2018年2月アーカイブ

新橋で中華料理もどきを食う

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山子夫妻、落、松の諸子と久しぶりに会って小宴を催した。場所は新橋駅前のビルにある過門香という中華料理屋。新橋で中華料理を食うなら新橋亭がいいのだが、新橋亭は値が張るのでここにした次第。だがその判断はあまり当を得ていなかったようだ。わけは後で言及する。

学海先生の明治維新その七

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 いよいよ依田学海先生の史伝風小説に取り掛かるべきときがきた。史伝というからには一応出生から始めるのが穏当であろう。学海日録は安政三年先生満二十二歳の年から始められており、それ以前のことがらについての記載はないし、出生のことについても言及がない。そこでほかの資料にあたって知りえた限りのことを紹介したいと思う。
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フランシス・フォード・コッポラの1979年の映画「地獄の黙示録(Apocalypse Now)」は、ベトナム戦争を批判的に描いた作品である。ただし多くのベトナム反戦映画と違って、アメリカによる戦争を一方的に悪いという描き方はしていない。戦争そのものがトータルとして悪いのであり、そこではアメリカもベトナムも戦争マニアという点では同じ穴のムジナだというシニカルな視点が読み取れる。それはベトナム戦争が終わって何年かたったあとで、戦争を第三者的な視点から見る余裕がアメリカの映画界に生まれてきたことを反映しているようである。

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「新板かげづくし」は、慶應三年(1867)に出版した影絵シリーズ。このシリーズは、回り灯籠に江戸風鈴をあしらったものに、灯籠に移った影を見世物にするもので、軍人の戦闘を描くものや、物の怪を描いたものなどがある。「天狗の踊り」と題したこの一枚は、文字通り天狗たちの踊る様子を影絵で描いている。

喜びの女王:ロートレックのポスター

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ヴィクトル・ジョーズのペンネームで活躍していたポーランド人の作家ヴィクトル・ドブルスキーが、1892年に「喜びの女王」という小説を出版したが、その宣伝のためにロートレックにポスターの作成を依頼した。ジョーズは作家活動の傍ら「世紀末」という雑誌を発行したりしていて、なかなか活発な面があり、ロートレックとも日ごろ親しかった。そんなわけでロートレックは二つ返事でその仕事を引き受けた。

小熊英二「生きて帰ってきた男」

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岩波新書の一冊「生きて帰ってきた男」は、社会学者の小熊英二が自分の父親の生涯を、聞き書きと言う形でまとめたものである。小熊の父親は敗戦直前の昭和十九年十一月二十五日に陸軍に召集され、満州で敗戦を迎えた後シベリアに抑留され、その三年後の昭和二十三年八月に復員した。この聞き書きはシベリア抑留生活を中心に、入営以前の父親の家族の暮らしぶりと、復員後の父親の生き方を併せて紹介することで、戦争の時代を生きた日本人の一つの典型を描き出そうとするものだ。著者が言うとおり、それまでのシベリア抑留にかかわる書物はいずれも抑留だけに焦点を当て、その前後の生活の部分をオミットしていたが、この本はそれを含めて紹介することで、シベリア抑留を生きた一日本人の肖像を立体的に浮かび上がらせることができているように思う。

学海先生の明治維新その六

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「オヌシの名はなんと言う?」 
 混乱している小生に学海先生は冷静な様子で語りかけた。
「鬼貫進一郎と言います」
「鬼貫という姓は佐倉藩士の中では聞いたことがないが、オヌシの家はいつからここに住んでおるのじゃ?」
「三十数年前からです。わたしの父親は会津の人間なのですが、たまたま仕事の都合で佐倉に住み、それ以来ここに定着したのです」
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第一次世界大戦を描いた映画が少ないのは、映画の歴史からいって致し方のないことだった。第一次大戦が終わったのは1918年のことだが、映画が本格的に作られるようになるのは20年代以降のことだからだ。そういう映画の歴史において、1930年にアメリカで作られた「西部戦線異状なし」は、第一次世界大戦を描いた作品のうちでは最高傑作との評価が高い。これは、前年にレマルクが発表した同名の小説を原作としたものだが、ドイツ軍の視点から戦争を描いている。それをアメリカの映画人がとりあげたわけである。

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「五道」と題したこの絵は、「とうつくし画帳」シリーズの中の一枚。このシリーズは、日本橋大伝馬町の小間物屋勝田五兵衛の依頼で描いた一連の小型浮世絵のことで、暁斎はこれらを百枚以上描いたという。ほかに五兵衛の依頼で作ったものに「猩々狂斎風俗画帖」があり、いずれも暁斎を名乗る以前の幕末期の作品である。

あじさゐ:荷風の芸者観

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「あじさゐ」は三十枚ほどの小編ではあるが、なかなかに味わい深い。いわゆる賤業婦に生涯こだわりを持ち続けた荷風散人が、賤業婦の花ともいうべき芸者について、自分なりの趣味・主張を開陳して見せたもので、荷風の芸者観がもっともあからさまな形で表現された作品である。

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ロートレックは、アンバサドゥールに続いてエルドラドのために同じようなポスターを作った。これについても面白い逸話がある。エルドラドは、ストラスブール街にあったカフェだが、そこの経営者にブリュアンが掛け合い、アンバサドゥールでの成功を再現すべく、ロートレックにポスター制作の依頼をすることを承知させた。ところがエルドラドの経営者はケチで、印刷実費に相当する金額しか出さなかった。そこで侮辱されたと感じたロートレックは、デザインに手を抜くこととした。アンバサドゥールに使ったデザインを、180度ひっくりかえしただけでそのまま使ったのだ。

誰が為に鐘は鳴る

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ヘミングウェーは、スペイン内戦の早い時期から共和国政府側に立って参戦し、ファッショ勢力と戦った。その体験から生まれたのが「誰が為に鐘は鳴る」である。この小説は、ファッショ勢力と戦うアメリカ人の義勇兵を主人公にしているが、この主人公には多分にヘミングウェーの自己像が投影されていると考えられる。この義勇兵は非常に魅力的な男に描かれているが、ヘミングウェー自身もマッチョでしかも正義感の強い男だった。彼はすでに十代の頃、第一次世界大戦に際してイタリア戦線に衛生兵として従軍したが、それもまたドイツ・オーストリアの抑圧的な勢力から民主主義を守ろうとする気持ちに出たものだった。

プラトンは、ミメーシス(模倣)こそがあらゆる芸術の本質である、と言った。何を模倣するのか。イデアである。通常、模倣されるものは模倣するものより先立ってある。先立ってあるとは、序列で言えば上位にあるということだ。したがってイデアが体現する真理はプラトンにとって、芸術より上位のものということになる。ところがニーチェは、芸術は真理よりも上位にあると言った。そう言うことで、芸術と真理をめぐるプラトン主義を転倒しようというわけである。

学海先生の明治維新その五

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 その年の五月の飛び石連休が過ぎて新緑が日に日に深まる頃、小生は英策と誘い合わせて依田学海の墓を訪ねた。あらかじめ乗る列車を示し合わせておいて、船橋駅で車内合流し、日暮里で降りた。学海の墓がある谷中の墓地は南口を降りて石段を登り、数分歩いたところにある。我々はまず霊園管理事務所に立ち寄り、受付の女性事務員に学海の墓の所在を聞いた。事務員は霊園案内図を取り出して、学海の墓の所在を教えてくれた。広い霊園には番地のようなものが付されていて、依田学海の墓は乙列3号6側というところにあった。管理事務所からは目と鼻の先だ。

武器よさらば:ヘミングウェーの映画化

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「武器よさらば」をヘミングウェーが書いたのは1929年で、その三年後に映画化された。原作の小説も映画もどちらも大きな反響を呼んだ。その小説を筆者が読んだのは20代の終わりのことだったが、深刻な影響を受けた。というのは、この小説は至る所に主人公の俄か軍人が酒を飲むシーンが出てきて、それがいかにもスマートな飲みぶりなので、あたかも洒落た酒の飲み方こそがこの小説のテーマだと思わせられたものだ。これがきっかけで、それまで飲酒習慣のなかった筆者は自他共に認める酒飲みになってしまった。

不動明王開化:河鍋暁斎の戯画

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「不動明王開化」と題するこの絵は、「暁斎楽画」シリーズの一枚(第五号)だ。「暁斎楽画」は明治七年(1874)沢村屋から出版した大判錦絵のシリーズで、明治維新にともなう文明開化の諸相を皮肉たっぷりに描いたもの。風刺のさびと色彩の豊かさが独特のコントラストを醸し出し、江戸っ子の人気を博した。

戦争と映画その五

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 ポーランド映画:ポーランドにとっては、ドイツもソ連も侵略者だった。しかし敗戦後はソ連圏に繰り入れられたこともあって、ソ連を表立って批判する映画は作れなかった。1956年にアンジェイ・ワイダが「地下水道」を作ったが、これは表向きは対独戦を描きながらも、ソ連に対する批判も含まれていた。この映画はワルシャワ蜂起を描いたものだが、この蜂起が失敗した根本的な原因は、ソ連側がわざとワルシャワを見殺しにしたというふうに受け取られていたからだ。ワルシャワ蜂起を描くこと自体、ソ連への批判だったわけだ。
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アリスティード・ブリュアンはロートレックの同時代における人気歌手だった。彼は自分自身で音楽カフェ(ミルリトン)を経営する傍ら、パリの人気カフェにも出場していた。このポスターは、そうしたカフェの一つである「アンバサドゥール」のために制作されたものだ。それについては面白い逸話がある。

戦争と映画その四

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 イタリアの戦争映画:イタリアは敗戦国ではあるが、ドイツや日本とはかなり違った事情がある。ドイツと日本は、国家全体が敗者として裁かれたのであるが、イタリアの場合には、国内に反ファッショのレジスタンス勢力があって、それがムッソリーニの打倒に大きな役割を果たした。したがってイタリア人にとっての敗戦の意味は、ドイツ人や日本人とは違う、反ファッショ・レジスタンス勢力にとっては、ムッソリーニ政権の崩壊は、イタリアの敗戦ではなく、民主主義の勝利と言うことになり、その意味では、反ファッショの勝利なのである。イタリア人の中には、イタリアは実は敗戦国ではなく戦勝国だと主張するものもあるが、それは反ファッショが勝利したということに焦点を合わせた主張だ。

学海先生の明治維新その四

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 結局小生は英策の言葉に動かされて依田学海の日記類を読んでみる気になった。日記本体の学海日録は岩波書店から十一巻本で出版されているものが新町の市立図書館にあるというので、それを借りて読んだ。墨水別墅雑録のほうは図書館に置いていなかったので、本屋から取り寄せた。借りた本は船橋のマンションで読んだ。マンションには無論荊婦がいて、その不機嫌そうな顔と毎日つきあわせになるのがつらかったが、我々はもとからあまり会話をする習慣がなかったので、毎日職場から戻ると夕食を手早くすませ、自分の部屋に閉じこもって借りて来た本を読んだ。
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1981年のドイツ映画「U・ボート」は、文字通り潜水艦U・ボートの戦いぶりを描いたもので、一応戦争映画のジャンルに入る。ドイツは、かなり複雑な事情から敗戦したこともあって、戦争を正面から見つめるような映画を作ることを長い間ためらいっていたかのような感じを受けるのだが、1981年ともなれば、戦争の記憶にもヴェールがかかってきて、戦争を過去の出来事として客観的に見つめようとする姿勢が出てきたのだろう。この映画には、そうした戦争に対する客観的な視線が働いているように見える。

戦争と映画その三

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 講和後:日本は1952年にサンフランシスコ講和条約を結び、一応形の上では独立を回復した。そのことは映画界にも反映し、それまでGHQに遠慮してタブー視してきたようなことをとりあげる動きにつながっていった。つまり敗戦後初めて、第二次世界大戦が日本にとって持った意味を考えるようになったわけである。しかし、そこには日本独自のねじれのようなものを指摘することができる。
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「一寸見なんしことしの新ぱん」と題する三枚組の浮世絵は、幕末の物価騰貴を痛烈に批判したものだ。文久年間から上がり始めた物価は、慶應年間に入るとすさまじい勢いを呈し、この浮世絵が出回る直前(慶應二年)には、関西では米価が十年前の十倍、江戸でも四倍に跳ね上がる様相を呈した。そのため庶民の生活が窮迫し、米一揆や打ちこわしが各地で発生したほか、江戸近傍では武州一揆と呼ばれる大規模な騒乱が起こった。

つゆのあとさき

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荷風散人が昭和六年に小説「つゆのあとさき」を発表したとき、谷崎潤一郎が早速読後感を寄せて、ユニークな荷風論を展開して見せた。谷崎が言うには、荷風には洋風の審美主義と和風の骨董趣味とが混在しており、自分としては審美主義の方が好きなのであるが、荷風のこの新作は骨董主義へ逃げ込んだものとして、自分としてはあまり高くは評価できないと評した。これは批評上の一見識と言えなくもないが、そこにはやはり谷崎なりの美意識が絡んでいるとも言えるので、読者の中には、荷風のバタくさい審美主義よりいさぎよい江戸趣味(骨董趣味の別名だ)をより好む者もいよう。筆者もそうした荷風の江戸趣味を好む者の一人だ。そう言う点でこの小説などは、非常に筆者の感性に合っていると言えるのだが、この小説にはそれを超えたところもある。谷崎は同じ評論の中で、荷風の小説、とりわけこの新作の中の登場人物には、人間の血が流れていないように感じると言っているのだが、筆者などはその正反対に、この小説の登場人物、とりわけ主人公の女給君江に強い人間性を感じるのだ。

戦争と映画その二

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2 日本の戦争映画
 日本の戦争映画は、時期的に、戦時中、敗戦直後、講和以降に分けて論じるのがよいだろう。
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ロートレックが初めてポスターを制作したのは1891年の夏、26歳の時であった。その二年前の1889年に、シャルル・ジドレがモンマルトルにキャバレー、ムーラン・ルージュ(赤い風車)を開業していたが、その宣伝のためのポスターをロートレックに注文したのだった。この注文をロートレックが真摯に受け止めたことは、制作への意気込みを語った母親あての手紙の中で示されている。その中で彼は、自分がこの新しい芸術の旗手になることへの矜持を吐露している。

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スタンバーグとディートリッヒはドイツで「嘆きの天使」を作った後、一緒にハリウッドにわたって映画史に残る名作を作った。「モロッコ」である。この映画では、マレーネ・ディートリッヒの妖艶な美しさが引き続き披露されたほか、アメリカ映画永遠の二枚目と言われるゲーリー・クーパーが、ディートリッヒの相方として存在感を示した。

戦争と映画その一

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以下は二月十三日に催された四方山話の会の席上、小生が「戦争と映画」と題して行った講演の記録である。

ニーチェは、最初の仕事への準備中に作成した覚書のなかで、「私の哲学は、転倒されたプラトン主義である」と書いている。ハイデガーは、この言葉を手掛かりにして、ニーチェによるプラトン主義の転倒について語る。その場合問題となるのは、ニーチェが「転倒されたプラトン主義」という言葉で何を意味していたのか、ということである。プラトン主義の一変種としての転倒されたプラトン主義なのか、それともそもそもプラトン主義を転倒することで、プラトン主義とは全く異なった主義をイメージしているのか。これはどうでもよい区分ではない。どちらをとるかによって、百八十度議論の方向が違ってくるような、本質的な区分だ。だから、「転倒されたプラトン主義」について語る際には、この区分をきちんと押さえておく必要がある。

戦争と映画を語る

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昨年の暮に浅草橋でフグを食った後立ち寄ったバーで、石子から次回はお前が映画論をやれと言われて引き受けてしまったことを紹介したが、この日(2月13日)はその披露の場となった。そこで小生は事前に万端の準備を整え、レジュメも用意したうえでその場に臨んだのだった。会する者は小生を含めて七人。それら小生以外の六人を相手に小生は一時間半にわたって熱弁をふるった次第だ。その内容については前回同様、講演録という形で別途紹介したい。

学海先生の明治維新その三

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 その日は秋もようやく深まりつつある九月なかばの満月の日に当たっていた。旧暦でいえば八月の半ばになるから、この月は中秋の名月と言ってよい。小生の佐倉の家は、縁側を隔てて外気に直接接している。その間には雨戸のほか障子一枚しか介入するものがないから、障子をあけ放つと家の内外の境はなくなる。小生は中秋の名月とて雨戸も障子も立てないまま、天上の月とその光に煌々と照らされた庭を見やりながら、英策との歓談を楽しんでいた。
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1930年のドイツ映画「嘆きの天使(Der blaue Engel)」は、マレーネ・ディートリッヒを一躍世界の大女優に売り出した作品だ。ディートリッヒの名声はいまでも色あせていない。とりわけドイツ人にとっては永遠の女性として愛されている。筆者は先日ベルリンのポツダム広場にある映画博物館を見物したが、そこでもディートリッヒの扱いぶりは半端ではなかった。ドイツ映画と言えばまずディートリッヒがあげられるほど、ディートリッヒはドイツ人に敬愛されているばかりか、ハリウッドで活躍したこともあって、世界の映画史に燦然とした輝きを放っている。

風流蛙大合戦之図:河鍋暁斎の戯画

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河鍋暁斎は、若い頃から社会情勢には敏感で、世の中の動きを戯画にして笑い飛ばしていた。「風流蛙大合戦之図」と題したこの絵はその代表的なもの。元治元年(1864)に描かれたこの作品は、同年夏に勃発した第一次長州征伐の様子を描いたとされている。

ロートレックのポスター

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トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec 1864-1901)は、36歳の若さで死んだが、その短い生涯におびただしい数の作品を制作した。1000点に上る絵画作品(油彩及び水彩)、400点以上のグラフィック作品、そして5000点以上のデッサンである。しかし彼の芸術家としての名声は、わずかな数のポスターによると言っても過言ではない。彼が生涯に制作したポスターは31点にすぎないが、もしこれらのポスターを制作することがなかったなら、偉大な芸術家としての名声を残すことはなかっただろう。

学海先生の明治維新その二

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 あるとき小生は、英策を佐倉の小生の家に招いて酒を飲みながら語り明かしたことがあった。その家というのは、小生の一家が佐倉に引っ越してきたときに父が借りたもので、後に父はそれが気に入って買い取ったのだった。小生は結婚するまでその家で暮らしたが、結婚すると船橋でマンション暮らしを始め、またただ一人の妹も結婚して家を出たので、長い間両親だけで暮らしていた。その両親が昨年あいついで亡くなった後、小生はその家を売らずにそのままにしておき、時々息抜きを兼ねて風を入れるために訪れ、半ばは別荘のようにして使っていたのだった。
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「私は貝になりたい」は、1958年にフランキー堺を主演にテレビドラマ化され大きな反響を呼んだものを、翌年映画化したものである。橋本忍が監督を、フランキー堺が主演をつとめた。テーマはBC級戦犯死刑囚の生き方と死に方をめぐるものである。

新富座妖怪引幕:川鍋暁斎の戯画

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川鍋暁斎は、絵そのものもユニークなものが多かったが、創作態度も破天荒だった。その一つに席画というものがあった。これは大勢の見物人を前にして、即興的に絵を仕上げるというものだ。その際には、酒を飲んで酔っていることもあったようだ。

永井荷風「雪解」

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「雪解」は小品ながらよくできた作品だ。雪解け水の点滴の音の描写で始まり、わずか二日間の出来事を淡々と綴ったものだが、その短い時間の中に人間の生涯が凝縮されている。その生涯と言うのは、主人公の初老の男にとっては敗残の一生であり、その男が二階を間借りしている出方の女房にとっては偽りの生涯であったらしく、また初老の男が数年ぶりに再会した実の娘にとっては、これから始まるべき一生がすでに清算されてしまっているかのように見えると言った具合なのである。

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「優しいベルナール(Gentil Bernard)」と題したこの絵も、「うらぶれた旅のサーカス」シリーズの一点である。「小さいルイ」と比較すると、こちらは彩度をぐっと低く抑えている。そのため全体として暗い雰囲気に見える。構図のほうはほとんど同じで、色彩感が正反対ということだが、そうすることでルオーは何を意図したのか。

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戦時中にはおびただしい数の戦意高揚映画がつくられたが、そのほとんどは幼稚な日本軍礼賛であったり、逆に兵士の困難な境遇ばかりを強調する厭戦映画のようなもので、本当の意味での戦意高揚映画はなかなか作られなかった。そんな中で山本嘉次郎が1942年に作った「ハワイ・マレー沖海戦」は、傑作と言ってよい作品である。傑作というのは、当時の海軍の様子が、飾らないタッチで詳しく紹介されており、そのドキュメンタリータッチな描き方が、日本史の一こまを如実に表現し得ているという意味である。

ニーチェの思想の中核概念を、ハイデガーは力への意思として捉えた。力への意思とは、ニーチェにとっては、生命ある存在者、究極的には人間についての規定性である。それをハイデガーは、力への意思は存在者の本質的なあり方、つまり存在者の存在そのものとして捉える。だが、ハイデガーのいう存在者とは、そもそも人間がこの世界で出会うあらゆる存在者をいうのではないのか。ハイデガーはピュシスという言葉を好んで使うが、この言葉は存在者の全体というニュアンスで使われている。そこには当然現存在としての人間も含まれるが、その人間が世界で出会うあらゆる存在者(その中には当然自然や歴史も含まれる)をさしていたはずだ。だがハイデガーは、ニーチェに依拠しながら、力への意思が存在者の存在の本質だと言うことによって、存在者を生あるもの、ひいては人間という存在者に限定しようとしている。そのことの弁明として、ハイデガーは、ニーチェの次のような言葉を引用する。「何か死んだものが、どうして<存在する>といえようか」

学海先生の明治維新その一

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 依田学海という名を聞いて何か思い当たる人はほとんどいないだろう。明治の二十年代前後に演劇界にかかわったことがあるので、明治の演劇史に明るい一部の人に知られているだけではないか。彼の劇作家としての業績は、勧善懲悪風の古くさい演劇観に毒されていたようなので、今日彼を評価するものはいないに等しい。ここで「いたようなので」という曖昧な言葉を使った理由は、小生自身依田学海の演劇上の業績をひもといたことがないからで、彼の書いた戯曲が果たしてどのようなものか、確認したことがないからだ。にもかかわらず小生が依田学海に関心を持つに至ったのには別の理由がある。小生は小学生の頃に千葉県の佐倉に移住してきて以来そこで育ったのであるが、依田学海はその佐倉にゆかりのある人だと知ったことが機縁となって、興味を抱いたのだった。

日本の黒い夏 冤罪:熊井啓

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熊井啓の2001年公開の映画「日本の黒い夏 冤罪」は、1994年の夏に起きた「松本サリン事件」を描いた作品だ。副タイトルにあるように、冤罪がテーマになっている。この事件は当時、事件の第一通報者が誤って被疑者扱いされ、その後オウム真理教の起こした犯罪だということが判明したのであるが、何故第一通報者が被疑者扱いされ、そのことによって言うにいわれぬ苦痛をこうむったか、そのことを考えさせる内容となっている。

小説「学海先生の明治維新」を連載

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かねてこのブログの記事でも予告していたとおり、小生はこのたび小説の連載を始めようと思う。題名は「学海先生の明治維新」という。小生にとっては第二の故郷というべき千葉県佐倉市の先達である依田学海を主人公とした小説だ。依田学海は彼なりの明治維新を生きた。その姿に思うところがあってこれを小説にしたいと思ったのはもうだいぶ以前のことだが、いよいよその構想を実現させるべく、この正月から筆を執り始めた。今の時点ではまだ執筆途上である。

河鍋暁斎の世界

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河鍋暁斎(1831-1889)は、幕末から明治初期にかけて活躍した画家だ。しかし長い間その業績が正当に評価されることはなく、近年になってやっとその存在が認められるようになった。しかも日本の国内からではなく、海外での評価の高さがきっかけとなった。なぜそうなのか。海外の名声が国内での評価につながった例は、伊藤若冲はじめほかにもあるが、暁斎の場合には、国内と海外との落差が誰よりも大きかったのではないか。

小さいルイ(Petit Louis):ルオーの世界

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1948年から1952年にかけて、最晩年のルオーは「うらびれた旅のサーカス」という副題のもとで多数の絵を描いた。この「小さいルイ(Petit Louis)」もその一点である。ルイという名の道化を描いたのだと思われる。「小さい」というのは、まだ成年になっていないという意味なのか、それとも身体が小さいという意味なのか、詳しいことはわからない。単なる愛称かもしれない。

豊穣たる熟女たちと寿司を食う

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豊穣たる熟女の皆さんと久しぶりに会い、寿司を食いながら歓談した。船橋駅の改札口付近で待ち合わせ、旧市役所通りに面した寿司屋しゃり膳に入る。そこで生ビールで乾杯しながら久闊を述べた。昨年はとうとう一度も会えなかったが、それは熟女の皆さん一人ひとりにそれぞれ一身上の不都合が重なり、とても遊んでいる余裕がなかったからということだった。

海と毒薬:熊井啓

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「海と毒薬」は、遠藤周作の同名の小説を映画化したものである。遠藤がこれを書いたのは1957年のことで、それを読んだ熊井が早速映画化の承諾を取り付けシナリオまで書いたのだったが、テーマが重すぎて制作者があらわれず、やっと1986年になって自主制作にこぎ着けた。テーマが暗鬱なわりには大きな評判をとった。

蔦の細道図屏風:宗達の世界

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蔦の細道図屏風は、伊勢物語第九段東下りのうち、宇津の山の蔦かずらの生い茂った細道の部分をイメージ化したものに、烏丸光弘が賛として七首の歌を書いたものだ。賛の歌は、いずれも伊勢物語からとられたものではなく、光弘が物語の雰囲気を踏まえて独自に詠んだものと思われる。この部分の原文は次のとおりである。

雨瀟瀟:荷風の退隠小説

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雨瀟瀟とは、雨が物悲しい音をたてて降る様子を表した言葉で、主に秋の雨について用いられる。荷風散人の短編小説「雨瀟瀟」は、そんな秋雨の描写から始まる。曰く、「その年二百二十日の夕から降り出した雨は残りなく萩の花を洗い流しその枝を地に伏せたが高く伸びた紫苑をも頭の重い鶏頭をも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降り続けたあげく三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花をおずおず昼のうちから咲きかけたほどであった」

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「呪われた王(Roi maudit)」と呼ばれるこの絵は、キリストの聖顔を彷彿させる。キリストのかわりに、王冠を被った王の顔が描かれているが、その表情はキリストのそれに似ていなくはない。黒くて大きな瞳、そして長い鼻、口髭の影にかくれた小さな口などは、先に紹介したキリストの「聖顔」の絵とよく似ている。

サンダカン八番娼館 望郷:熊井啓

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熊井啓の1974年の映画「サンダカン八番娼館 望郷」は、南方への出稼ぎ売春婦、いわゆる「からゆきさん」をテーマにした映画である。ノンフィクション作家の山崎朋子が1972年に公表した「サンダカン八番娼館-底辺女性史序章」を下敷きにしている。この本は、明治から昭和の敗戦にいたるまでの長期間、日本の貧しい女性たちがボルネオを舞台として女衒をする連中に売り飛ばされ、そこで悲惨な境遇を送ったさまを描いた。それまであまり知られることのなかった海外売春婦の実態が、この本とそれを映画化したこの作品によって、広く知られるようになった。もっとも、これは日本の恥であるから、最近は話題にされることもない。しかし、近年は一部で売春を合法化しようとする動きもあるようだから、売買春を通じて搾取される女性たちを描いたこの映画は、売春問題を考えるきっかけとしてもっと注目されてよいと思う。

一昨日(一月三十日)のこのブログで、トランプの登場を促したアメリカの福音主義者たちについて触れたが、宗教運動が政治を動かす事例は今回のトランプの登場に限らず世界の至る所で起きてきたし、また起きる可能性がある。日本の安倍政権の登場もある意味ではその一つの例と言える。

ハイデガーは、1936年から1946年にかけて、大学でニーチェについての一連の講義を行い、後にその講義録をまとめて出版した。「ニーチェ」という表題をもつこの講義録は、十本の講義を収めているが、そのうち、第六講の「ニーチェの形而上学」は、総論ともいうべきもので、ハイデガーによるニーチェ解釈の要点が述べられている。したがって読者は、まずこの講義を総論として読み、その後で他の講義を各論として読むことで、全体の理解を促進できると思う。

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