2018年9月アーカイブ

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(国立ボリショイ・サーカス劇場)

食後アルバート通りを散策す。この通りはモスクワ一のショッピング街にて、モスクワのオックスフォード通りともいふべきものなり。通りに面せる一銀行に入る。岩子手持ちのドルをルーブリに両替す。交換レート満足すべき水準なる由。

 三月の半ば過、小生はあかりさんを誘って横浜に遊んだ。本牧の三渓園で梅を見、中華街でお昼を食べて、港の見える丘周辺を散策するつもりだった。
 東京駅の地下ホームで待ち合わせ、横須賀線の列車に乗りこんで横浜で降りると、駅前からバスに乗って本牧方面へ向かった。三渓園へは裏側の、海に面した方の出入り口から入った。バスを降りるとあかりさんの手を引き、細長い池を渡って出入り口をくぐる。小生の手を握り返すあかりさんは、この日は白っぽい色のコットンジャケットにライトブルーのスラックスといった軽快な服装をしていた。そんなあかりさんを小生は心楽しく導いて行ったのだった。
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2007年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ映画「サラエボの花」は、ユーゴスラヴィア解体後の民族紛争で生じた人々の心の傷を描いたものだ。この民族紛争では、旧ユーゴの連邦制の維持を目指すセルビア人と、独立をめざすボスニア人、クロアチア人が鋭く対立したが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナには、ボスニア人、セルビア人、クロアチア人が共存したいたこともあって、民族間の対立はきわめて先鋭な形をとった。その過程で大勢の人々が悲惨な目にあったわけで、映画はそうした悲惨な人々が蒙った心の傷跡を描いている。

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(モスクワ劇場広場前のマルクス像)

九月十三日(木)早朝四時半頃目覚む。窓外を見れば雨霏霏たり。昨日以前の日記の整理をなして後、八時に五階カフェにて諸子と落ち合ひ、朝餉をなす。ロシア風蒸しパンにソーセージの類なり。食後、持参せるタブレット端末を石子のWifiルーターに接続す。石子これを成田空港内にて調達せし由なり。ホテルWifiのPCへの接続はならず。

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藤原保昌は平安時代の人物で、藤原道長の家司を努めていた。道長のすすめもあって和泉式部と結婚し、自身も歌人として歌を残している。色々な逸話があるが、なかでも大盗賊袴垂保輔との出会いが有名である。

大江健三郎の初期の小説世界には、暴力と並んで性が大きなテーマとして組み込まれていたが、「性的人間」は性を全面的に前景化した作品である。これ以前の小説では、性が描かれる場合でも、付随的な扱いに止まっていたのだが、とは言ってもかなりインパクトの強い扱いではあったわけだが、この小説においては、性そのものが小説の根本テーマになっている。つまりこの小説は人間にとって性とは何か、ということを正面から問題にしているのである。

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(モスクワ、スラヴャンカ・ホテル前にて)

九月十二日(水)八時半頃家を出で十時近く成田空港第一ビル北ウィング四階にて石、浦、岩の諸子と落ち合ふ。直ちにオンラインチケット窓口に並び荷物を預託。その後、浦子両替と損害保険の加入手続きをなす。交換レートは一ルーブリ二円数銭なり。実勢レートは一円八十銭前後なれば手数料の尊きを知るべし。

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ゴッホは1890年の5月にサン・レミを去り、一時パリに滞在した後、同年5月20日に北仏のオーヴェール・シュル・オワーズに移った。ゴッホはここで7月29日に死ぬのだが、その最後の二か月ほどの間に、30点余りの油彩画を描いた。すさまじい創作力である。この絵は、5月に描かれているから、オーヴェールに来て間もなくの作品である。

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ファティム・アキンの2014年の映画「消えた声が、その名を呼ぶ」は、第一次世界大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺をテーマにした作品である。トルコ人とアルメニア人は19世紀から対立し、たびたび虐殺事件も起きていたが、第一次大戦においてトルコがドイツ側につき、アルメニア人が連合国側についたこともあって、トルコによるアルメニア人の迫害が強まり、組織的な虐殺や集団移住の強制などが起った。これについては、いまだにトルコ・アルメニア両国間で深い感情的な対立があるようだが、トルコ側は計画的な虐殺はなかったと否定している。国家による戦争犯罪は、日本の場合には南京虐殺があり、やはり日本政府はそのことに触れたがらない傾向があるわけだが、トルコは触れたがらないばかりか、その存在さえ認めたがらない。そういう状況にあって、トルコ系のドイツ人であるファティム・アキンが、この問題を正面から取り上げたわけである。その反響は結構大きかった。

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過日お知らせしたとおり、小生は友人数人とともにロシアに十日間の旅をしました。その折の見聞を旅行記にしたてて当ブログで紹介したいと思います。旅行記を題して「露西亜四方山紀行」としました。連載は十数回にわたります。最後までお楽しみください。

柳田国男は、「毎日の言葉」の後半部で、女性を呼称する言葉をいくつか取り上げて、その起こりと変遷について考察している。最初に取り上げるのは、「ごさん」である。柳田は、秀吉の手紙の中に「五さ」とあるのが、よく言われるように北政所の侍女の固有名詞などではなく、いま言う「おくさん」と同じ意味の言葉だろうと推測することから議論を始める。

 明治六年十月政変はいわば武断派と官僚派の権力闘争の観を呈していたが、武断派が敗れて官僚派が権力を牛耳ったことは、全国の不平士族や攘夷派をいたく刺激した。彼らは岩倉や大久保を中心とする官僚派の支配を有司専制と批判し、中には実力を以てこれを排除しようとする動きも強まった。
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ファティ・アキンの2009年の映画「ソウル・キッチン」はドイツ風の人情喜劇といった趣の作品だ。ただし映画に出てくるのはドイツ人ばかりではない。主人公のジノス・カザンザキスはギリシャ人だし、その恋人の整体師アンナはトルコ人だ。そのほかアラブ人とか国籍不明の人間も出て来る。むしろそういったドイツにいる外国人たちがこの映画を盛り上げている。そういう点ではこの映画は、アキンの先行する作品同様、ドイツにおける少数民族に焦点を当てているといってよい。アキンは自分自身がトルコ系のドイツ人ということもあって、ドイツ社会における少数民族の生活に大きな関心を払い続けているということらしい。

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上杉輝虎(謙信)は、天文二十一年(1552)に弾正少弼の官名を賜った。二十二歳の年である。武田信玄との川中島の戦いを始めたのは、その翌年のことだ。この絵は、その際の謙信の勇姿を描いたものとされる。この時謙信は単身信玄の本陣にせまり、敵ながらあっぱれとたたえられた。

鴻上尚史の著作「不死身の特攻兵」は、陸軍最初の特攻部隊に選ばれ、九回も特攻出撃してそのたびに生きて帰って来た兵士をテーマにしたものである。著者の鴻上尚史はこの本を通じて、特攻攻撃に直面した日本兵の心理をきめこまかく描くとともに、かれらに死の特攻を強要した上官たち、それは日本軍そのものといってもよいが、その日本軍の責任を鋭く追及している。

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ゴッホはサン・レミ時代に多くの静物画を手掛けたが、これはその最も有名な一点。サン・レミを去る直前に描いたものだ。

「マチウ書私論」は吉本隆明の評論家としての活動のスタートを画する論文だということになっているらしいが、テーマは原始キリスト教批判である。日本人の吉本が日本人を相手になぜこんな文章を書いたか、いまひとつ判然としないところがある。吉本はキリスト教徒でもないらしいから、キリスト教には大した恨みもないと思うし、ましてや原始キリスト教などというものが、彼にとっての深刻なテーマになりうるとも思われない。その原始キリスト教をなぜ吉本は、自分の評論家活動のスタートにあたってテーマとして選んだのか。

 明治六年は征韓論の嵐が吹き荒れた年だったと言ってよい。留守政府をあずかる西郷隆盛が主導して征韓論を盛り上げた。西郷は自分自身が朝鮮への特使となって日本との国交を強要し、相手がそれを拒絶すれば、その非礼を根拠として韓国を攻めようと構想した。西郷の構想には、板垣退助、江藤新平、副島種臣の諸参議も同調した。この動きに対して米欧出張中の岩倉、大久保、木戸らは強く反対した。しかし海外にいてはどうすることもできない。このままだと西郷の暴走を許すと懸念した岩倉は、まず五月に大久保を九月に木戸を帰国させて西郷を牽制しようとしたが、西郷の暴走をとめることはできなかった。大久保も木戸も参議の職務を放棄して隠居同様の状態を決め込んでしまった。
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ファティ・アキンは、出世作の「愛より強く」において、ドイツ社会に生きるトルコ人を描いたが、そこでのトルコ人たちはドイツ人との間で暖かい交流を持つことがなく、トルコ人だけで傷つき合って生きているような人たちだった。映画の中に出てくる人たちはすべてがトルコ人であって、ドイツ人は例外的に出てくるだけである。それもバスに乗り合わせたドイツ人がトルコ人に向かって、お前とは一緒にいたくないから下りろと罵るような具合である。ところが、この「そして、私たちは愛に帰る」では、トルコ人とドイツ人との人間的な触れあいが描かれている。そのことによって、映画としての味わいが一段と深くなった。

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相模次郎は将門の名相馬小次郎をもじったもの。その将門の勇猛な戦いぶりを描いたのがこの図柄だ。将門は戦のたびに無類の活躍をしたが、天慶三年の最後の合戦でも、その勇猛ぶりは衰えなかった。この戦いは、将門側が圧倒的に不利だったのだが、将門は先頭になって相手をなぎ倒し、味方の士気を高めた。

大江健三郎の小説「セヴンティーン」は1960年に起きた右翼少年によるテロ事件に触発されて書いたものだ。このテロ事件は十七歳の少年山口二也が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺したというもので、その刺殺現場の様子が、当時浅沼の日比谷公会堂での演説を中継していたラヂオ番組で生々しく放送された。スケールは違うが、9.11の航空機テロの様子がテレビで実況中継されたときと同じようなショックを当時の日本人に与えたものだ。

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1889年の2月に、弟のテオとその妻ヨハンナの間に男の子が生まれた。ゴッホはそのお祝いにこの絵を描いた。古い枝から新しい命である花が開いた様を、子どもの誕生になぞらえたつもりだったようである。

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ファティ・アキンはトルコ系のドイツ人として、ドイツのトルコ人社会をテーマにした映画を作り続けた。2004年の作品「愛より強く」は、そんな彼の出世作となったものだ。ドイツに生まれたにかかわらず、ドイツ社会に疎外感を感じ、だからといってトルコにも一体感を感じることができない不幸なトルコ系ドイツ人たちを描いている。

柳田国男の小著「毎日の言葉」は、我々日本人が日頃何気なく使っている言葉について、その起こりと変遷とを考察したものである。日本の言葉、特に話し言葉は、時代にそって変遷が激しいばかりか、地方によっても著しい変化が見られる。これらはうわべでは関連がないように見えても、よく見ると互いに強い関連があることがわかる。それをたどることで、日本語の大きな特色である、言葉の変遷・盛衰という現象が理解できると柳田は見るのである。

小生、明12日より21日までの十日間ロシアに旅行します
ついては、その期間当ブログの更新を一時中止しますのでお知らせします
なお、旅行中の見聞については、例の如く紀行文を後日紹介したいと思います
以上よろしくお知り置きくださるよう、お願い申し上げます

壺齋散人 謹白

 学海先生の日記に妾の小蓮が初めて登場するのは明治六年二月二十一日である。
「小蓮とともに梅を墨水の梅荘に見る」と言う記事がそれである。
 この日学海先生は小蓮を伴なって墨水の梅荘に梅を見に行き、そこで隠士と思しき三人が月琴・胡琴を演奏しているのを見た。興味を覚えて小蓮とともに聞き入っていると、更に別の一人が現れて一曲を弾じ、名を告げずして去った。
 この当時、墨堤は根岸と並び隠士の遁世地として知られていた。記事に見える人たちもそうした隠士のような人だったように思われる。面白いのは学海先生が妾を伴いながら彼らを見て感興を覚えたことである。妾を伴っていればおそらく気分は晴れやかだったろう。その晴れやかな気分で隠士が琴を弾ずる模様を見れば、いっそうのびやかな気持ちになったに違いない。学海先生にはそういった風雅を愛するところがあった。
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バーダー・マインホフ・グループは別名を「ドイツ赤軍」といって、1960年代末期から70年代にかけて反体制運動を展開した過激派グループのことだ。学生運動のリーダー、アンドレアス・バーダーと、それに共鳴したジャーナリスト、ウルリケ・マインホフから名付けられた。2008年のドイツ映画「バーダー・マインホフ 理想の果てに(Der Baader Meinhof Komplex)」は、この二人を中心としたグループの活動ぶりと彼らの死を描いたものだ。

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「芳年武者無類」は、明治十六年から刊行した武者絵のシリーズで、全三十三図からなる。神話時代から戦国時代までの英雄たちを描く。武者無類には「むしゃぶるい」をかけている。言葉通り武者震いがするほど雄々しい英雄たちの活躍が、スナップショットのように切り取られている。

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ゴッホは南フランスの風景を象徴するものとして糸杉を選んだ。セザンヌが松を好んで描いたことへの対抗心かもしれない。糸杉はすっきりとまっすぐに立ち、空に突き抜けようとするその姿に雄々しさを感じたようだ。ゴッホは弟テオへの手紙の中で、糸杉を「エジプトのオベリスクみたいだ」と言っている。オベリスクも天を突き抜けるようにすっきりと立つ。

竹内好は中国文学の理解を魯迅を読むことから始めた。これは日本人の中国文学受容の伝統的なパターンからは随分とかけ離れている。少なくとも竹内が魯迅を読み始めた頃の日本では、中国文学とは唐宋の大詩人たちを中核とした歴史的な遺産を意味していた。同時代の中国が問題意識になることはほとんどなかった。そんな時代に竹内は、自分とほぼ同時代人と言える魯迅を読むことから、中国文学の理解を深めようとしたわけである。

 あかりさんと初詣をした後、しばらく彼女に会えなかった。というのも一月の半ば過ぎに約束していたデートに、仕事の都合で行けなくなって、それ以来すれ違いのような状態が続いていたからだった。デートに行けなかったくらいに忙しかった仕事とは他でもない。昨年の暮にあかりさんと京都へ旅行した後、船橋のマンションにT新聞の記者から電話がかかって来たと書いたことがあったが、それと大きなかかわりがあることだった。
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2017年の映画「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」は、最果タミの詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を映画化したものだ。とはいっても原作は詩集であって、ストーリーはない。そこを監督の石井裕也が自分で原作の雰囲気を生かすようなストーリーを作って映画化したということらしい。題名にわざわざ「映画」という枕詞を入れたのは、原作の詩集との差別化を図ったつもりか。

旧友の死に臨み、敢て"驚く"というのは、悼みの感情より驚きの感情が強いからで、それほど小生の受けた打撃が大きかったということだ。それというのも、その友人とは二か月ちょっと前に一緒に旅行をしたばかりで、その際にはとくに変わった様子も見られなかった。それがまさか死んでしまうとは、小生の想像力の及ばないところだ。しかも死因は癌だという。癌というのは、たいていは激しい痛みを伴うものだから、死の直前まで自覚症状がないということは考えられない。ところがこの男は、たいした自覚症状も訴えないままいきなり昏倒し、そのまま帰らぬ人になってしまったというのだ。人間の命程はかないものはないとよく言われるが、まさにそのことを思い知らされた。

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「皇国二十四功」は、日本の歴史上忠孝で名高い人物二十四人を取り上げたシリーズ。師匠の国芳が、「本朝二十四功」と題して同じようなシリーズを刊行していたが、両者の間には、四人が共通しているだけで、大部分は異なった人物である。

共同生活とは人間同士の共同生活のことではない。人間と猿との共同生活、或いは猿と人間との共同生活だ。この共同生活は人間にとって快適なものではない。きわめて不愉快なのだ。しかも人間のほうではその共同生活を解消できない。それどころか、自分のすべての生活を猿たちによって支配されていると感じる。つまり彼にはいささかの自由もないのだ。彼は常に猿たちによって拘束されていると感じる。とはいっても肉体的に拘束されているわけではない。精神的に拘束されているのだ。その拘束は猿たちの視線によって行使される。人間は猿たちの視線によって拘束され、支配されているというわけである。

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ゴッホは、その異常な言動から周囲の人々に気味悪がられ、1889年の3月に監禁を強いられたあと、5月8日にはサン・レミの精神病院に送りこまれた。この絵は、その病院の窓から見えた風景を描いたもので、ゴッホの作品の中で最も有名になったものの一つだ。

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河瀬直美の2015年の映画「あん」は、ハンセン氏病患者への差別をメインテーマにして、人と人との温かいつながりを描いた作品だ。題名の「あん」は、どら焼きのあんのことで、そのあんが三人の人々を結びつける。一人はハンセン氏病の患者で徳江という名の老婦人(樹木希林)、一人はどら焼き屋の店長千太郎(永瀬正敏)、そしてもう一人はそのどら焼き屋によく来る女子中学生ワカナ(内田伽羅)だ。

柳田国男は学問と政治とを峻別したうえで、自分を含めて学者の使命は学問を実証的に研究することであって、政治的な発言は厳に慎むべきだという姿勢を取っていたが、この「先祖の話」では、かなり政治的な匂いのする発言をしている。その目的は、日本に古くから伝わって来た「家」というものを、未来永劫にわたって子孫に引き継いでいきたいという希望にあったようだ。その家というものを象徴するものとして柳田は先祖について語り、先祖に対する信仰が我が国古来の美風なのであって、まつりというものは、その先祖をまつることに一義的な意味があったということを、この本の中で解明してみせたのだと言ってよい。その意味ではこの本は、「日本の祭」と双子の関係にある。

 前回、学海先生が市民会議所にかかわるようになったいきさつを書いたが、その会議所がゼロから生み出されたような印象を与えたかもしれない。しかしそうではなかった。江戸には徳川時代に町会所というものがあって、一定の自治を行っていた。その最も大きな仕事は天災とか米価騰貴の事態に際して窮民を救済することであった。そのための資金として、町民から集めた七分積金と徳川幕府からの貸付金をあてていた。この町会所とその資金とが維新後もまだ存続していて、それをどうするか、特に巨額な資金の使途をどうするか、懸案となっていた。市民会議所はこの町会所の組織と資金を引き継ぐものとしての役割を期待されたのである。
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西川美和の2006年の映画「ゆれる」は、一種の心理劇といってよいが、心理劇としては一風変わっている。普通、心理劇というのは、登場人物の不可解な心理の動きをテーマにするもので、観客はその心理の動きを自分なりにあれこれ推測するというのを醍醐味にしているが、その心理の動きの秘密のようなものは最後には明らかになる。そのことで観客は、それまで宙ぶらりんになっていた自分の疑問が解明されて、ある種のカタルシスを体験する。そのカタルシスが心理劇の眼目であって、それは劇中の不可解さの度合いが大きいのに比例して大きくなる。ところがこの映画では、不可解さが大きいだけでなく、それが最後まで解明されない。したがって観客は置き去りにされたような気持ちになって、とてもカタルシスを体験できるどころではないのだ。しかし観客の中には、それもよしとする人々も多くいるのだろう。でなければこうしたタイプの映画には拒絶反応ばかりが出てくるということになるはずだ。

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義経(牛若丸)と弁慶が五条橋で出会う場面は、古来日本人の心を捉え続けてきた。その様子は義経記に原点があるが、能の橋弁慶をはじめさまざまな語り物を通じて人口に膾炙した。月岡芳年はこのモチーフを、単発の錦絵で表現して見せた。

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「子守(La Berceuse)と題したこの絵は、郵便配達人ジョゼフ・ローランの夫人オーギュスティーヌ・ローランを描いたものである。彼女はこの時、三人目の子を産んだばかりであった。ゴッホは、ルーラン家の人々の肖像を、合わせて二十点も描いたが、これはその最も優れたものの一つである。

竹内好は北一輝を非常に高く評価していた。理由はいつくかあるが、かいつまんで言うと、理論的というよりは感性的なものだった。だから竹内の北一輝に触れた文章を読むと、論ずるというよりは観ずるというような印象が伝わってくる。つまり竹内の北についての文章は「北一輝論」というよりは「北一輝観」というのがあたっている。

 学海先生は三十日ぶりに佐倉へ戻った。家の様子を見るに、先日の台風で多少壊れたところはあったが、たいしたことはなかったので安心した。もう一つ気になっていた相済会社については、経営は相変わらず思わしくなかった。特に靴は作れば作るだけ赤字を増やした。当時の日本人はまだ靴を日常的に履く習慣がなかったからである。
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田坂具隆の1963年の映画「五番町夕霧楼」は、水上勉の同名の小説を映画化したものだ。原作は丹後の貧しい樵の娘夕子が、家の貧しさを救うため京都の五番町遊廓に身売りし、そこで好色な老人の慰めものになる一方、幼馴染の僧侶と再会し、つかの間の愛を育んだ後に、僧が寺に放火したうえで自殺したことを苦慮し、あたら若い命を自ら断つという内容だ。その若僧の寺の放火は、金閣寺炎上をイメージしている。金閣寺炎上をテーマにした小説とそれを映画化したものとして三島の金閣寺及び市川崑の「炎上」があるが、そちらは放火の原因を美への嫉妬などと言って、いまひとつ曖昧な所があったが、こちらは男女の恋の行き詰まりが背景にあったということにしている。果たしてどちらが事実なのか、第三者にはわからない。

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「大日本史略図会」は、「大日本名将鑑」とほぼ同じ時期に刊行されたシリーズで、皇祖天照大神のほか歴代天皇をテーマにしている。

「不意の啞」も米兵と日本人との関わり合いをテーマにしたものだ。だが同じような他の作品と違って、この小説では日本人の米軍協力者が前面に出てくる。その日本人が米軍を体現し、米軍の権威の名のもとに日本人を抑圧するという話だ。

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