2018年1月アーカイブ

忍ぶ川:熊井啓

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熊井啓の1972年の映画「忍ぶ川」は、女優栗原小巻の出世作になった。栗原はこの映画のおかげで、吉永小百合と並ぶ人気女優となり、コマキストと呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。それについては、小巻を美しく見せるべく、熊井の並々ならぬ意欲が働いていたようだ。その結果小巻の人気は上がったが、映画そのものは平板になってしまった。栗原を美しく見せるための細工だけが先に立ち、肝心の筋書きがあまりいただけないものになってしまったのである。

トランプ登場の陰にはアメリカの福音主義者たちの圧倒的な支持がある。福音主義者というのは聖書に書いてあることこそが真実であり、それに反することは虚偽であると主張するばかりか、本気でそう信じている人たちである。アメリカ人の四分の一がこうした福音主義者であるとされるが、社会が安定している時にはあまり政治化することはない。ところが社会が不安定になったり、人々の不満が高まったりすると、一気に政治化する。その政治化の動きがトランプ登場の大きな引き金となったわけだ。

伊勢物語図色紙:宗達の世界

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宗達の手になる伊勢物語の色紙が今日46枚伝わっている。それらは、一時期に描かれたものではなく、寛永の半ばころから慶安年間にわたる十数年間に描かれたらしい。いずれにも宗達による落款はないのだが、色紙と裏打ち紙との間にある覚書から、ある程度の情報が得られる。それによると、書の筆者は、高松宮良仁親王や万里小路雅房など、身分の高い人であり、晩年の宗達が、貴族社会と深いかかわりを持っていたことがわかる。

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ジャンヌ・ダルクは、フランスの歴史に屹立する偉大なキャラクターだから、様々な画家によってモチーフに選ばれてきた。田舎の家の庭先で神のお告げを聞く少女の姿だとか、魔女として処刑される場面がとりわけ好まれたが、ルオーは彼女を、鎧をまとい、馬にまたがった英雄の姿として描き出した。宗教画を本業としたルオーとしては、いささか人を惑わせるところだ。

大衆概念とファシズム論は戦後の日本論壇の最大テーマとなったものだが、戸坂潤は戦時中いちはやくこれらの概念を取り上げ、大衆とファシズムとの関連性に注目していた。大衆と言いファシズムと言い、明確な概念に見えるが、いまでさえ必ずしも明確とは言えない。したがって戦後の日本論壇でこれらの概念が華々しく論じられた際に、何が大衆の本質で、何がファシズムの概念的な内容なのか共通の理解があるとは言えなかった。日本ファシムズ論の理論的な指導者と見なされた丸山真男でさえ、ファシズムの概念を既知のこととして、それを理論的に掘り下げたとは言えなかった。

諸国の民謡調の歌:万葉集を読む

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万葉集巻十六には、諸国の民謡と思われる歌がいくつか収められている。それらの歌は、土地の方言を交えながら、庶民の素朴な感情を盛り込んでおり、またユーモアも感じられる。まず、能登の国の歌三首を取り上げよう。一首目は次の歌。

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1969年のアメリカ映画「スローターハウス5(Slaughterhouse-Five)」は、カート・ヴォネガットの同名の小説をジョージ・ロイ・ヒルが映画化したものだ。ヴォネガットは、初期の村上春樹の小説に大きな影響を及ぼした作家として、そのアンチリアルというか、飛んでる作風が特徴とされる。そうした側面はこの映画の原作にも十分に出ていて、現実と非現実が錯綜する独特な世界を描いているらしい。

あひるの新年会

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遅ればせながらあひるたちの新年会を催した。場所は新宿の例の居酒屋。寒風の吹きすさぶ中をかけつけると既に四羽が集まってしゃべっていた。ミーさんあひる、横ちゃんあひる、今ちゃんあひる、それにシズちゃんあひるだ。これに小生を加えた五羽でとりあえず乾杯をした。ミーさんあひるとは一年ぶりですがお元気そうですね。顔の艶がとてもよい。いくつになりますか。そう聞かれたミーさんあひるが今年八十になりますと言うから、その年でこれだけ元気ならきっと百以上生きるのは保証付きですよ、あひるとしてはめでたい限りです、とほかのあひるたちから祝福されたのであった。

風神雷神図屏風:宗達の世界

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「風神雷神図屏風」は、宗達畢生の傑作と言ってよい。落款も印章もないが、生前から宗達最高傑作と称せられ、後世にも光琳や抱一が京都建仁寺に赴いて、この図の模写を行っている。図案といい、色彩と言い、日本画の歴史上にそびえる名作である。

永井荷風「おかめ笹」

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「おかめ笹」には小説としてはめずらしく「はしがき」がついている。その中で小説の題名の由来が触れられている。曰く、「そもそも竹は風雅のものなり。しかるに竹に同じき笹のなかにてもおかめ笹は人にふまれ小便をひっかけられて、いつも野の末路のはたに生い茂り、たまたま偏屈親爺がえせ風流に移して庭に植えよとたのみても園丁さらに意とせざる気の毒さ。つまらなき我が作の心とも見よ」

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「テベリアの湖のキリスト:門(Tiberiade:Au Portique)」も、聖書の福音書に取材している。「テベリアの湖のキリスト」は、ヨハネ伝第21章(付録)のなかで、キリストの三度目の復活についてのエピソードとして、また「門」は同じくヨハネ伝第10章のなかの「羊の門」の話として出てくる。ルオーは、これら全く違う話を一つの画面のなかにイメージ化したわけである。

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「スティング(The Sting)」は、70年代に大いにヒットし、日本でも話題になった映画だ。その主題歌は今でもテレビCMのバックグラウンド・ミュージックとして流れている。主題歌が長い寿命を持っている点では「第三の男」と似ているわけだが、「第三の男」は映画史上の傑作として今でも親しまれているのに対して、「スティング」のほうはそれほど注目されていないのが実情だ。筆者はこれを、映画ファンの一人として、残念なことだと思う。この映画はいろいろな意味で傑作と言えると思うからだ。その理由の最たるものとして筆者があげたいのは、この映画ほどアメリカの本音を正直に描き出したものはないということである。

無についてのハイデガーの議論は非常にユニークだ。西洋の哲学の伝統にあっては、無とは存在の反対として、存在しないこと、それも、中途半端に「ない」ことをではなく、全くないこと、なにもかも存在しないことを意味する。存在の反対と言うより、存在の欠如といってよい。あるいは非存在とも言われる。ところがハイデガーは、無は存在の反対として、まったく存在と関わりをもたないのではなく、存在の一つのあり方なのだという。ハイデガーによれば、無というものが存在するということになる。なぜなら人は、存在しないものを思索することはできないからだ。ところが人は無について思索する。ということは、無もまた存在の一つのあり方だからだ、というわけである。

白水郎の歌:万葉集を読む

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万葉集巻十六に、「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」と題された一連の歌が収められている。これらは、公務に従事して船で津島を往復した船乗りが、嵐のために船が転覆して死んだことについて、第三者が同情の気持ちを歌ったものである。作者は不詳と言うことになっているが、その結構からして、山上憶良ではないかと推測されている。一連の歌には、左注の詞書が付されており、それを読むと歌の背景がよくわかる。まずそれから見ておこう。

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1970年のアメリカ映画「マッシュ」は、朝鮮戦争における米軍の野戦病院の様子をコメディタッチで描いたものだ。1970年といえばベトナム戦争の最中だが、なぜそのベトナム戦争ではなく、20年近くも前の朝鮮戦争をテーマにしたのか、よくわからないところがあるが、どちらにしてもこの映画は、強烈な戦争批判を感じさせないので、ベトナム戦争も朝鮮戦争も大して違いはないということなのかもしれない。

舞楽図屏風:宗達の世界

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「舞楽図屏風」は、宗達が醍醐寺のために描いたものだ。醍醐寺は、秀吉の花見で有名だが、舞楽とも縁が深いらしい。宗達の「舞楽図屏風」は、そうした醍醐寺の歴史を踏まえていると思える。

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絞首台に首をくくられてぶら下がっているこの男は、どんなイメージを喚起するだろうか。まさか、信仰への受難をイメージさせるとは、誰も思わないのではないか。しかし、この絵の作者がルオーだと知らされると、もしかしたら受難を表わしているのではないか、と思わせられないでもない。キリストの受難は、十字架に張り付けられることであったが、現代の信仰者の受難は、首をくくられることであってもおかしくはない。

戸坂潤「日本イデオロギー論」

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戸坂潤は、戦前のマルクス主義哲学者としてはなばなしい論戦を張った人だ。その鋭い時代批判が官憲の怒りを買い、それがもとで獄死した。そんなこともあって戦後の日本では不屈の思想家として尊敬を集めたりもしたが、マルクス主義が「失墜」したあおりを受けて、今では一部をのぞき読まれることはなくなった。しかしマルクスの言葉ではないが、鼠のかじるにまかせておくのはもったいない人だ。彼の思考のスタイルには鋭い批判意識が込められているので、その方法を見習うだけでも意味があると言える。

笑いのかけあい:万葉集を読む

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万葉集巻十六は、笑いを誘う諧謔の歌が多く収められているが、なかでも互いに相手を笑いあうという珍しい趣向のものがある。これは、一人ではできないことで、かならず笑うべき相手がいる。あえて相手を求めてまで笑いをかけあうというのは、今の日本ではなかなかないことだが、万葉の時代には人々を喜ばすために、よく行われていたのかもしれない。そんな歌のやりとりを取り上げてみたい。

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「真夜中のカーボーイ」という題名は、日本語だけを見せられると、車のマニアかなんかの話だと思わされるが、そうではなくカウボーイがテーマだ。といっても本物のカウボーイではない。カウボーイにあこがれている多少頭の足りない現代人の話だ。その現代人(ジョン・ヴォイト)が、カウボーイの衣装に身を包んでニューヨークに赴き、そこで奇想天外な体験をする、といったたぐいの話である。いわばアメリカ版お上りさんの物語である。

松島図屏風(左隻):宗達の世界

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松島図屏風は左右が一体となって一つの画面を構成しているので、この左隻の図柄は当然、右隻の延長としての風景を描いている。両者をつなげるのは、波打つ海と黄金に輝く浜だ。海はともかくとして、浜の描き方は、かなり様式的だ。その形象は、あたかも雲を思わせる。

「腕くらべ」に描かれた新橋の色街

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荷風の小説「腕くらべ」の舞台は新橋の色街である。新橋というと、今日ではJR線新橋駅の西側一帯をさしていうようになったが、この小説の中の新橋は、いまでいう銀座八丁目から五丁目あたりまでの一帯をさしていた。新橋の地名は、外堀にかかる橋からきたが、その橋の近くに東京で初めての鉄道の駅が出来て、それが新橋ステーションと呼ばれた。そのステーションの真ん前の大通り、これは従来の東海道の一部であるが、その通りを洋風に飾って新時代の目抜き通りに仕立て上げた。するとその目抜き通りの周辺に様々な業種の店が集まってきたが、なかでも芸を売る店の勢いがすさまじく、この一帯はあっというまに東京有数の色街になったというわけである。

トランプ政権が「フェイクニュース賞」なるものを発表した。一位は日ごろトランプを舌鋒鋭く批判している経済学者のポール・クルーグマンで、彼にコラムを提供しているニューヨークタイムズ始め、トランプに批判的な報道をしているメディアが顔をそろえた。「安定した天才」を自負する大統領からこのような賞をもらった人々はどのような気持ちだろうか。

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「深き淵より(De Profundis)」と題するこの絵は、聖書の詩編130に取材している。この詩は、次のような言葉で始まる。「De profundis clamavi ad te, Domine:Domine, exaudi vocem meam. Fiant aures tuae intendentes in vocem deprecationis meae. (深い淵から、主よ、あなたに叫びます。主よ、私の声を聞き入れてください。あなたの耳を傾けてください、嘆き祈る私の声に)」

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1969年のアメリカ映画「明日に向って撃て(Butch Cassidy and the Sundance Kid)」は、いわゆるアメリカン・ニューシネマの傑作と言われているが、これが何故ニューシネマに分類されたのか、いま一つわからないところがある。ニューシネマというのは、アメリカの伝統的な価値観への異議申し立てを最大のコンセプトとしていたと思うのだが、この映画にはそうした要素は希薄、というよりほとんどない。逆に、西部劇が描いていた古き良きアメリカへのノスタルジーのようなものがあふれている。そうしたノスタルジーをかきたてるのが強盗団という反社会的分子であることに、社会秩序への異議申し立てを見てとれないこともないが、異議申し立てが犯罪者礼賛になっては、やはりどこがすっきりしないものが残る。

ハイデガーの著作「ヒューマニズムについて」は、サルトルのヒューマニズムを批判しつつ、彼自身の存在論を展開する。それを単純化して言うと、人間が存在の根拠なのではなく、存在こそが人間の根拠ということである。このことをハイデガーは次のように表現する。「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと『投げ出され』ているのである。しかも、そのように『投げ出され』ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためなのであり、こうしてその結果、存在の光りのなかで、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである」(渡辺二郎訳、以下同じ)

言葉遊びの歌:万葉集を読む

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万葉集巻十六に、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌八首というのが収められている。これは、物の名を歌に詠みこんだもの(物名歌)で、滑稽歌の一首といえる。この巻にはほかに、滑稽をテーマにした歌が数多く収められているが、なかでも意吉麻呂のこの連作は白眉と言えよう。冒頭は次の歌。

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「イージー・ライダー(Easy Rider)」は、アメリカン・ニューシネマの傑作の一つに数えられる。ロードムーヴィーと言う点では「スケアクロウ」と似ているが、「スケアクロウ」には一応目的地らしきものがあるのに対してこちらにはそれらしきものはない。マルディ・グラを見るためにニューオリンズを目指すが、それは一時の気晴らしのためであって、最終的な目的地ではない。また、スケアクロウは徒歩の二人組が主人公なのに対して、こちらはモーターバイクに乗った二人組を描いている。そのバイクが格好いいというので、この映画はバイク好きの連中から熱烈な支持を受けた。

バルト諸国を対ロ攻撃の拠点に

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安倍総理がバルト諸国と東欧の計六カ国を訪問して長期的な関係強化を訴えた。これは、とりあえずは中国包囲網つくりの一環としての意味を持たされているようだが、長い目で見れば対ロ攻撃の拠点つくりに結びつけられる可能性もある。

松島図屏風(右隻):宗達の世界

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六曲一双の「松島図屏風」も、ワシントンのフリーア美術館の所蔵である。国内にある「源氏物語関谷澪標図屏風」と並んで、宗達の金璧障屏画の代表作である。現存するものは六曲一双だが、もともとは六曲四隻だったという指摘もある。左の延長にさらに二隻があって、それらには伊勢物語東下りの場面が描かれていたという説であり、それが事実なら、この図柄は松島ではなく、伊勢の海ということになろう。だが、今では、現存のとおり六曲一双の絵として見、描かれているのは松島だという前提で鑑賞されている。

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「エジプトへの逃避(La fuite en Egypte)」と題するこの絵も、聖書に取材したものだ。福音書によれば、キリストの誕生を祝った東方の三博士が国へ帰ったあと、主の使いがヨセフの夢に現れて、生まれた子と母親を連れてエジプトへ逃れよと言った。ヘロデ王が、その子を殺そうとしているからというのだ。そこでヨセフは、夜の間に嬰児とその母親とを連れてエジプトへ逃れた、という話である。

山川菊栄「幕末の水戸藩」

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山川菊栄は「武家の女性」の中で、幕末における水戸藩士の生態にも触れていたが、この「幕末の水戸藩」は、文字通り幕末期における水戸藩士の生き方に焦点を当てて、くわしく紹介したものである。菊栄自身は明治三年の生まれであり、幕末期の水戸藩の状況を身を以て体験したわけではないが、母方の祖父が水戸弘道館の教授であり、水戸藩の精神的な指導者の一人であったこともあり、また母親の回想を身近に聞いていたこともあって、幕末期の水戸藩の状況を、半ばは当事者として、半ばは第三者として、複合的に見る目を養ったと言える。だから彼女による幕末の水戸藩の紹介は、独特の雰囲気を帯びている。

万葉の女性たち:万葉集を読む

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万葉集巻十六は、娘子伝説の歌に続いて、若い女性をめぐるいくつかの歌を収めている。若い妻の夫への気遣いを歌ったものとか、采女の機転を歌ったものとか、恋人同士が引き裂かれてしまった悲哀を歌ったものである。娘子伝説が、第三者を通じての女性の運命のようなものを歌っているのに対して、これらは、基本的には、当事者である女性自身が詠っている。それだけに、万葉時代の若い女性たちの心意気のようなものが伝わってくる。ここでは、そうした女性たちの歌を、三首取り上げる。

配達されない三通の手紙:野村芳太郎

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野村芳太郎の1979年の映画「配達されない三通の手紙」は、イギリスの推理小説作家エラリー・クィーンの小説を映画化したものだが、日本映画としてはどうもしっくりしないところがある。筋書きが日本人離れしているし、人物の醸し出す雰囲気が日本人らしくない。そのため映画の観客は、どこか別世界の出来事を見せられているような感じになる。娯楽作品としては、別にそれでも不都合なことはないわけだが、野村と言えば社会派映画で通ってきたこともあって、どうもすっきりしない印象を与える。

雲龍図屏風:宗達の水墨画

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「雲龍図屏風」は、「松島図屏風」とともに海外に流出した宗達の傑作。ワシントンのフリーア美術館が所蔵している。水墨画の名品だ。六曲一双の屏風絵で、左右の龍が互いに睨みあっている図柄だ。どちらも背景を黒く塗りつぶすことで、龍の輪郭を浮かび上がらせる工夫をしている。また、波の描き方に、宗達らしい特徴がある。

永井荷風「腕くらべ」

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荷風言うところの賤業婦とは、性を売り物にする女のことである。これは人類史上最古の職業と言ってもよく、日本でも万葉の時代にすでに浮かれ女という名称の賤業婦があった。この賤業婦を荷風は、生涯のテーマとして追い続けた。対象が対象であるから、とかく堕落しがちなこのテーマを、荷風はあくまでも文学的に扱った。であるから荷風の小説の中の賤業婦たちは、みだらさは感じさせるが、堕落したところはない。みな自分の気持に忠実に生きている。その生きざまに荷風は同感したのだろう、彼の賤業婦の描き方には、愛するものをいとおしむ気持ちがこもっている。

聖顔:ルオーの宗教画

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聖顔をモチーフにしたルオーの絵が、キリストの顔だけをアップで画いたことには、ヴェロニカ伝説が背景にある。前回に述べたように、キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘へと引き立てられていったとき、ひとりの女性が前へ進み出て、布でキリストの顔を拭いた。するとその布にキリストの顔が焼き付いた、というのがこの伝説の眼目だ。ルオーはその伝説を彼なりに斟酌して、布に焼き付いたキリストの顔を描き続けたのだと思う。

鬼畜:野村芳太郎

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野村芳太郎の1978年の映画「鬼畜」は、松本清張の同名の短編小説を映画化したものだ。テーマは子捨て・子殺しだ。清張がこの小説を書いたのは1957年のことで、それを20年もたった時点で映画化したことに、なにか特別の理由があったのか、よくはわからないが、この手のテーマは、時代にはあまり関係がないのかもしれない。21世紀に入っても、「誰も知らない」のような子捨てをテーマにした映画が作られていることからも、そう思われないでもない。

日立がイギリスの原発事業に乗り出すにあたり、日本政府がこれを全面的にバックアップする方針を安倍政権が打ち出したそうだ。バックアップの内容は多岐にわたるが、ポイントは日立への融資に日本政府が事実上の債務保証をつけるというものだ。これは具体的には一兆一千億円にのぼる日本側の融資について、政府系の日本貿易保険が全額保証するというもので、この事業が破綻した場合には日本国民の負担でリスクを肩代わりすることを意味している。このスキームの策定に当たっては、アメリカの原発事業で深刻な打撃を受けた東芝が先例となっているようだ。

ハイデガーが1947年に公開した「ヒューマニズムについて」は、副題にあるとおり、フランスの研究者ジャン・ボーフレにあてた書簡の体裁をとっている。ボーフレはサルトルの動静(「実存主義はヒューマニズムである」の刊行など)を考慮しながら、ハイデガーの哲学がサルトルの実存主義とどのようなかかわりがあるかについて問題提起し、それにハイデガーが答えるという形をとっている。ハイデガーの答えは、単純化して言うと、自分の思想はサルトルの実存主義やヒューマニズムとは関係がないというものだった。ハイデガーのこの突き放した見方が、その後サルトルの実存主義が不人気になるについて、一定の影響を与えたと見られている。

韓国の主導で南北会談が催され、両国の融和ムードが演出される中で、アメリカのトランプ大統領はこれを歓迎するかのような反応を見せているが、アメリカ国内にはこの動きを苦々しく見ている者が多いようだ。彼らに共通しているのは、この融和によって北朝鮮への圧力に向けた国際的な包囲網が崩れ、その結果北朝鮮に核ミサイル開発への時間的な余裕を与えることで、アメリカの安全保障が著しく損なわれる恐れだ。彼らはこの恐れを理由にして、北朝鮮がアメリカを標的にした核ミサイルを完成させる前に、北を先制攻撃すべきだと主張している。ニューズウィークの日本版に寄せられたエドワード・ルトワック署名の記事などはその代表的なものだ。

娘子伝説:万葉集を読む

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万葉集巻十六は、万葉集のなかでも非常にユニークな巻だ。伝説や民謡に取材した歌のほかに、諧謔や笑いを詠ったものが多い。正岡子規は、諧謔や滑稽を文学的趣味の大なるものとしたうえで、万葉集の巻十六が滑稽に満ちているとし、「歌を作るものは万葉を見ざるべからず、万葉を読む者は第十六巻を読むことを忘るべからず」と言って激賞した。ここでもおいおいそういう歌を鑑賞するとして、まず冒頭に巻頭に収められた娘子伝説にかかる歌を取り上げたい。

事件:野村芳太郎

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野村芳太郎の1978年の映画「事件」は、大岡昇平の同名の小説を映画化したものだ。この小説はベスト・セラーとなり、筆者も読んだことがあるが、非常によくできた推理小説との印象を持った。その割に筋書きの詳細は忘れてしまったが、物語の展開にグイグイと引き付けられた興奮はよく覚えている。野村は、小説が刊行された翌年にこれを映画化したわけだが、その直前にはNHKがテレビドラマ化して放映していた。どちらも大いに反響を呼んだ。

牛図:宗達の水墨画

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京都の日蓮宗寺院頂妙寺は、宗達の墓があることで知られているが(真偽は確かではない)、そこには宗達の牛を描いた双福の掛軸が保存されている。普段は非公開で、特別公開の際も双福がそろって公開されることはない。なお、この頂妙寺は、有名な安土宗論に日蓮宗を代表して僧を派遣したほど、日蓮宗にとって重要な意義を持った寺である。

日本は強姦天国か?

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元TBSのワシントン支局長で安倍首相と親しい関係にあると言われる某氏が、ジャーナリスト志望の女性に対して、自分の地位を利用して準強姦行為を働いたとされる件について、女性が勇気を出して声をあげたにかかわらず、日本のメディアは無視に近い対応ぶりを見せているが、欧米のメディはこぞってこれをとりあげ、日本の男尊女卑的な風土を批判する見解を表明している。

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キリストが十字架を背負わされてゴルゴタの丘へ向かう途中、大勢の群衆の中から一人の女性が前へ出て、布でキリストの顔を拭いてあげたところ、その布にキリストの顔が焼き付いたという話は、聖書にではなく、ニコデモの外典に出てくる話だが、聖書と劣らぬほど広く民衆の間に流布した。そして多くの画家が、その逸話をイメージ化した。ルオーのこの絵も、そうした伝統の上に立ったものである。

山川菊栄「武家の女性」

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山川菊栄の「武家の女性」は、自分の母親とその家族を中心にして、幕末・維新期の日本の武家の女性の生き方を描いたものだが、単に女性にとどまらず、当時の武士社会の生活ぶりが生き生きと描かれている。菊栄が生まれ育ったのは水戸藩で、水戸藩固有の事情も随分働いているとは思うが、武士階級の置かれていた基本的な条件はさほど異なってはいないと思うので、この本を読むと、幕末頃の武士の生活ぶりがよくわかるのではないか。

遣新羅使の歌:万葉集を読む

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万葉集巻十五は、遣新羅使の一群の歌及び中臣宅守と狭野娘子の贈答歌からなっている。うち遣新羅使の歌は145首、贈答歌は63首である。この二つの歌群の間には、関連はない。ただどちらも、全体で一つの物語を構成しているという点で、他の巻とは顕著な相違を示している。贈答歌のほうは、別稿で触れたので、ここでは遣新羅使の歌を取り上げたい。

砂の器:野村芳太郎

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「砂の器」は、松本清張の社会派推理小説の傑作である。推理小説としての結構といい、細密な心理描写といい、日本の推理小説史上最高傑作のひとつと言ってよい。それを野村芳太郎が映画化した。原説にかなり忠実な映画化といえるが、単に小説を映画化したというばかりでなく、映画としての醍醐味を最大限に味わせてくれる傑作である。

トランプの延命はFOXニュースの手柄

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先日FOXニュースのブライトバート化について言及したが、ブライトバート化することによってFOXニュースは、なりふりかまわずトランプを擁護しているとの印象が強まっているのは事実のようだ。そればかりではない、FOXニュースのおかげでトランプは、政治的な危機を幾分やわらげられてもいる。もしFOXニュースが大々的にトランプを擁護しなかったら、トランプは今頃倒れていただろう。そこが同じ大統領のスキャンダルでもニクソンとは違う事情が働いている。言葉を換えれば、もしニクソンの時代にFOXニュースのようなものがあったら、ニクソンは生き延びたかもしれない。

狗子図:宗達の水墨画

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宗達の水墨画の最大の特徴は、「たらしこみ」という技法を生かしていることである。たらしこみというのは、墨を塗ったあと、それが乾かないうちに墨を加えることで、墨のにじみの効果を利用した技法である。この技法を活用することで、水墨画らしい濃淡のコントラストを表現することができる。

永井荷風「妾宅」

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永井荷風には、随筆だか小説だか区別のつかない曖昧な作品が多くある。それらは、小説の体裁を借りて随筆を書いているのか、あるいは随筆に小説の趣を添えることで文章に色を添えているのか、どちらともとれない曖昧さがあって、それがまた荷風の良さだとするような見立てもあったりするのだが、ともあれそういう曖昧さを身上とする一連の作品が荷風にはあるということだ。荷風畢生の傑作といわれる「濹東綺譚」はその代表的なものである。初期の短編「妾宅」は、作家としての荷風が自分の作風を確立する過程で楽しんだ寄り道のように見えるが、そこにもすでに「濹東綺譚」で華麗に展開された随筆風小説の技法の冴えがすでに十分に見られるのである。

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ルオーは、キリストの受難をテーマにした絵を夥しく描いた。「辱めを受けるキリスト(Le Christ aux outrages)」と題するこの絵は、その代表的なものの一つである。「この人を見よ」という言葉で知られている、ピラトの官邸におけるキリストの受難を描いたものだ。

拝啓天皇陛下様:野村芳太郎

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日本映画は、諸外国に比べると戦争をテーマにするのが好きだったと言える。戦争の取り上げ方にはいくつかのパターンがあって、日本兵の勇敢さをたたえるものとか、軍隊生活の厳しさを強調するものが多かったが、それらと並んで戦友同士の熱い友情も好んで取り上がられた。野村芳太郎の1963年公開の映画「拝啓天皇陛下様」は、その代表的なものだろう。これは結構人気が出て、続編が出たほどだ。渥美清のとぼけた演技が、観客に受けたからだと言われる。

プーチンのロシアとトランプのアメリカ

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今年はロシアの大統領選が予定されているが、いまのところプーチンの勝利は揺るがないと見られる。プーチンの最大の政敵であるナヴァーリヌイが立候補できなくされているし、そのほかに脅威となるようなライバル政治家が見当たらない。プーチンが今年の大統領選に勝てば、首相時代の四年間を含めて、およそ四半世紀にわたってロシア政界に君臨することになる。

ハイデガー「ピュシスの本質と概念」

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ハイデガーは「形而上学入門」の中で、ピュシスを存在者の全体、あるいは全体としての存在者と規定していた。一方でハイデガーは、ピュシスというギリシャ語がラテン語のナトゥラと訳されたことをきっかけにして、(ドイツ語を含め)現代のヨーロッパ諸語ではいわゆる自然という意味になっていることに言及しつつ、ピュシスの本来の意味は、そうした外面的なものとしての自然などではなく、存在者の本源的な在り方、つまり存在者の本質としての存在だとも言っていた。つまり、「形而上学入門」の時点では、ピュシスという語にはある揺らぎがあったわけである。

問答歌:万葉集を読む

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万葉集巻十三に収められた問答歌は、相聞のバリエーションと言える。相聞歌が、恋焦がれる気持ちを一方的に述べたものが多いのに対して、問答歌は、字面とおり男女の問答という形をとっている。問答といっても、論議のようなものではなく、一方が恋の思いを打ち明け、他方がそれに応えるという形をとっている。それ故、贈答歌と言ってもよい。ここでは、女から男に呼びかけ、それに男が答えたものをとりあげたい。

張込み:野村芳太郎

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野村芳太郎は多作な作家で、いろいろなジャンルの映画を作っているが、最も得意なのはサスペンス・タッチの映画だった。野村は推理小説のマニアだったといわれ、なかでも松本清張の作品が好きだった。その清張の作品をいくつか映画化している。1958年の作品「張込み」は、その最初のものだ。

能「草紙洗」

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NHKのEテレが能楽の紹介に手を抜くようになってからも、正月三が日は放送していたものが、昨年は二日に短縮され、今年はついに元旦だけになってしまった。その今年の元旦の出し物は「草紙洗小町」だった。宝生流の能なので、「草紙洗」となる。能に数多くある小町物の一つだ。小町物はなかなかバラエティに富んでいるのだが、これは宮中の歌合せでの、相手のあくどい策略を見抜くというもので、小町は歌の名手と言うよりは、智慧に優れた人として描かれている。小町物としてはめずらしい作品だ。

源氏物語澪標図:宗達の襖絵

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宗達の襖絵「源氏物語澪標図」は、同「関屋図」とともに一組をなすものだ。宗達はこれらが一対の組を形成していることを、さまざまな面で強調している。山に対する海、静に対する動、水平線の強調に対する垂直線の強調などである。こうしたコントラストの強調を通じて、この一対の絵が、有機的につながりあっていることを主張しているかのようである。

老いた王(Le vieux roi):ルオーの世界

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「老いた王(Le vieux roi)」と題するこの絵は、ルオーの最高傑作のひとつに数えられる。ステンドグラスを思わせるその画風が、もっともルオーらしさを感じさせるとともに、ルオー特有の内面的な深さをも表現し得ているからだろう。ルオーはこの絵の完成に20年以上をかけたと言われるが、それほど彼自身もこの絵に特別のこだわりをもっていたのであろう。

妾の半生涯:福田英子の自叙伝

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福田英子といえば、自由民権運動の女闘士として歴史に名を残した女性だ。また日本初期の社会主義者として女性の解放運動に尽力したことで知られている。その福田が自分の半生について語ったのが「妾の半生涯」。彼女の自叙伝というべきもので、出生から三十代半ばまでの半生について語っている。彼女の半生を彩る最大の事件は、明治十八年の「大阪事件」であることから、この自叙伝はおのずから大阪事件を中心に展開する。彼女はなぜこの事件にかかわるようになったか、その結果にぶち込まれた黎明期の日本の近代監獄の様子がどのようなものだったか、そして釈放後の娑婆で思いがけない歓迎を受けたことや、男たちとの決して幸福だとはいえなかった関係などが語られ、読み物としても興味深いものとなっている。

平成三十年を迎えて

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平成もついに三十年目を迎えた。来年は五月に改元が予定されているので、一年まるまる平成なのは今年で最後ということになる。この節目の如き年に、筆者も満七十歳になる。正直この年まで生きるとは、十年前には思っていなかったので、ありがたいことなのか、情けないことなのか、よくはわからぬが、とりあえず命のあることを実感している次第だ。何事も命あってこそ、だ。

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