2018年6月アーカイブ

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慶応二年から三年にかけて出版された「美勇水滸伝」は、師国芳の「水滸伝」シリーズを踏まえたものだが、題材は当時流行の読本などに登場する人物にとっている。その数五十図。画集の趣旨を芳年は序文に次のように記した。

「奇妙な仕事」は、大江健三郎の実質的な処女作だ。これを書いたとき大江は二十二歳で、大学在学中だった。当時の大江は、カミュやサルトルに夢中になっていたというが、この作品にはカミュばりの不条理らしさが感じられる。サルトルの実存主義文学の影響も指摘できよう。

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晩年のスーラは、サーカスやミュージックホールといった大衆娯楽施設を頻繁に訪れ、そこからインスピレーションを得ようとしていた。19世紀末のパリには、そうした娯楽施設があふれていた。そこにインスピレーションを求めた芸術家としては、スーラは先駆者の一人と言ってよい。彼に続いてロートレックやピカソが、そうしたものからインスピレーションを得るようになる。

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1964年のミュージカル映画「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」は、日本では「ウェストサイド・ストーリー」と並んで最も成功したミュージカル作品である。というのもこの映画には、オードリー・ヘプバーンが主演していたからだ。日本人は「ローマの休日」以来この女性にすっかりいかれてしまって、男は無論、女たちにも愛されていた。男は彼女を理想の伴侶として愛し、女は彼女を自分の理想の姿として手本にしたのだった。

先日読んだ「他者と死者」の「あとがき」で内田樹は、それまでに発表したレヴィナス論二冊に「時間論」と「身体論」を論じたものを加えてレヴィナス三部作を完成させたいと言っていたが、「死と身体」と題したこの本がそれに応えるもののようである。「時間」が「死」に集約され、その死が身体とどのように結びつくのか、というのがこの本のテーマである。前二作と比べると、レヴィナスは前景化していない。あべこべことばとか、ダブルバインドとか、夢の文法とか、あまりレヴィナスとは関係ないようなことがらをキーワードにして、時間と身体との関連性を論じている。

 英策と一緒に佐倉の祭を見て、学海先生と言葉を交わしたその数日後、小生はあかりさんと北八ヶ岳方面にハイキングした。ハイキングと言っても北八ヶ岳は二千メートルを超える山岳地帯なのでちょっとした登山だ。だから一応登山用の服装をして行った。ニッカーボッカーに皮の登山靴といったいでたちだ。茅野からアプローチし、西側から登って白駒池に一泊し、小海線方面へ下る計画を立てた。
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1961年のミュージカル映画「ウェスト・サイド物語(West Side Story)は、アメリカはもとより世界中でヒットしたが、日本でも外国映画としては空前の大ヒットとなった。筆者も子どもながら興奮したことを覚えている。どういうわけか主演のリチャード・ベイマーよりも脇役のジョージ・チャキリスの方が人気をはくし、彼が来日した時には大フィーバーとなったものだ。

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「和漢百物語」は、月岡芳年の初期の代表作といえるもので、慶応元年(1865)に出版された。目録には二十五葉からなると記されている。いづれも和漢の妖怪をテーマとしたものだ。百とあるのは、一種の語呂合わせで、「多くの」というほどの意味らしい。

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「化粧する若い女」と題したこの絵は、スーラ晩年の愛人マドレーヌ・ノブロックを描いたものだ。彼女はスーラのモデルをしていたが、そのうちにスーラの子どもを産んだ。スーラが死んだときには、彼の二人目の子どもを妊娠していたが、その子は死産となった。スーラに死なれた彼女は頼るべき人もいなかったが、さいわいにスーラの母親に認められて、スーラの遺品の一部を相続できた。それを元手に帽子のショップを開いたりしたが、彼女はどうも世渡りが下手だったらしく、店は倒産して貧困の生涯を送ったようだ。

保守主義あるいは保守的な思想というものは、どの国のどの時代にもあるものである。少なくとも近代以降はそうであった。その基本的な特徴は、既存の秩序を脅かすものに対抗して、既存の秩序を守ろうとするところにある。保守主義の祖先と言われるバークは、フランス革命が既存の秩序を破壊して、世の中に混沌をもたらすことに対抗し、秩序と安定を主張したことはよく知られている。保守主義というのは、そのバークに体現されるような既存の秩序と安定を重視する立場なのである。

 佐倉の祭は毎年十月十五日前後に行われる。小生は英策から久しぶりに一緒に祭見物をしないかと誘われて出かけることにした。夕方近く京成佐倉駅に着いて外に出て見ると、ちょうど駅前広場を摩賀多神社の大神輿が通りがかるところだった。白装束を着た男たちが神輿を担いでいる。神輿が余程重いと見えて男たちの足元がふらついて見えた。
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ユル・ブリンナーとデボラ・カーが共演した1956年のミュージカル映画「王様と私(The King and I)」は、シャムの王様とイギリス人女性との奇妙な友情を、ハリウッドの視点から描いたものだ。ハリウッドの視点からシャムの王室を描くわけだから、どんな描き方になるか、知れたものである。実際この映画は、東洋人に対するハリウッド、つまり西洋人の陳腐なステロタイプを代表しているような作品だ。それはステロタイプというのを通り越して、偏見といってもよい。しかしその偏見にあまり悪意を感じさせないのは、作者があまりにも無知だからだろう。

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秀吉の朝鮮征伐も武者絵の格好の題材となった。月岡芳年の「正清三韓退治図」と題する作品もその一点。題名にある正清とは加藤清正のことをさす。このようにひねった命名をしたのは、大石内蔵助を大星由良之助としたのと同じ趣向である。

「仮面の告白」は三島由紀夫の自伝的な作品だと言われている。たしかにこの作品には三島の実生活と深い関わりのある事柄が取り上げられている。兵役逃れと同性愛である。どちらも事実に裏打ちされているので、この作品を読んだ者は、三島が自分自身のことを語っていると思わされるだろう。その結果その読者が、三島に対してどのような感想を覚えるか。少なくとも、この小説が発表された当時には、好意的な受け止め方が多かった。兵役逃れのことはともかく、同性愛のことについては、これまでの日本の文学において取り上げられた例がほとんどなかったこともあって、なかばゲテ物趣味というか、型破りの小説として、既成の価値観が大きく揺らいでいた時代の雰囲気に乗じたということだったのかもしれない。

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1888年の夏に北フランスの港町ポール・アン・ベッサンで描いた六点のうちの一つ。こちらは、ポール・アン・ベッサンの港を描いている。その視点は、丘の上から港全体を見下ろすもので、入り組んだ崖の間に展開する港の複雑な景色が俯瞰されている。

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ヴィンセント・ミネリの1953年のミュージカル映画「バンド・ワゴン(The Band Wagon)」は、1930年代のミュージカルの大スター、フレッド・アステアをフィーチャーした作品である。アステアは50年代に入ってもまだ人気はあったが、往年の勢いはあるべくもなかった。そんなアステアをこの映画は再び人々に熱狂的に迎えさせた。この映画を通じてアメリカの人々はアステアいまだ健在なりと受け取ったのである。

「他者と死者」は、「レヴィナスと愛の現象学」に続く内田樹のレヴィナス論である。副題に「ラカンによるレヴィナス」とあるように、ラカンを絡めながらレヴィナスを論じているが、ラカンの視点からレヴィナスを論じているわけではない。この二人には、問題意識とか論述の進め方に共通点が多いので、並べて論じたら何か目新しい発見があるかもしれない、というような期待を込めて、この二人を並べて論じたということらしい。

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七時前に起床して風呂を浴びに行った。昨夜一度しか浴びてないので、この朝は二度浴びるつもりで、早く起きた次第。いつもなら八時近くまで寝ているので、松子などは珍しく早起きだねと言って冷やかしたほどだ。風呂上りには缶ビールを飲む。これも松子が未明に買い出してきたものだ。彼の細かい気配りには感謝するほかはない。

 学海先生が東京を目指して京都を立ったのは明治元年十月五日のことであった。公議人は東京に集合すべしとの新政府の指示に従ったものだった。先生が藩命を受けて京都へ来たのは慶應四年二月晦日のこと。それ以来実に七か月以上が経っていた。
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「雨に唄えば(Singin' in the Rain)」は、アメリカン・ミュージカルの最高傑作の一つと言ってよい。とにかく理屈なしに面白い。老人から子供まで男女を問わず楽しめる。その楽しさは人種や国籍を超えたものだ。実際日本人もこの作品を長く愛し続けて来た。主題歌は今でも日本中の街角を流れている。

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山子夫妻、落、松の諸子と北軽井沢の温泉につかりに行った。今年の新年会で皆から是非温泉につかりながらのんびり飲もうよという話が出て、松子が安くて気持ちのよい温泉旅館を手配してくれて、そのうえ彼のベンツに五人揃って乗って、和気藹々と出かけた次第だった。その温泉旅館というのは、北軽井沢の山の中にあるリゾートホテルなのだった。小生は車に酔いやすい体質なので、乗車する前にトラベルミンを飲んだ上に、松子の配慮で助手席に座ることができた。これならなんとか酔わずに行けるだろう。
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源頼光とその家来たちによる酒呑童子退治は能や歌舞伎の格好の題材となったほか、浮世絵師の武者絵にも大きく取り上げられた。芳年の「頼光四天王大江山鬼神退治之図」と題するこの作品も、その代表的な一点。頼光一家があたかも酒呑童子に襲いかかる場面を描いている。

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1888年の夏の数日を、スーラはドーヴァー海峡に面した漁村ポール・アン・ベッサンで過ごし、そこで六点の絵を制作した。この絵はそのうちの一枚、タイトルはずばり「ポール・アン・ベッサン」である。

戦後の日本思想は、戦後派が登場すると論調が一段と大きな変化を呈すると小熊は俯瞰する。それを単純化して言うと、民主と愛国が分裂したことだという。丸山や竹内の場合には、民主と愛国は対立するものではなく、むしろ一体化したものだった。戦中派においても、鶴見などは公を介した連帯感を主張することで、民主と愛国とはかならずしも対立するものとは捉えられていなかった。ところが戦後派では、民主と愛国とはするどく対立するようになり、それにともなってそれまで日本の思想家たちにとって共通の基盤をなしていた戦死者の記憶が、もっぱら保守ナショナリズムへ取り込まれるようになる。その保守ナショナリズムを代表するのが江藤淳であり、それと反対にコスモポリタンな立場から民主を主張したのが小田実ということになる。

 明治維新は無血革命などと呼ばれることがあるが、実際には方々の戦いで合わせて一万人近くの人が死んでおり、決して無血というわけではなかった。戊辰戦争という言葉がある通り、日本は一種の内乱状況を経て、天皇を中心とする新しい国の形が出来上がったのである。この内乱状況は国民の間に深刻な分断をもたらした。したがって新政府にはこの分断を埋めるという課題が大きくのしかかっていた。この課題の解決に最大限利用されたのが天皇だった。新政府は天皇を前面に担ぎ出すことで、その権威を借りて、国民を統合しようとしたのである。
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1951年公開のミュージカル映画「巴里のアメリカ人(An American In Paris)」は、ジョージ・ガーシュインをフィーチャーした作品で、全編がガーシュインの曲であふれている。筋らしきものはない。パリで修行中の画家がパリ娘に恋をして、最期には彼女と結ばれるというものである。そのラブ・ロマンスというべきものが、ガーシュインのジャズタッチの軽快な音楽に乗って展開されるというわけだ。

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浮世絵師といえば、役者絵を描くのが当たり前であった。大衆の需要が大きくて、手っ取り早く金を儲けることができた。なにしろ写真もなく、当然週刊誌もない時代だから、浮世絵が芸能界を大衆に結びつける最大の媒体だった。

筒井康隆の「朝のガスパール」は、一応SF小説ということになっていて、実際「日本SF大賞」を受賞してもいるのだが、通常のSF小説とはだいぶ趣向が異なっている。たしかにシュールなテレビゲームをプロットに含んではいるが、そしてその意味ではSFと言えなくもないのだが、そればかりではなく、ほかにも様々なプロットが平行して仕組まれている。その中にはテレビゲームを楽しんでいる現実世界の人々の人間像を描いた部分もあるし、その人間像とSF部分の共通の作者としての櫟沢なる人物にかかわる話もあるし、更にこれらすべての究極の作者たる筒井康隆自身にかかわる部分もある。従ってこの小説は、単純な構成のSF小説などではなく、さまざまな物語が重層的に交差する立体的な小説といってもよく、あるいは作者が深く物語にかかわる点に着目すれば、メタ小説と言ってもよい。

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スーラは、南フランスの明るい風景よりも、北フランスの穏やかな光を好んだ。その点では、印象派の次の世代の画家のなかでやや特異な作家だったといってよい。ゴッホやゴーギャンが南仏の強烈な光を前にして鮮やかな色彩に目覚めたのに対して、スーラはノルマンディやイルドフランスの穏やかな光を好んで描いたのである。

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「オズの魔法使い」は20世紀の児童文学を代表する作品で、いまでもアメリカを始め世界中で読まれている。わかりやすい英語で書かれているので、英語の勉強の教材にも適している。筆者も少年時代に英語の勉強のつもりで読んだものだ。

「言葉にのって」は、1999年に行われたデリダへのインタビューである。デリダは、たとえば「ポジション」のように、インタビューの中でも難解な表現をするので、気が抜けないのであるが、このインタビューは、例外的といってよいほどわかりやすい。つまり読んだ先から字面に書いてあることが理解できる。その理由は、テーマがデリダ自身の自己形成史とか彼が携わった社会運動に関することが中心で、デリダの思想を彩るさまざまなキーワードが全く問題とされていないからだ。

 戊辰戦争最大の山場は奥州での激突だった。俗に北越戦争とか会津戦争とか呼ばれる。新政府軍は当初奥州諸藩のうち薩長の仇敵だった会津藩と庄内藩を他の奥州諸藩に攻撃・殲滅させるつもりであったが、仙台・米沢の両藩は会津と庄内に同情し、その処分を寛大にするよう嘆願したのだった。ところが、それが拒絶されるや奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗、ここに大規模な戦争が始まったのであった。
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フレッド・アステアは、1930年代のハリウッド・ミュージカルを代表するスターである。彼の真骨頂は軽快なステップダンスに合わせて歌を歌うことで、そのけれんみのない演技は多くの人々に愛された。1935年の作品「トップ・ハット(Top Hat)」はその代表作である。相手役のジンジャー・ロジャースとは、これが四作目になり、この二人の息のあった演技が見ものである。

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月岡芳年は若干二十歳の頃には一人前の浮世絵師として人気を博していたようである。その頃の彼は、武者絵を中心として色々なジャンルに挑戦していた。「桃太郎豆蒔之図」と題するこの作品はその一点。三枚組のそれぞれに「一魁齋芳年」の署名がある。芳年は師国芳の一字をもらったものだ。

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「ポーズをする女たち」で、人物画への点描法の適用の可能性を確かめたスーラは、続く大作「サーカスのパレード」において、夜間のサーカスの人物たちを、点描法で描くことに挑戦した。この絵を通じて、明るい野外の風景を表現したことに始まる点描法の可能性が、飛躍的に広がったと言える。
小熊は戦後の日本思想をいち早くリードした丸山真男や竹内好を戦前派と位置づけ、それに続く世代を戦中派と名付ける。戦中派というのは、敗戦の頃二十歳前後の青年だった世代である。この世代は丸山等戦中派と違って、戦争が始まったときにはまだ少年で、社会に対して批判的な見方をとることができなかった。戦争は彼らにとってははじめから所与としてあった。その戦争に負けたとき、丸山等が解放と受け止めたのに対して、彼らは崩壊として受け止めた。そしてそうした崩壊をもたらした年長者たちを強く憎んだ。

 九月の半ば過ぎ小生はあかりさんを誘って千駄ヶ谷の国立能楽堂で能の見物をした。先日転任祝いに音楽会に招かれたお礼のつもりだった。千駄ヶ谷駅前の喫茶店で待ち合わせをし、そこでサンドイッチの軽い昼食をとったあと、肩を並べて能楽堂まで歩いた。このあたりには土地勘がある。千駄ヶ谷駅前の東京都体育館にはリニューアル後の事業課長として一年ちょっと勤めていたことがあるからだ。その折にはこの辺をよく散歩したり、津田塾の学生食堂で女学生たちにまじってランチを食べたりしたものだった。
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ウィリアム・ワイラーの1966年の映画「おしゃれ泥棒(How to Steal a Million)」は、一時期日本で流行った「ルパン三世」シリーズを思わせる、軽快な怪盗ものだ。「ルパン三世」より早く作られているから、その先駆者といってよい。尤も、両者の間に実際に影響関係があったかははっきりしない。

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月岡芳年は早熟な絵師だった。今に伝わる作品の中で最古のものは、嘉永六年(1853)満十四歳のときのものだ。この時芳年は国芳に入門して三年目だったが、すでに先輩にひけをとらないような技術の冴えを見せていた。

永井荷風が政治とは一線を画し、政治的な発言を慎むことで非政治的な構えを貫いたことはよく知られている。それは普通の時代には、人間の生き方の一つのタイプとして軽く見られがちなところだが、荷風の場合にはそうした非政治的な構えが、戦争中には戦争への非協力としてかえって目立つようになり、荷風は戦争協力に最後まで従わなかった気骨ある作家だというふうな評価も現れた。だが、これはおそらく荷風本人にとっては、片腹痛いものであったろう。荷風はたしかに非政治的な構えを貫いたが、それはあくまでも非政治的な構えなのであって、そこに政治的な意味を読み取るのはお門違いということになろう。

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昨日長津川の調整池でカルガモの親子を探したところ、どこにも姿が見えなかったことをこのブログで紹介した。小生は彼らの身になにか重要なことが起ったかと心配したのだったが、家人にそのことを話したところ、野鳥は生命力が強いからきっとどこかで生きているわよと慰められた。

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「ポーズする女たち」の制作過程で、スーラは例によって多くの習作を残しているが、そのうち三人の裸体モデルそれぞれについて、かなり完成度の高い作品を描いている。上は「立ち姿のモデル」を描いたもので、これだけ単独の作品としても十分鑑賞に耐える。評論家のジュール・クリストフはこの作品を褒めて、アングルの泉よりはるかに純粋で甘美であると絶賛した。

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ウィリアム・ワイラーの1965年の映画「コレクター(The Collector)」は、ストーカーによる婦女監禁をテーマにした作品である。ストーカーという犯罪類型は日本ではそんなに古くからあるものではないが、婦女監禁は結構古くから存在したと思われる。その二つが一対一で結びつくというのは、日本ではつい最近のことだろう。一方的に好きになってしまった女性を監禁して、その女性を相手に日常的に性的な欲望を発散していた例は、近年になってやっと話題になるようになった。だが、英米圏ではかなり以前からあったのだろう。この映画は、異常性格のストーカーが一人の女性を人里離れた場所に監禁し、彼女を相手にゆがんだ欲望を発散させるさまを、執拗なタッチで描く。見ていて薄気味が悪くなる作品だ。

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梅雨入りした翌日の今日、天は晴れ渡って一点の曇りもないのを幸い、カメラを提げてカルガモの親子に会いに行った。ヒナはまだ生まれたばかりで遠出する事が出来ないことは、昨年の観察でわかっていたので、先日見た場所の付近にいるに違いないと思ってそこいらを探してみた。ところがどこにも彼らの姿が見えない。どうしたことだろう。

デリダがここで<発生と構造>と言うのは、西洋哲学の伝統的な二項対立のことをさす。発生は真理を人間の経験に基づかせるものであって、意識の与件からどのようにして真理の認識が得られるかということをテーマにしている。それに対して構造とは、真理を人間の経験を超えた超越的なものとして、あるいは先験的なものとして、いわばアプリオリに認識できるとする立場である。この二つの立場はカントによって一応総合されたことになっていた。カントはその総合を、いかにしてアプリオリな総合判断は可能であるかという形で問題提起した。カントはそれを、意識の与件をアプリオリな枠組みに当てはめることで人間の認識は成立するのだということで解決したと思っていた。しかしフッサールはそれを再び蒸しかえして、<発生と構造>の関係について考え直した。デリダがこの言葉で表現しているのはそういうことだ。

 徳川将軍が全面降伏したあとも旧幕府側の抵抗は収まらなかった。とくに関東から東北地方の各藩には反政府意識が強く各地で新政府軍と衝突した。学海先生の日記はその衝突の情報をことこまかく記載している。
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「ベン・ハー(Ben Hur)」は、映画作りの名手ウィリアム・ワイラーの最高傑作と言ってよい。3時間40分という異例な長さにかかわらず、見ているものを飽きさせない。エンターテイメントとしてそつがないためだ。とにかく人をして夢中にさせる映画である。

四方山話の会六月の例会がいつもの通り新橋の古今亭で催された。参加者は梶、六谷、岩、浦、石、栗、福の諸子に小生を加え計八名。今回のレポーターは六谷子、前回の浦子に続き日本のメディアについて話をした。

月岡芳年

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月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。

戦後の日本思想は敗戦への反省から始まった。それをリードしたのは丸山真男と竹内好だと小熊は言う。丸山は「無責任の体系」、竹内は「ドレイ根性」という言葉をキーワードに使って、戦前・戦中の日本の指導層や国民の意識のあり方に深くメスを入れ、何が日本の敗戦をもたらしたかを徹底的にえぐりだしたというわけである。

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スーラは、1888年のアンデパンダン展に大画面の「ポーズする女たち」を出品したが、これは散々な悪評をこうむった。悪評の理由には二つあった。一つは、人物画に点描法を適用することの是非について。もう一つは、裸体の取り扱い方が猥褻だと言う非難だった。

今夕、いつものように長津川調整池公園を散策していたら、公園の入り口の水路で久しぶりにカルガモを三羽見かけた。しばらく見なかったのでなんだかうれしくなり、浮いた心で土手を一周して戻ってくると、さきほどの所よりやや下った水路で一羽のカルガモを見かけた。これは先ほどの三羽のうちの一羽だろうか、それとも別の個体だろうかと思いながら土手をもう一周して戻ってくると、今度や二つの水路が合流する当たりでカルガモの親子を見かけた。親を囲んで六羽のヒナが泳いでいる。みな頗る元気だ。そのうちの一羽は好奇心に駆られて寄り道をする様子に見えたが、自分だけが置き去りにされていると見るや、脱兎の如き勢いで母親のところに戻った。その様子がいかにもけなげに見える。

 学海先生は早速藩主一行の宿泊先を確保しなければならなかった。知らせによれば三百人もの藩士を従えているという。それを収容できる大きな施設が必用だ。色々当たってみたところ花園の妙心寺が貸してくれることとなった。妙心寺といえば禅宗の大本山で広大な境域を有している。これくらいの人数は十分に対応できる。
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1958年のアメリカ映画「大いなる西部(The Big Country)」は、1940年の作品「西部の男」と並んでウィリアム・ワイラーの西部劇の傑作である。「西部の男」では、ゲーリー・クーパー演じる流れ者が、地元の悪徳農園主と対決するところを描いていたが、この映画の中でワイラーは、グレゴリー・ペック演じる流れ者が、対立する牧場主たちの間に入って、奮闘するところを描いている。同じく流れ者が、地元の有力者と対立するところを描いているわけだが、こちらは流れ者が対立の直接の当事者となることなく、第三者に止まるところに趣向がある。

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「暁斎楽画」シリーズの一枚「地獄太夫」。地獄太夫といえば一休伝説の中で出てくる遊女のことだが、この絵では一休を省いて地獄太夫だけを登場させている。それとともに、一休と縁の深い骸骨も多数登場させている。その数たるや夥しい。そんなわけでこの絵は、地獄太夫をダシにして骸骨を描くのが目的だったと思わせるほどだ。

桑中喜語

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桑中喜語とは桑年にあたっての述懐というような意味である。桑年とは馬歯四十八歳を言う。桑の異体である「桒」の字が、十を四つと八を重ねていることから、四十八を指すようになり、そこから桑年を四十八歳を意味させるようになったものだ。米の字が二つの八と十を重ねたことから八十八となり、そこから米寿を八十八歳を意味させたのと同じことわりである。

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1887年の夏、スーラは北フランスの海岸には行かず、パリ周辺でスケッチを楽しんだ。「グランド・ジャット辺のセーヌ川」と題するこの絵は、その成果の一つだ。グランド・ジャット島のあたりを流れるセーヌ川をモチーフにしている。

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ウィリアム・ワイラーの1955年の作品「必死の逃亡者(The Desperate Hours)」は、サスペンスタッチの映画である。三人の脱獄囚が四人家族の平和な家に押し入り、彼らを人質にとって逃走を図ろうとするところを描く。人質と言っても、警察を挑発するわけではない。家族の長である父親に向かって、妻子の安全と引き換えに言うことを聞かせようと言うのである。それは脱獄囚のボスが愛人から逃走資金を受け取るまでの間、無事家の中に匿えという条件を言う。妻子を人質にして自分の要求をのませようというわけである。

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