2017年9月アーカイブ

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治承四年(1180)の兵火で焼かれた東大寺や興福寺は、いち早く復興された。その過程で、康慶・運慶父子をはじめとした慶派の仏師も参加した。東大寺南体門の仁王像はその代表的なものである。興福寺のほうについても、運慶を中心に仏像の再建が行われた。北円堂の諸像はその代表である。

オルガとアマーリアの姉妹に接近したことで、Kはフリーダの怒りを買うことになるのだが、彼が彼女たちに接近したのは、彼女らに会うためではなかった。Kは彼女らの弟であるバルナバスに会うために彼女らの家に行ったのである。というのも、バルナバスはクラムからの手紙をKに送り届けた人間であって、そのクラムと会うための手がかりを一番持っているはずの人物として、Kには見えたからだった。そこでバルナバスの家、つまりオルガとアマーリアの住んでいる家に出かけていったわけだが、そこでKは思いがけない話をオルガから聞かされる。

先日このブログ上で、発足したばかりの前原民進党が、衆議院の解散を前にして解体の危機にあると指摘したが、その文章を書いていた時点で、前原代表が民進党の解体を決意していたことが明らかになった。唖然とした筆者はその後の成りゆきを見守っていたが、その結果次のようなことが分かってきた。民進党は、今回の衆議院選では党としては立候補者の公認をしない。そのかわりに立候補したいと思うものは、小池新党たる「希望の党」に公認申請をし、希望の党から立候補する形をとってほしい。参議院議員のほうは、当面は民進党所属のまま残り、衆議院の選挙後に本格的な処遇を決める、というものである。要するに民進党を解体するという方針だ。

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「水蛇」と題したこの絵は、写真で見ると大作のように見えるが、実際には小品(50×20cm)である。構図が非常に複雑で、モデルも表情に迫力があるので大作のように映るのだろう。そのモデルは二人の女性で、どうやら抱き合っているようである。抱き合いながら恍惚の表情をしていることから、一見してレズビアンだとわかる。世紀末は女性同士の同性愛たるレズビアンが、ヨーロッパ芸術の大きなテーマの一つになっていた。

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増村保造は溝口健二の助監督として出発したが、溝口を強く批判して、その作風を嫌悪した。理由はいまひとつすっきりしないが、溝口が因習的な人間像を感傷的に描いたということらしい。だがその増村自身も、好んで日本の因習的な世界を描いた。もっともその描き方には、溝口とは違ったところがあった。溝口が女や弱い者の視点から描き続けたのに対して、増村は男の視点から描いた。また溝口には社会に対する批判的な意識があったが、増村にはそういう要素はほとんどない。彼にとって映画とは、理屈を盛りこむ容器ではなく、人を楽しませるものだった。要するに面白ければそれでよいのである。

「存在と時間」には、キルケゴール由来と思われる概念が多く用いられている。その最たるものが「不安」である。この概念をハイデガーは、情態性を論じる文脈の中で用いている。情態性というのは、世界・内・存在としての現存在の、自分自身についての存在了解を構成しているものであり、現存在はこの情態性を通じて、自分が世界のなかに投げ出され、そこ(ダー)において存在している(ザイン)ということを了解する。認識ではなく、了解である。人は(知的な)認識を通じて了解に至るのではなく、漠然とした了解をもとにして認識に至るように出来ているのである。

安倍総理が衆議院の解散宣告を行ったことで、各政党は一気に選挙モードに入った。たとえ大義なき解散とはいえ、解散となれば次の選挙の準備をしなければならない。本来なら、野党第一党たる民進党などは、自民党にかわる政権樹立を目指して大いに奮闘しなければならないところだ。ところがその民進党が、ぱっとしないどころか、かなり深刻な不振にあえいでいる姿が伝わってくる。

秋風は、秋の到来を秘かにつげるものとして、非常に季節感を感じさせるものなので、このサイトでも、秋の歌の総論で秋風を話題にしたところだ。秋風はその他に、色々な情緒と結びついている。もっとも著しいのは、秋風の寒さが、人を待つ身の切なさと結びついたものだ。次の歌は、その典型的なものだ。
  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む(462)
これからは、秋風がいよいよ寒く吹く季節になるが、そんな秋の長い夜を、一人で過ごすのはつらいことだ、というような趣旨だ。これは、大伴家持が、妾を失ったときに、その悲しみを詠ったものとされる。妾を失った悲しみを、一人寝の寂しさで表わすとは、いかにも家持らしい。

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「独立愚連隊西へ」は、前作「独立愚連隊」の成功に気をよくした岡本喜八が、その続編という触れ込みで作った作品だが、内容的なつながりはない。独立愚連隊というアイデアを引き継いだというだけである。独立愚連隊という言葉は、正規の軍隊用語ではなく、この映画のために作られたものだが、字面から推測できるように、正規の軍隊秩序からはみ出した余計者の部隊というニュアンスが込められている。こんな部隊が実在していたわけではない。

安倍総理が衆議院の解散を表明したことを受けて、テレに各局がスタジオに招いて意見を聞いた。そのうち筆者が見たのはNHK(ニュースウォッチ9)とテレ朝(報道ステーション)だが、その場での安倍総理の言うことを聞いていると、日本の政治は自分一人が担っているのだという、いささかあきれた心意気が伝わってきた。

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浄楽寺は、鎌倉幕府侍所別当和田義盛が文治五年(1189)に創建した寺である。その本尊として運慶が作ったのがこの阿弥陀三尊像であ
る。運慶はこれとあわせて、不動明王、毘沙門天の両像も作っている。これら三者は、願成就院でもやはりセットになっている。不動明王といい、毘沙門天といい、東国武士の好みを強く反映したものだ。

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この絵のモデル、フリッツァ・リートラーはオーストリア政府高官の妻ということ以外詳しいことはわからない。この絵がどのような経緯で描かれたかについても、詳細はわからない。肖像画の注文を受けて描いたというのが自然な解釈だが、クリムトが注文を受けて描いたほかの肖像画とは、かなり異なるところがある。

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「佐渡狐」は、脇狂言に分類されている。脇狂言というのは、能で言う脇能と同じで、一日の出し物の冒頭「三番叟」に続いて演じられるめでたい狂言のことである。だが、佐渡狐には、一見したところめでたい要素は見られないように思える。それがなぜ脇狂言に分類されたか。この狂言では、田舎の百姓が都へ年貢を納めにゆくことがテーマになっているが、年貢を納められるのは世の中が平和のしるしであって、そこがめでたいのだ、などという説明がなされるが、いかにも苦しい説明に聞こえる。

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あたりかまわず気に入らない連中と衝突を繰り返しているトランプが、今度はスポーツ選手と深刻な対立を起こしているというので、芸能ネタとしてはちょっとした話題になっているようだ。きっかけはいつもの通りツイッターでの発言。最近彼が観戦したNFLの試合で、一部選手がNational Anthemの際にKneelingをしているのはけしからん、そんな奴は首にしてしまえと書いたところ、NFL はおろかスポーツ界の有力選手から次々とブーイングが沸き起こったというのだ。

万葉集巻八秋雑歌に収められた一連の七夕の歌は、柿本人麿歌集所載のものに続いて、作者未詳のものが並ぶ、そのいくつかを紹介する。まず、次の歌。
  天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば(2044)
天の川には霧が立ち込め、その中から彦星の楫をこぐ音が聞こえる、夜が更けたからだ、というもの。七月七日の夜が更けて、いよいよ彦星が織姫星にあうために、楫をこいで天の川を渡るのだ、という予感のようなものを詠ったもの。非常に素直でよい歌だ。

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ゴダールの1960年の映画「小さな兵隊(Le petit soldat)」は、アルジェリアの対仏独立戦争をテーマにしたものだ。この映画が作られたのはまだ独立戦争のさなかのことであったし、また、戦争の当事者が実名で登場することもあって、別にフランス政府を批判したわけでもなかったのだが、公開に待ったがかかった。公開されたのは、停戦後の1963年のことだ。

平昌オリンピックの開催が近づいているが、朝鮮半島情勢が俄かにきな臭くなったことを受けて、参加をためらう国が出てきた。フランス、オーストリアが、このままでは不参加の可能性が高いことを示唆し、ドイツも参加の可否を検討するといっている。今後もこうした動きに追随する動きが広がることが予想される。場合によっては、開催国の韓国自体が、開催をあきらめることもありうるといった異常事態だ。

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願成就院の不動三尊像は、阿弥陀如来像、毘沙門天像とともに、文治二年(1186)に運慶が北条時政のために作ったものである。不動明王とその従者、制多迦童子及び矜羯羅童子からなっている。X線写真で、二童子像の内部には、毘沙門天像の内部から取り出された木札と同様のものが入っていることが確認されている。おそらく制作経緯を記しているのだろうと思われる。

カフカの小説に出てくる女性には、一定の共通パターンがある。どの女性も、主人公にとってゆきずりの関係にある。複数の女性たちが出てくる中で、群を抜いて重要な役割を演じる女性はいるにはいるが、それらの女性にしても、最後まで主人公と運命を共にしない。だいたいが途中でいなくなってしまうのだ。それもかなり唐突な感じで。「アメリカ」の場合には、主人公の保護者を買って出たホテルの年長の女性がそうだし、「審判」の場合には弁護士の看護婦を勤めているレーニがそうだった。「城」の場合には、フリーダがそれにあたる。フリーだがいなくなった後はベーピーがその穴を埋めるように登場するが、これも主人公にとっては決定的な意味を持つ女性にはなりえず、いつの間にか消えてゆく運命にあるように思われる。唯一の例外は「変身」の妹だが、これはたまたま同胞としての役柄なのであって、かならずしも女性である必然的な理由はないように思われる。こんなわけでカフカの女性たちは、主人公の運命にとっては、ゆきずりの非本質的な役割にとどまっているように見えるのだが、しかしもし彼女らが存在しなかったとしたら、小説はかなり味気ないものになっただろう。その意味では、小説に一定の効果を及ぼしてはいる。もっとも、効果のない人物像など、すぐれた小説に入り込むよりはない、といってよいのだが。

昨夜(日本時間の9月21日)、トランプが初の国連演説のなかで金正恩を「ロケットマン」と揶揄したことに対して、ニューヨーク入りした北朝鮮の大使が反撃し、そのトランプを「吠える犬」だと罵倒した。この様子を取り上げたNHKの報道番組(ニュースウォッチ9)は、さっそく犬を抱いたトランプを画面に登場させて、「ワンワン」と鳴かせてみたものだ。これにはさすがの筆者も驚いた。NHKはちょっとやりすぎではないのかと。これでは安倍政権のこわい人たちから大目玉を食っても仕方がない。

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この絵のモデルは、ウィーンの実業家でクリムトのパトロンでもあったカール・ウィトゲンシュタインの娘である。二十世紀哲学の巨人ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは彼女の弟である。また、ラヴェルが「左手のためのピアノ協奏曲」をささげたというパウル・ウィトゲンシュタインも彼女の弟である。パウルは有能なピアニストであり、第一次大戦で従軍して右腕を失った後も、左手だけで演奏活動を続けた。

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08/15シリーズ第三作「最後の08/15(08/15 In der Heimat)」は、ドイツ軍の敗北を描く。前二作におけるアッシュ所属の部隊がここでも映画の舞台となる。この部隊は、敗戦直前にロシア戦線からドイツ国内に移動し、国内でせまりくる連合軍の影におびえ、最後には全員が米軍の捕虜になるのであるが、部隊の秩序崩壊ぶりは、前二作以上に深刻である。

ドナルド・トランプが初の国連演説で北朝鮮を激しく攻撃し、完全破壊を辞さないと述べたことで世界を震撼させた。北朝鮮を完全に破壊するとは、どういうことか。2400万の北朝鮮人を皆殺しにすることだろうか。多くの人がそう危惧したと思う。アメリカは1600発以上の核弾道を持っていると言われるから、それらをすべて北朝鮮に打ち込めば、たしかに北朝鮮は人っ子一人生き残らない焦土と化し、完全破壊されると思う。またトランプならそれをやりかねないと思っている人が多いだろう。

「存在と時間」第一編第五章は「内・存在そのもの」と題して、世界・内・存在としての現存在の根本的な有様について分析している。世界・内・存在としての現存在は、自分が生きている世界についてすでに存在了解を持っており、この存在了解を手がかりにして世界についての認識を成立させるというふうにハイデガーは問題を提起するのであるが、それではこの世界了解とはどのような内容のものなのか。それがこの章において論じられるテーマである。ハイデガーは世界了解の内容を基本的には二つの面から見る。一つは、現存在の現存在としての自分自身についての捉え方であり、もうひとつは自分自身以外の存在者についての捉え方である。ハイデガーは、前者については情態性、後者については了解と呼ぶものを通じて解明する。

九 正義と共通善
 ロールズの議論は、正義という上位概念を持ち込んだおかげで、自由に一定の制約があることを認めた。人間は誰でも自由を無制約に行使できるわけではない。自分だけ幸福になれば、他人のことには無関心でもよいといった考え方や、他人の犠牲のうえで自分の利益を図るといったことは許されない。何故なら、そういうことは正義に反しているからだ。この場合、ロールズが正義という言葉で意味しているものは、ほとんど平等ということに近い。人間は、能力の上では不平等に生まれてくるものだが、だからといって、差別されてもよいということにはならない。まして、能力以外の要素、たとえば人種とか思想信条とかによって、差別されてはならない。人間は、自分の意志でコントロールできない要素について差別されるべきではない。何故なら、人間は基本的には平等に作られているものであって、それを否定することは人間の尊厳を踏みにじるものだからだ。ここからしてロールズの正義論からは、人間の自由の行使は、他人の自由を踏みにじらない範囲に制約されるという考えが生まれてくるわけだ。
万葉集には、七夕を詠んだ歌が百三十首以上収められている。当時の日本人に、七夕が親しまれていたことをうかがわせるが、実は七夕は、日本固有の行事ではなく、中国から伝わってきたものだ。それが日本にいち早く定着した背景には、日本の婚姻制度の特徴が働いていた。日本の古代における婚姻制度は、妻問婚といって、男が女の家に通うという形態をとっていた。そうした婚姻制度があるところに、一年に一度男女が天の川で出会うという中国の伝説が入ってきたために、この伝説が日本固有の妻問婚を想起させて、いちはやく普及したのだと考えられる。

戦線の08/15

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「08/15」シリーズ第二作「戦線の08/15」は、題名のとおり戦線におけるドイツ軍の戦いぶりを描く。戦いの舞台はロシア、そこでの独ソ戦の最前線に、第一部で出て来た部隊がそっくりそのまま登場する。ドイツ軍が、兵営単位で戦線に配置されることがよく伝わって来る。その辺は、内地で結成された師団単位で行動する日本軍の場合と同じだ。

7 ケルゼンの自由主義的民主主義論
 民主主義と自由主義とは本来異なる概念であり、両者は必ずしも密接に結びつくべき必然性を持たないとするシュミットの主張とは対照的に、民主主義と自由主義とは、歴史的に密接に結びついてきたばかりか、理論的にも結びつくべき運命にあると主張する立場もある。ハンス・ケルゼンはその代表である。ケルゼンは、民主主義というものは、自由と平等を目的としており、定義からして自由主義と不可分のものであると主張した(ケルゼンの議論は「デモクラシーの本質と価値」に手際よく要約されている)。彼も、議会主義が必ずしも民主主義と必然の結びつきをもたないとする点ではシュミットと一致するが、しかし彼のいう議会は、民主主義を実現するための一つの手段として観念されており、シュミットの言うような意味での、自由主義のための機関ではない。
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運慶は、三十歳代半ばに鎌倉に下向して、結構多くの仏像を作っている。奈良仏師で、康慶と同世代の成慶が頼朝に招かれて仏像を作っているが、運慶も成慶を追うようにして鎌倉に下向し、頼朝の岳父北条時政のために仏像を作っている。今日伊豆韮山の願成就院に残っている阿弥陀像以下の諸像がそれだが、ほかにも浄楽寺の阿弥陀三尊像がこの時期の作である。

5 シュミットによる自由主義批判
 議会主義と、その基盤となる自由主義についてこのように整理したうえでシュミットは、自分自身の立場を明らかにする。それを簡単に要約していうと、権力の集中と国家の役割の拡大というものである。

安倍晋三総理が、北朝鮮による危険な挑発に対して、国際社会が一体となって立ち向かうことの必要性を訴えた文章を、米紙に寄稿した。筆者はそれをニューヨークタイムズのWEB版で読んだ。ほかにも寄稿したメディアがあるのかもしれない。それを読むと、安倍総理の危機感が伝わってくる。北朝鮮は不誠実な国家であって、いかなる話し合いも効果を結ばないので、この際力づくで屈服させる必要がある。ついては国際社会のあらゆる国が、北朝鮮に抜け道を用意することなく、国連の決めた制裁を完璧に遂行すべきである、といった考え方が、ある種の熱意を以て伝わってくる。後日の参考のために、その全文を引用しておきたい。

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「一生の三時期(Die drei Lebensalter)」は、女性の生涯の三つの時期をイメージ化したものである。人間の生涯を三つの時期あるいは段階にわける考え方は、スフィンクスがオイディプスにかけた謎の神話以来ヨーロッパ人に馴染みの深いものだったが、クリムトはそれを、女性の人生に即して展開して見せたわけだ。

中江兆民が死んだのは明治34年12月13日のことで、死因は喉頭癌だった。最初癌の症状に気づいたのは前年明治33年の11月のことだったが、その折には喉頭カタルくらいに見くびって油断していた。ところが翌年の春、関西に旅行したところ、症状がひどくなって苦痛に耐えられぬので、医師に治療を仰いだ。そこで喉頭癌だと宣告され、余命は一年半、よく養生すれば二年だろうと言われた。本人としては、たかだか半年くらいの寿命だろうと観念していたところ、一年半の猶予を与えられたと受け取り、その一年半を有意義に使おうと決意した。どう使うかは迷いがなかった。日頃胸中に温めていた思いを吐露し、以て文人たるの意気を示さんとすることだった。こうして兆民は、遺書というべき著作「一年有半」および「続一年有半」をしたためたのである。そして、この両書の完成と刊行を見届けて、その年のうちに死んだ。享受した余命は一年有半ではなく、たかだか半年だったが、兆民としては一年有半におとらぬ充実した日々だったろうと思われる。

3 シュミットの民主主義論
 ここでテクストの「現代議会主義の精神的状況」を踏まえながら、シュミットの民主主義論がはらんでいる問題について考えてみたい。
日本人ほど虫の鳴き声に敏感な民族はいないだろうと言われている。微妙な声を聞き分けて、その鳴き声の主である虫の種類も細かく分類し、それぞれ相応しい名を与えている。松虫、鈴虫、鍬形虫といった具合に。ところが万葉の時代には、虫は一喝して「こほろぎ」と呼ばれた。いまでも「こおろぎ」という名の虫はいるが、それに限らず、キリギリスも松虫も鈴虫もみな一様にこほろぎと呼ばれた。ということは、万葉の時代の日本人は、現代人ほど虫の声に敏感ではなかったということか。実際に万葉集には、秋の虫を詠った歌が十首にも満たない数があるばかりなので、あるいはそうかもしれない。

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ドイツ映画「08/15」は、第二次大戦におけるドイツの位置づけのようなものを正面から描いた、戦争もの三部作の統一名称である。第二次大戦勃発直前におけるドイツ軍の兵営での兵士たちの日常を描いた第一部、戦線での戦いぶりを描いた第二部、そして敗戦後のドイツを描いた第三部からなる。原作は、ドイツ軍兵士だったハンス・ヘルムート・キルストの回想録で、1954年に出版されるやベストセラーになった。それをパウル・マイが、出版直後から映画化にとりかかった。ドイツは敗戦国として、しかもナチスの所業が国際的に非難されていたこともあって、第二次大戦を正面から取り上げた映画は珍しかった。そんな風潮のなかで公開されたこの映画は、かなりの反響を呼んだようだ。

 四方山話の会の平成廿九年九月の例会で、筆者は「民主主義と正義」をテーマにして、一時間ほど話をした。以下はその際に用いた原稿である。このテーマを筆者が選んだ理由は、本文にも触れているとおり、近年民主主義という言葉が安易に使われ、その結果人々が民主主義について鈍感になっているとの危惧を抱いたことによる。そこで、民主主義という概念の内包と外延を明らかにすることで、民主主義についての人々の認識を曇りのないものにしたい、そう願ったわけである。その際にシュミットを議論の手がかりにしたのは、シュミットが民主主義を以て独裁を基礎づけたことで、民主主義の問題点を逆説的に解明したと考えるからだ。以下、筆者の議論の内容を五回にわけて紹介したい。

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運慶は年少時から父の康慶に師事して奈良仏師としての修行を積み、二十代の半ばには一人前の仏師になっていたと思われる。その成果を物語るのが、円成寺の大日如来像である。台座の蓮華板裏面に書かれた銘文には、大仏師康慶実弟子運慶が安元元年(1175)に作り始め、翌年十一月に完成したと記されている。実弟子とは、実の子でありかつ弟子であるという意味である。

「城」は普通には、未完成の作品と受け止められている。形式的にはそのように見える。主人公Kと旅館紳士荘のおかみとの会話の途中で中断してしまうし、話の流れからしても、とても完結しているようには見えない。しかしよくよく考えれば、この奇妙な話にまともな終り方があるだろうか。そもそもこの小説は、なにかまとまりのある筋書きからできているわけではない。たしかに、主人公には個人的な目的があり、とりあえずはその目的をめぐって小説が展開してゆくのであるが、そのうちに主人公自身が自分の目的を見失ってしまうようなところがある。主人公が、自分の行為について明確なイメージを持っていなければ、小説を読んでいる者にはなおさら、なにがそこで問題となっているのか見えてこない。ところが小説というものは、昔から多かれ少なかれ、問題なしでは進まなかったものなのだ。

先日予告しておいたように、四方山話の会九月の例会では、小生が「民主主義と正義」をテーマにして話をすることになった。ところが事前に石子からメールが届いて、今回の参加者は非常に少なくなる見込みだと言う。テーマが重すぎて、敬遠するものが多いのだろうと石子はいうのだが、たしかに古稀になんなんとして、こむつかしい話を聞かされるのは、しんどいかもしれない。

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臨月の妊婦の裸体を真横から描いたこの絵は、発表当時、やはりすさまじい反響を巻きおこした。無論拒絶的な反響であり、スキャンダラスな騒ぎといってもよいものだった。あまりにもエロティックで、猥褻だという反応が強かったのだ。たしかに猥褻かもしれない。女性の裸体とか、妊娠した腹とかは、それ自体では猥褻ではないが、ある文脈の中におかれると、俄然猥褻な印象をあたえるものだ。クリムトのこの絵も、そのような猥褻さをかもしだすようなものだったと言えよう。

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フランス映画は、第二次世界大戦について、あまり取り上げることがなかった。ろくな記憶がなかったからかもしれない。その点は、映画界がこぞって太平洋戦争を取り上げた日本とはかなり事情が異なる。敗戦国である日本が戦争映画を沢山つくり、戦勝国であるフランスが、戦争をとりあげたがらない、というのは面白い現象だ。

かつて勝海舟は、咸臨丸に乗ってアメリカまで旅し、当地の人々と歓談を交わす中にも、日本は西洋諸国よりあらゆる面で遅れているが、ひとつだけ自慢できることがある、それは女が間男をしないことだ、西洋の女は必ず間男をするが、日本の女は決してそんなことをしない、だから男たちは安心して公務に奔走することができる、という趣旨のことを述べたそうだ。

アメリカの歴史をテーマに数々のドキュメンタリー映画を作成してきたケン・バーンズが、ベトナム戦争をテーマにした長編のドキュメンタリー映画「ベトナム」を制作した。その公開に先立って、試写会がワシントンのケネディ・センター・オペラ・ハウスで催され、ジョン・マケインやジョン・ケリーといった、ベトナム・ヴェテランの政治家も参加した。

他者の問題は、デカルト以来の西洋哲学史において、最大のアポリアだった。ハイデガーはそのアポリアをいともあっさりと解消してしまう。他者は手の届かない対象のようなものなどではなく、世界内存在としての現存在の存在了解にすでに含まれていると言うのである。ハイデガーは言う、「世界を持たないような主観が、さしあたり『ある』のではなく、したがってまた決して与えられているのでもない、ということを示しました。こうして結局は同様に、他人なしの孤立した自我はさしあたり与えられていないのです」。要するに、世界内存在にとっての世界とは、そもそも他人を含んだものなのである。だから我々にとって必要なことは、すでにそこに含まれている他人というものの存在構造を明らかにすることなのだ。他人は探すべきものではなく、すでに出会われていて、その存在のあり方についての解明を待っているものなのである。

雁は、鴨の仲間と同じく秋にやってきて一冬を過ごす。それゆえ秋を告げる鳥として詠われることが多い。雁は飛びながらも妻を呼ぶ声をあげることから、鹿同様に妻問いのイメージと結びついている。雁の別名を「かりがね」というが、これは雁の鳴き声という意味である。その泣き声が雁全体を現すようになったわけで、換喩の代表的な事例といってよい。

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1964年東京オリンピックの公式記録映画は市川崑が作った。公式記録映画であるから、政府の金も入っているし、いろいろと注文を受けやすいということもあった。実際出来上がった作品を関係者に試写して見せたところ、さんざんなことを言われた。某大臣などは、こんなものは公式記録映画として認められないと毒づいたそうだ。どうもこの映画が、各国の選手の活躍ぶりを満遍なく映し出していて、日本人の活躍するシーンが少なすぎるというのが、彼ら不満分子の本音だったようだ。高峰秀子の回想録などを読むと、頭の固い政治家たちを相手に、いわれのない非難から市川を擁護した様子が伝わってくる。

トランプ政権の登場に促されて、アメリカでは極右白人至上主義が台頭した。これをアメリカのメディアは最近「Extremist(過激派)」と呼んでいる。過激派とは普通、イスラム原理主義運動とか、一部左翼の実力行使派をさしていう言葉だが、アメリカの白人至上主義者も、人種的に過激な言動を繰り返し、そのさまがいかにも人種原理主義を思わせることから、「「Extremist(過激派)」と呼ばれるようになったらしい。

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(康慶一門作興福寺南円堂持国天像 木造寄木 像高206.6cm)

興福寺南円堂には、本尊の不空羂索観音像を囲んで四天王像が安置されている。これらの像は、康慶が中心になって、彼の弟子たちが協力して作られた。この持国天像は、康慶の舎弟実眼が分担したとされているが、いずれにせよ康慶の構想によるものと考えてよい。

アメリカにとって今年は巨大ハリケーンの当たり年だ。すでにハーヴィーがテクサスに甚大な被害を及ぼし、イルマがフロリダを直撃した。フロリダには、ドナルド・トランプをはじめ、地球温暖化を拒絶する大物たちの別荘が集まっている。そこで彼らは、自分の別荘に影響を及ぼしているハリケーンが、地球温暖化の影響によるものだとの言説が広がることに憂慮を示している。ハリケーンが、地球温暖化の影響だとしたら、日ごろの自分たちの主張にとって、非常に都合が悪いからだ。

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クリムトのベートーベン・フリーズ第三の壁画は、第九交響曲の第四楽章をイメージ化したもの。人類が敵対する勢力との戦いに勝利した喜びを描いている。大勢の合唱団が歓喜の歌を歌い、その手前では、合唱を浴びながら男女が抱擁しあう。合唱のイメージはともかく、男女が抱き合うことで喜びをあらわすというのは、クリムトらしいアイデアだ。

「武士道」は、新渡戸稲造が病気療養の為滞在していたアメリカで、1899年に、英語で書かれた。ということは、欧米の読者に向けて書かれたということだ。当時の日本は、日清戦争で勝ったこともあり、欧米での評価も次第に変わりつつあったが、やはり半文明の段階にあって、基本的には野蛮な連中の国だという認識が強かった。そして日本人の野蛮な行動は、武士道によって支えられている、といった間違った認識が広がっていた。新渡戸はそうした認識を正し、武士道の正確な理解と、それを行動原理としている日本人のすばらしい生き方についての認識を、欧米社会に向かって促したといえるのではないか。

鹿は、秋が繁殖期にあたり、その時期には交尾する相手を求めて鳴く声が聞こえてくる。そんなことから、恋が好きな万葉の人々も親しみを感じたのだろう。万葉集には鹿を詠んだ歌が六十八首収められているが、その殆どは、相手を求めて鳴く鹿を詠んだものだ。鹿を詠んだ歌の代表と言えば、次の歌がまず思い浮かぶ。
   夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(1511)
夕方になるといつも鳴く小倉山の鹿が今夜は鳴かない、寝てしまったのだろうか、という趣旨。おそらく鹿が妻を得て一緒に寝てしまったのだろうという思いだろうと解釈される。これは舒明天皇御製歌となっているが、巻九には「夕されば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも」(1511)という歌が雄略天皇御製歌として載っている。語句がほとんど同じだが、おそらく舒明天皇御製歌が本歌で、雄略天皇御製歌とされるものは、後世の模倣だろうという意味のことを、斎藤茂吉は言っている。茂吉はこの歌を万葉集中最高峰の一つだと評価している。

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谷崎潤一郎の小説「細雪」は何度もドラマ化されたようだが、市川崑の映画はもっとも出来がよいと評判である。たしかに映画としてはよく出来ている。京都の自然の美しさとか、女性たちの和服姿のあでやかさがよく表現されているし、開催弁での会話も醍醐味を感じさせる。映画のかもしだす雰囲気としては、最上級のものではないか。

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(康慶作興福寺南円堂不空羂索観音像 木造寄木 像高342cm)

慶派の基礎を築いた康慶については、出自など詳しいことはわかっていない。興福寺と縁が深かったことから、奈良仏師の流れから出て来ただろうと推測されている。奈良仏師は、定朝のあと脈々と続き、藤原時代の末頃に成朝が活躍するが、成朝が死ぬと、それとは別の流れである康慶が出現し、その康慶の流れから、運慶を始め鎌倉彫刻を代表する仏師が輩出した。

「審判」の第九章は、「聖堂にて」というサブタイトルで、ヨーゼフ・Kが聖堂の中で若い聖職者と交わす会話が中心になっている。この章に続く章が最終章であり、そこでいきなりKが死刑執行人に連行され、野原の片隅で刑を執行され、「犬のように」死んでゆくわけであるから、この第九章は、色々な意味で、「審判」という作品を解釈する上での手がかりを秘めているといえる。その手がかりをどのように引き出すかは、読者次第なのであるが。

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ベートーベン・フリーズのうち、第二の壁に描かれた部分は、人類に敵対する勢力をテーマにしている。批評家から激しい非難を浴びたこのプロジェクトの中でも、もっとも強い非難が集中した部分だ。縦220cm、横650cmの巨大な画面のうち、左側半分には人間に敵対する様々な魔物が、右半分には抑圧されて打ちひしがれる女が描かれている。

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市川崑の映画「破戒」は、島崎藤村の同名の小説を映画化したものだ。この小説を筆者は高校生くらいで読んだのだが、やたら暗いという印象が残っているばかりで、内容はあまり覚えていない。映画を見たところ、記憶の中の暗さよりもっと暗いといった感じで、このように暗い映画がよく商業映画として成立できたと妙な感心をしたほどだ。

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アウン・サン・スーチーからノーベル平和賞のはく奪を求める運動が、国際的な広がりを見せているそうだ。英紙ガーディアンの記事によれば、アウン・サン・スーチーからノーベル平和賞のはく奪を求める陳情活動が、ノーベル賞財団に向けて為されている。その理由は、ノーベル賞財団は、自らが付与した平和賞に、受賞した人間が値し続けているかどうか、確認する責任がある。そして、当該の人物が、受賞の意義を著しく逸脱した場合には、それを取り消す必要がある。アウン・サン・スーチーの場合には、まさにこの取り消し事由に該当する。何故なら彼女は、ロヒンギャの人々を相手に行われている虐待に目をつぶっているばかりか、政府軍への攻撃を理由に、ロヒンギャ全体があたかもテロリストの集団であるかのようなことを言っている、というのである。

世界内存在としての現存在にとって、世界はどのような現われ方をするか。ハイデガーはまず、現存在とそれ以外の存在するものとのかかわりについて注目する。伝統的な考え方では、主観としての人間と客観としての対象とが向き合い、主観は認識の作用を通じて対象を捉える。その認識の作用は、対象を、基本的には見られるものとして捉える。そこから対象の目の前存在としての規定性が導き出される。世界とは、そのような目の前存在の集合として、認識主体たる主観に対立する、そのような構図になっていた。ハイデガーはそのような構図を根本的に見直す。ハイデガーによれは、現存在にとって、存在するものは、まず道具として現われるというのである。

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上のイラストは、ジャパンタイムズのWEB版から引用した。現在の米朝関係の特徴をよくあらわしている。トランプのほうでは、腰の二丁拳銃に両手をかけながら、相手に向かって、「武器を捨てろ、もう一度言う、武器を捨てろ」と叫び、言われた金正恩のほうは、ソウルに原爆を落とすふりをしている。

我々現代人にとってもみじといえば、赤く色づく紅葉が思い浮かぶが、万葉時代の日本人は、黄色く色づく黄葉のほうを愛でた。万葉集にはもみじを詠った歌が百首以上収められているが、それらがもみじという言葉を使うときには、ほぼ例外なく黄葉と表記されている。万葉人が何故、ことさら黄葉を愛でたのか、その理由はよくわからない。万葉時代にも、かえでやはぜの木など、紅葉するものもあったはずだ。その赤い紅葉よりも黄色い黄葉をことさら愛でたについては、民俗学的な背景があるのかもしれない。

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市川崑の1960年の映画「おとうと」は、幸田文の同名の小説を映画化したものだ。題名からして同胞愛をテーマにしたものだと推測できる。幸田文はこの原作小説を自分自身の実生活に取材し、その中で自分と弟との純粋な姉弟愛を描いたつもりらしいのだが、映画を見る限り、その姉弟愛は近親相姦を思わせるような、エロティックな色彩を帯びている。これはおそらく幸田本人の意図しなかったところで、市川が意識的にそうしたのか、あるいは幸田の小説にそのような要素があるのか、読者兼観客であるあなた自身が好きなように受け取って欲しい、そのように伝わってくる作品だ。

島根県選出の代議士で、自民党の要職にある某氏が、北朝鮮の度重なる挑発に言及して、島根県はグアム島へのミサイル軌道上に位置しているが、かりに島根にミサイルが落ちても、それは意味のないことだと言ったことで、ちょっとした騒ぎになっている。マスメディアの多くがこの問題を取り上げて、某氏に発言の真意をただそうとしたのだったが、当の本人は、何が問題なのかわからない、といった反応を示している。そこがまたマスメディアによって面白おかしく脚色され、事態はいっそうこんがらがってしまったようである。

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東大寺南大門仁王像のうち阿像については、一応快慶が担当したと推測されているが、両像のコンセプトにはかなりの共通性が見られるので、運慶による全体的な目配りがあったものと思われる。運慶が、全体に共通する方針を立て、それに従った形で快慶も制作にあたったというのが実際ではないか。

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1902年、クリムトら分離派の芸術家が14回目の展覧会を開催した。テーマはベートーベンを中心にして総合芸術を追及しようというものだった。この当時、ベートーベンの名声は比類ないまでに高まっており、ワーグナーの音楽、ブールデルのマスク、ロマン・ローランの伝記などを通じて、ベートーベン礼賛が沸き起こっていた。分離派はこの動きに乗り、彫刻、音楽、絵画など様々な芸術を総合して、ベートーベンという偉大な人間をたたえようとしたわけである。

「基督信徒のなぐさめ」は、内村鑑三の処女作である。出版したのは明治二十六年(1892)二月、内村が三十歳のときであった。内村はこの本で、人間は基督教を信ずる限りどんな逆境にも耐えられると主張した。彼が取り上げたその逆境とは自分自身のものだったが、彼はその自分自身が陥った逆境にもかかわらず、基督教になぐさめを見出したがために、逆境も気にならなかったと言い、人々にも基督教を信じるように呼びかけたというわけであろう。

なでしこは、秋の野原や川原にひっそりと咲く。その姿が可憐なことから、女性のイメージと結びつき、「やまとなでしこ」などという言葉が生まれた。万葉集にはなでしこを詠った歌が二十数首収められている。次はその一つ。
  秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも(464)
秋がきたらこれを見て私を思い出してくださいとあの子が植えてくれた撫子が、花を咲かせた、と言う趣旨。あの子にも見せたいものだ、という気持ちが伝わってくる。

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ぼんちという言葉を、筆者は関西弁に疎いのでいまひとつイメージがわかないのだが、ぼんぼんのなかでもしっかり者のぼんぼんというニュアンスの言葉だそうだ。ぼんぼんという言葉自体、そのニュアンスがわからないので、しっかり者のぼんぼんがどのようなものか、これもまたよくわからないのだが、しっかり者というからには、肯定的なニュアンスの言葉なのだろう。そういう意味合いでは、この映画に出てくるぼんぼんは、しっかり者とはとてもいえない人物なので、ぼんちの名には値しないようである。だから「ぼんち」と題してはいても、ぼんちになりそこねたぼんぼんの話と受け取ったほうがよさそうである。

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東大寺は、治承四年(1181)の平家による南都焼き討ちで、伽藍の殆どが焼失したが、すぐさま重源による再建が始まった。その再建の過程で、運慶や慶派の仏師たちが造仏にかかわり、本堂の諸像や南大門の仁王像を造立した。そのうち本堂の諸像は、永禄十年(1567)の兵火で焼失したが、南大門は幸いにも焼けず、今日に伝わっている。その一対の仁王像は、運慶と快慶を中心にして造られたものであり、鎌倉彫刻の最高傑作といえるものだ。

筆者は先に、「審判」でカフカが描いたのは、同時代のヨーロッパに現われた息苦しい官僚制社会ではないかと言った。もしこの小説が、「変身」と同じように、主人公の身に起こったごく個人的な出来事を描いただけならば、多くの批評家たちが口を揃えて言うように、気味の悪い不条理小説ということになるのだろうが、この小説の中で不条理な目に会っているのは、主人公だけではない。主題化され前景化してはいないけれど、他に夥しい数の人々が、主人公のヨーゼフ・Kと全く同じ境遇に陥っている。しかも彼らには、彼らを訴追したものがある。それは当面は裁判所ということになっているが、要するに官僚制という形をとった権力機構である。その権力機構が、国民の一人ひとりを、大した根拠もなく抑圧する、そういう基本的な構図が、この小説からは読み取れる。そうした抑圧の支配する社会は、ディストピアと言ってもよいから、この小説はディストピアとしての官僚制社会の恐ろしさを描いたものだ、と言えるわけである。

民進党の新しい代表に前原氏が選ばれた。氏は民主党時代に代表を務めたこともあり、党内では保守派の中心人物ということになっているらしい。筆者は、氏の政治家としての姿勢を詳細に分析したわけではないが、やはり保守派としてのイメージを強く受けている。そこで、民進党がこういう人物を担いで、自民党にかわる政権の受け皿になることができるのか、考えてしまうのだが、どうも世に伝わっている前原氏のイメージをもとに判断すると、自民党の対抗軸となるよりは、補完勢力となる可能性のほうが大きいような気がする。

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クリムトの肖像画には、注文を受けて描いたものと、自発的に描いたものとの二種類がある。注文は裕福な実業家から、その妻を描くように要請されたものが多かったが、そうした絵をクリムトは、(ソニア・クニップスの肖像に見られるように)全体的に印象派的なふんわりとしたタッチで描き、顔の表情にはある種の理想的なイメージを付与したものだった。それに対して自分の意思で描いた肖像画には、クリムトらしい主張が込められている。

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大岡昇平の小説「野火」は、太平洋戦争末期のフィリピン戦線における遊兵の人肉食をテーマにしたものである。これを市川崑が映画化した。テーマの重さからして、小説としても難しいところを、どう映画化するのか。一歩間違えば、グロテスクなホラー映画になったり、うわすべりの倫理映画になったりしかねない。市川はしかし、余計な修飾を避けて、ドライなタッチで淡々と描いた。そのことで、この重いテーマが、映画の画面を通じて、見るものに迫ってくるようになっている。

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