜まゐり、幣まゐらせけり、内へも入らぬことなれば、棚尾の社に取り次ぎまゐらせ給へとて心ざしけるに、木の間の月ほのぼのに、常よりも神さび、あはれに覚えてよみける
  かしこまるしでの涙のかかるかな又いつかはと思ふあはれに(山1095)

チャップリンの勇敢(Easy Street)

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「チャップリンの勇敢(Easy Street)」は、いわゆるチャップリン風の映画の確立を物語る記念碑的な作品だ。1914年以来、他愛ないドタバタ喜劇を六十本以上作ってきたチャップリンが、1917年のこの映画で、しっかりしたストーリーを持ち、しかもパンチの効いた社会風刺を盛り込んだ本格的な喜劇映画を作った。以後チャップリンは、この映画で示した傾向を深める形で映画作りを進めてゆくのである。

桜の花が散るのを見届けて鴨は去った

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先日、筆者の家の近所にある長津川調整池公園に桜が咲いた光景を紹介したが、その桜が昨日来の嵐ですっかり散り果てた。それと共に、昨日まで見られた鴨が一羽残らず見えなくなった。おそらく北の方へ去って行ったのだと思う。桜の花が散るのを見届けて。

杜子美図:雪舟

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「杜子美図」は、驢馬に乗った杜甫を描いたもの。ごく単純な線と、やわらかい墨の筆致で、飄々たる杜甫のイメージを表現している。

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1897年の4月、タヒチのゴーギャンに悲痛な知らせが届いた。愛娘アリーヌの死を知らせるものだった。愛するものを失い、芸術家としての名声にも見放されたと感じたゴーギャンは、もはや生きる意味を見失い、自殺しようと考えた。しかしその前に、自分がこの世に生きていたあかしとなるような、しかも自分に納得できるような絵を、いわば遺書のようなものとして残したいと思い、自殺をしばらく延期して、最後の気力を絞るように製作にとりかかった。それらの作品は、タヒチの田園とそこに生きる人々をテーマにしたものだった。

橋川文三の超国家主義論

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橋川文三の日本ファシズム論は、丸山真男同様それを超国家主義の現われと見る。それ故日本ファシズム=超国家主義と位置づける立場といってよい。丸山の場合、その超国家主義を天皇制国家原理そのものの特質とすることで、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負う」ということになってしまい、それがなぜ昭和のある特定の時代にファシズムという形をとったかについて、十分な説明になっていない、と橋川は批判する。丸山のいう超国家主義とは、せいぜい「玄洋社時代にさかのぼる日本右翼の標識であり、とくに日本の超国家主義をその時代との関連において特徴付けるものではない」というわけである。

保元の乱:西行を読む

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保元の乱は西行にとって生涯最大の政治的事件だった。これは鳥羽法皇の死をきっかけに崇徳上皇が起こした反乱だったが、すぐに制圧されて、崇徳上皇は配流、藤原頼長以下崇徳上皇に味方したものは、死んだり配流されたりした。この乱は、武士が歴史の表舞台に進出するきっかけとなったもので、武士出身の西行には思い複雑なものがあったはずだが、表向きには一切自分の考えを表明していない。出家の身として政治とは一線を画していたのか、あるいは軽率な言動で自分の身に禍を招くのを恐れたか。

淑女は何を忘れたか:小津安二郎

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小津は、1932年のサイレント映画「生まれては見たけれど」で、子供の目から見た大人社会の滑稽さを描いたが、それから五年後に作った「淑女は何を忘れたか」では、同時代の日本の夫婦関係の滑稽さを若い女の視点から茶化して見せた。「生まれては」では、しがないサラリーマン一家が舞台となっていたが、こちらでは麹町の住宅地に住むプチブル一家が舞台だ。その一家の亭主は大学の教授なのだが、どういうわけか細君に頭が上がらない。もしかして養子なのかもしれないが、映画はその点を明らかにしない。あくまでも、気の強い細君と、彼女に頭の上がらない気の弱い亭主の組み合わせとして描いている。

フランスにおける不都合な真実

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どの国にも一つや二つ不都合な真実というべきものがある。フランスの場合、その最たるものは"Vel d'Hiv"だろう。これは第二次大戦中にフランスで起きたユダヤ人狩りの中でもっとも大規模なものだ。1942年の7月に、パリにある屋内競技場に13000人のユダヤ人が集められ、ナチスの強制収容所に送られた。そのほとんどは殺された。その内訳は、女性が約5900人、子どもが約4100人、男性が約3100人だった。

恵可断臂図:雪舟

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「恵可断臂図」は、禅僧であった雪舟の所謂禅画の代表的なものである。禅宗の開祖たる達磨と、その後継者恵可の劇的な出会いを描いている。達磨は、少林寺で面壁七年の修行を行っていたが、そこへ恵可が訪れて入門を乞うた。達磨がなかなか入門を許さなかったので、恵可はその決意を示す為に、雪の中に立ちながら、自分の左腕を切り落として見せた。それを見た達磨が、恵可の決意を評価して入門を許した、という逸話にもとづいている。

「騎士団長殺し」は、語り部の私が夜毎に鈴の音を聞くことから物語が発展してゆく。その鈴の音は、私が住んでいる小田原郊外の家の裏手の藪の中から聞こえてきた。私がその音の聞こえてくるところを確かめようとして家の裏手を探したところ、祠の裏側の藪のなかに井戸を一回り大きくしたような穴があった。鈴の音はどうやらその穴の中から聞こえてくるようだった。しかし、鈴がひとりでに鳴るということは考えられないから、その穴の中に鈴を鳴らしたものが存在するに違いない(人間ではないとしても)。しかし、これまで長い間誰も手を触れた形跡のない穴の中に、生きている人間がいる可能性は考えられない。そこでもしかしたら、即身仏とかその亡霊のようなものが鈴を鳴らしたのではないか、という仮説が持ち上がる。その仮説を持ち出したのは、一つ谷を隔てた山の上に住んでいる不思議な男免色だ。免色は私に上田秋成の作品「春雨物語」の中から「二世の縁」という話を取り上げて、その話に出てくる男が私と同じような体験をしたと語るのだ。

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「ネヴァーモア(Nevermore)」とは、エドガー・ポーの詩「大鴉」のなかで、なんども繰り返されるリフレインだ。この絵にゴーギャンが何故こんな題名をつけたのかよくわからない。モデルは、当時の愛人バフラだと思われるが、彼女はゴーギャンの子を失ったばかりだったので、そんなことはもう御免だ、という気持をこめたのだろうか。

東京の宿:小津安二郎

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小津安二郎は、社会的な視線を感じさせる映画はあまり作らなかったが、それでも戦前にはいくつかそういう作品がある。1935年に作った「東京の宿」はその代表的なものであろう。これは不況が吹き荒れていた当時の世相を踏まえて、宿無しになった父子を描いたものだ。宿無しは子連れの父親だけではない、子連れの女まで宿を失って途方に暮れている。そんな女に半分同情から、半分は恋心から、父親が金を作ってやろうと思い強盗を働くという、なんとも切ない話だ。小津のことだから、そうした切なさを露骨には表さずに、男の恋心に焦点を当てながら、ほんのりと描く。傑作とはいえないまでも、なかなか見ごたえのある映画だ。

「人間の学としての倫理学」と題したこの本を和辻は、「倫理とはなにか」という問いかけから始める。その問いに答えるに和辻は、ハイデガー流のことば遊びを以てする。ドイツでハイデガーに師事した和辻は、ハイデガーの存在論を自分の学問の基軸としたとはいえないまでも、ハイデガーのことば遊びは十分学んだようである。この書物はそうしたことば遊びの一つの優雅な成果といえなくもない。

トランプ政権による北朝鮮先制攻撃が俄に現実味を帯びてきたようだ。そのことは、もしアメリカが北朝鮮への先制攻撃に踏み切るつもりならば、事前に日本政府に通知して欲しいと日本側から要望したとの情報が漏れてくることから、事態の深刻性が察知できる。日本は、アメリカが北朝鮮を牽制する目的で派遣しているカールビンソンを旗艦とする攻撃部隊に、海上自衛隊を参加させるようだが、そのことからも、日本政府がトランプによる北朝鮮先制攻撃を、可能性の高いものとして認識していることを伺わせる。

熊野詣:西行を読む

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西行が熊野詣をしたことは、熊野で詠んだ歌が「山家集」に収められていることから確かなことだと思うが、詳細についてはわからない。瀬戸内寂聴尼は、「西行物語」に西行の熊野詣の記事があるといって、それを紹介しているが、筆者が参照している桑原博史訳注の「西行物語」(講談社学術文庫)には、それと思われるものが見当たらない。そこで異本を当たったところ、萬野美術間所蔵の「西行物語絵巻」に熊野詣の記事がある。寂聴尼は、絵巻の類を含めた異本に依拠して、西行の熊野詣について記述しているのであろう。

浮草物語:小津安二郎

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「浮草物語」は、小津の戦前のサイレント映画の傑作である。山田洋二が松竹 蒲田製作所へのオマージュとして作った「キネマの天地」では、蒲田の歴史を彩る名作として、映画のストーリーの中に組み込まれていた。そこでは日本の映画の青春期を代表するような扱いだったが、たしかにこの映画にはそんなところがある。

雪舟の破墨山水図(二)

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これは、雪舟の破墨山水図の中では、もっとも強い躍動感を感じさせるもの。破墨図にしては描きすぎだという指摘もあるが、構成はがっちりとしており、筆致もなめらかだ。

トランプがバノンを遠ざけ始めたワケ

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トランプが最側近のバノンを国家安全保障会議(NSC)の常任メンバーからはずしたことで、さまざまな憶測を呼んでいる。トランプの娘婿クシュナーとバノンの対立をトランプが喜ばなかったとか、NSCの議長マクマスターが異端のバノンの追い落としにかかったとか、いうものである。最大の理由はやはり、トランプがバノンに政治的な意味でのまずさを感じ始めたからではないか。

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タヒチに戻ってきたゴーギャンは、テウラから見放されてしまったので、別の愛人を作った。バフラという名の女性で、当時の年齢とか詳しいことはわからない。この女性が、島に戻った翌年の1896年に子を出産したのだが、その子はすぐに死んでしまった。ゴーギャンは、この女性をマリアに、死んだ子をキリストに見立てて、この絵を描いたと言われる。

色川大吉「自由民権」

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先日読んだ松沢裕作の「自由民権運動」と、この色川大吉の「自由民権」を読み比べると、その落差の大きさに気付かされる。松沢は、自由民権運動というのは、自由と民主主義を勝ち取る戦いだったという面が認められないわけではないが、それは運動の表面的な要素であって、その本質は維新で勝組になった勢力同士の権力闘争だったという見方をしている。板垣に象徴されるような、維新で功績をあげたにもかかわらず、権力にありつけなかった連中が、権力の分け前を求めて起こしたもの、それが自由民権運動だったとする、きわめてさめた見方をしているわけである。それに対して色川のほうは、自由民権運動は、民衆のなかから自然発生的に盛り上がってきたものであって、明治藩閥勢力の反動的で抑圧的な政策に対抗して、進歩的で民主主義的な政治を実現する為の、いわば革命的な戦いだったとするわけである。

大峰修行:西行を読む

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西行はたびたび吉野を訪ね、庵を結んで修行したこともある。その吉野の奥に大峰がある。古来修験道の聖地といわれたところだ。単に修験道の聖地というにとどまらず、さまざまな民衆信仰を集めていた。説教の題目に「小栗判官」があるが、墓からよみがえってゾンビの様相を呈した小栗判官が、足弱車に乗せられてはるばる藤沢から大峰にいたり、そこの湯につかってゾンビから普通の人体に戻ったとある。このゾンビはらい病を表象したものだ。大峰はらい病を癒す効験を持った尊いところだったわけである。

出来ごころ:小津安二郎

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「出来ごころ」はいやみのない人情コメディだ。小津と言えば、中流市民の悲哀を描いた戦後の一連の作品が有名だが、戦前には下層の庶民社会を舞台にした心温まる人情コメディを多く手がけた。「出来ごころ」は、そんな傾向の映画の中で出来のよい作品だと思う。

筒井康隆の慰安婦像への言及は妄言か?

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アイロニー作家の筒井康隆が、ツイッター上で慰安婦像問題に触れてつぶやいた発言が、大変な騒ぎを引き起こしているそうだ。その発言とは、「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」というものだ。これに対して、あらかたの韓国人が激しく反発したほか、日本人にも首をかしげるものが多いのだという。

雪舟の破墨山水図(一)

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破墨とは水墨画の技法で、墨を以て墨を破るといい、要するに淡彩の墨を重ねることで濃淡を演出する技法のことである。雪舟には、この技法による絵が何点か伝わっている。これはその一つ「破墨山水図」。画面上部の賛に、自分は破墨の技法を明で学んだことなどが記されている。その款記に「明応乙卯季春中澣日四明天童第一座老境七十六翁雪舟書」とあることから、明応四年(1495)、雪舟馬歯七十六の年の作品であることがわかる。

村上春樹の最新作「騎士団長殺し」は、発売早々大きな反響を呼んでいるようだが、そうした反響の中にはファナティックなものもある。そのファナティシズムが槍玉に挙げているのは南京事件をめぐる次のような一文だ。

トランプが、シリアのアサド政権の軍事拠点への爆撃に踏み切った。理由はアサド政権による市民への無差別な毒ガス攻撃が一線も二線も超えたということだ。一見理屈にかなった判断のように見えなくもないが、果して今回のトランプの措置は、熟慮の結果だったのか。どうもそう見えないところに、恐ろしさを覚える。

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「王族の女(Te arii vahine)」と題したこの絵のモデルが本物の王族の女なのかどうか、ゴーギャンははっきりとは言っていないようだ。「とても知的で、素朴な英知をもったタヒチのイブである」と手紙の中で書いているところから、そういう知性が王族の女といわれるに相応しいと考えたようだ。

非常線の女:小津安二郎

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小津の映画「非常線の女」は、1933年のサイレント映画で、小津にはめずらしくギャング(映画では「与太者」となっている)をテーマにしたものだ。小津がどんなつもりでこんな映画を作ったのか、よくはわからない。興業を当て込んだ映画会社の意向なのか、小津自身のアイデアなのか。内容は当時流行のアメリカのギャング映画を焼きなおしたようなもので、それに日本的な情緒をアレンジしてある。映画の出来栄えがよくないのは、小津がこの手合いの世界とあまり縁がないからだろう。

福島原発事故時の自主避難者について、彼らが故郷に帰らないのは自己判断・自己責任だ、と現職の復興相が言ったそうだ。これは、自主避難者に対する住宅支援の打ち切りについて、政府としては除染が住んだ地域には戻ってほしい、戻らないのは、その人の勝手であって、そこまで責任を負うつもりはないということを言いたかったらしいが、記者会見の席上、売り言葉に買い言葉のようなやり取りがあって、その挙句激昂して質問者を罵倒したことで、ちょっとした騒ぎになってしまったようだ。

船橋長津川公園の桜

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先日、筆者の住んでいる千葉県北西部では桜の開花が例年になく遅いと書いたが、ここ二・三日の暖かさで急速に開花が進み、場所によっては七分咲きの状態になってきた。そこで今日(四月六日)は、カメラを持って花見に出かけた次第だ。

ドルーズのサド・マゾ論

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サルトルは、サディズムとマゾヒズムを、基盤を同じくし、相互に反転可能な、密接な関係にあるものとしてとらえた。サディストの対象はマゾヒストでありえ、また、サディスト自身は容易にマゾヒストに反転可能だと考えたわけだ。それは彼の対他存在論から論理必然的に導き出される結論だった。対他存在としての私は、眼差しを向けられるものとして、相手の支配の対象となることを徹底することでマゾヒストとなるのであるし、逆に私が相手に眼差しを向け返し、相手を徹底的に支配することでサディストになる。というわけである。こうした考え方は、フロイトを初め精神分析学者たちも共有していたが、フロイトらがサディズムとマゾヒズムを精神病理の範疇として、つまり性的倒錯としてとらえていたのに対して、サルトルの場合には、倒錯ではなく人間関係の根本的なあり方を規定するものとしてとらえたわけである。

天野の尼たち:西行を読む

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高野山は女人禁制だった。それでも真言の教えにあずかりたいという女人はいるもので、そういう女人は高野山の麓の天野というところに庵を結んで修行していた。西行が出家のために捨てた妻子も天野で庵を結び、そこで往生した。

東京の女:小津安二郎

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小津の1933年のサイレント映画「東京の女」は、わずか50分足らずの小品である。こんなに短いのにはわけがある。映画会社のローテーションの都合で、やっつけ仕事をしたためだ。小津は脚本もろくに用意しないで、たったの九日間でこの映画を仕上げたという。それでこんなに短くなった。映画としての体裁が整えばよかろう、という配慮だけで成立した作品なのだ。小津は同時期に「非常線の女」を平行して製作していた。映画監督としての精力は、もっぱらそちらのほうに注いでいたらしいのである。

雪舟の猿猴図屏風

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雪舟の動物画としては、猿猴図屏風が伝わっている。これは、鷲鳥図屏風とともに六曲一双をなすもののうち左隻である。両隻とも「備陽雪舟七十二夏作之」という落款がある。その真偽については確たる結論は出ていない。

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「無為(Eiaha Ohipa)」と題するこの絵は、小屋の中で寛ぐ二人のタヒチ人を描いている。二人とも床の上に座り、男のほうは脚を投げ出して楽な姿勢をとりながらタバコを吸い、女は男の背後にかしこまっている。男の方を明るく、女をやや暗く描くことで、男の方を強調する意図を示している。

松沢裕作「自由民権運動」

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「近代日本において『デモクラシー』の時代は、かならず戦争の後の時期にあらわれる」というテーゼが、この本の中で著者の松沢が、自由民権運動を日本史の中で位置づけるべき視点とするものだ。この視点によれば、「日露戦争で多くの国民が戦場で命を賭し、あるいは重税に耐えたことが、日露戦後、人々の政治参加への要求を引き起こした。それが『大正デモクラシー』の時代を出現させたのである。十五年戦争後のいわゆる『戦後デモクラシー』も同じ構図である。著者は、戊辰戦争も同様の効果をもったと考える。自由民権運動とは「戊辰戦後デモクラシー」なのである。

高野山に入る:西行を読む

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久安五年(1149)、西行は高野山に入った。数え年三十二のときである。この年から治承四年(1180)に熊野を経て伊勢に移るまでの約三十年間、西行は高野山を本拠にした。といっても、高野山から外へ出なかったわけではない。京都へは頻繁に行っていたようだし、吉野や大峰にも、修行をかねてたびたび出向いた。また、四国方面へも長い旅をしている。

東京の合唱:小津安二郎

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小津安二郎は、1920年代の末から30年代にかけて多くの作品を作り、すでに大家のイメージを確立していた。欧米では30年代に入るとすぐにトーキーが主流となるが、日本ではやや遅れ、小津の場合には1934年の「母を恋はずや」までサイレント映画を作っている。小津の映画の特徴は小市民の生活をコメディタッチで描くことにあったので、サイレントに適していた。そんなこともあって小津のサイレント映画は、いまでも十分鑑賞に耐えるものが多く、しかも溝口と違って多くの作品のフィルムが現存している。

安倍政権が、学校の道徳等の教材として、教育勅語を用いることを容認する(否定しない)方針を閣議決定したそうだ。安倍政権の復古主義的姿勢からして、彼等が教育勅語にノスタルジーを感じていることはこれまでも伝わってきたし、またその復権を目指しているらしいことも理解できないことではないが、何故いまのタイミングか、という疑問は残る。

花鳥図屏風二(左隻):雪舟

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左隻のほうは、背景に雪山を配しているが、風景としての趣は余り感じさせない。前景の事物に近接しすぎているせいだと考えられる。そのため装飾的なパターンと言ってよいほどである。

村上春樹「騎士団長殺し」を読む

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村上春樹には、ほぼ七年おきに大作を書く性向があると見えて、今回も「1Q84」から七年を経て長編小説「騎士団長殺し」を発表した。上下二巻であわせて千ページを超える大作だ。読んでのとりあえずの印象は、これまでの彼の仕事の集約のようなものだということだ。集約といって、集大成とか総仕上げとかいわないことには、それなりの理由がある。それについては追って言及したいと思う。

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