2017年8月アーカイブ

金正恩の北朝鮮が、日本の上空に弾道ミサイルを飛ばしたことで、安倍政権はさすがに黙ってはいられず、何らかの対応を迫られている。しかし、安倍政権の日本としては、今のところ、国連に働きかけて、北朝鮮への圧力を高めてくれるよう要請することくらいしかできない。その圧力も、北朝鮮との貿易を国際社会として自粛することを呼びかけるくらいであるから、日本として独自にできることには限りがある、というかほとんど何らの影響をも及ぼしえないというのが実情だ。

世界内存在は、現存在の根本的な存在構造として、極めて重要な位置づけがされている概念だが、その重要性にかかわらず、ハイデガーの取り扱い方はあっさりしている。「存在と時間」のなかでこの言葉が始めて出てくるのは、序説の第一章であるが、そこでは「現存在には、本質的に、世界のなかに在ること、が属しています」と言及されているだけで、「世界内存在」についての詳しい説明はない。「世界内存在」が主題的に論じられる第一篇第二章では、冒頭に近い部分で、「現存在のこのような存在諸規定は、わたしたちが世界・内・存在(世・に・あること)と呼んでいる存在構えを根底にして、アプリオリに見られかつ理解されねばならないのです」と言うのであるが、ここでも世界内存在という言葉で何を意味しているのか、わかりやすい説明はない。

春の七草が七草粥とあるとおり食べるものだとすれば、秋の七草は花を愛でるものであった。その秋の七草を詠った歌がある。万葉集巻八に収められた山上憶良の短歌と旋頭歌である。まず短歌。
  秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種の花(1537)
解説はいらないだろう。秋の野に咲いている花を数えたら七種類あったというのだが、無論それは言葉の綾で、秋に咲く花は他にも沢山あるはずだ。

鍵:市川崑

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谷崎潤一郎が小説「鍵」を書いたのは1956年のことだが、その三年後に市川崑がそれを映画化した。原作は心理的な描写が多いことから、映画化には一定のむつかしさがあったと思うが、市川は原作を換骨奪胎することで、映画として見られるものにした。その分、原作の雰囲気が損なわれることになったのは致し方のないことといえよう。

北朝鮮が飛ばしたミサイルが日本の北海道上空を飛翔して、襟裳岬沖約1200キロの海上に落下した。このミサイルは中距離弾道ミサイル火星12とみられる。本日(8月29日)午前5:58に、ピョンヤン近郊に位置していた車両から発射され、6:06に北海道上空を通過、6:12に襟裳岬東方の海上に落下した。


鎌倉時代の美術は、仏教彫刻を中心に展開した。それを主に担ったのは慶派と呼ばれる仏師集団である。慶派は、奈良仏師の流れで、藤原時代の末期に康慶が出て一派の基礎固めをし、その子運慶の代に盛隆を極めた。そして運慶の流れが鎌倉時代を通じて日本の仏教彫刻界を主導していった。

トランプが、アリゾナの元保安官で刑事訴追を受けていたアルパイオを恩赦したことについて、ポール・クルーグマン教授は、ニューヨークタイムズのコラムの中で、これはアメリカ流ファシズムの始まりだと批判している。アルパイオのやった行為が、メキシコからの移民を不当に拘束し、彼らをコンセントレーションキャンプ(アルパイオ自身の言葉)へぶち込み、そこで拷問まがいのことをやったことからすれば、その行為の残虐性はナチスの強制収容所と大差ないし、ファシズムと言ってもよい。それを大統領のトランプ自ら礼賛し、法の支配の原則を無視して、アルパイオに恩赦を与えたわけだから、クルーグマンの危惧も一理あると言えよう。

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19世紀末のヨーロッパでは、ファム・ファタールのイメージと関連して、水中を女性の胎内に見立てたイメージが流行ったそうだ。クリムトのこの絵もその一例だと見られている。水中に浮かんだ女性たちのイメージが、胎内に孕まれたファム・ファタールのイメージを表しているということだろうか。

「余は如何にして基督信徒となりし乎」は、内村鑑三が基督教の信仰を得たいきさつを書いたものである。彼が基督教の信徒になったのは札幌農学校在学中のことで、その時はまだ十代の若者ということもあって、完璧な信仰にはいたらなかったが、二十代前半でアメリカに留学し、そこで深く思索することを通じて本当の信仰を得た、その喜びを書いたものである。それ故この本は内村の信仰告白という面と、自分の青春時代を回顧した半生記という体裁を、併せ持っている。

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上の写真は、人形メーカーの久月がひな人形のモデルとして発表したものだ。ジャパンタイムズのウェブ版から引用した。右手が小池知事で、彼女と並んでいるのはなぜかトランプ米大統領だ。久月がどういうつもりでこんな人形を作ったのかわからぬが、第三者の目には、太平洋の両側にいるポピュリストが二人仲良く並んでいるように見える。小池知事としては、同じポピュリストならばフランスのマクロンと並べて欲しいと言うかもしれないが、これはこれでお似合いだ。

萩の花は、万葉人によって最も愛された花だ。万葉集の花の歌の中では、梅よりも多く、百四十首以上も詠まれている。古来日本人は、四季の中でも秋を最も愛したが、萩はその秋を象徴する花だ。漢字からして、秋を象徴している。万葉人にとって秋の草花と言えば萩をさしていた。だから、秋の花を集めた七草の筆頭にも置かれた。その萩を詠んだ歌は、巻八と巻十に集中している。

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市川崑は、文学作品の映画化でよい仕事をした。非常に多作な作家で、中には凡庸な娯楽作品も多いのだが、谷崎潤一郎の小説や、大岡昇平の「野火」などを、実に心憎く演出している。派手なところはないが、堅実な映画作りに定評があった。

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これは万葉歌人柿本人麻呂の文字絵。白隠はこの図柄のものを結構の数作っている。柿本人麻呂は単に「人丸」とも言ったが、「ひとまる」が「火とまる」を連想させるところから、火災よけの神として庶民に信仰された。白隠はそんな信仰心に応えて、人丸の文字絵を量産したのだろう。

カフカの小説の中に出てくる女性たちは、みな一風変わっている。小説の中に出てくる女性たちには、色々なパターンがありうるわけで、彼女らが多少常道から外れているからといって、別段不都合はないわけだが、カフカの小説の中に出てくる女性たちは、揃いも揃って常道からかなり外れた、ちょっといかれた人達なのだ。カフカの女性の中で、最もしとやかに感じられるのは、「変身」に出てくるグレゴール・ザムザの妹であるが、彼女さえ最後にはゴキブリになった兄の背中にリンゴを投げつけ、それが原因で兄を死なせてしまう。ところが、彼女はそのことに罪の意識を感じるどころか、自分たち一家の上に覆いかぶさっていた不吉な運命を、追い払うことができたことを、喜ぶ始末なのだ。

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ユーディットは、旧約聖書に出てくる女性で、ユダヤ人をアッシリアの攻撃から救った烈女である。いわば、ユダヤ人にとってのジャンヌ・ダルクというべきこの女性を、西洋の絵画は繰り返しテーマとして取り上げてきた。中でもクラナッハの描いたユーディットは、烈女のイメージにエロティックな要素を加味し、その後のユーディットのイメージに大きな影響を及ぼした。

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ジョン・フォードの「駅馬車」に代表されるように、アメリカの西部劇映画では、ネイティブなアメリカ人たちはインディアンという言葉でさげすまれ、白人たちを理由もなく迫害する悪人として描かれてきた。悪人たちであり、しかも白人たちにとっては目の前の脅威なのであるから、これらを駆除することは正義にかなっている。そんなわけでアメリカ西部劇は長い間、インディアン殺しを正当化する作品を作り続けてきた。ラルフ・ネルソンが1970年に公開した映画「ソルジャー・ブルー(Soldier Blue)」は、そんなアメリカ映画の常識に一石を投じ、この映画を境にして、インディアンを単純に悪人として決めつける態度が強く非難されるようになった。

一昨日(8月22日)アリゾナ州フェニックスで行われたトランプ派の集会で、トランプが今まで以上の情熱を込めて吠えまくった。その吠えぶりが、アメリカ大統領に期待される威厳をあまりにも逸脱しているばかりか、狂気じみてもいたので、共和党の議員たちの中にも、トランプをマッドマンと受け止める人が続出しているらしい。

「存在と時間」の本論第一部は、現存在の予備的分析から始まる。現存在の予備的分析を通じて、存在者の存在についての問いに、一定の見通しを得ることがその目的だ。現存在を分析することで、存在への問いへの見通しが得られるというのは、現存在が特別の存在者として、つまり人間として、世界についての一定の了解(存在了解)をもっているからであり、その存在了解から出発して、そこに現われる存在者の様相を掘り下げて分析すれば、存在者の存在が明瞭に浮かび上がってくるにちがいない、そうした見通しがあるからだ。その見通しは根拠のないものではない。何故なら、哲学というものは、人間の行う営みなのであり、その人間の営みというのは、人間にとって利用できる前提から出発するものだからだ。その前提とは、現存在つまり人間の持っている存在了解のことだ。デカルトのように、意識によって存在を根拠付けるのではなく、存在了解という事実から存在を導き出す、それがハイデガーの基本的な立場である。

日本の安倍政権が、教育勅語を学校教育に復活させることに前向きだが、いまのところあまり成果は上がっていないようだ。例のスキャンダルが逆風になって、教育勅語を使って遮二無二国民教導を推進しようとする姿勢が胡散臭い目で見られているからだろう。

四季の移り変わりに敏感な我々日本人にとって、もっとも気になる季節は、万葉の時代から秋だったようである。万葉集の歌というのは、何らかの形で季節を詠み込んだ歌が大部分を占めるのだが、一番多いのは秋を詠った歌なのである。その秋を、我々日本人は、まず風で感じた。今の時代でも、まだ暑い盛りの立秋の頃に、朝夕かそかに吹く風に秋の訪れを感じる人は多いと思う。その同じ感性は、すでに万葉時代の人にも共有されていた。というか、太古の日本人の感性を、現代に生きる我々も共有しているということだろう。

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クリント・イーストウッドが監督した映画「硫黄島からの手紙(Letters from Iwo Jima)」は、「父親たちの星条旗」と一対をなす作品である。どちらも第二次大戦における硫黄島での日米激戦をテーマにしたもので、後者はアメリカ側の視点から、前者は日本側の視点から描いている。面白いことに、登場人物もほとんど全部が日本人なら、彼らが話す言葉も日本語だ。アメリカ映画にかかわらず、内容的には日本映画のような体裁を呈している。実際イーストウッド自身も、これを日本映画だと、なかば冗談だろうが、言っているくらいである。

このところ安倍政権が、すっかり元気がないように見える。例のスキャンダルで支持率が激減したことにショックを受けたのかもしれないが、へこたれている場合ではないだろう。国際情勢は、北朝鮮の挑発などで緊迫しているし、いまこそアジアの大国としての日本の出番だというのに、すっかり影が薄くなっている。安倍政権は、北朝鮮の危機を解決するには、中国が北朝鮮への圧力を強化すべきだなどと、トランプと全く同じこと(他人事のようなこと)を言って、習近平の反発を食らっている。また、北朝鮮危機では最も緊密に連携しなければならない韓国との間でぎくしゃくした関係を続けている。その結果、北朝鮮に対して有効な対策が打てないでいる。要するに主体的な外交ができていないのだ。

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文字絵とは、文字で絵を表すもので、室町時代頃から作られていた。文字絵のテーマとしては、渡唐天神図と人麻呂図が好まれたようで、白隠もこの二つをテーマにいくつかの作品を描いている。この「渡唐天神図」はその代表的なもので、巨大な画面に勇壮な筆致で描かれた絵が、見る人に迫力を以て迫ってくる。

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久しぶりに晴れ間が出たので、デジカメを提げて長津川へ出かけてみた。先日、水路の下流で、例のカルガモの親子が九羽揃って泳いでいるところを見たので、今日もまだいるかもしれないと期待しながら出かけて見たのだった。ものの本などによると、カルガモのヒナは孵化して二か月後に独り立ちし、それを契機に母子関係を清算するとあったので、今年の五月初めに孵化したこのヒナたちも、それぞれ独り立ちして、めいめいどこかへ去ってしまったのだろうと思っていた矢先に、親子全員揃っているところを見たので、非常に懐かしい気がしたものだった。

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「ヌーダ・ヴェリタス(Nuda Veritas)」とは文字通りには「裸の真実」ということだが、それが「人間の裸体の真実」という意味なのか、あるいは「本然の真実」という意味なのか、それとも両方の意味を兼ねているものなのか、俄には判断できない。おそらく両方の意味を込めているのだろう。

内村鑑三が「代表的日本人」を書いたのは日清戦争の最中だった。彼はこの本を英語で書いた。ということは、当面の読者を日本人ではなく、外国人に想定していたわけである。何故そのような行為をしたのか。日清戦争は近代日本が起した最初の戦争ということもあって、国内には愛国的なムードが高まっていた。内村もそのムードに染まったらしい。彼は日本人が西洋人の考えているほど低級な国民ではなく、キリスト教を受け入れる基盤も有している。だからこそ今回の戦争にも道義がある。どうもそういうことを、対外的に主張したいというのが、内村の本意だったのではないか。

夏の草花の代表といえば、あやめぐさ(菖蒲)とその仲間である杜若だろう。万葉集では、菖蒲は十二首(うち長歌七首)、杜若は七首収められている。初夏の花ということで、やはり初夏の花である卯の花同様、ほととぎすと一緒に歌われることが多い。次の歌はその一つ。
  霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ(1955)
ほととぎすを厭うときなど無論ないが、特にあやめ草を鬘にする五月の節句には、是非ここに来て鳴き渡っておくれ、という趣旨。ほととぎすとあやめ草が端午の節句を通じて結びついているわけであろう。

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「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」は、硫黄島での日米両軍の死闘を、アメリカ側の視点から描いたものである。この戦いでは、戦闘が一段落した時点で、米兵が擂鉢山の頂上に星条旗を掲げ、その写真が公開されることで、アメリカ市民の戦意が昂揚したといったエピソードがあった。この映画はそのエピソードの当事者となった兵士たちをめぐって、物語を展開させている。戦争映画ではあるが、また戦意高揚のエピソードをテーマにしているが、戦争を礼賛する映画ではない。かえって、戦争が人間をいかに損なうか、について描いている。とはいっても、戦争を全否定するわけでもない。

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「びゃっこらさ」も「毛槍奴立小便図」同様、奴を風刺した絵と思われる。この絵の奴は、白狐の姿を借りており、その白狐の「びゃっこ」と奴の蔑称である「やっこらさ」を引っ掛けて「びゃっこらさ」としたわけであろう。

「審判」は、「変身」と似ているところがある。まず、雰囲気だ。この二つの小説は、いずれも不条理文学の代表作といわれるのだが、不条理というのは、この二つの作品の場合、重苦しい雰囲気となって現われる。この重苦しさには不気味さがともなっているのだが、この不気味さこそ、それまでの文学には見られなかったものだ。そういう点でこの二つの作品は、不気味さを基調低音とする、重苦しい不条理劇といった体裁を呈している。

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アテナはギリシャの都市アテネの守護神であるが、ギリシャ神話では戦いの女神とされている。鎧を着て、雄たけびの声を上げながらゼウスの頭から生まれたとされるこの女神が、どういういきさつで商業都市アテネの守護神になったか、そこには興味をそそる物語があったに違いない。

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1979年のマーティン・リットの映画「ノーマ・レイ(Norma Rae )」は、アメリカの労働組合運動を描いたものだ。アメリカの労働組合というのは、産業別に組織されていて、産業ごとの全国組織またはその下部組織が直接個々の企業の労働者を外部から組織するということになっている。日本なら、労働組合は企業ごとに組織されるから、企業の言うままになるという傾向が強い一方、企業があるところには放っておいても労働組合が出来やすいという事情がある。ところがアメリカでは、企業内部から労働組合を作ろうという動機は弱いらしく、産業別の全国組織が外部から組合の結成を働きかけなければならない。個々の産業別労働組合組織は、そうした働きかけ(オルグ)の要員をそれぞれ抱えている。この映画は、そうした要員の一人が、組合のない企業の労働者たちに働きかけて、組合を結成させようとする動きを描いたものだ。

ハイデガーが言うところの現象学は、彼の師であるフッサールの現象学とは似て非なるものだ、と木田元は言った。ハイデガーは、「存在と時間」の中で現象学の意義について説明し、自分がそれをフッサールに負っていると言い、フッサールに対して敬意を表明しているが、それはハイデガー一流のへつらいであって、自分の哲学がフッサールの現象学とは何のつながりも持たないことは、ハイデガー自身よく知っていたはずだ、と言うのである。しかし、そう決め付けては実もふたもないので、現象学についてハイデガー自身が言っていることに、一応耳を傾けてみたい。

卯の花は初夏に咲くことから、やはり初夏に咲く藤とともに季節を強く感じさせる。万葉集には、卯の花を詠んだ歌が二十四首あるが、その多くはほととぎすと一緒に歌われていて、この二つは万葉人の心の中で分かち難く結びついていたことが察せられる。卯の花もほととぎすも初夏を告げるものであるから、その二つを結びつけて歌うことで、季節感を最大限に演出する効果が高まるわけである。そんな初夏の季節感を詠んだ一首。
  霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを(1472)
ほととぎすがやってきて鳴き騒いでいるが、その声を聞くと、卯の花と一緒にやってきたのか、と聞いてみたくなる、という趣旨。初夏には卯の花とほととぎすが一緒にやって来るという想念があるからこそ、こういう歌が生まれるのであろう。

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オリヴァー・ストーンは「プラトーン」でベトナム戦争の醜悪さを描いたが、「7月4日に生まれて(Born on the Fourth of July)」は、その続編みたいなものだ。ベトナム戦争の醜悪さを引き続き描くとともに、戦争で不具になった青年の絶望を描いている。その青年は、自分は正義のためにベトナムに赴いたと思っていたのだったが、実は非人間的な行為をするはめになった挙句、不具になった後はまわりの誰からも人間として認めてもらえず、深い孤独感を覚えて絶望する。そして自分をこのような目にあわせた戦争の不正義を告発するに至る過程を描いているものだ。

昨日のこのブログ記事で、NHKによる731部隊の調査報道を取り上げたが、それは今日の権力によってタブー扱いされているらしい微妙なテーマを、NHKの現場記者が勇気を以てとりあげ、それをNHKが許したことにいささかの感慨を覚えたからだった。だが、ジャーナリズムにおけるこのような動きは、今日の日本のジャーナリズムでは、ますます見られなくなっているというのが、本当のところのようだ。

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この絵は、毛槍奴が立ち小便している様子を子どもたちが見て囃したてているところを描いたもの。右側の賛に「毛槍をもって立てししす」とあるのは、「毛槍をもって立ち小便する」という意味。左側の賛には「しかも大きなしじじゃ、小じゃりが飛ぶは、あれ見よ」とある。「しかし大きなちんぽこじゃ、小便の勢いで小石が飛んでいる、あれを見てごらんよ」という意味である。

昨夜(8月13日)、NHKが731部隊(いわゆる石井部隊)に取材した調査報道番組を放送したのを、筆者は驚嘆の念を覚えながら見た。というのも、731部隊の問題は、日本史の最も恥ずべき部分であって、取りようによっては、従軍慰安婦問題よりもはるかに深刻な問題だ。今の日本の政権にとっては、絶対に触れられてもらいたくないことだろう。それをあのNHKが、正面から取り上げて、それを放送したのは、実に感慨深いことである。

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クリムトには裕福な実業家のパトロンがいた。当時のオーストリアの画家には、クリムトに限らずパトロンがついていたものだが、クリムトや分離主義の芸術家を熱心に応援していたのは、ユダヤ人実業家たちだった。鉄鋼業のウィトゲンシュタイン、繊維業のヴェルンドルファー、金属産業のクニップスといった人々だ。クリムトは彼らの家族のために肖像画を描いた。クリムトの肖像画は非常にリアルでしかも芸術性に富んでいるというので、ウィーンの社交界では名声が高かったようだ。

風土記についての概括的な解説書がないことを嘆いていたところ、ユニークな古事記研究で知られる三浦佑之が、岩波新書という形で出してくれた。これを読むと、風土記成立の歴史的な背景とか、風土記全体を通じての特徴が、かなりの程度わかる。非常に啓発されるところが多い。これをきっかけにして、風土記の紹介が進むことを期待する。

藤は初夏に花を咲かせるので、夏の季節感を強く感じさせる。その花は、大きな房となって密生し、非常にボリュームを感じさせる。そんなことから藤波と呼ばれることもある。万葉集には、藤を藤波と表現したものが結構ある。それも含めて藤を詠った歌が、万葉集には二十六首ばかりある。

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オリヴァー・ストーンの1986年の映画「プラトーン(Platoon)」は、ベトナム戦争の一齣を描いた作品だ。ベトナム戦争は、アメリカの起した対外戦争の中でもっとも汚い戦争だといわれるが、その汚い戦争の醜悪な面を、オリヴァー・ストーンはヒューマンタッチで描いた。中には見ていられないようなショッキングな場面もあるが、それらは実際に兵士としてベトナム戦争に従軍したストーン自身の体験に根ざしているらしい。

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鷲頭山は、伊豆半島の西側の付け根にあたるところにある。白隠が住職を勤める松陰寺からは、富士同様によく見える山だ。しかもこの山は仏教伝説ともゆかりがあるというので、白隠は特別の気持を抱いていたにちがいない。この山を描いた絵に、そうした白隠の気持ちが籠められている。

カフカの小説「アメリカ」の最終章である第八章は「オクラホマの野外劇場」と題されている。その題名にある「オクラホマの野外劇場」に就職しようとするカール・ロスマンを、この章は描いているわけだが、一読してすぐわかるように、小説のこれ以前の部分と大きく断絶している。ほとんどつながりがない。オリエンタル・ホテルのエレベータ・ボーイ仲間がちょっと出てくるだけだ。それも、あってもなくても違いがないような、ぞんざいな扱い方だ。それゆえ読者はこの部分を、独立した短編小説として読んでも、なんらの不都合を覚えないだろう。短編小説としてなら、それなりにまとまった筋書きになっている。

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クリムトがオーストリア政府からの注文を受けて作成した「ウィーン大学講堂の天井画」は、クリムトという画家を理解するための鍵を与えてくれる。クリムトはこの仕事のために三点の天井画を描いたのだが、それらに自分の芸術上の信念を盛り込んでいたという意味で、非常にメッセージ性の高い仕事となった。ところが、これら三点の天井画は、いずれも大学当局や政府から激しい拒絶にあった。そこでクリムトは、その拒絶に屈することなく、これを買い戻したのであったが、それらの作品は結局失われてしまった。権力に対抗して自分の芸術的良心を貫いたクリムトだが、その良心は報いられなかったわけだ。一方クリムトと同じくこの仕事の一部を請け負ったフランツ・マッチュは、注文の趣旨にしたがった作品を作ったおかげで、いまでもウィーン大学の講堂を飾っている。もっともそれが高い評価を受けることはないのだが。

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ロバート・レッドフォードの1992年の映画「リバー・ランズ・スルー・イット(River runs through it)」は、禁酒法時代のアメリカの地方都市における宗教的に敬虔な家族を描いたものだ。禁酒法時代におけるアメリカの宗教的雰囲気を描いた作品といえば、「エルマー・ガントリー」や「ペーパームーン」がある。「エルマー・ガントリー」は、リバイバル(信仰復興運動)の指導者をテーマにし、「ペーパームーン」はアメリカ人の信仰を商売のタネにする抜け目のない人間を描いたが、この映画は名もない庶民の家族の宗教的な感情を、控えめに描いている。

「存在と時間」の序説第二章は、全体構想の第二部で展開されるはずだった議論の概要を先取り的に説明したものである。第一部での現存在の基礎的分析を通じて浮かび上がってきた存在の根本性格である時間性、それを踏まえて西洋の伝統的な哲学を解体するというのが、第二部の基本的な目的だとされる。ハイデガーがその解体のとりあえずの対象として選ぶのは、カントからデカルトを経て古代のギリシャ哲学にさかのぼる流れである。

橘はミカン科の常緑樹で、日本に自生する唯一の柑橘類という。初夏に花を咲かせ、秋に実がなる。実の大きさはミカンよりひとまわり小さく、金柑をやや大きくした感じである。酸っぱすぎて、そのままでは食べられないので、つぶしてジャムのようにして食べる。もっとも橘の実を食べるという話は、和歌の世界では出てこないのではないか。

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ピーター・ボグダノヴィッチの1973年の映画「ペーパームーン(Paper Moon)」は、詐欺師と孤児の女の子が繰り広げるロード・ムーヴィーの傑作だ。禁酒法の時代だから恐らく1920年代から30年台のアメリカが舞台。そこで聖書を売り歩くセールスマンが、孤児になった九歳の女の子の世話を押し付けられ、一緒に放浪しながら、女の子の親族が住んでいるミズーリを目指すという物語だ。

「日本ファーストの会」なるものが発足するというニュースを聞いて、国粋主義政党が発足するのかと思ったら、そうではないらしい。先日都議会選挙で旋風を引き起こした「都民ファーストの会」の国政版を目指すということらしい。

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白隠は、沼津の東海道に面した松蔭寺の住職をしていたから、そこからは富士が手に取るように見えた。そんな富士の姿を白隠は数多く描いている。これはそのうちの一枚。雄大な富士をバックに大名行列が通り過ぎるところを描いている。画面いっぱいに富士を描き、裾野に大名行列を描く。その行列は西へ向かって進んで行き、その先には川があり、川の近くにはそばだった岡も見える。

「戊辰物語」には、幕末・維新期の町奉行について、けっこう興味深い記述がある。江戸の町方の治安は、南北の町奉行所が所管していたが、その規模が非常に小さなことに驚かされる。南北の違いは、管轄地域の違いではなく、江戸市中全体の治安を南北交替で担当した。今日の警視庁にあたるものだが、その組織たるや、南北それぞれ二十五人の与力と、百三十人の同心がいるのみ。正式の役人はこれだけで、その下にいる目明し、岡っ引きなどは、みな同心の私的使用人で公儀の役人ではない。それ故、公儀から報酬が出るわけではない。それらはたいてい料理屋の主人だとか博徒の親分で、二足のわらじを履いていたわけだが、公儀から手当てが出ないことを口実にして、公然と悪事を働いた。

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十九世紀の末から二十世紀の初頭にかけて、ウィーンはパリと並んでヨーロッパの精神文化の中心地だった。建築、美術、絵画などの諸芸術や、フロイトの心理学、ウィトゲンシュタインに代表される哲学など、ウィーンはさまざまな学芸分野で、ヨーロッパをリードしたのであった。その時代のウィーンをベル・エポックと呼ぶこともある。この言葉は同時代のパリについて用いられるのが普通だが、ウィーンもまたパリに負けないほどの文化的なオーラを放っていたのである。

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これは鍾馗が擂粉木で味噌を擂っている図柄。よくみると、擂鉢のなかにいるのは、四匹の鬼。これらの鬼は人間の煩悩の化身で、それらを擂りつぶした味噌を食えば、煩悩から解放されて成仏できるじゃろう、というのがこの絵の狙いだ。白隠なりの衆生教化の意図が籠められたものと言えよう。

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映画「エルマー・ガントリー(Elmer Gantry)」は、シンクレア・ルイスの同名の小説を原作として、アメリカの信仰復興運動(リバイバル)を描いたものだ。リバイバルというのは、アメリカに特有の宗教運動で、数十年単位で間歇的に沸き起こる現象らしい。森本あんりによれば、アメリカ人に根強い反知性主義の現われで、一旦ブームになると、すさまじい勢いでアメリカ人のハートを捉えるのだという。あのロナルド・レーガンがアメリカの大統領になれたのも、リバイバルを支えた熱狂が彼を後押ししたからだという指摘もある。

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男性美を追求したムンクがたどりついたのは、労働者の働く姿に現われた男の力強い美しさだった。晩年のムンクは、こうした労働者像をいくつも描いたが、「雪の中の労働者」と題するこの絵は、その代表的な作品だ。

「火夫」は長編小説「アメリカ」の冒頭の部分であるが、カフカは生前にこれを独立した短編小説として発表している。そこにどのような意図があったのか、とりあえずわからない。もともと「アメリカ」の一部として書いたものを、別途独立して発表したのか、それとも「火夫」という短編小説を書いた後で、その続編を書く気になって、それが長編小説の構想につながったのか。日記等を分析すれば、その辺の事情がわかるかもしれないが、今の筆者にはわからないままだ。

ほととぎすは初夏に渡ってくる渡り鳥であり、甲高い声で賑やかに鳴くこともあり、夏の季節を感じさせる鳥として親しまれた。鶯が春を代表する鳥だとすれば、ほととぎすは夏を代表する鳥である。万葉集にはそのほととぎすを詠んだ歌が、百五十首以上もある。いかに万葉人に親しまれたかがわかる数だ。

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李相日は「悪人」において、現代日本社会の閉塞感のようなものを描いたが、この「怒り」もその延長上の作品だ。こういう映画を見せられると、現代の日本社会というのは、救いよういもないほどに壊れてしまっている、と感じさせられる。そういう意味で、非常にメッセージ性の強い作品だ。
「存在と時間」の序説の中でハイデガーは、この著作の目的について簡潔に言及している。それを一言で言い表わせば、存在への問い、ということになる。何故存在への問いなのか。それについてハイデガーは、存在がその重要性にかかわらず、忘れられているからだ、と言う。それではいけない、そうハイデガーは考えたのであろう。忘れられていたものを思い起こすためにも、その忘れられていた当のもの、すなわち存在への問いを発しなければならない。そうすることで、「形而上学」を再び肯定することが、「現代の進歩のしるし」なのだと言うのである。ここでハイデガーが「形而上学」と言っているのは、ほぼ「哲学」と同義の言葉だと、とりあえず捉えておいてよい。

万葉集中春の到来を喜ぶ歌は数多いが、夏の到来については、喜ぶは無論、あえて触れる歌も少ない。そんな中で次の一首が目を引く。
  春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山(28)
これは、藤原の宮に天の下知らしめす天皇の御製歌と詞書にあることから、持統天皇の歌である。趣旨は、春が過ぎて夏が来たようだ、白妙の衣を干している光景が天の香具山に見える、というもので、造営されたばかりの藤原宮から天の香具山を臨みながら詠ったものだと解釈されている。

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この映画を見ると、そこに描かれている日本が溝口健二の生きていた時代に逆戻りしたような感じに打たれる。溝口の描いた日本では、女が男の食い物にされていたわけだが、この映画の中の日本も、女を食い物にする男がのさばって生きている。食い物にされた女は、溝口の時代にあってもけなげに生きていたが、この映画の中の日本でも、女は女なりの誇りを持って生きてはいる。その最低限の誇りが、見るものになにがしかの安堵感を与えてはくれる。


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白隠は鍾馗の図を数多く描いている。鍾馗は厄除けの神として親しまれ、端午の節句には子どもの厄をはらう守護神として尊重された。もともとは、中国に実在した人物で、それが神になったにはいわれがある。玄宗皇帝のときに科挙を目指したが落第を重ね、それを恥じて宮中で自殺した。ところが、どういうわけか、重い病気にかかった玄宗の夢の中に現れ、玄宗を悩ませていた悪鬼を追い払ったところ、玄宗の病気が治った。それに感謝した玄宗が、画工に鍾馗の姿を描かせて顕彰した。それ以来厄除けの神として庶民に慕われたというのである。

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